氷賣 曇りのないまなこでじいっとこちらを見上げている。この蛙もようよう永く生きたものだが、未だに尾の切れたばかりのような顔つきをしている。といって、吾輩には蛙の顔つきの違いなどよくはわからぬが。しかしどうもこの蛙はいつまでも若いように見える。
「今日のような日は、蛙も池にもおられぬようですね」
と言い残し、氷賣は頭を下げて出ていった。かなり軽くなったであろう荷を背負って、土間の上に鎮座する子蛙をひょいと避けた。門を超えるとすぐさま「ひゃっこい、ひゃっこい」と、節を付けて云っているのが聞こえてくる。
「親切な氷賣で助かったな、お主。おとついは蹴飛ばされそうになっていたものな」
蛙を誂うのも人の目から見れば滑稽であろうが、既に屋敷に人はおらぬ。
誂われた蛙の方は、意にも介さずゲコリと鳴いた。
おとついも、そこに居るのに気付かれず、蹴飛ばされそうになったそのときも、同じような調子であった。己よりも遥かに大きい人の足にも全く動じず、ゲコリゲコリと鳴くばかり。それどころかこれを蹴飛ばそうとした商人は、おかしな動きで独りでに、足を滑らせその場に尻餅をつくことになった。かれもわざと蹴飛ばそうとしたわけでもなかったろうに。
「さてこうしては居られぬ。とける前に戴かなければ」
これは独り言だ。子蛙は聞いてか聞かぬか。ともかく吾輩は冷たい玻璃の鉢を抱き抱え、慎重に立ち上がった。何しろ鉢の中には波波と冷水が注がれている。底に沈んだ白玉、桃、西瓜、それに水面には一粒二粒と氷の破片が。
「ゲコ」
再び子蛙が鳴いた。土間を振り返り見れば、そこには蛙の形に濡れた跡が残るばかり。
「どこへ行った? あっ」
と探すまでもなく、子蛙はあっという間のひとっ飛びで、吾輩の抱える鉢のへりに飛び乗っていた。
いかに蛙の一飛びが疾かろうと、これほどまでの長さを一息に飛ぶのは尋常ではない。
「お主はどんどん蛙離れしておるな。そろそろ化けて出られるのではないか」
呆れ返る吾輩をよそに、玻璃の上で蛙はじっと不思議そうに水面を眺める。で、そうと見えた次の瞬間には、赤い舌を伸ばして氷の破片を捕まえた。
飲み込んだ。しかしすぐに吐き出した。
「ゲコっ」
大いに面食らったとばかりに目を瞬かせ。
「お主、よもや氷を知らんのか? これ、もったいないことをするな」
子蛙を叱ったところで何になろうか。どうせ意にも介さず、次は底に沈んだ桃でも狙っておるのであろう……。
【了】