七海建人。時間外労働を誰よりも嫌う男である。今日も今日とて定時に帰ろうとしていた。
「労働はクソ」。彼が一般企業で働き続けて出した答えである。
「呪術師はクソ」。彼が高専で学び続けて出した答えである。
社会人と呪術師、どちらも経験して出した結果が「どちらもクソ」。
それでも七海は同じクソでもマシな方を選んだ。
クソである評価は変わらないが。
***
任務を終えた。補助監督の元へ行き、車へ戻ろうとした時である。
「七海一級術師! 申し訳ありません! こちらの伝達ミスでこの後任務がもう一件ありましたぁ!」
時間外労働が決まった瞬間である。
慣れている。ようやく帰れると思っていたのに帰れなくなることなんて。
クソが。
なんて呟きたい衝動を抑えてサングラスをかけ直す。
今日ついている補助監督は働き始めて半年も経っていない。ミスなんて誰にだってある。新人なのだから大目に見てやろう。なんて、考える余裕がない。
様々な想いが胸のなかに詰まっている。口を開けるがすぐに口を紡ぐ。今は説教をすべきではない。
誰が悪い訳では無い。
全ては人手不足の呪術師界隈と呪霊が悪い。
今は少しでも早くこの労働を終わらせることが先決である。
早く帰りたい。
***
高専に戻って来れたのは数時間後だった。既に夜中である。報告書を書き終えて補助監督に提出した。
「本当に申し訳ありませんでした!」
新人の補助監督に何度も頭を下げられる。
「報連相はしっかりするように。今日はお疲れ様でした」
七海はその場を離れた。
帰る前に喉が渇いたので自販機で何か買おうかと向かうと自販機の前に立っている人間がいた。人差し指を出しながら何を飲もうか吟味している様子である。真剣な眼差しがなんだか面白かった。
「お疲れ様です。伊地知君」
「七海さん! お疲れ様です!」
声をかけると伊地知は七海の方を向いた。その反動でボタンを押してしまう。
「あっ」
伊地知が押したのはメロンソーダだった。
「あぁ……お茶にしようと思ったのに」
「すみません。私が声をかけたばかりに……」
「いえいえ。お気になさらずに! メロンソーダなんて滅多に飲まないので新鮮ですし。あ、七海さんは何飲みますか?」
伊地知が小銭入れを取り出す。小銭を自販機のコイン投入口にいれて七海に答えをせがんだ。
「あとで返します」
「いえ。受け取ってください。こちらのミスで残業をさせてしまいましたし……なんて、これでは足りないと思いますが」
申し訳なさそうに笑みを零す。新人の伝達ミスのことを言っているとすぐにわかった。
「じゃあ、つめたい缶コーヒーを」
「はい」
伊地知は缶コーヒーのボタンを押す。取り出し口から缶コーヒーを取り出して七海に渡した。
「ありがとうございます」
「いえ。お礼を言うのはこちらです。ミスは少なくなってきたのですが、やはり緊張もあって忘れてしまうことがあるようで……この間も伝達のことで術師に怒られてしまって……改めて指導していきます。今回は本当に申し訳ありませんでした」
七海に向けて頭を下げる。すぐに頭を上げるように言うが伊地知は頭を上げない。
恐らくミスをしないように対策を立ててはいるのだろうがなかなか改善されないのかもしれない。ミスをするな、とは言わない。ベテランですらミスをするのだから。だが、この仕事は伝達ミスが生命の有無を左右することがある。
「とりあえず座って飲みませんか」
ベンチに座るように案内すると伊地知は七海に従う。
***
ベンチに並んで座る。缶コーヒーのプルタブを開けて口をつけた。
伊地知がプルタブを開けると炭酸の泡が吹き出して少しだけ手を濡らす。それをハンカチを出して濡れた部分を拭う。
「大丈夫です?」
「はい。少しベタつきますが」
伊地知は口をつけてメロンソーダを飲む。
「結構甘いですね。五条さんがこれよく選ぶんですよ」
「恋人の前で他の男の話をするなんて良い度胸ですね」
「……あっ」
伊地知は微かに頬を赤らめる。
伊地知とは二ヶ月に七海から告白して付き合い始めたばかりである。デートらしいデートといえば一緒に食事した後で泊まり込みで一緒に過ごすことくらいだ。
「なんか……デートみたいですね」
「……確かに」
伊地知にデートだと言われればそうかもしれないと思い始めた。そう考えるとたまには時間外労働をしてみるのも、と思い始めたがそれとこれとは別である。
「さっきの話の続きになりますが、まさか後輩がミスする度にこうやって誰にでも飲み物を奢っているんですか?」
「誰にでも、ではないですよ?」
「伊地知君。少しでも詫びたい気持ちがあるなら私の言うことを一つ聞いてください」
「えっ、あの、でも今は持ち合わせが」
「金の話ではなくて。……君からキスしてください。今」
「今!?」
伊地知は辺りを見渡す。誰もいない。深夜で働いている人間も限られている。
「……あの、くっつけてすぐ離れてもいいなら……」
顔が赤い。目が泳いでる。
ウブで可愛らしい。恋は盲目である。伊地知は立派な成人男性であり、中性的ではなき男性の顔つきをしている。それでも七海にとっては伊地知のことが可愛くみえてしまう。
「ほら、早く」
「は、はい……」
再度辺りを見渡したあとでメロンソーダの缶を置いた。伊地知は七海に身体を近づける。七海はキスがしやすいようにサングラスを外した。伊地知は七海と目が合った瞬間、目線を下にやる。耳が赤い。耳たぶを甘噛みしたい。自分から手を出したい衝動を抑えた。
「あ、あの、私も眼鏡外しますね……」
伊地知はメガネを外すと深呼吸をする。いつも七海からしているから余計に意識をしているのかもしれない。
「では、失礼します……」
伊地知は顔を上げて七海の肩を掴む。七海も伊地知がキスしやすいように身体を屈ませた。
「……んっ」
唇が重なる。
くっつけてすぐに離れてもいいなら。
そう言ったのは伊地知なのに数十秒経っても離れなかった。
薄目で伊地知の様子を見る。気持ちいいのか目を潤ませていた。
下半身が反応しそうになる。
舌でもいれてやろうか。
そう思っていたら唇が離れた。
「……ふぅ」
伊地知はメガネをつけた。両耳も頬も同じくらい赤い。疲労で気分が高揚としている自覚はある。もっと恥じらいがみたい。
煩悩まみれの頭を切り替える。
「あの、もう少ししたら、終わりますので待っててもらってもいいですか……?」
切り替える必要はないようだ。
「どれくらいで?」
「三十分……?」
「わかりました。ここで待ってます」
「……もう一回したくなっちゃったので……あの、帰ったらいっぱいしてもいいですか……?」
「……キスだけで済むと思わないでくださいね」
「はい……」
今伊地知に触ったら襲うかもしれないので触れないでおいた。
「すぐに戻りますね!」
「メロンソーダは?」
「あげます!」
伊地知はベンチから立ち上がりその場を後にした。
缶コーヒーを飲み干した後でメロンソーダを手に取り口付ける。人工的な甘みと缶コーヒーの苦味が重なり口のなかで喧嘩していた。
「あ、間接キス……」
言った瞬間、恥ずかしくなり顔が熱くなる。
誤魔化すようにメロンソーダを勢いよく飲んだ。コーヒーの味がいつまでも残っているのでずっと口のなかがおかしかった。