尾月原稿『舐め腐りやがって、皆馬鹿にしやがって、お前、お前が悪いんだ、お前が祝福の子じゃないから! なんでお前は祝福の子じゃねえんだよ、俺とアイツの子供だぞ、普通そうだろ、お前は祝福の子のはずだろうが! ああクソ、死ねっ! 全部死ねッ!』
ボタボタと生温い血を撒き散らしながら、獣は月島に馬乗りになってありったけの暴力を振るった。堰を切ったように溢れ出してきたのは、自身に降りかかる運命への憎しみと恨みだけだった。獣の拳が月島の身体を壊していく度に、その呪いにも似た憎しみは幼い身体に蓄積していった。
殴る拳さえも血まみれにした獣は、ふうふうと荒い息のまま、血走った目で転がる酒瓶を掴んだ。先ほど月島が獣に目掛けて振り下ろして、盛大に割ったものだ。カーテン越しに差し込む幾分か柔らかくなった夕日が、ガラスの破片をキラキラと光らせる。
『全部、ぜんぶ、おまえのせいだ』
『——おまえ、の、せいだ、ろ、クソおやじ』
弱いαに生まれたのも、強いαに番を奪われたのも、番の影を求めてガキに縋るのも、俺が運命の子じゃないのも。全部お前自身が生まれたときから背負っていた、運命とかいうクソみたいなもののせいじゃないか。月島はひゅうひゅうとか細い息を零しながら吐き捨てた。
ギラリ。獣の目と、ガラスが光る。どこか遠くの方で、夕暮れ五時半のチャイムが街に響き渡っていた。カラスが鳴いたら帰りましょ、無邪気に歌う傷一つない子供たちを思い出した。ああ、帰る居場所がない己は、一体どこへ帰ればいいというのだろう。
『————死ね』
男の濁った眼はもう何も映し出していなかった。割れたガラス瓶は、美しいオレンジ色にその身を染めたまま、容赦なく月島の薄い下腹部に突き立てられた。
アパートから逃げ出したあの子が大人たちに必死で助けを求めたことで、月島は何とか一命をとりとめた。しかし、度重なる幼い身体への暴力と腹に刺さったガラス片のせいで、月島の身体はこの先新しい命を宿すことが出来なくなった。その説明を受けたとき、月島は心の底から良かったと安堵したのだった。あの獣の血を、これ以上世に残さなくて済む。良かった、本当に良かった。あれと同じ獣を、自分と同じ獣を産み落とさないであげられるのだ。月島はそう思った。
習い事の帰り道で、初めてのヒートが訪れたあの子が、月島に助けを求める為にアパートを訪れたのが悲劇の始まりだったと聞いた。獣は彼女のフェロモンにあてられたのだ。彼女の柔肌に深い傷がつけられなかったことが僅かな救いだった。それでも彼女の心に深く傷をつけたことに変わりはない。月島は毎夜魘されて懺悔した。自分などが彼女に近づいてしまったから、同類だと烏滸がましくも思ってしまったから。
父親は逮捕され、島のどこにも居場所がなくなった月島は本土の施設へ入ることになった。月島が入院している間にあの子も親に連れられ島から出て行ったと聞いた。あの子とは、それっきりだ。
施設へ移った孤独な月島の元へ、鶴見は足繫く通ってくれた。昔と変わらぬ様子で接してくれる鶴見だけが、月島の心の拠り所となっていったのは自然だろう。
βしか在籍していない施設において、月島という存在は異端だった。しかも実の父親と番関係にある年端もいかぬ少年だ。白い目で見るなと言われても無理な話だろう。
月島の身体には獣の周期に合わせて、きっちりしっかりとヒートが訪れた。番の種を注がれない哀れな身体は、甘い疼きに自我を蝕まれながら耐えることしか出来なかった。ヒートでのた打ち回る月島を、施設の大人も子供も汚らわしいものを見るような目で冷たく見続けた。
そんな日々が数年続いたある日、月島はあることに気が付いた。ヒートが来たのだ。つい最近、三日前にもそれはこの身を襲ったというのに。何かがおかしいと訴えても、大人たちは「まだ子供だから、周期が安定していないのだ」と言ってその訴えを無下に扱った。
そんなはずはない。月島は第二次性徴が訪れてヒートが来るようになった時には、既に獣と番になっていた。それから四年間、月島のヒートは一日たりともずれることは無かったのだから。
月島の不可解なヒートの真相は、鶴見が持ってきた。面会室で鶴見が複雑な表情のままに告げたのは、月島の父親が死んだ、ということだった。獄中の中、病で呆気なくこの世を去ったのだという。月島の番を解消しないまま。
通常、どちらかが死ぬと自然と解消されるものである。が、稀に死んでも解消されず、その関係が残された方に鎖をかける番が居るのだという。残された方がαであれば、番の強制解消が出来る為左程問題ではないが、Ωは違う。Ωは己の意志で解消が出来ない為、より強いαの番になるしかない。元の、誰とも番っていない無垢な状態には二度と戻れないのである。
番が死に、番関係が解消されないまま残されたΩの身体には、不定期にヒートが訪れる。ふと思い出したように種を求めるのだ、そんな相手はもうどこにもいないというのに。
月島がその説明を鶴見と共に医師に聞いた時、ああこれは呪いなのだと思った。あの獣が残していった呪い。お前も俺と同じ獣なのだと烙印を押されたような気分であった。鶴見は、ただじっと隣に寄り添って聞いていた。
ロシア支社に転勤になったという鶴見から、一緒にロシアに行かないか、と提案された時、月島は酷く困惑した。なぜ自分が。そんな月島の心を読みとったのだろう、彼は茶目っ気たっぷりにウインクをしながら答えた。
『俺だって一人は寂しいんだ。月島もそうだろう? だから一緒に来てくれ。俺にお前の父親をやらせてくれ』
そうやって優しく笑うその顔が酷く優しくて、本当にいいのだろうか、と思いながらも、おずおずとその手を取った。ロシア語なんて全く分からなかったが、鶴見の子供でいる為に必死で勉強した。現地で働く鶴見を支える為に、ロシア語は勿論家のことで出来ることは何でもやった。あの寒い寒い北の国で、鶴見と月島は家族ごっこを始めたのだ。