目を覚ますと飛び込んできたのは白い天井と、俺を見下ろす人影だった。
周囲には消毒液の匂いが漂っていて、遠くから電子音とさざめきのような人の気配が漂ってくる。
「イサミ、良かった!」
ぼやけた輪郭がくっきり浮かぶ。手前にいたショートカットの女性が涙を滲ませてそう言った。前のめりな姿勢は今にも飛び掛からん勢いで、しかし寸前で踏みとどまったようだった。
彼女の隣では目も覚めるような赤いジャケットを着た男が安堵の表情を浮かべている。目が合うと眉間に皺を寄せ、険しい表情を作った。
「全く、お前は……」
どうやら呆れられているらしい。しかし、同時に仕方ないと諦めている雰囲気も感じ取れた。
「ほんと、ほんどによがっだです……!」
更にその隣では、長い茶髪を三つ編みにした女性が肩を震わせてわっと泣き出した。良かった良かったとしきりに繰り返し、溢れる涙を必死に拭っている。
程なくして部屋に白衣の老紳士が入って来た。お加減はいかがですか、と声をかけられて、俺は相手を見上げる。
「あの……」
声を発して初めて、喉が渇いていることに気が付いた。張り付く粘膜を咳払いで剥がしながら、俺は何を言うべきか――何を聞くべきなのかを考えた。
ここが病室であることは部屋の設備から推察することが出来た。あちこち包帯の巻かれた体を診察する老紳士が医師であることも理解できる。心配そうな表情で自分を囲む人々が、恐らくは知り合いであろうことも察することが出来た。
俺は散々に言うべきことを迷い、口を開く。
「すみません。……俺は誰なのでしょうか」
軽度外傷性脳損傷による健忘、それが俺に下された診断だった。いわゆる記憶喪失と呼ばれるものである。一時的なものか永続的なものかは現在不明、まずは経過観察となるそうだ。
「イサミ・アオ……二十七歳……陸上自衛隊員」
俺の名前、年齢、職業。年齢という概念も自衛隊という職種も知識としては知っているのに自分のことだと思うと全くピンと来ない。名前に至っては知らない言語を口にしているようだ。
俺のことを教えてくれたのは見舞いに来ていたあの三人だった。あの三人も階級や所属は違えど同じ自衛官らしい。俺の記憶が失われているとわかるといなや、方々に連絡を取り必要な手続きを済ませてくれた。現在の俺は休職扱いとなっているそうだ。
病院で目を覚ますまでの経緯についてはショートカットの女性――リオウ・ヒビキ――が教えてくれた。雨の日の歩道橋にて足を滑らせた女性を庇って階段から落ち、頭を強く打って緊急搬送されたそうだ。外傷はさほど酷くなく、脳出血も見られなかったものの俺が意識を取り戻すまでに三日もかかったのだとか。通りでカトウさんがあんなにも泣いていたわけだ。
「人を庇って自分が怪我するとか、あんたらしいよ」
そう言って苦笑するリオウさんに俺はどう反応すれば良いのかわからなかった。以前の俺の人間性について聞かされたところで、やはり自分のことだとは思えなかったのだ。そうなんですね、と返したら「敬語いらないって!」と笑い飛ばされた。彼女がわざと明るく振る舞っているのがわかってしまうから、俺はどうにも申し訳なかった。
怪我の具合は問題なく、即日退院も可能であるが引き留めたのはサタケさんだった。念のためにあと一日二日は入院して十分に検査してもらえとのことだ。サタケさんは俺の上官らしいのだが、そのせいだろうか。妙に説得力があったので俺は気付けば承諾していた。ついでに、俺が入院している間に生活に戻る準備も整えておいてくれるとのことで、なんとも頭が上がらない。
二日間――実質五日間――の入院生活の間に俺が記憶を取り戻すことはなかった。しかし、自分の事や自分に関わりのある人達の記憶はさっぱりないものの、社会生活を送るうえでの一般的な知識は失っていないのが不幸中の幸いだった。これまで失っていればはたしてどうなっていたのか、流石にぞっとしてしまう。俺の私物だとリオウさんが渡してくれた荷物をひと撫でして、俺は人知れず溜息を吐いていた。
その人が現れたのは退院の日だった。迎えを寄越すというのはサタケさんより事前に聞いていた。寄越すと言うからにはサタケさんが来るわけではないと察していたものの、病室に現れたのが金色の髪をした外国人だったことに驚いてしまった。
彼は、彼に驚く俺を痛ましいものを見る目で見たあと、すぐにそんな顔をしてはいけないと思ったのか努めて笑顔を作ると俺の傍らに跪く。あまりにも自然に片膝をつくものだから俺は再び驚いて、彼の後ろから病室に入って来たリオウさんに慌てて視線を向けた。リオウさんはいつかのような、けれど種類の違う苦笑を浮かべている。
「イサミ」
この二日の間に少しは聞きなれてきた俺の名前を彼が呼ぶ。
「俺の名前はルイス・スミス。アメリカの海兵隊員だ」
彼が話している言語が英語であると気が付いたのは〝marines〟という単語が耳に入ってからだった。ここ二日、日本語でしか会話していなかった俺は自分が英語も話せるとは知らなくて、三度の驚きに見舞われる。
彼は俺の片手を取った。俺よりも大きく、体温の高い手のひら。形の良い眉が下がり、碧の瞳が俺を見つめている。
「こんな事を急に言われても困るだろうけど、俺は君の……恋人、なんだ」
躊躇いがちに告げられた言葉をリオウさんが肯首する。
「そうですか」
俺も否定せずに頷けば彼――スミスさんは安堵の表情を浮かべ、俺の手を取ったままで立ち上がった。
「これから、君は家に帰ることになるんだけど……その、君は、俺と暮らしていて……だから」
俺の帰る家は彼の家でもあると言いたいのだろう。言いにくそうなスミスさんに「わかりました」と返事をすれば、本当にわかっているのか? という顔をされたので、俺は「案内してくれ」と続けた。
俺が承諾しているのだからそれ以上は無駄な押し問答になるとでも思ったのだろうか、どこか複雑な表情を浮かべたまま、スミスさんが「荷物は?」と聞いてきた。病院に運ばれていた際に俺が持っていた私物、入院中に売店で買い足した物をまとめた荷物を片手で持ち上げてみせると、さっと奪われてしまった。
「それぐらい自分で持てます」
「君は病み上がりなんだから駄目。それより、その他人行儀な口調、やめてくれないか」
「……わかった」
ここに来てようやくスミスさんが見せた自然な笑みは、意図して作った笑みよりも随分と甘いものだった。
退院手続きを済ませると、今日はスミスさんを病院に案内しに来ただけというリオウさんと病院前で別れることになった。スミスさんは「送るよ」と言ったのだが、邪魔しちゃ悪いからとリオウさんが固辞したのだ。改めて礼を述べる俺の肩をリオウさんは遠慮なしに叩くと「また飲みに行こうね!」と言ってくれた。短期間でも彼女が居心地の良い人物であると知った俺は、出来るだけ早くその機会が訪れればいいなと思った。
スミスさんが運転する車で自宅に戻る。助手席から眺める景色はどこも見覚えがなくて、遠くの街にやって来たような、不思議な気分だ。
家に着くまでの間にスミスさんはぽつぽつと自分のことを話してくれた。俺との出会いはハワイで行われた演習だったこととか、本当は俺が病院は運ばれたと連絡があってすぐに駆け付けたかったのに海の上にいたから敵わなかったことだとか。
海兵隊、それもアメリカ軍のことはよく知らないが、海上にいたなら二日で戻ってくることも難しかったのではないだろうか。そう質問したら「色々特例が利く身なんだよ」と返されて、何か誤魔化されたとは気づいたものの切り込んではいけないのだろうとそれ以上は聞かなかった。
着いた先はマンションで、二人暮らしにしては随分と広い部屋だった。これはファミリータイプと呼ばれる物件なのではないだろうか。通されたリビングで呆然と立ちすくんでいるとスミスさんがまたしても俺の手を取った。今度は片手ではなく、両手を、いかにも恭しく。
「ここは君の家なんだから自由にしてくれ。不安なこともあるだろうけど、俺が精一杯サポートするから」
スミスさんが俺の手に顔を近づける。口づけでも落とされるのかと思ったが、触れたのは額だった。
入院している間、リオウさんが俺の荷物の中から一冊の手帳を渡してくれた。
「勝手に触ってごめん。でもそう言えば普段から日記か何か書いてたのを思い出したから……記憶を取り戻す手がかりになるかなって。あ、中は見てないからね!」
彼女の言う通り、手帳には簡単な日記が記されていた。自衛官という職業からか情報漏洩にならないように曖昧にぼかされてはいるものの、仕事のことやリオウさんやサタケさん、時々カトウさんのイニシャルも見受けられた。
その中に、スミスさんと思わしき人物の記述もあった。Lと書かれているのが恐らく彼で、明確な表現はないものの恋人関係を匂わせるものだった。
けれど。
『〇/〇 Lより別れの要請、俺も承諾した』
それは俺が事故に合う数日前の日付だった。
俺たちは、とっくに恋人ではない。彼が恋人を名乗った瞬間から俺はそれを知っていた。
恋人を名乗ったとき、確かにスミスさんには迷いが見られた。それなのにどうして嘘を吐いたのだろう。
記憶喪失になった俺を放っておけなかったから? しかし恋人だと嘘を吐く必要性までは見当たらない。
それとも別れたいほど俺を憎んでいたから、恋人を名乗ることで復讐を目論んでいる? それにしてはあまりにも彼の態度は切実で。
まるで忠誠を誓う騎士のごとく俺の手に額を押し当てるスミスさんを見下ろす。彼のことが何もわからない。わからないけれど、彼に嘘をつかれたその瞬間から、俺はどうしても真意が知りたくて。
「これから、よろしくお願いします」
俺が言えばどうしてか、彼は泣きそうな顔で俺を見つめた。
こうして俺たちの奇妙な生活は始まったのだ。
◇
部屋の中はいつもとても静かだ。好きにしていいと言われてテレビでもラジオでも自由につける権利は得ているものの、さして興味のある番組もなく、いつも電源はオフになっている。ソファでぼんやりする俺にスミス――敬称は強く拒否されたため、さん付けはやめた――が何度となくそれらを勧めてくれたこともあったが、特に興味がないと首を振れば苦笑で返された。しつこく食い下がられなかったところを見るに、恐らくは前の俺も似たようなものだったのだろう。
時々考える。以前の俺はどんな人物だったのだろう。何が好きで、どんな事を趣味として、暇な時には何をしていたのか。鏡に映る体を見る限り――職業柄もあるのだろうが――体を鍛えることは嫌いではなかったのだと思う。実際、時々運動したい欲求もあって散歩に出かけることもある。今は病み上がりということもあり自主的に控えているものの、出来ればそのうちランニングもしたい。
スミスに聞けば、俺がどんな人物だったのか、彼が知る範囲で答えてくれるとは思う。けれど聞く気になれないのはあまり無暗に俺のことをスミスに聞くのは憚られたから。
リビングのソファからたったの数歩であるが離れたダイニングの椅子に座るスミスに目を向ける。彼は何かしらの資料に目を通しているようだが、俺に意識を向けていることが俺にはわかった。
「スミス」
「ん? どうしたイサミ」
声をかければ、さも今意識しましたとばかりの反応を見せるものの驚きはしないのだから、本当に隠す気があるのか怪しい。
「そろそろ病院の時間だから」
言えば、一度時計に目にやったスミスは立ち上がり、車のキーを手に取る。
「準備は?」
「済んでる」
「That’s great! じゃあ行こうか」
スミスは当たり前のように俺が用意していた鞄を手に取った。とは言っても、中に入っているのはスマホと財布くらいなのだが。それぐらい自分で持つと何度も言っているのに、スミスは頑なに荷物を俺に持たせないし、病院にも一人で行かせてくれない。君が心配なんだよ、と言われたら、いまだに実感がないとはいえ記憶喪失などという重大な事態に陥っている手前断ることはできなかった。
スミスの運転する車の助手席で、今日も流れる景色を眺める。今日で四度目となる景色は記憶を取り戻す足掛かりにならない代わりに、見慣れた景色になってきた。
車中でも、自宅でも、スミスは口数が少ない。感覚的に俺は自身が会話を得意としていないと感じているからあまり喋らずに済むのはありがたくあったが、反面で、スミスが静かなことを奇妙に感じてもいた。それこそ感覚の話になってしまうが、どうしても『似合わないな』と思ってしまうのだ。彼の容姿がわかりやすく明るく華やかであるせいかもしれない。あるいは――。
そうこうしているうちに病院に着けば率先してスミスが手続きを進めてくれ、今日も変わり映えのない健診と問診を終えると変わらず経過観察の診断が下される。何か思い出したことはと問われ「何も」と返せば、焦っても仕方ありませんからねと医者は優しい顔で慰めてくれた。それに俺は何も感じることはなく、むしろ付き添っていたスミスの方が余程複雑な表情を浮かべていた。
支払いが済めばマンションに帰るだけ。再び助手席で流れる景色を見ているうちに、病院でもほとんど椅子に座っているだけだった俺は体が動かしたくなった。
「なあ、ここで下ろしてくれないか」
マンションに着く少し前、俺が声をかけるとハンドルを握るスミスの手が強張る。
「なんで?」
声も固い。顔は前を向いているのにスミスの意識が俺に強く向いている。スミスの運転技術は信用しているものの、それでも少しだけ事故らないか心配になる。
「体動かしたい。その辺ぐるっと散歩するだけだ」
「……Okay、なら俺も付き合うよ。俺も運動不足だからな」
やはり前を向いたまま、スミスがにこりと笑顔を作った。有無を言わせない様子に「わかった」と答える。元より拒否するつもりもなかったが。
一人で散歩するならすぐに降ろしてもらうつもりでいたが、二人で散歩するなら一度家に戻ろうと提案するとスミスは聞き入れてくれた。駐車場に車を停めてから家の周りを散歩する。風が涼しくて過ごしやすい、赤く色づく街路樹に開きを感じた。
散歩の最中もやはり二人の間に大した会話はない。たまに俺が目に入った当たり障りのないものについてスミスに質問するか、段差のある場所でスミスが「足元に気を付けて」と声をかけるくらいである。階段では特に心配そうな目を向けられるのは記憶喪失の原因が原因だからで、俺も忘れているとはいえこれ以上の迷惑をかけられないから階段には用心深くなった。時々、スミスが階段で俺に手を差し伸べようとしては引っ込めていることには気付かないふりをしている。退院日にはあれだけ俺の手に触れてきたスミスは、その後一切俺に触れなくなった。
「恋人って割にべたべたしないんだな」
それは俺が退院し、スミスの家で暮らし始めてから一週間が過ぎた頃だった。触れることはおろか、振る舞いにさえ距離を感じるスミスに俺はストレートな疑問をぶつけてみた。
そりゃあ、恋人だと言ったところで俺に記憶がないのだ、もし俺たちが今も正しく恋人だったとしてもギクシャクするのは否めないとはいえ、スミスの方から恋人だと言ったからには多少それらしく振る舞うものではないのか、そう思ったから。
見つめる俺に、スミスの顔色は良いとは言えなかった。青ざめる程ではない、けれど僅かに綻びが見える。瞳の奥に困惑……いや、焦燥? そんなものを微かに滲ませて、息を吸うのが目についた。ああ、言い訳する気なんだなと俺は勘づく。
「繊細な問題だから軽率に口にしていいことじゃないけど……今のイサミには、その、記憶がないだろ? 俺と恋人だったってことも。連れ帰っておいてなんだけど、よく知らない男に触れられるのは嫌かと思って」
俺を気遣うような表情が白々しい。じゃあここで俺が「気にしない、存分に恋人らしく振る舞ってくれ」と言ったらスミスはどうする気なのだろう。思ったが、俺は言わずに大人しく頷いた。そうだな、と同意するふりをすればスミスに肩から力が抜けるのがわかった。
スミスを追い詰めなかったのはスミスの為ではない。生活を共にするうちに彼の些細な表情変化が、内心が、俺にわかるようになったのは――きっと俺〝だけ〟にわかるのは――『俺』がスミスのことを心から好いていたからで。
(今の俺がそれを利用するのは違う)
そう思ったからだ。
わかることが増えるたびに、わからないことも増えていく。どうして〝二人〟は別れたのか、どうして『俺』はそれを受け入れたのか。俺に残された手がかりらしい手がかりはほとんどない。手帳には別れた旨が書かれているだけ、スマホには、恐らく事故前の『俺』が故意的に消したのだろう、スミスとのやりとりどころか写真一枚も残されていなかった。
ベッドの中で身じろぐ。背中越しに体温を感じる。同じベッドに横たわるスミスが起きている気配がする。
これもわからない事の一つだ。俺に触れない癖に、スミスは俺と同じベッドで寝る。必ず背を向けて、律儀に半身分の隙間を開けて。
「俺はどこで寝たらいい?」
これは初日に投げた質問だ。暗に予備の布団はあるのか、と聞いたつもりだった。あからさまに顔を強張らせたスミスは――彼が露骨に表情を変えたのはこの時だけだ――緊張した様子で、「いつも一緒に寝てたから……イサミが嫌だったら、明日にでも買って来るよ」と、今日のところはひとまずとでも言うように同じベッドで寝ることを示唆してきた。
俺も大概迂闊だったとは思うが、それ以来、結局新しい寝具が買われることなく俺たちは同じベッドで寝続けている。今、スミスは何を思い、俺に背を向けているのだろう。
眠気はまだ遠いが、俺は目を瞑った。思考は繰り返されるも睡魔と同じく答えは遠い。
(今晩も……)
今晩も、スミスは、寝ている俺を――『俺』を、眺めるのだろうか。俺が眠りについたあと、スミスが何十分も俺を眺めていることを俺は知っていた。それに、クローゼットの奥深くに、隠すように来客用の布団が押し込まれていることも。
(お前のことが知りたいよ)
知ったところでどうなることではないとしても。
(俺が記憶を取り戻したら、スミスはどうするつもりなんだろうな)
夜が更ける。夢の中に攫われる。眩しい青空の下、スミスが『俺』に手を振って笑っていた。
◆
起きると妙に頭が冴えていた。何か、とても……とても、美しい夢を見た気がするけれど。
(なんも思い出せないな)
夢とはそういうものだと思いながらも現状とあまりに状況が重なって、笑いたいような、嘆きたいような気分に陥った。
スミスはすでにベッドからいなくなっていた。そこにいたであろう形跡すら残さずに皺の伸びたシーツに触れてみるも、ひんやりとしている。起きたのは随分と前らしい。
時計に目をやると八時を少し過ぎた頃だった。今日も一日やることなど何もなかったが、ベッドでだらだらする気にもなれずに身を起こす。クローゼットに収納された箪笥を開けて真新しい着替えを手に取った。柔軟剤の匂いが濃くついた白のTシャツとカーゴパンツ。脱いだ寝間着は簡単にたたんでベッドに取り残した。
「お早う、イサミ。よく眠れた」
「うん。お早う。スミスは早かったんだな」
リビングではスミスが新聞を読んでいた。今日は仕事の資料じゃないんだな、と思いつつ目を向けた新聞は英字だ。新聞は取っていないからイサミが寝ている間に近くのコンビニで買ってきたのだろう。
「朝食はどうする? パン、焼こうか? それともライス?」
「あー……んじゃ、今日はパン」
「Okay、座って待ってて」
立ち上がったスミスがわざわざイサミに椅子を引いてくる。これにももう慣れたもので、イサミは大人しく従い椅子に座った。
「スミスは?」
暗にもう食べたのか、と聞けば、キッチンから顔を覗かせたスミスがすでに済ましたと返答する。食後のコーヒーでも飲もうと思っていたところなんだけど、と続けられ、これは俺にもコーヒーがいるか聞いているんだなと察したイサミは「俺も飲む」と返事をした。どうしてか、スミスはその返答を嬉しそうにしていた。
程なくして漂ってくるのはパンが焼ける香ばしい匂いと腹の底を擽るようなコーヒーの香り。あまり空いていない胃が刺激されて食欲が沸いてくる。
(あ……卵の匂い)
それから肉っぽい匂い。卵と一緒に焼いているらしい。パチパチと脂の爆ぜる心地良い音がする。今日はソーセージとベーコンのどちらだろう。
(多分ベーコン)
人知れず賭けてみる。当たれば少し嬉しい、外れても大してガッカリはしない一人遊びだ。
朝食はすぐにサーブされた。芳しいコーヒーと、生野菜のサラダと、焼いた食パンと、オーバーミディアムな卵と、脂でシトシトとしたベーコン。
(当たった)
ささやかに嬉しい。思わず零れた笑みにスミスが目を丸くする。けれど「どうした?」とは聞かれなかった。
向かいに座ったスミスは自分の前にもコーヒーがたっぷりと注がれたマグカップを置いた。使い込んでいるらしく、赤色のマグカップは部分的に塗料が剥げている。対してイサミの前に置かれた白のマグカップは漂白したようにピカピカだった。
「いただきます」
両手を合わせてフォークを手に取り、サラダに刺した。シャクッとした感触は瑞々しく、口に含めばその通りに青い味が広がる。
スミスに聞かれないこと、聞かないこと、言われないこと、言わないこと。スミスと生活するうえでそれらは山のようにある。イサミがコーヒーは深煎りのブラック、サラダはドレッシング少な目、卵は両面をしっかり焼きが好きなのをスミスが知っているのを指摘しないのは、わざわざ〝言わないこと〟で、柔軟剤の馴染み切っていない着替え、小傷さえないマグカップ、部屋の中に散らばる数多のイサミの為に用意され、掻き集められ、あたかも以前からイサミの私物のように擬態させられた新品の数々は、〝聞かないこと〟。
手帳の短い文章を何度も読み返し、少ない荷物を広げ、推測した限りイサミはスミスと別れたあとはホテル暮らしをしているようだった。レシートやその痕跡があったわけではないが、それとなくヒビキに最近の自分はどう過ごしていたのか等聞いてみたところ――近況報告の意味も籠めてヒビキとは今ではすっかり連絡を取り合う仲である――官舎に寝泊まりしていた様子はない。そうかと言って、新しい住まいの鍵もなかったのでそう判断した。次の住まいを探していたかどうかまでは不明であるが、現実的に考えればいつまでもホテル暮らしというわけにはいかないので探していたと思われる。もしかしたら、事故のあった非番の日もイサミは物件探しに赴いていたのかもしれない。
ちらりとスミスに目を向ける。コーヒーを飲み、新聞に目を向けながらもイサミが見た途端にスミスがこちらに意識を向けたのがわかった。イサミはミニトマトにフォークを突き刺した。ぷちりと皮が弾ける。
この家を出て行ったのは、まず間違いなくイサミの意志だ。現在のイサミはまだまだ付き合いが短いとはいえ、スミスが別れたからと言って元恋人を急に放り出す男には思えない。むしろ、新しい家が見つかるまでここに住んでくれて構わない、俺のことが気になるなら物件が見つかるまでは俺が出ていくよ、くらいは言いそうである。
イサミが出ていくのをスミスが止めたかどうかは定かではないが、イサミは別れてすぐにこの家を出た。その割に随分と荷物が少なく身軽なのは、きっとこの家に置いていた私物をイサミ自身があらかた処分したからだ。今の自分ならどうするか、と考えたとき、やはり自分も同じことをするだろうとイサミは思った。
青臭いトマトを嚥下して、トーストに手を伸ばす。バターと蜂蜜が用意されていたが、バターだけを軽く塗って齧った。小麦の味が甘くておいしい。
この、イサミの物が何も残されなかった家を、今もまだイサミが住んでいると思わせる為にスミスは工作した。
(なんでそこまでするかな……)
今日もスミスはとてつもなく難しい。表情変化は読み取れても何を考えているのかさっぱりだ。
(会話もないから、さっぱりわからん)
せめてもう少し二人の間に会話があれば、と思うものの、何を話していいのかわからないのも事実で。
ふと、思いつく。
「なぁ」
声をかけるとスミスが顔を上げる。眩いグリーンの目が静かに向けられた。綺麗な瞳だな、とイサミは思う。
くるり、フォークを回転させた。思いついて声をかけたはいいが、いざ口にしようとすると少々言いづらい。けれど言いだした手前「やっぱ何でもない」とは言いにくく、口の中は空っぽだと言うのに口の中に残ったトーストを飲み込むふりをした。
「もし、あったらでいいんだが」
言ってから、あ、言い方を間違えたな、と思ったけれど今更引っ込められない。この言い方では『無い』ことも前提にしてしまっている。二人が恋人だというならその言い回しは不自然だと言ってから気付いたものの、自分はいま記憶喪失だからそういう言い方をしてしまったのだという顔をして続ける。
「俺とスミスが写ってる写真を見せてもらえないか」
スミスが息を呑む気配がした。僅かな動揺が見て取れる。それでも表面上は平然として見えるのだから胆力の優れた男である。
「無理にとは言わない」
付け加えたのはプライベートに踏み込んでいる意識があったから。しかしその配慮は突然恋人が記憶喪失となってしまったスミス個人に向けたものというよりも、スミスとその恋人であったイサミ二人に向けた、第三者的な感覚であることには無自覚だった。
スミスが考え込む表情で――これは隠す必要がなかったのか、そのまま晒された――コーヒーを啜る。その間にイサミは目玉焼きに手を付けた。塩胡椒で味付けされたそれは塩よりも胡椒の分量が多い。好みの味付けだ。
「わかった」
イサミのフォークがベーコンに突き刺さった頃合いで、スミスが言った。
「印刷してるものは少ないからデータでもいい?」
印刷してるものもあるんだな、と思いながらイサミは頷いた。
「ああ、構わない。ありがとう」
「……お礼を言われるようなことじゃないよ」
少しだけ、困ったように眉を下げてスミスが微笑む。頼りなくて、今にも泣き出しそうな表情だ。
スミスに泣かれるのは嫌だ――泣かせたくない――と頭の片隅で考えつつ、ベーコンを齧る。
「あ、ごめん。ナイフ持ってくるよ」
食べにくかったよな、と言いながらスミスが席を立つ。言われたイサミはそうでもないが……と思っていたのに、持ってきてくれたナイフを使ってベーコンを切り分けると圧倒的に食べやすくなった。
「顎の力は強いけどイサミは口が小さいから」
ふふっと笑ったスミスの目が愛しいものを見る目をしていて、イサミは心底驚いた。別れた恋人に向ける目じゃないと思うよりも先に、そんな顔も出来るのか、と思ったからだ。