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    Szme_me

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    置き場

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    Szme_me

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    チョコレート・デイ

    (なんだかやけにそわそわしているな)
     とは、今日の彼女を見て一番に感じたことだった。
     ドアがノックされる度に肩を揺らす。そして入ってきた人間の持っているものがただの書類だと分かれば、傍目から見ても明らかな安堵の溜息。
     しかし、これが箱だの紙袋だのであれば、気にしないようにしながらも横目で様子を窺っている。そして、出てきたものを確認しては「ちがった…」と一言だけつぶやいて、やはりほうっと溜息を吐いていた。
    「─サイン助かるよ、イソップ」
    「…っえ? あ! ああ……いえ……」
     さしあたって今日の仕事はこれぐらいかな、と指折り数えるイライに頷き、観測者と呼ばれる彼に謝意を込めて片手を上げた。が、視界の隅で捉えていた蛍の一挙手一投足に気を取られていたおかげで微妙に空いてしまった返答に笑われてしまう。
    「“観測”は僕の十八番なんだけどなあ!」
     潜めた声でふふ、と笑う単眼鏡がきらりと光った。そういえばここの文面なんだけど、ともう用はないはずの書類を再び広げ、そっと身を屈める。とん、と指先を置くのと同時に、然り気無さを装って近づいた薄い唇から紡がれたのは「今日はとっても良い日になるよ」との一言。
    「良い日…?」
     なにかありましたっけ、と尋ねようとした口はしかし、穏やかな笑みで制された。静かに後ろを指す先は落ち着きのない蛍を示している。イライが自身の体で遮ってるおかげで、蛍本人は指されていることにちらりとも気づかない。
     しかし、二人が急に声を潜めて話し始めたことは分かったらしい。何も気にしていないわよ、と言いたげだが体が少しこちらに傾いている。どうやら気になって仕方ないようだ。
    (なるほど。“良い日”と彼女は関係するんだな)
     そこまでの見当をつけるのは簡単だ。しかし、詳細となるとヒント無しではお手上げだ。
    「うーん……それは、未来視の結果ですか?」
    「いいや。確定している事実さ!」
     未来なんてわざわざ視なくたって、これぐらいは分かるよ。
     ちっちっ、と指を振りながら得意気に、そして意味深な笑み。
    「本当はね、明日にしてくれって頼まれていたんだけど…ナンセンスだからねえ」
     だからヒントは今日であること。
     告げる言葉と共につい、と向けられた卓上カレンダーへの視線。つられて向けるも、ぱたりと伏せられてしまった。曰く、すぐに分かるから、とのことだ。
    「まあ楽しみにしておきなよ」
     それじゃあね、と書類をひらひらなびかせ部屋を退室しようとドアへ向かう。途中、「長々と邪魔したね。もう仕事も終わったからさ」と蛍の肩を叩く後ろ姿は今にも踊り出しそうに楽しげだ。
    「えっ!? あ、ええ……あ、あなたもお疲れさま」
     応じた蛍は声をかけられると思っていなかったのか、慌てていたがすぐににこりと笑みをつくる。見るものすべてを虜にするようなとろける笑みだ。
     しかし、その笑顔に傾く者はイソップ以外、この館には居ない。そうと知っていながら彼女が浮かべる意味はただひとつ─牽制だ。
    「イライ、あなたちょっと…、いいかしら?」
     呼び止めて悪いんだけど、と甘えるような猫撫で声。
     ヒール音をカツリと鳴らし、優雅に立ち上がる。
    「ああもちろん! どうしたんだい蛍。私になにか?」
     快く足を止めたイライに、優雅な姿勢とは裏腹に鼻息荒い蛍が大股で近づいていった。そうしてむんずと引いた袖の勢いに彼の相棒はすぐさま宙へと逃げ出していく。
    (おやおや、なんとまあ……。恋人の前だというのにずいぶん大胆なことだ)
     愛しの蛍は引き寄せた同胞の耳元に口を寄せている。これが他の人間であるならば見過ごせないが、イライならば、まあ、許せる範囲ではある。必要以上に蛍へ触れないよう手を後ろに回しているのが見て取れるし、許せる。ただし、ぎりぎりで。そう、ぎりぎり。本当にぎりぎりだ。もしもこれがカヴィンならこれ幸いとばかりに触るだろうから、さっさとひっぺがしていただろう。だから今、目の前の光景を我慢している僕は偉いと思う。
     けれどもさすがに、これ以上長く引っ付いているのはいただけない。
     よもや心変わり! ……だなんて心配はミジンコ程も抱いてはいないが、そんなに熱心に見せつけられると、一体どんな話題なのか興味が湧くのも仕方ない。
     更に言えば、興味を引くのはふたりの対照的な表情のせいでもあった。
     片や高い背を折り曲げ、フンフンと頷きながら鼻歌でも歌い出しそうに。
     片や背伸びをし、高いヒールをより上げ、そわそわと落ち着きなく鼻息荒く。
     しかし、耳を澄ませども何某か囁いているらしい内容は聞き取れない。ただ、ちらちらと彼女の視線がこの身に刺さるばかり。
     きっと、イライが言った“良い日”のことなんだろうけれど。
    (…でもそれにしては、)
     熱のこもった密談が進むにつれ、彼女の笑顔が引き攣っているところがとても気になるところではある。
     そして、ひとしきり終えたイライは満足気に笑った。
    「うんうん、ようく分かったよ! それじゃあ、あとでお菓子を持ってくるね!」
    「持っ…!? っちょ、違うでしょ! 私の話聞いていた!?」
    「大丈夫、ばっちり任せておいてよ」
     蛍の悲鳴もなんのその、朗らかな一言を残してイライは足早にドアへ向かう。未だ熱心に袖を引っ掴んでいる彼女のことはお構い無しだ。
    「ちょっと、ねえ、違う! 違うったら!」
     そう狼狽える蛍は躍起になって止めようとしていたが、にこやかな笑顔のままドアを静かに閉められてしまった。まったく見事としか言えない鮮やかさだ。
     そしてあっさり残された蛍は、と言えば。
    (か、固まっている…)
     浮かんでいるのは変わらないとろける笑み。けれど、見る者が見れば明らかに引き攣っている。魅力的な笑顔はそのままぴしりと固まってしまっていた。
    (ああ、でもそういえば。菓子といえば…)
    出迎えも早々に、珍しいチョコレートを持ってきたわ、と口ごもりながら言っていたっけ。私はお腹いっぱいだから明日にでも食べてね、とかなんとか。
     ……もしやこれが、今日の彼女の様子に何か関係があるのだろうか。しかし、たかが菓子でこんなに緊張している理由がさっぱり分からない。
    「蛍」
     呼びかけても返事はなかった。立ち上がり、ソファに近づいても反応はない。
     いつもならお疲れさま、と手を広げ………まではしてくれなくとも、顔は向けてくれるのに。
    「……蛍?」
     当然ながら蛍の横に隙間なく座り、腰に手を回しながら顔を覗きこむ。こんなことしようものならすぐさま抓られるのが常だ。しかも結構容赦なく。
     そう分かっていながらも止められないのは、構えなかった日や彼女の機嫌がいいとき、甘えたいときにはぺっとりくっついてくる日が稀にあるから。彼女は本当に僕を夢中にさせるのが上手い。
     だから、ここまで無視されるのは心を交わして以来初めてじゃないだろうか。
    (無論、この関係になる前は無視なんてしょっちゅうだったから慣れてはいる)
    (むしろ、懐かしいとすら思えるぐらいだ)
     ─いや、でも今日のこれは無視というより“それどころじゃない”の方が正しいかもしれない。
    「やっぱり止しておけば…いえ、でもこれは沽券に関わる……だけど既製品なら………」
     頭を振りながらぶつぶつと。口元に手を当て呟きながら眉間に皺を寄せている。
     小難しい顔の彼女には隣の僕より余程気になることがあるらしい。僕を置いて蛍の頭を占領するなんて、一体なんなのだろうか。うーん、ますます興味深い。
    「ん……?」
     口元に当てられた手に覚えた違和感。まじまじと見つめ、その正体を掴む。
     ─どうしてだか、今日の彼女は手袋を外していなかった。いつもなら外套と共に玄関で預けて部屋を訪れるのに。
     触れあうならば直に指先で、とは彼女が言い出したことだった。だから僕も仕事の終わりには手袋を外す。
    (それが、彼女と過ごす時間の始まりの合図になったんだったっけ…)
     手袋を外した自分に向けられる視線に込められた慈愛。どんなに素っ気なくしていても、例え手の甲を抓っていたとしても、「おつかれさま」と告げる唇は柔らかく弧を描く。
     ─それなのに今日は、と抱いた違和感は疑問に変わる。
    (預け忘れた? いや、まさか)
     珍しいこともあるものだ、と思ったときにピンときた。きて、しまった。
    (今日は、そうだ…)

     ─二月十四日だ!

    「蛍」
     無視。
    「蛍ったら」
     やはり無視。
    「…蛍!」
     埒があかなくて、無理に頬を掴んで顔を向けさせる。ぱちぱちと何度か瞬いた彼女はようやく僕が呼んでいたことに気付いたようだ。
    「─あ、ご、ごめんなさい。私…」
     ちょっと、考え事を。
     そう言って目を逸らす彼女の手は震えていた。余程緊張しているらしい。背を屈め、強張った肩に額を擦り寄せて引っ込められそうになった手を握る。逃がすまいと、力を込めて。
    「蛍。…手袋は、どうして?」
    「っ! きょ、今日は…今日は着けていたい気分だったの!」
    「触れあうのに布越しは嫌だと、以前言ったのは貴女なのに?」
     仕事が終わったので僕も外しますから、貴女も早く取り去らってしまいましょうよ。
     ねえ、と首を傾げて覗きこむ。眉を下げた、上目遣い。彼女がよく言う子犬のような顔だ。
    「ね、蛍…?」
     …子犬という点には納得いかないが、彼女はこの顔をする僕に弱い。とても便利な顔。
     だからこそ度々使わせてもらって顔だが、狙いどおり、なんだかんだ彼女は毎回絆されてくれる。なんて可愛い恋人だろう!
     だから今日も、と思ったが。
    「…っその手には乗らないわよ!」
     効果はあった。しかし、一瞬心を揺らしたにも関わらず、すぐに目を反らされてしまう。ちっ、だめだったか。
     …それならば、仕方ない。
    「そうですか。じゃあ、」
     にっこりと。世紀の歌姫には敵わないが、なんたって自分は“翻弄者”。そこらの人間を落とすような笑みを作るのは容易い。ただしその笑みは、上辺だけだと彼女にはすぐに悟られるけれど。
     ゆっくり手を伸ばせば、ひっ、と息を飲む声が聞こえた。でもまあ仕方ない。無視だ、無視。
    「じゃあ、もう、勝手に取りますね」
     だって彼女が素直に言うことを聞いてくれないのが悪いんだもの。
    「だ、だめっ! 本当に、今日だけは…っ!」
     にこやかな宣言に、掴まれている手をどうにか離そうともがく。
     けれど力の差は歴然。最後まで言い終わらない内に問答無用で引っこ抜いた。
     するるるる、と呆気なく抜けていく白いレースの下から現れる色白の肌。
     しかし、そこには見慣れないものがいくつも巻きつけてあった。
    「ああ……なんて、」
     痛ましい、と思わず呟きを落としてしまう。綺麗な指先に幾重にも巻かれた包帯。どれほど今日のために頑張ってくれたのだろうかと思えば愛しさで涙が出そうだ。
    「っだから見せたくなかったのに!」
     そんな心の内を知らず、無理矢理手袋を取られた彼女は不機嫌だ。眉を吊り上げ、今にも舌打ちをしそうなほど。しかし、手を離せ、と言わんばかりに引っ張るその目に浮かんでいたのは暴かれたことの怒りよりも悲しみの色が濃かった。
    「……こんなの、みっともないから見せたくなかったのに…」
    「いいえ。いいえ、蛍。見損なわないでください。貴女の子犬はどんな貴女でもみっともないだなんて思いませんよ。まさか、まだ分かっていなかったんですか?」
     それにね、と見上げながら包帯だらけの指先に唇を這わす。
     分かってるけど、と小さく呟いた彼女はもう怒ってはいなかった。その証拠に眉も目尻も下がっている。
     だけれど、拗ねてはいるらしい。唇を尖らせ、頬もぷっくり膨らませていた。
    「ねえ蛍、貴女がみっともないと言ったこの手、この指先、とっても美しいですよ。……他でもない僕のために頑張ってくれたんでしょう?」
     くてん、と肩を寄せてきたということはその通りなんだろう。蛍の頭にもひとつ、キスを落とす。
    (本当にいじらしくて、愛しくて、もう手離せないや。僕の蛍、僕のエミリー…)
     しかし、愛しさをそのままに伝えたくて顎を掬えば、ばちっ! と唇を手で覆われてしまった。
    「んもう! 恥ずかしい言い方しないで!」
    「おや、では他にどんな言い方をすれば?」
     だからって、とぽかぽか胸を叩く軽い拳に笑みが溢れる。これは上辺だけじゃない、本心から溢れる笑みだ。
     そして彼女のかっかと赤い頬はほら、照れている証拠。
    「だって蛍…お菓子なんて貴女、貰うことはあれど渡すなんて今までなかったでしょうに。しかもまさか手作りだなんて!」
     そんなことない、と言い返してくる声はしかし、小さい。
    「……そ、それぐらい…あるもん」
    「へえ?」
     お菓子ぐらいいつだって作れるもん。
     そう付け加える声もまた小さかった。恐らく、出来合いの菓子…もしくは作ってもらった菓子を包んだ程度を“作った”と言い張っているんだろう。その証拠に、いつもまっすぐ見つめてくる目が泳いでいる。
     けれど、その誤魔化しきれていない小さな虚勢がいじらしくて仕方ない。
    (─ああ! もうだめだ我慢できない!)
     がば、と体全体を腕に閉じ込めて頬を擦り寄せる。
    「貴女は本当にかわいくて困っちゃうな…」
     “翻弄者”をこんなにも翻弄するだなんて、貴女以外に出来ませんね。
     くすくす笑って耳をぱくり。
    「ふ、やだっ! なにするの! もうっ!」
     擽ったがって身を捩るその顔に笑みが浮かぶ。ずっと入っていた肩の力もようやく全部が抜けて、くったり寄りかかってくれた。


    「…あの…、イソップくん……」
     何分経っただろうか。ひとしきりじゃれたあと、蛍がなにか言いたげに見上げてくる。
     …そろそろ、聞いてもいい頃合いかな。
    「ええ、蛍。…本当は?」
    「……うちの、メイドに………」
     緩いウェーブのかかった金糸を指先に絡めながら聞いた呟きをまとめると、こうだ。
     ─バレンタインなどと浮かれた行事は今まで贈られる側だった。なにしろ、なにをしなくても大量に、勝手にチョコだの宝石だのがやってくるのだ。出来上がる山々に毎年辟易していたらしい。
     …だけど今年は違った。初めて自分も、その“浮かれた行事”に参加してみようと、参加してみたいと思ったのだという。それはひとえに“翻弄者”と世間様に呼ばれる恋人の存在が大きかったそうだ。─つまりはそう、僕のこと!
    「…だって、喜ばせたかったんだもの。あなたのことを」
    「蛍…」
     ああ…ああ! なんて! なんてことだ!
     恋人冥利に尽きるとはまさにこのこと!
     嬉しくて顔を近づければ、心得たように目を閉じて受け入れてくれる。
     離れた唇にふふ、と笑ってすっかり寛いだ様子の彼女はしかし、小さな見栄だけは張り続けるつもりらしかった。
    「だからね! その…、つ、作り慣れてはいますけどね! …念のため。そう、念のため! マーサに…確認を……」
     マーサとは最近できた彼女の侍女だ。
     どんなに隠していても僅かに煙る硝煙と隙の無さ。一に蛍、二に蛍、三四も当然蛍だが、主の慕う方なれば、と五番目には僕を据えている。これ以上ないほど忠実な侍女。
     しかし勿論、愛しの蛍につく者として簡単な調査はさせた。当たり前だ、万一があれば困る。多いに困る。
     そうして、イライから届いた報告書には銃を主に、ナイフの扱いにも長けた女性だということが分かったのだ。恐らく同業、もしくは似た職歴をもっているのでは、と踏んではいるが─それ以上調べるのはやめにした。マーサの全てを知っているはずの蛍が全幅の信頼を置いているから。僕に出来るのはその信頼を信じることだ。
     まあ、そもそもの話…、危険な者が身内に近付くことを蛍の属する劇場のオーナー─あの妖艶な華が許しはしない。実際のところ、それだけでマーサの信用は充分だった。それでも調べたのは僕自身が安心したかったからに他ならない。
     …それになにより。
     僕には敵わないが蛍の熱烈なファンであるらしい。まったく話のよく分かる侍女だ。できれば今後、僕らの蛍の素晴らしさについて語る席を設けたいと思っているが、まだ機会に恵まれてはいないのが残念でならない。
    「…確認?」
     素晴らしいその侍女は蛍の頼みを謹んで受けるだろう。確認とは言うが、菓子作りを付きっきりで手伝ってもらったに違いない。
    「み、見守ってもらっただけだもん…」
     頷きながら言う彼女が一番分かっているはずだ。目がまた泳いでいるし。僕にはそんなの通用しないと知っているはずなのに、今日はその見栄を押し通すつもりらしい。
    (まあ、そんなところもかわいいんだよなあ)
     蛍はきっと今後もお菓子を作り続けるだろう。確認という名の手伝いが要らなくなるまでは、絶対に。
     今回、恋しい相手(何を隠そう、この僕のことですが!)への菓子作りに悪戦苦闘したことは彼女に火をつけたに違いない。良くも悪くも蛍は自分に厳しいのだ。
     …僕としても既製品だけでなく、この世に二つとない彼女の手作りが食べられるのは喜ばしい限りではある。
    (でも、怪我が多くなると話は別…)
     僕だけのエミリーならば構わない。
     いや、怪我をすることは宜しくない。しかしそれもこれも全て僕のために頑張ってくれた結果と考えれば嬉しい、と思ってしまうのもまた事実だ。
     ただ、彼女は“みんなの蛍”でもある。歌姫エミリー、その人だ。いくら手袋で隠せるとはいえ、傷を増やすのは対外的に見ても良くはない。
    (彼女を誘拐し、僕を挑発する輩ですらその辺りの機微を分かっているというのに…)
     当の本人が構わないのはいささか困りものだ。
     どうすれば彼女の見栄を守りつつ、怪我を防げるか。むむ、これは難しいぞ。
    「…蛍、次に作るときは僕がその確認をしても?」
    「え、ええ? やぁよ、そんな…」
     あなたのために作るのに、と続く小声も含めて予想通りの答え。
     無意識なんだろう。きゅ、と指先を握りしめる。…まるで怪我を隠すように。
    「そうですか…。それなら仕方ないですね……」
     ああ、見たかったなあ。きっとエプロン姿も様になっているんだろうなあ。
     そう言いながらしゅんと項垂れて見せる。彼女がこんな僕にも弱いと知っているから、わざと。
    「ちょ、ちょっと待って! だって見たって面白くもなんともないでしょう!」
    「いいえ、いいえ、分かってませんね蛍。ただ見たいんです。僕のために作ってくれる貴女の姿を……!」
     よよ、とまるで泣いているかのように俯けば目に見えて蛍は慌て始めた。やだ、そんな、これぐらいで、とおろおろしている様子がとてもかわいい。
    (よし、引っ掛かった!)
     ちょっとずるい気もしているが、それはそれ。菓子作りに励むエプロン姿を見たい気持ちに変わりはないから嘘はついていない。
    「それにね、蛍…」
     僕を置いておけば良いこともありますよ。
     頬を擦り合わせながらぽそり、呟けば、擽ったそうに身を捩る。
    「良いこと? なにかしら、それって」
     蛍はくふくふ笑って僕を覗き込む。うんうん、良い食いつき具合だ。
     それはね、と蛍を指す。次いで自身を。
    「貴女が指示して、僕が作業するんです。ほら、クリームを泡立てたり、湯煎する前に細かく刻んだり、大変でしょう? 貴女の言う通りに動くんだから、貴女が作ったも同然では」
     そして僕はこれでも手先が器用だと自負しているし、菓子作りなんかもまあ、それなりにできる方だ。
    (我ながら良い考えだ)
     そう思っていたが、さっきまで笑っていた蛍の顔は一変。まるで能面でも被ったかのように表情が消えてしまった。
    「ほ、ほた、」
     ─まずい。たぶん、これは間違えた。
     慌てて頬に手を伸ばすが、容赦なく叩き払われる。
    「……ようく知ってると思うけど」
     どん、と強く強く胸を叩いて僕の膝から降りていき、高いヒールが床を鳴らした。カーペットを敷いているにも関わらず、鈍い音が大きく響く。
     ぽっかり空いてしまった膝の上が冷えて、寂しい。
    「…私は、」
     そしてニ、三歩、距離をとった能面が静かに振り返る。腰に手を当て、胸を張り、少し顎を上げて僕を見下ろした。
    「─私は蛍。世紀の歌姫と呼ばれている女よ」
     自分で菓子作りだなんて、そんな面倒なことしなくたっていいの。ただ頼めばいいだけ。代わりに作って頂戴、とね。
    「…でもそうしなかったの。私が自分で作ったの。作りたかったの。どうしてだか、ねえ、分かるでしょ………?」
     見れば、肩も腰も、全身が震えていた。能面のようだった表情は今にも崩れそうにくしゃりと歪んでいる。
    (─そうだ、そうだった。僕を喜ばせたかった、と)
     ふら、と立ち上がり、体の赴くまま蛍の前に跪く。
    「…ごめんなさい。貴女の気持ちを考えていなかった。僕のためだったのに、こんな」
     身勝手で酷い提案を、と呟けば、ぽとぽと滴が落ちては弾けていく。…蛍の目から、溢れたものだ。
    「心配させたのは悪かったわ。私だってちゃんと分かってる。怪我をすることは“蛍”にとって良くないって」
     実力も勿論だけど、イメージ商売でもあるんですもの。
     そう言って小さく差し出された手を引き寄せれば、拒否せず大人しく腕の中に収まってくれた。たったそれだけのことに心の底から安堵する。
    「でもね、私、…“蛍”である前にエミリーだから。エミリーは自分で作りたかったの。あなたへ渡すチョコレートを。ごめんなさい……」
     蛍が、…エミリーが顔を押しつけた首筋が温い。珠のような水が染み、じわじわと広がっていくのが分かった。
     だからね、と彼女が呟く。
    「刻むのも湯煎も…気をつけるから、許してくれる? 私、またあなたに作りたい…」
     だって、好いた人にお菓子を作るのって考えていたよりとっても楽しかったんだもの。あなたが食べてくれることを想うだけで私、幸せだったわ。
    「ええ、ええ…勿論です…」
     背に回した手に力を込めれば、ふ、と泣きながら笑う彼女の気配を感じる。
     そして、本当に謝るべきなのは己だ。体面を気にして、彼女の気持ちを蔑ろにしてしまった僕。彼女に謝らせてしまった不甲斐ない僕。
    「エミリー…。僕のエミリー、ごめんなさい…」
     ぐりぐりと、同じように首筋へ額を押し付ける。ほろり、情けなくもこぼした涙はきっと彼女の首を濡らしているだろう。
    「エミリー、貴女の気持ちを汲めていなかった情けない僕ですが…、許してくれますか…?」
     脚をそっと撫ぜられ、ゆっくりと姿勢を崩す。所謂、胡座だ。その上にそっと体重を預けながら、温かい両手が僕の背に回る。
    「私の子犬、私のイソップくん。…まったく、しょうがない子」
     ぽん、ぽん。
     背中をゆっくり叩かれて、歌うように紡がれた自身の名に顔を上げた。
    「ほうら、泣き止んで。そして、情けないけどかわいいお顔を見せてちょうだい」
     背中から頬へと変わった両手の温かさが心地好い。
     額をこつり、合わせた先にあるのは宝石のように煌めく碧。それを縁取る睫毛は涙に濡れ、一層の美しさを増していた。
    「……いいわ、許してあげる。私のことが好きで好きでたまらないから心配したんでしょう?」
     こくん、と素直に頷けば頬をきゅっと摘ままれる。じゃあ、と笑う彼女の目尻はへなりと下がっていた。心底愛しい、と細められた目が語る。
    「それじゃあ…、ねえ、あなた。イソップくん。しょうがないからまた作ってあげる。だからそのときは一緒に居てね」
     私が怪我をすると泣いちゃう心配性の子犬がいるのよ。
     とってもかわいいでしょう、と囁く彼女は僕の目尻をぺろ、と舐めた。
    「でもその代わり……、うんとこき使ってやるんだから! とびきり美味しいお菓子を心配させないように作るためだもの、いいわよね?」
    「勿論です、エミリー。ぜひそうしてください」
     合わせた額のまま、どちらともなく唇を寄せあう。

     ─そうして静かに離れる頃。
     タイミングを見計らったように響いたノックの音と梟の声に、ふたりは顔を見合わせ微笑んだ。
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    ❤❤❤💘😭😍💉💉💉💒💒😭💘💖😭💘💞👍🙏💒💗💖💖💖🙏💕💖💘😭😍💖💒💒☺💯🙏🙏💘
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    Szme_me

    MAIKING先生の誕生日話だったやつ今夜、訪ねてもいいですか。

    エミリーがそう尋ねられたのは試合の真っ最中だった。
    「訪ねて…って…」
    すぐ隣にいるのは最後の一台を淡々と解読している納棺師。言葉を発した彼だ。
    空軍が上手く引き付けているおかげで通電までは難なく運べそうだった。もうひとりのメンバーである探鉱者には先に反対側のゲートで待機してもらっている。
    だから、たまたま近場に居たふたりで最後を回していたところだったのだけれど。
    「え、っと……」
    真意を測りかねて、返答に詰まってしまった。しかし、がたんばたんと暗号機を揺らしている姿は先ほどの言葉などまるでなかったかのよう。視線のひとつもくれやしない。真剣な眼差しで黙々と取り組んでいる。
    (もしかして空耳だったのかしら?)
    変に期待しちゃって恥ずかしい、と少し赤くなった顔を下げ、エミリーは口を結ぶ。
    (試合中なのになんてこと。集中しなきゃ!)
    最後の一台というのはとても緊張する。それまでが例えどんなに順調でも、一歩間違えれば形勢は一気に傾いてしまう。…マーサが頑張ってくれている分も、誤るわけにはいかない。
    「イソップくん、最後は」
    私がするからあなたもゲートへ、など皆まで 3357

    recommended works