いつからか、夜が来ることが怖いと感じるようになった。
真っ暗闇の世界に自分一人だけが取り残されたみたいで、心細さに泣いた日もある。
何に対して怯えているのか。自分でもよく分からないまま、涙はとめどなく溢れ出てくる。ぽろぽろと目尻から零れる涙は枕へと染み込んで、冷たい感触に体を震わせる。両腕で己の体をぎゅっと抱き締めながら、無理矢理まぶたを閉じ、まどろみの中へと落ちていく。意識をたゆたわせながら、終わりのない夜がいずれは自分から全てを奪っていくと、カガリはこの時本気で思っていた。
「姉さま、お体の調子が悪いのですか?」
「え……」
トーヤの気遣わしげな声に顔を上げれば、丸いふたつの瞳に心配の色が浮かんでいる。どうやら書類チェックの合間に意識を飛ばしていたらしく、手元に持っていたはずの紙がはらりと机に落ちていた。
これにはさすがのカガリも上手い言い訳が見つからない。それに聡いトーヤに嘘をついたところで、見抜かれてしまうのがオチだろう。常日頃から、体調管理には気を付けるよう口酸っぱく言っているのもカガリ自身だ。
時には素直に白状するのも大事だろうと、へにゃりと力なくほほ笑み肩を落とす。
「実はあまり眠れていなくてな」
「仮眠室でお休みになられますか?この後の予定はザラ一佐とヤマト准将がお見えになり、モルゲンレーテの方でシモンズ主任との打ち合わせが入っておりますし……」
「あー……」
トーヤの並べた予定の中にあった「ザラ一佐」と「ヤマト准将」という単語に、カガリは眉をしかめる。口煩く注意してくるアスランと、有無を言わせない表情を向けてくるキラが脳裏に浮かび上がってくる。体調の悪さをあの二人に隠し通せる気がしない。
「すまない。少し休んでも良いか?」
ここは素直に仮眠を取ろうと選択する。
「はい。時間になったら起こしますので」
快くうなずいてくれたトーヤに礼を言い、カガリは隣の仮眠室に移動する。首元のスカーフを取っ払い、上着はそのままによろよろとベッドの上へダイブする。ボフンッと派手な音がして、カガリの体を程よい硬さのマットレスが受け止めてくれた。
少しでも眠りたい……。
枕に顔を埋めながら、静かに目を閉じてみる。このまま意識が落ちてくれれば、と思うのに、生憎そうもいかないらしい。数分目を閉じてみて、眠気が一向に訪れる気配もないことに落胆する。
「くそー……」
ゴロンと寝返りを打ってみて、白を基調とした天井をぼんやりと見つめる。
まぶたを閉じると、思い浮かぶのは暗い世界にひとりぼっちになった自分の姿。
当然誰もいなくて、進むべき道も見つからなくて、ただただ呆然と突っ立っていることしかできやしない。
最初にその夢を見た時、単純に疲れが溜まっているのだと思った。日々酷使する脳と体に、限界の兆候なのかもしれないと、その日は少し早く眠りに就いた。なのに全く同じ夢を見て、挙句目覚めかけの間際に自分の体が炎で焼かれていたのだ。
悲鳴を上げながら飛び起きたカガリは、夢のリアリティさに驚き、段々と眠れなくなっていった。
「それでこのザマだもんなぁ……」
最初の頃は良かった。隈ができようとも、忙しいからと言い訳が立ったし、化粧で誤魔化すこともできていた。それが隈だけでは済まなくなり、あからさまに顔色が変わっていく。ミリアリアにもサイにもアスランには黙ってるよう箝口令を敷いたが、今日顔を合わせることはすっかり頭から抜け落ちていた。
互いのスケジュールはなんとなく把握しているため、アスランも気を利かせてメッセージだけにしてくれることは多々ある。それでも顔を見たい時には「見たい」と我慢せず言い合うし、メッセージだけでも元気が出る。カガリはアスランをも含めた自国民たちが幸せに暮らせる国を作りたく、日々勤しんでいるのだ。
そこに自分は含まれないのかと以前アスランから鋭い指摘を受けたことがあるが、やっぱり一番は国民で。分かりやすく不機嫌顔になったアスランを宥めながら、「おまえがいてくれるから、ただのカガリとしてもいられる時間があるんだ」と口にした時には、珍しく周りに花が咲いていた気がする。
「……アスランに、会いたいなぁ」
この後会えるのだが、そういうことではない。
カガリは「ザラ一佐」に会いたいのではなく、「アスラン」に会いたいのだ。もちろんキラに関しても同じで、「ヤマト准将」ではなく、「キラ」に会いたい。二人の顔を見たら、何となくもうあの夢も見なくなるんじゃないかと思う。根拠はないが、頼れる恋人ときょうだいはカガリにとって唯一無二の存在。
「だから少しでも、寝なきゃ」
心配をかけるわけにはいかないし、カガリとしても少しで良いから眠りたい。気持ちはこんなにも眠りたいと訴えているのに、体だけがそれを拒んでいる。
何度も寝返りを打っては目を瞑り、どうにかこうにか眠れないかと試行錯誤するも。
「駄目だぁ……!! 寝れん!!」
タイムリミットがくるギリギリまで粘ってみたが、結局カガリが睡眠を貪ることは全くできなかった。
「姉さま、少しはお休みできましたでしょうか?」
「ごめんな、トーヤ。実は寝られなかったんだ」
時間を作ってくれたトーヤに弁解をし、鏡で自分の顔を確認する。今朝見た時より酷い顔色をしている気がしてならない。
どうにか化粧で誤魔化せないだろうか。こんなふうに化粧をするんじゃないの、とミリアリアには叱られそうだが致し方ない。
「トーヤ、少し化粧を直してくる」
「はい。支度しておきますね」
「ああ」
仮眠室へと戻り、ミリアリアに教えられたテクニックを駆使して顔を作る。どうにかマシにはなったが、後は運だ。
あまりアスランとキラの顔をなるべく見ないように立ち振る舞おうと決め、トーヤを伴いモルゲンレーテへと向かった。
「きみは今すぐ帰れ」
「……」
顔をなるべく見ないように、なんて甘い考えだった。
モルゲンレーテに到着したカガリを出迎えてくれたエリカの後ろには、既にアスランとキラの姿が揃っていた。凛々しいオーブ軍服に身を包んだ二人が揃うのも、後少しの時間だ。キラはこの先カガリ主導で立ち上げた、「世界平和監視機構ーーコンパス」へと出向が決まっている。
今日はそのコンパスへと出資する、モビルスーツ関連についての事柄だったのだが。
目敏いアスランにいち早く顔色を見抜かれ、カツカツとわざとらしく靴音を立てて近付いてきた挙句、第一声が「帰れ」だった。
「え……? ちょっ、カガリ、顔色悪すぎない?」
アスランに続きキラまでもが気付き、カガリは完全に逃げ道を塞がれてしまう。エリカも気付いていたらしく、「もう言い訳はできませんわね」とどこか楽しげだ。
「す、少しばかり寝てないだけだ。帰るほどでは……」
精一杯の虚勢を張りアスランに対抗してみる。すると眉を吊り上げ鋭くなった緑の瞳が、異様な圧力を出しながら「へぇ……?」と細くなる。ぞわりと背中を駆け抜けていったのは明らかに恐怖感で、キラも背後で静かにうなずいている。目線だけできょうだいに助けを求めてみるも、きょうだいも首を横に振るだけ。エリカはカガリの味方になる気はなく、既にトーヤに話を振っている。
「うう……」
この場にカガリの味方はいないらしい。やはりアスランを誤魔化すのは至難の業だった。
「アスハ代表、お帰りになられますか?」
怖いくらい優しい笑みを貼り付けて物申してくるアスランに、カガリは「……はい」と大人しくうなずく。
「ではマシマ秘書官、シモンズ主任、アスハ代表を自宅までお送りした後、戻って参りますので」
アスランが振り返ってエリカに告げれば「今日はザラ一佐もヤマト准将もお帰りになって大丈夫ですよ」と諭される。
「しかし……」
言い募ろうとするアスランに、「ほーら、アスハ代表の体調が良くないんですから」と帰るよう促されてしまう。
「……僕もですか?」
「どの道カガリ様がいなければ話は進みませんし、ヤマト准将も今日はアスハ邸にご宿泊でしょう?ザラ一佐と一緒にカガリ様の子守りよろしくお願い致しますわ」
「むっ、私は子供じゃ……」
「良いじゃないですか。体調の悪い時くらい、恋人ときょうだいに甘えてください」
それじゃあ今日は解散です、とエリカに丸め込まれ、三人でアスハ邸へと帰宅することになった。
「じゃあ、えと、帰ろっか。カガリ、アスラン」
「ああ……すまないな、来てもらったのに……」
「予定は調整すればいいだけの話だ。それとカガリ」
「? なに……わっ!?」
アスランに名前を呼ばれたと同時に、体がふわりと宙に浮く。浮いた感覚も一瞬で、カガリの体は見事にアスランの腕の中に収まっていた。
「!?」
「キラ、車を回すよう手配はしたから、カガリの鞄を執務室に取ってきてくれ」
「うん」
アスランに言われキラが早足で駆けて行く。カガリが何か言うより先にアスランの指示が早かった為、大人しくするしかない。
それよりも、いまだ怒っている雰囲気を放つアスランの方がカガリには恐ろしかった。無茶したことを絶対に何か言われると身構えたが、アスランは黙って歩き始めるだけ。
「……?」
人の目が気になることよりも、アスランが何も言わないことの方が気になった。
「アスラン……?」
名前を呼べば、ピタリと立ち止まる。人通りの少ない道沿いに体を滑らせたアスランは、カガリを抱く手にぎゅっと力を込めてきた。
「……心配になるから、あまり無茶しすぎないでくれ」
額を緩く擦り付けられ、前髪同士が絡まる。擽ったさも感じたが、とても心配をかけてしまったのだと気が付いた。
アスランは昔から心配性だと思っていたが、こんなふうに泣きそうな声音で言われてしまっては心がズキズキと痛む。
不安にさせてしまったのだろうか。顔を、その綺麗な瞳を見たくて、柔らかな肌を包むように触れてみる。
「……アスラン、ごめん」
「……」
「……でも、その、寝付きが悪いんだ、ものすごく」
「寝付きが……?」
ようやく顔を上げてくれたアスランに、こくりと控えめにうなずく。きゅっとアスランの胸元を握りしめながら、紛れるように声を落とす。
「夢を、みるんだ……」
誰にも話せていなかった夢の内容を、するりするりと喉から零れだしていく。
胸の奥につっかかっていた何かが、ぽろりと剥がれ落ちていくみたいだった。
真っ暗闇の中で一人取り残され、涙が止まらなくなる。怖くて寒くて、誰もいない世界で自分を抱き締めるしかないのだと、だから眠るのが怖くなった。アスランに全て正直に話し終えた頃には、一段と抱き締められる腕の強さが増していた。少し痛いくらいに感じるのに、安心する温もりが涙腺にじわりと効いてくる。
「一人にさせてごめん」
「アスランが謝ることじゃないよ」
「いや、例え夢の中とはいえ、カガリを一人にさせてしまった俺に落ち度があるから」
「……真面目だな、おまえ」
厳しい顔付きで謝罪の言葉を述べるアスランに対し、見ているカガリの方が段々と落ち着きを取り戻し始める。
人は夢の中まで干渉できないのだから、アスランが謝る必要はどこにもない。なのに強い後悔の念を抱きそうな彼に、カガリは何か言おうと口を開いた。ーーが。
「だから、俺が添い寝する」
「…………アスラン?」
「今日はこの後なんの仕事もないし、きみが眠れるまで傍にいる。だから安心して眠ってほしい。そうとなれば善は急げだ」
「お、おい!?」
先程までの殊勝な態度はどこへやら。スタスタと出口に向かって歩き出したアスランは、合流したキラに会うなり「俺はカガリと添い寝する」ととんでもない発言を繰り出した。
当然キラは「はい!?」と素っ頓狂な声を上げ驚き、アスハ邸へと向かう車中内でアスランとキラによる堂々巡りが続いてしまった。
「アスラン一人じゃ心配すぎるから、僕も添い寝する」
「キラの添い寝はいらないだろ。な、カガリ?」
終いにはカガリ自身に答えを委ねてきたアスランに、「二人で添い寝してくれ」と頼むしかこの場を丸く収める方法はなかった。
「……服、皺になるぞ?」
一足先にベッドへと潜り込んだカガリの隣に、上着だけを脱いだアスランがいそいそと入ってくる。
「きみがきちんと眠れるようになるなら、構わないさ」
「大丈夫だよ、アイロンかけるし」
「そ、うか……」
事も無げに言うキラに、カガリは両手でシーツを口元まで引き上げる。
今になってなんだかこそばゆい。この歳にもなって添い寝してもらうなんて、幼い子供みたいだ。
キラもアスランとは反対側に腰を下ろし、ベッドに身を乗り上げる。二人共が寝転がり、身を縮めながらさり気なく顔を隠す。
「どうして顔を隠すんだ」
なのにアスランによってシーツを引っ張られ、呆気なく顔を晒す羽目になる。視界には自分を見下ろす二人の顔があり、どこを見るでもなく天井に視線を逸らしてしまった。
「カガリ、もしかして照れてる?」
「う、うるさいぞキラ」
くすくすと笑みを零すキラに悪態をつくも、「恥ずかしがり屋だねぇ、僕の妹は」と軽くあしらわれる。
今この場でいつも通り「私が姉だぞ」と反論したところで、威厳のなさに負けるような気がした。
だったら今日くらいなら、キラにも甘えてみたって良いだろうか。明日からはまたいつも通り、自分が姉だと言い張る元気も取り戻したい。
すっとキラの裾口を握り、「……今日だけは、妹でもいい」とつぶやいてみる。
一瞬驚いたように見開かれたアメジストの瞳はすぐに柔らかくなり、「うん」とカガリの指先を解きするりと手をつないでくれた。こうやってさり気なく寄り添ってくれるキラの優しさが、カガリは好きだ。
「俺は彼氏だからな」
キラにばかり向いていたら、今度は反対側からアスランが拗ねたように声を張り上げてきた。カガリのシーツをつかんでいた手をがっつりとつかみ、指先を一本ずつ絡めてくる。途中つーっとなぞられた時にはビクリと体が震えてしまい、思わずアスランを軽く睨み付けてしまった。なのに当の本人はむしろ嬉しそうにするだけで、カガリの方が面食らう。
昔はこんなふうに余裕のある表情も、あまり見たことがなかったのに。
いつの間にかグンと大人びた表情をするようになったアスランに、毎日小さなときめきを感じる。
カガリからもつないだ手に力を込めてみたら、分かりやすく表情が変わった。自分からのスキンシップ一つで、アスランがこんなにも喜んでくれるのなら。カガリも胸の内がぎゅうっと締め付けられ、心が温かくなる。
「……ちょっとアスラン、僕だっているんだからその甘ったるい顔やめて」
「カガリにだけ向けてるから心配するな」
「そういう問題じゃないってば!」
「じゃあどういう問題なんだ」
カガリの頭上で飛び交う言葉のやり取りに、気付けば笑いが込み上げていた。
両手につないだ手から伝わってくる温もりに、緩やかに眠気が訪れる。
子守唄代わりに二人の会話を聞きながら、カガリは優しい夢の中へと向かっていった。
もう暗くて寂しい世界に、ひとりぼっちにはならないと思えたから。
「しっ、キラ。カガリが寝たみたいだ」
「え……あ、ほんとだ」
キラと小競り合いをしているうちに、カガリがいつの間にか寝入ってしまっていた。すこぶる穏やかな寝顔に、深く安堵する。
どうやら一人になるような夢は見ていないようだ。
目の下に濃く刻まれた隈は痛々しく、アスランはつないでいない方の手で優しく触れた。
「……カガリ、もしかして寝られてなかったの?」
声を潜めたキラの問い掛けに、「ああ」と肯定する。
「夢の中で一人にさせてしまったみたいだから」
「……カガリは一人じゃないよ」
アスランの言葉を聞いたキラが、言い聞かせるように言葉をかける。慈しむような表情でカガリの髪をなでるキラは、妹を気にかける兄そのものだった。自分にはきょうだいはいないが、この二人を見ていると少し羨ましいとさえ思う。無条件で傍にいられる存在。無条件で頼ることのできる存在。
それが家族であり、きょうだいだ。
何度キラに酷い嫉妬をしたことか。それをキラ自身に向けることは決してないが、カガリにとっての自分の存在も、キラのようになれていたら良い。そのためにアスランは、日々努力を重ねている最中だ。
守りたい、今度こそ、身も心も、カガリの全てをーー。
「いい夢を……」
まろい頬をひとなでし、彼女のささやかな眠りが守られますようにと願った。