いってらっしゃい 衣擦れの音と、少しの怒気が孕んだ声で意識が浮上する。ゆっくりと目を開け、視線に飛び込んできたのは慌ただしく軍服の上着を羽織り、なにやら責め立てるように叱りつけているハインラインの姿だ。ノイマンを気遣ってか、声量は静かだが明らかにイラついている。気怠い体をもぞもぞと動かす。するとノイマンの視線に気づいたのかゆっくりと歩み寄ってくるのが見える。口を開け、声を出そうとした瞬間にハインラインは自分の人差し指を唇に近づけノイマンに見せる。喋るなということかと理解し黙るが、反対にハインラインは端末に向ける苛立ちを隠さない。なにやらトラブルらしい。今から向かうからさっさと解決に向けて動け!と端末に吐き捨てるように投げかけいた。
通話を切り、ふぅと一つため息を落としたハインラインはノイマンに手を伸ばすと、先程の怒声が嘘のような柔い声をかける。
「起こしてしまいましたか。うるさくしてしまってすみません」
さらりと濃紺の髪を撫で、申し訳なさそうに謝罪を述べる。ハインラインの手が気持ちいいのか、うっとりと目を瞑り答える。
「いや、寝すぎてしまったくらいですよ。よく眠れました」
「たしかによく寝てましたね。やはり昨日むりをさせてしまったせいでしょうか。体の具合は?起き上がれますか?」
そう。昨日は二人で盛り上がってしまったのだ。久しぶりに取れた二人揃った休日。翌日なんて気にしなくていい、と考えたら二人とも止まらなくなっていた。気怠い体なのはこのせいだが、体力の差を見せつけられたような気がした。何度制止しようとしても激しく求められ愛されてしまった、と思い出しては顔が熱くなる。
「大丈夫。動けるよ。ところでこれから格納庫ですか?今日は休日のはずじゃあ」
「申し訳ありません。アーノルド。部下から連絡があり、すぐに向かわなければなりません。」
まったく、なぜ私がいないとこうもバグが続くのか!と先程の怒りを思い出したかのようにつらつらと文句が止まらない。
「わかりましたから。早く行ってあげてください。んで、さっさと戻ってきてくださいよ」
ハインラインの柔らかな金髪に指を通す。名残惜しく頬を一撫でし、待ってますからと伝える。送り届けようかと思い立ったノイマンは扉に向かうハインラインの後を追う。
下着一枚で自分の元にやってきたノイマンを視界に入れたハインラインは手近にあった毛布を肩にかけ、まるで大事なものを隠すかのように包み込んだ。
「風邪、ひきますよ」
「そんなヤワじゃありませんよ。でも、ありがとうございます」
ハインラインの愛おしそうなものを見るようなその目、ノイマンは嫌いではなかった。むず痒くなるような感覚を隠すようにさっさと行け、と追い出すように乱暴に押し出す。
するとハインラインは思いついたようにノイマンに向きあい、凝視してきた。数秒見つめあったが、特にアクションを起こす様子は見られない。困惑したノイマンは首を傾げた。
「あの、なにか?」
「キス」
「え?」
「キスは、くれないのですか?」
「はい?」
「いってらっしゃいのキス、してくださらないのですか?」
「なんて?」
こいつは今なんて言った?キス?いってらっしゃいのキスだって?
「夫婦、または付き合ってるもの同士。片方が家を出る前にいってらっしゃいのキスをするという情報を得ました。なので、やるなら今が絶好の機会かと」
どっから得た情報だよ、とかなんで今?てか早く行けよ、とか思いつつもキラキラと期待の眼差しを向けられてしまえばやるしかない。
「わかりましたよ。仕方ないなぁ」
そう言い、ハインラインの肩に手をかけ、少し高い位置にある唇に触れるだけのキスをしてやる。
してやる、つもりだった。
「んぅ!?」
こいつ!舌入れやがったな!
すぐさま離れようとするノイマンだったが、いつのまにか腰に回されていた手で引き寄せられ、後頭部も逃げられないよう押さえつけられている。
唇を食むような優しいキスをしてきたと思えば、舌で歯列をなぞり、逃げる舌を追いかけ擦り合わせてくる。
腰に回されている手はいやらしく動き、後頭部で固定されている手は頭皮を撫で、地肌を滑る指の動きに快感を拾ってしまう。
まるでこれから情事が始まるかのようなハインラインの動きに戸惑い、口腔を犯されながらもこれ以上はまずいと、思い切り腕を突っ撥ねた。流されてたまるか。
「すみません。抑えきれませんでした」
「……っの!いってらっしゃいのキスで舌入れるやつがいるか!」
先程のキラキラと輝かせていた少年のような瞳はどこへいったのか。ノイマンを映すブルーの瞳の奥には情欲の火がチラチラと灯っている。なにを一人で満足気にしているのか。その恍惚な表情を浮かべる目の前の男を、さっさと行け!と怒鳴り部屋から蹴り出す勢いで追い出した。無情にもすぐさま扉を閉め、ロックをかける。そもそもここはハインラインの部屋だ。ロックなど意味は無いのだが、ノイマンの怒りは伝わるだろう。
ふむ、怒らせてしまったか?だがこれは予想以上に……。
「いってらっしゃいのキス、良いですね。次はおかえりなさいのキスをしてもらおうか」
そうひとりごちていると、目の前の扉が開く音がした。美しいグリーンの瞳がこちらを睨めつけている。頬が蒸気し、ほんのりと赤い。まさか扉が開くとは思わなかったが、いったいどうしたんだろうか。次に起こされるだろうノイマンの行動を観察することにした。やがて口が開きもごもごと動かしている。
「い、いってらっしゃい」
ぼそっと、ギリギリ聞き取れる程の音量で紡がれた単語を反芻する。いってらっしゃい。いってらっしゃい。いってらっしゃい?いってらっしゃいと言ったか?
ノイマンは言いたいことを言って満足したのか、その一言を発してすぐさま扉を締めてしまった。
「なかなかこれは、くるものがある」
予想以上の収穫に口元の緩みが抑えきれないハインラインは、そう呟き格納庫へと足を踏み出した。