操られてレイン様と戦わされるフィン君の話『――本日夜9時
禁じられた森 崩壊の崖で待つ』
そう書かれた紙を、レインは溜息と共に机の上に放り投げた。
手紙の内容は決闘申込だ。レインが神覚者となってから何度も送られてきたものである。たいていは、最年少で神覚者になったレインが気に喰わないだとか、自分の方が神覚者にふさわしいだとか、ただ単に力試しがしたいだとか、そういうくだらないものである。
レインだって暇じゃない。むしろ忙しい方だ。だからこういう決闘書のほとんどを普段は無視している。無視している、のだが――……しかし。今回のこの決闘申込書にはある〝違和感〟があった。
まず、第一に筆跡だ。
これが一番の不可解な点である。なんと、手紙に綴られている文字はよくよく見覚えがある――そう、弟であるフィンの文字とそっくりだったのだ。しかし、フィンがレインに決闘を申し込むなどとあるはずがない。
次に、手紙に残る微かな魔術の痕跡である。
そう、手紙には僅かながら魔術の痕跡が遺されていた。ほとんど消えかかっている痕跡を解いて再度組み立ててみるが、それが元はどのような魔術を作り上げていたのかはレインの頭脳をもってしても分からなかった。ざわ、とレインの心が騒いだ。
――ただの悪戯であればいいと思う。フィンの筆跡を真似た悪質な悪戯だと。その場合は犯人をとっちめて終わりだ。当然である。フィンに危害が加えられていないとしてもあろうことかレインに対してフィンをダシに使ったのだ。相応の制裁が下されるべきだ。――……しかし、自分が弟の書いた文字を見間違えるはずがないという確信めいたものもあった。
「……ちょっと出てくる」
同室のマックスにそう告げれば、「おや、監督生が夜遊びかい?」とからかい半分に言われてしまった。
「違う」
「はは、わかってる。でも、レインが決闘に応じるなんて珍しいじゃないか」
す、とマックスが真剣な表情になった。
「……何かあったのか?」
言外に「必要であれば力を貸す」と言われている。レインはマックスに首を横に振って見せた。
「大丈夫だ。大したことじゃねえ」
「ならいいけど」
何かあったら言えよ、と言うマックスに後ろ手を振ることで返す。そのままレインは寮の自室を出た。部屋を出る直前に時計を確認してみれば夜の八時半。手紙に書かれている時間にはまだ早い。ならば確認すべきことがある、とレインは脚を向けた。
まず向かったのは三〇二号室だった。
「俺だ」
扉をノックするとすぐさまマッシュが出てきた。トレーニング中だったのだろう。トレーニー姿だ。
扉を開けたマッシュは目をぱちくりとさせて「あれ」と口を開いた。
「フィンくんのお兄さん。てっきりフィン君が忘れ物を取りに来たのかと思いました」
「レインだ。……フィンは? 出かけてるのか、門限過ぎてるぞ」
「……フィン君は、今日はお兄さんの部屋に泊まるのでは?」
――そんな約束はしていない。確かに無邪気な淵源との戦いの中で兄弟仲を偽る必要がないと分かった後、週末はフィンがレインの部屋に泊まりに来ているが、今日はその約束の日ではない。約束を間違えたり忘れたりしているという可能性もない。レインがフィンとの約束を忘れるはずなどないのだから。
そう返しそうになって寸前でレインは口を閉ざした。しかし、その不自然な沈黙にマッシュは何かを感じ取ったらしい。
「フィン君に何かあったんですか」
マッシュの瞳がぎらりと剣呑な光を帯びる。この、無邪気な淵源を倒した少年が誰よりも友達思いであることをレインは知っている。
「何かあったと決まったわけじゃねえ。俺に任せて寝ろ」
「でも……」
「寝ろ」
「うう。はい」
しぶしぶと言った様子でマッシュが頷く。扉を閉める寸前、「でも」とマッシュが呟く。
「何かあったら絶対に知らせてください。僕、フィン君の友達なので」
弟はいい友達を持った。場違いにもレインはそう思った。
約束の時間、約束の場所。禁じられた森の奥にある崩壊の崖でレインを待ち受けていたのは一人の男子生徒だった。顔の痣は二本。ローブの模様からしてレアン寮の生徒である。レインは己の記憶を振り返ってみたが、この男子生徒とのなにかしらの出来事は思い出すことができなかった。思い出せるのは、恐らく同級生であろうということくらいだ。しかしレインの立場上こういった面識の薄い相手からも恨みを買うことはあるのでもうほとんど慣れているようなものだった。男子生徒はレインを崖の上から見下ろして言った。
「やっと来てくれたね、レイン。待ちくたびれてしまったよ」
もったいぶった話し方をする男だな、とレインは思った。
「御託はいい。……フィンに何をした」
「さあ? キミの弟君については僕と戦ったらわかると思うよ」
つまり、今は話すつもりはないということか。レインは杖を構えた。話すつもりがないならそのつもりにさせればいいだけのこと。レインはフィンが気がかりだった。人質に取られているのかもしれないという可能性は――未だ捨てきれないが――ないと考えていいだろうか。とにもかくにも早くこの目の前の男の口を割らせてフィンの居場所を吐かせなくてはならない。
「さっさと始めるぞ。時間の無駄だ」
「せっかちだね。じゃあいくよ――〝ブレイド〟」
男子生徒が魔法を詠唱する。その瞬間、月を背負った彼の背後に無数の剣が浮かび上がった。月光を反射する剣の切っ先は全てレインを向いている。
「――行け!」
男子生徒がその声と共に杖を振り下ろす。刹那、剣が瞬いた。鋭い切っ先がレインに向かって降り注ぐ。レインは咄嗟に地面を蹴って飛ぶと剣を避けた。
「見事!」
レインの動きに拍手が響く。男子生徒だ。決闘を申し込む手紙を送ってきた割には妙にふざけた態度――というよりは余裕のある態度だ。それがちりりと脳の端に引っ掛かる。しかしレインはそれを振り払うと杖を構えなおした。違和感も何もかも、目の前の男を伸した後に問い詰めればいい。今はとにかくフィンの居場所を吐かせることが先決だ――……そう考えた時だった。ふいに、死角である斜め後ろから気配を感じた。
「――……ッ?!」
レインは咄嗟に飛び退った。その瞬間、先ほどまでレインが立っていた場所に剣が振り下ろされる。男子生徒が顕現させた剣と同じものだ。その剣をレインに向けて振り下ろしたのは――……。
「フィン……ッ!?」
そう、フィンであった。しかし、様子がおかしい。いつもくるくると表情を変える顔には何一つ色が乗っていない能面のようだ。それに、なによりも、鮮やかな彩をしている瞳が暗く澱んでいる。明らかに正気ではなかった。レインは崖の上にいる男子生徒を仰ぎ見た。
「フィンになにをした!」
レインの剣幕にも恐れをなさず、男子生徒は「何も?」と肩を竦めてみせた。そうして、ローブの内側から何かを取り出して見せる。
「ただちょっと、僕の手伝いをしてもらっただけさ」
そう言って男子生徒がレインに差し出した左手の上には、何やら赤黒いものが乗っていた。よく見てみればそれは――脈打っている。レインは息を呑んだ。
魔法局にある厳重に保管された禁書の中の一冊。それに記された禁断の魔法。――相手の心臓を取り出して意のままに操る魔法。もちろん、禁術だ。禁じられた業である。しかし、魔法局によって厳重に管理されている者のはずだった。
レインは口を開いた。
「……禁術か」
「僕の父上は魔法局にツテがあってね」
そういうことか、とレインは舌打ちした。レインに逆恨みをしたこの男子生徒は、父親のつてを使って禁書を手に入れ、フィンに術を掛けたのだ。許されるべきことではない。――赦さない。レインがパルチザンを呼び出そうとした時だ。再びフィンが剣を振りかぶってレインに切りかかった。
「っ!」
技巧も何もないその動き。剣の重さに振り回されながら三度フィンが剣を振り上げる。レインは左手にパルチザンを召還するとフィンの剣を弾いた。キィン、と金属音が闇夜に響く。レインに剣を弾かれたことでたたらを踏んだフィンの、乱れた前髪の隙間から暗い瞳がこちらを見ていた。
「ッ、フィン! 目を覚ませ!」
叫びながらレインはフィンの剣を弾いた。その勢いをもろに受けたフィンが地面に倒れ込む。地面に倒れ込んだフィンがのろりとレインを見上げた。己を見る虚ろな瞳にぞっとする。
――レインがフィンを遠ざけていた時期のことを、思い出した。あの頃のフィンのレインを見る瞳は微かな期待と大きな絶望で濡れていた。その時のことを思い出していたせいで――一瞬、判断が遅れた。
「――〝ブレイド〟」
魔法の詠唱が聞こえた瞬間にはもう遅かった。崖の上からこちらを見下ろす男子生徒がぎらついた瞳で叫ぶ。
「兄弟もろとも死んでしまえ!」
その叫び声と共に無数の剣が放たれた。レインは咄嗟に地面に倒れ込んだままのフィンに覆い被さった。
――剣が二人の上に降り注ぐ。レインの、フィンを庇って覆い被さった背にも剣が突き刺さった。深々と刺さった剣が内臓を傷つける。げほ、とレインは血を吐いた。吐いた血がフィンの頬を汚す。生暖かい血をびしゃりと浴びてもフィンの虚ろな表情は変わらない。
「……けがは……、ない、な………」
レインはフィンの表情の動かない頬を撫でてけがを確認した。己が壁となって剣を受け止めたおかげでフィンに怪我はないようだった。よかった、と思った瞬間身体から力が抜け、レインは地面に倒れ込んだ。
「……まだ生きてるな。おい、弟! 止めを刺せ」
男子生徒の命令に、レインの身体の下からフィンがずるりと這い出る。フィンは周りの地面に刺さった剣のうちの一本を引き抜いた。右手に剣を携えたまま戻って来たフィンは、足でレインを転がして仰向けにすると腰のあたりに跨った。そのまま、両手で県の柄を掴んで切っ先をレインの喉元へ向ける。
傷は深く、出血も多い。レインはふ、と唇を歪めた。
「…………お前に、殺されるのも……悪くねえかもな」
それは本心だった。
神覚者の死亡率は極めて高い。それは最前線で戦う職業柄仕方のないことだ。有事の時には誰よりも先にかけつけて対処しなくてはならない。レインも己はベッドの上で平穏に最期を迎えられるなどと思ってはいない。――だから、最愛の弟に引導を渡してもらうというこの状況は、酷く甘美なものに思えた。
レインは目を閉じた。諦めたわけではないが、この甘美な夢に一瞬だけ酔ってしまいたい気分だった。
しかし。
「――……?」
いつまでたっても剣が振り下ろされる気配がない。不思議に思って目を開ければ、その瞬間、頬に何か温かい液体が降り注いだ。痺れる手で触れて確認してみれば――それは水だった。己に剣を突き立てるフィン越しに見える空は満月が浮かんでいる快晴だ。
見上げれば、フィンが泣いていた。変わらず澱んだ瞳で、しかしフィンは涙を零していた。男子生徒が喚く。
「何やってんだよ、早くしろよ! この、このっ!!」
男子生徒が左手の中にあるフィンの心臓を強く握りしめた。こぽ、とフィンの口から血が零れる。しかし、隷属の術を強く書けられたというのにフィンのレインに突き立てようとしている剣の切っ先はそれ以上進まない。
「――クソおぉぉっ!!」
男子生徒がフィンの心臓を潰さんがばかりに握りしめる。それを見てレインは焦った。己の喉元に突き立てられた剣先を、掌が切れることも構わず握りしめる。
「フィン、もういい、抗うな! オレを刺せ!」
このままではフィンの心臓が握りつぶされてしまう。術で作られた仮初の心臓とはいえ握りつぶされてしまったらどうなるかわかったものではない。しかしフィンの剣は動かなかった。ごぽり、と血を吐いて、涙に濡れた顔で――フィンは微かに笑った。その瞬間だった。
――ぐちゃっ。
男子生徒の手の中のフィンの心臓が潰れた。生々しい音共にフィンの細い体がびくりと跳ねる。力を失った手から剣が零れ落ちて地面へと音を立てて倒れた。まるで糸が切れたように芯を失ったようなフィンの身体が、レインの上に倒れ込む。
「……フィン?」
レインは己の身体の上に倒れ込んできたフィンの身体を揺さぶった。返事はない。閉じられた瞼はレインの呼びかけには開かなかった。
――ぶわり、とレインの身の内に怒りが沸き立った。
「――〝パルチザン〟」
もう動かないと思っていた身体が怒りで勝手に動く。レインはフィンを抱きしめたまま起き上がると男子生徒に向かってパルチザンを放った。何事かを叫んでいた男子生徒は、しかし放たれたパルチザンの山の中に消えて行った。
「フィン、フィン……ッ!」
腕の中のフィンを揺さぶる。やはり返事はない。心臓の音を確認するが、薄っぺらい胸にいくら耳を押し当てても何も聞こえなかった。心が暗く染まっていく。レインはフィンのことを搔き抱いた。その時だった。
淡い色をした蝶の形の魔力が、辺りに瞬いた。
一羽の蝶がフィンに留まる。