あなたのすべてを忘れたくない 忘れたくなかった。なにもかも、忘れたくなかった。彼のすべてを覚えていたかった。顔、体、声、言葉、匂い――ぜんぶ、ぜんぶ覚えていたい。忘れたくない。
それなのに、どんどん彼が遠ざかっていく。
最初に消えていく五感の記憶は声だという。実際、わたしは彼の声を思い出せなくなっていた。
一人で過ごしているときに、彼の姿を幻で見るのに彼はなにも言わない。幻覚ならなにか言ってくれればいいのに、彼はただ微笑むだけだ。その事実に気付いた時、最初はくしゃくしゃになるくらい泣いたのに、段々とその状況に慣れてきて、わたしも彼に微笑み返すしかできなくなっていた。
次に忘れるのは顔らしい。でもわたしは、彼の写真を持っていた。まだナタルがいた頃にミリアリアさんが撮ってくれた写真と、メンデルで回収された幼いころの彼の写真。その二枚をまず起きる時に見る。今日も一日見守っていてね、とムウとナタルにお願いして、日常を過ごすのだ。そして寝る前にも写真を見る。どうか夢の中で会えますように――そんな風に願いながら眠りにつくのが日課になっていた。
「忘れたくない」
(俺も)
なんとなく呟いた言葉に彼が返事をしてくれた気がした。もちろんただの気のせい。わたしの隣に彼はもういないのだ。
彼の遺した軍服を抱いて眠っていた。まだ彼の匂いが残っていて、まるで彼に抱かれているときの感覚にさせられる。でも段々と匂いが薄くなっていく。それに気付いた夜、わたしはもう涙すら流せなくなってしまった。
でも覚えている。まだ忘れてない。爽やかで、でも甘さもあって、なのに大人っぽくて――それが彼の匂いだった。わたしは、そのすべてが恋しい。
※※※
仕事帰り、市内の路地裏を歩いているとき、あるお店に出会った。そこから彼の匂いに近いものを感じて、ふらりと立ち寄ったのが始まりだ。
そこは、一人の調香師が開いた小さなお店だった。
「既存の香水もありますが、ご自身で選んだ匂いで調香もできますよ」
「選んだ匂いで……?」
そこでわたしは考えたのだ。ムウの匂いを再現して、香水にしてみるのはどうかと。
わたしは、調合を提案してくれた彼女に自分の願いを正直に伝えた。恋人の匂いを再現したいこと、まだ匂いを覚えていること、そして恋人はもういないこと。その話を聞いた調香師は、店のドアプレートをひっくり返してしまった。
「貸し切りです」
「良いの?」
「構いません。大切な香水ですから。じっくり作りましょう」
木のぬくもりを浴びるように感じられる店内で、わたしと彼女はじっくりと話し合った。出会ったときの話と彼の匂いについて聞かれ、わたしは機密は濁しつつ、彼との出会いを語った。そして、あの人の匂いはとても快活で、でも甘みをもった人だったと話すと、洋梨とグレープフルーツの香料をピペットでビーカーに移していく。それを透明感のあるガラス棒でカランカランと音を立てながら混ぜると、棒の先について液体をそっとムエットに落とす。すっと差し出されたムエットを右手に持って、左手を振れば、その軽やかな甘さが広がった。
「ムウ……」
「お気に召しました?」
「はい……」
出会ったばかりのころの彼の匂い。まだ、彼の恋人としての顔を知らないころの香り。それがそこにある。思わず涙が出そうになるのをぐっと堪えていると、調香師が静かに問いかけてきた。
「トップで大丈夫ですか?」
「ええ」
偶然の出来事でアークエンジェルに乗ることになった彼は、香水を持っていなかった。だから自然にうまれた匂いなはずなのに、どうして洋梨とグレープフルーツの香りで再現できるのかは良くわからない。
わたし自身、香水は持っていないし、使ったこともほぼない。だから知識もなかった。それを理解しているのか、わたしが少し返答に詰まると、すぐに調香師はフォローしてくれた。
丁寧なヒアリングは続いていく。続いてミドルの匂いを決めていくらしく、親しくなってからのムウについて聞かれた。
「彼は、とても大人な人だったの。自分だって大変なはずなのに、ムードメーカー的な役割も自ら務めてくれて。でもそれだけじゃなくて、とにかくとても頼れる人だったわ」
「なるほど、ミドルは少し軽やかさを落ち着かせましょう。ローズを使ってみますね」
「ローズ……」
思いがけないところで出てきたバラに思わず胸元のネックレスを意識する。いまではムウのことばかりを考えているのに、胸元に違う男の面影を残してるなんて、彼が知ったらどう思うのだろう。
「あなたと二人でいるときの彼は?」
「とにかく、甘くて優しかったわ。あと、わたしよりも歳上というのを実感するのは、二人で過ごしているときが多かったの」
率直に彼のことを話すと、調香師はバニラの香料を取り出して、ほかの香料と合わせて撹拌させる。彼女に問いかけられ、つい彼の人柄について話してしまった。これでムウの匂いが作れるのだろうか。
「少し手に出すので、首元に付けてみてください」
「ええ」
「どうですか?」
首元に香水を付けると、ふんわりと軽やかな甘みが広がる。なんとなく軽快に笑うムウの顔を思い出す。
ムウと出会ったころ、わたしは慣れない艦長職をこなすため、精神的にいっぱいいっぱいだった。そんなとき、救ってくれたのが彼だ。冗談を言ってくる彼に、わたしは怒ったり笑ったり――人間らしい感情を引き出してくれたことに感謝している。
「時間がたたないと分からないでしょうから、今日はここまで」
「え、ここまで?」
「そう。今日はもう閉店です」
そう言うと、カウンターのなかから調香師が出てきて、そっと出口へと誘導してくる。ためらいながらも、それに従うしかない。
「香水は時間経過で匂いの変化を楽しむものなんです」
「トップ、ミドル、ラスト……よね」
「そうです。今日は匂いを感じるのに専念してください。そして、次に来店する際、意見を頂けないでしょうか」
そう言うと、鳥のモチーフが描かれたショップカードを渡された。確かお店の看板にもクローバーをくわえた鳥が施されていたはず。このお店のモチーフは、もしかしたら幸福を運ぶ鳥なのかもしれない。
「次のご来店、お待ちしております」
「はい。またお世話になります」
お店を出て一時間半が経ったころ。自室で本を読んでいると、明らかに紙とは違う匂いがした。これが匂いの変化……そう関心していたが、大人の色気が感じられる華やかな香りが広がってくらくらしそうになる。
ムウが好きだと自覚してから、彼を見る目が変わった。軍服を着ていても分かる体格差にドキドキしたし、時々触れられたときには熱が集まるのが分かるくらい。それくらい、わたしは彼に恋をしていた。
さらに、そこから少しずつ匂いの変化を感じて、ドキリとする。恋人になった彼を思い出す香りは少しスモーキーで、でも優しい匂いが体中を包み込む。
本を机に置いて、自分自身の体をぎゅっと抱きしめる。涙がポタポタと溢れてきて、抑えたくても抑えられない。ムウに会いたい――その気持ちだけが、ただ押し寄せるようにやってきた。
※※※
次の日、わたしは再びあの香水ショップを訪れてた。ドアの前に立ち、改めてお店の外観を確かめる。昨日は勢いで訪れたため、しっかりと観察していなかったからだ。
わたしの記憶通り、やはり看板にはクローバーをくわえた鳥が施されていた。昨日貰ったショップカードをカードケースから取り出し、そこに描かれた鳥のマークをそっと撫でる。この子は、きっとわたしに幸運を運んでくれる鳥だもの。
ドアベルを鳴らし、店内に入ると昨日の調香師が今日わたしがここに来ると分かっていたみたいに出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「どうでしたか?」
調香師は間髪入れずに聞いてきた。手元には、わたしの来訪を予想してなのか、昨日のヒアリングシートがすでに置かれている。
「悪く捉えないで欲しいのだけれど、悲劇的なほどに完璧だった」
「……辛くなられる?」
「そうね。あの人のことを思い出しすぎてしまうから、普段使いはできないかしら」
昨晩わたしを襲ったのは、抑えられないほどの気持ちの波だった。彼に、ムウに会いたい――叶わない願いを抱えることほど辛いものはない。それが分かっているのに、会いたい気持ちが抑えられなかった。
彼の軍服を抱き、枕元には軍帽を置いて眠る。香水の香りは消えているはずなのに、まだわたしの周りを包みこんでいる気がして、ムウの気配を感じながら瞳を閉じたのだ。
「なら――」
「でも、彼を思い出して泣きたいときに使うようにするわ」
そういうときもある。喪った人はもう戻らないが、やはり忘れたくないものは忘れたくない。わたしがムウを覚え続けている限り、わたしのなかで彼は生き続け、笑いかけてくれる。
「分かりました。それでは昨日の調香をベースに、整えたものをご用意しますね」
「はい。お願いします」
香りのレシピは、このお店が有り続ける限り、保管し続けてくれるらしい。お店がもし無くなったり、遠くへ移転する際はレシピは譲るとまで言ってくれた。これでわたしは、彼の気配を香りから感じ続けることができる。
忘れたくない気持ちから焦りを抱えていたわたしは、調香師から渡された瓶を抱え、心の底から「ありがとう」という言葉を紡いだのだった。
※※※
――それから数年後。
「いらっしゃいませ。……あら?」
「ご無沙汰しています」
「ええ、ご無沙汰しています」
わたしは、久しぶりにあの香水ショップを訪れていた。大きな戦いを終え、オーブへ戻ってきて数日、ようやくある程度自由な時間がとれるようになったからだ。お店は相変わらず路地裏に暖かな光を灯していて、どこか戦いとは遠い場所のように感じられる。看板では、金色に輝くクローバーをくわえた鳥が微笑んでいた。
「そちらの方、……あの香水を?」
調香師は怪訝そうな顔で〝彼〟を見た。それもそのはずだ。わたしはあの日、亡くなった恋人の匂いを再現したくて香水を作った。それなのに、あれからわずか2年で、その香水を付けた男を連れて再来するなんて、ちょっとおかしいと思ったのだろう。
「彼なんです。あのとき、亡くなったと言っていた彼」
「え?」
「奇跡的に生きていて」
詳しい経緯は機密なので話せないと伝えると、わたしが軍属であることに調香師はひどく驚いていた。そして、目をパチくりとして、ムウを見る。クールな女性だと思っていたのに、今日の反応はどこか可愛らしさを感じさせた。
「今日はマリューの香水を作ってもらいに」
「そう。今日はわたしの香水を改めて作りたくて」
「……なるほど。もしかして、彼氏さんが?」
「彼女に贈りたくて」
「分かりました」
そう言うと、あの時と同じようにドアプレートをひっくり返してしまう。ムウは隣できょとんとしていたが「貸し切りなのよ」と言えば、わたしの肩を抱いて「それは助かるなぁ」と軽快に笑った。
「ムウ、変なこと言わないでね?」
「きみのこと、すべて知ってる俺が変なことを言うとでも?」
「だから不安なのよ」
そんなやり取りをしていると、調香師の視線が気になった。思わず振り返ると、あの時、ニコリとも笑わなかった調香師が小さく頬を緩めている。わたしも彼も首をかしげていると、小さく笑い声を上げた調香師がわたしに囁いた。
「幸せそうです」
「ええ、ありがたいことに。あなたの香水のおかげですよ」
「そんな……」
「本当に助けられました」
実際、ムウがいない日々を過ごすとき、あの香水に助けられたのだ。
職務中は使えないので、アークエンジェルにいるときは寝具に吹きかけて眠った。すると、彼と過ごした日々を思い出すかのような夢をいっぱい見られた気がする。それにありえないはずの未来の夢も――それがいまは現実になった。わたしは彼と再会し、ありえなかった未来を過ごしている。
「……それなら良かったです」
「あの時、調香してくださって、本当にありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
少し照れくさそうに笑う調香師は、このお店にぴったりな幸運の使者だ。きっとわたしのようなお客さんは、ほかにも訪れるのだろう。そのたびに真摯に向き合い、香りを作り出しているからこそ、あの調香ができた。そう、思えるのだ。
「あと、俺の香りの香水も追加で作ってもらうんだろう」
「ええ。あとちょっとだから」
「かしこまりました」
ムウのことは、もう絶対に忘れない。もう香りに頼らなくてもいいけれど、時には離れて過ごすときもあるだろう。そんな夜、ここで調香してもらった香水に包まれて眠れたら、きっとわたしは幸せな気持ちでいられるはずだ。だから追加で作ってもらうことにした。
香料の並んだカウンターに入った調香師は、ペンを持ち、あの時と同じように語りかけてくる。あの日のことがリフレインして、思わずムウの手を握りしめた。ムウはすぐにわたしの手を大きな手で握り返してくれて、思わずほっと胸をなでおろす。
「まずは、出会った時の印象をお聞かせください」
あの日とは違って、いまわたしの隣には彼が生きている。
おわり