ざまんざい(仮)規則正しく停めてあった自転車たちがガシャガシャと音を立てて将棋倒しになってゆくのを見て、ひよ里は閉口した。目の前の男が、何やら言葉になっていない怒声を上げながら蹴り倒したのだった。
ネタ合わせという名の一方的な罵詈雑言の最中の突然の奇行に、ただただ呆然とするしかなかった。自分は散々人に怒鳴り散らすくせにいざ反撃に遭うとその瞬間フリーズしてしまう、この上なく小物なひよ里だった。先刻まで散々男に向かって飛び出していた口撃はすっかりなりを潜めている。
「やってられるか、こんなこと」
目のすわった男が吐き捨てたその言葉に頭が警鐘を鳴らすが上手く反応できず、相変わらず言葉も出てこない。
普段よく回る口がパクパクと開閉し浅い呼吸を繰り返している間に、そこかしこに倒れた誰のものだかわからない自転車が、こちら目掛けて次々と飛んでくる。勝気なひよ里も、あまりの光景に何もできない。目を見開いてそれらを避けることに精一杯だ。
男との練習でよく使っているこの場所は、確か近くに交番があったハズだ。呑気そうなおまわりが自分たちのネタ合わせを横目に欠伸をしているのをしばしば見かけた。アイツに欠伸をさせているようじゃまだまだやと、まずはそのおまわりを笑わすことを近い目標にと設定していた。藁にも縋る思いで交番の方を見れば、やはり思い浮かべた通りのおまわりと目が合ったが、ヤツはあーあとでも言いたげな渋い顔でこちらを傍観するばかりだった。ひよ里は目を疑った。
「オイいつもの威勢の良さはどうしたよ!!この状況になんか面白いツッコミ入れてみろよオラァ!!!人に散々エラソーにしといてお前だって全然アドリブきかねーじゃねーかクソ女がよォ!!!」
これは一体誰だろう。ウチの相方はこない大きな声を出せるヤツではなかったハズだ。身長ばかりがヒョロヒョロと高く、なんとも覇気のない男だったのに。
こんなポテンシャルがあるのなら、そのエネルギーの十分の一でもウチとの漫才に回せや。こないなところでムダ撃ちしおって。やからお前はいつまで経っても上手くならんねん、こんハゲ!
やっと口を開いて頭に浮かんだ言葉そのままに怒鳴ろうとした瞬間、
「もうやめだやめ。お前、相方のこと人間と思ってないだろ。そんなヤツとこの先も組んでられんわ」
投げる自転車もなくなり気が済んだのか、男は呼吸を整えながらそう言い残して立ち去った。
———ああ、またやってしもうた。
遠ざかっていく男の背中を見ながら、ひよ里はへなへなとその場にへたり込んだ。繰り出せなかった反撃の言葉、男の最後の捨て台詞、苛立ち、喪失感、また振り出しに戻ってしまったことへの焦りなど、諸々の感情がひよ里の身体の中をぐるぐると駆け巡って、口からはハッ、ハッともはや嗚咽なんだか呼吸なんだかよくわからない空気が小刻みに吐き出される。
「大丈夫?」
頭上からの声に顔を上げれば先ほどのおまわりがこちらに手を差し伸べていた。ひよ里の行き場のない感情の矛先が、善良だがちょっとやる気のないおまわりへと向く。
「っさいわポリ公ハゲェ!!アンタさっきウチがやられとんの見とったやろ!?か弱い一般市民が暴力振るわれとるのになんで止めに入らんねん!!その制服はなんや!?コスプレか!?!?白昼堂々趣味全開でいいご身分ですなァ!!!」
ひよ里は差し伸べられた手をパァン!と勢いよく払いのけ、自力で立ち上がるとおまわりの胸ぐらに掴みかかってヤイヤイと捲し立てる。
「だってキミ、いつもあの子に喋る隙も与えずに一方的に怒鳴り散らしてたじゃないか。そりゃ、いつかこうなると思ってたよ」
おまわりは可哀想になあ、と男が去って行った方向をに目をやりしみじみと呟いた。
可哀想。可哀想ってなんや。そんなん言うならウチのが可哀想やろ。毎日毎日死に物狂いで養成所通ってバイトして疲れてるのに寝る間も惜しんでお笑い番組見て芸人のラジオ聴いてエッセイ読んでネタ考えてツッコミの練習して隣人にうるさいと安アパートの薄い壁を殴られては蹴り返して。そりゃ、勉強がてらとはいえお笑いに触れている時間は好きだし、そもそも自ら進んで選んだ道だった。しかし、そうは言っても限度というものがあり、何であれ真剣に取り組もうとすればよほどの天才でない限りはそこには苦痛が伴う。多くの例に漏れず、ひよ里もまた天才ではなかった。
足りないものを努力でカバーして、こない必死で売れようとしとるのに、組む相方はどいつもコイツもウチのその切実さをわからんハゲばかり。人が血眼で考えたネタの台詞を飛ばすわ間の取り方を間違うわ滑舌悪いわ練習不足もええとこや。先ほどまで相方だった男にいたっては漫才がどうこう以前に遅刻常習犯だった。お前、ネタ考えとるウチより睡眠時間あるハズやろ。なんでそないルーズになれるんや。
早く売れたい。一人前の芸人になりたい。賞レースでのし上がって有名になって、バラエティとか出たい。
日に日に膨張していく野望、焦り、将来への漠然とした不安などなど。元来の短気でキツイ性格にそれらが上乗せされて、ひよ里は触れるものみな傷つける戦闘狂状態になっていた。
やくざなひよ里の相方は毎回聖人君子で、ひよ里がどれほど理不尽で傍若無人な態度をとっても低姿勢を崩さない。普通なら顔も見たくなくなるような罵倒を食らっても翌日にはニコニコと感じよく接してくれる気のいい人間ばかりだった。
にもかかわらず、そんな菩薩のような人間でさえ、ほとんど常時怒髪天の阿修羅の如きひよ里とは長く続かなかった。時に相方から、時に勢い余ってひよ里から(本心ではなかったものの)別れを切り出し、何度も断絶を繰り返していた。
先ほど突如豹変し愛想を尽かして去っていった、普段は温厚な相方。ひよ里のコンビ解消はこの度晴れて6度目となった。
「で、今度は何ヶ月続いたん?」
「••••••2週間」
座学の教室で窓際最後尾の座席にどっかりと腰掛け天井を仰いだまま虚脱状態のひよ里に、全てを察したリサが問いかける。いつもであれば威勢よく言い返すひよ里も、流石に気力がないのか素直に返答する。
「あんたほんと、いい加減にしやあよ」
「うっさいわボケ。ウチは悪うない」
断固として否を認めないひよ里に、リサは白けた顔で小さく息を漏らす。
ひよ里と組んだ歴代の相方がしばしばリサに泣きついてくるので、なんだかんだで面倒見のよいところもあるリサは3回に1回くらいは相手をしてやり、その度に愛読書タイムが削られているのだった。面倒なので早くおさまるところにおさまって落ち着いて欲しい。
「なあリサ、ウチと組まへん?」
「ここ入る時言うたやろ。あたしはピン一本や」
しかし手っ取り早い解決策であるひよ里のダメ元での誘いを、リサはばっさり切り捨てる。
同じ高校出身のリサは、一人が心細かったひよ里が強引に引っ張るようにしてここまで連れてきた気の置けない友人だ。
ひよ里としては元々リサとコンビを組みたかったのだが、リサはやるならピンがいいと、そこだけは徹頭徹尾折れてくれなかった。現在はキャッチーな配色のセーラー服姿(真顔)でキツめの下ネタフリップ芸を披露しており、案外おぼこいひよ里にはその笑いどころがイマイチわからない。密かにリサの気が変わることを期待もしたが、そんなリサに対する講師の評価は高く、着々と女ピン芸人としての地位を確立しつつあるのだった。
ならば養成所で他によき相方を探すしかないと意気込んで、現状のこのザマに至る。
「ならもうええ。ウチももう誰とも組まん。一人で成り上がったる」
なまじコンビにこだわるからこんな思いをするのだと、ひよ里は考えを改めることにした。一人であれば誰に失望することもない。自分で作ったネタのイメージと相方の言い回しとのギャップにもどかしさを感じることもなく、好きなようにできる。これからは自らの汗と涙の結晶であるボロボロのノートだけが相方だと、強い意思でピンへの転向を決意した。
「アンタにピンは似合わんけどな」
ひよ里の誘いには応じてくれないくせに、リサは無責任に忌憚のない意見を述べる。
そんなんウチかてそう思う。本当は誰かと楽しく漫才がしたい。けどしゃあないやん。
リサの言葉に今しがたの決意を挫かれそうになるが、まずはウチのピンネタを見てからものを言えと跳ね除けることでなんとか気持ちを切り替えた。
だがそこからの半年間、ひよ里は迷走に迷走を重ねた。
ある時は定番のフリップ芸、ある時は1人2役でボケとツッコミ、またある時は人形を片手に腹話術など披露した。自分と色違いのジャージを着せたマネキンを横に置いてみたこともあったし、やりたい芸風ではないなと思いながら女丸出しの嫌味なネタにも手を出した。
試行錯誤の甲斐はなくどれもスベり倒しで、笑わない観客についぞガンを飛ばし逆ギレの暴言を吐いたら劇場を出禁になった。
このやるせなさを、羞恥心を、共有できる存在が今はない。わかっていたことだがピン芸人は想像以上に孤独であった。そして、ひよ里はその孤独というものにめっぽう弱かった。
出禁を言い渡された日の帰り道、よく見かけるコンビがあれが悪かったあそこは良かったなどと仲良く反省会をしながら自分と同じ方向へと歩いていくのを横目に見て、流石のひよ里も打ちひしがれた。そうして頭に浮かんだのは、数々の元相方の顔。
ウチ、今まで傲慢やったかもしれんなァ
らしくないつぶやきが、心にぽつりと浮かぶ。
リサが聞いたら何を今更と呆れそうだが、それはひよ里にとってたいそう大きな変化であった。