ルシファーの盛大な勘違いについて4(終) ルシファーはホテルの一階にあるバーカウンターに座りながら、ぼんやりとラウンジの様子を眺めていた。ラウンジでは、恋人と娘がソファに隣合って座っている。
ただ、その雰囲気は穏やかではない。チャーリーはペンを片手に目を回しているし、アラスターはそんなビジネスパートナーを意地の悪い笑顔で眺めている。そしてその後ろでは険しい顔のヴァギーが、二人(正確にはアラスター)を見張っていた。
(可愛いな……)
可愛いと可愛いのコラボレーション。ルシファーはフワフワとした幸福感を味わいながら、その光景を肴にシードルを煽っていた。
真昼間からの飲酒を咎める者はいない。ここには悪い子しかいないのだ。バーテンダーは無言で差し出されたウィスキーを裏にしまい込み、ルシファーのシャンパングラスに冷えたシードルを注ぎ、ついでにチーズも出してくれた。
アラスターと初めての混浴したあの日。いつまで経ってもバスルームから戻らない恋人の様子を見に来たアラスターは、浴槽の底に沈んでいるルシファーを見付けて、たいそう驚いた。
逆上せて溺れてしまったと思ったらしい。滅多にない慌てた様子でルシファーを引き上げ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。具体的には膝枕をして団扇で仰いでくれた。ルシファーは後頭部に感じる太腿の感触を噛み締めながら、気遣わしげに見下ろしてくる恋人に胸をときめかせていた。
いつもはあんなに加虐心に溢れているというのに、ルシファーが溺れていたら心配してくれるのか。そして看病もしてくれるのか。新しい恋人の一面にルシファーはメロメロだった。ついでに股間もメロメロになった。絶対に知られてはいけないと魔法を使って隠したが。
そしてあれ以来、ルシファーは淫夢に悩まされていた。あの湯上り姿の──透けた湯着を身にまとったアラスターが、度々夢に現れてはルシファーを誘惑してくるのだ。お陰でティーンの小僧のように毎朝コソコソする羽目になっている。
(私って、こんなに性欲強かったか……?)
正直、最近の息子の敏感さにはルシファーも困惑していた。いくら欲求不満で淫夢の影響もあるとはいえ、四六時中ムラムラしているのはおかしい。
お陰で計画も進められずにいる。予定では、混浴に慣れた頃に服越しのペッティングを始めるつもりだった。だが、今の状態でそんなことをしようものなら、衝動のままことに及んでしまいそうだ。
ルシファーは恋人とセックスがしたいのであって、暴力を振るいたい訳じゃない。アラスターが望まない限り、関係を進めるつもりはなかった。
だから今まで一生懸命策を練ってきたのだが……
(それもこれも、アルが魅力的過ぎるから! えっち過ぎるから……)
ルシファーは昨夜見た夢のアラスターを思い出す。
透けた湯着をはだけさせて、ルシファーの膝に乗り上げて微笑むアラスター。ルシファーの腰を太腿で挟んで体を擦り寄せるアラスター。モフモフの胸毛をルシファーの顔に押し付けるアラスター。耳元で『抱いて』と甘く囁くアラスター。
「ぐぅう……っ」
ルシファーは衝動のままシャンパングラスをカウンターに叩き付けた。ハスクがビクリと体を震わせ、そそくさと酔っ払い(酔ってない)から距離を取る。
ここ最近のルシファーはずっとこの調子だった。そりゃあ、昼間のアルコールに逃げたくもなる。
今も娘と楽しそうに戯れているアラスターに、ルシファーの股間は反応していた。できれば視界に入れない方がいいのだろうが、可愛い恋人の姿に自然と視線が引き寄せられてしまう。ルシファーは自分の欲深さを悟られないように必死だった。
ラウンジでは未だに、チャーリーが頭から煙を吹き出しそうになりながら書類と睨めっこを続けている。アラスターの業務を手伝おうとしているのだが、細かい作業が苦手な彼女は早々に行き詰まっていた。アラスターはビジネスパートナーへ丁寧に指導しながら、たまに茶々を入れてはヴァギーから怒られている。
何度か似たような光景が繰り返され、とうとうヴァギーの堪忍袋の緒が切れたらしい。母国語で声を荒げる彼女に、アラスターが何事かを語りかけた。
途端に顔を真っ赤にしたヴァギーが槍を取り出したところで、慌ててチャーリーが止めに入る。それをニヤニヤ見守るアラスター。我が恋人ながら性格が悪い。
ルシファーが介入しようかどうか迷っていると、いつの間にか部屋から降りてきたエンジェルがいそいそと近付いていくのが見えた。はて、彼は面倒事に首を突っ込むタイプだっただろうか。ルシファーは首を傾げる。
投げ出された書類を確認しているアラスターの耳元に顔を寄せるエンジェル。すぐにアラスターの顔が歪んだ。また彼の嫌いな下ネタでも披露したんだろうか。
と、突然アラスターが顔を上げ、ルシファーと目が合う。ルシファーは反射的に笑いかけた。反して訝しげな顔をしたアラスターは、エンジェルとルシファーを交互に見遣っている。暫くエンジェルと話したアラスターは、書類を片手にこちらに向かって来た。
『ルーシィ、少々お話があります』
「えっ? 何だ?」
『こちらへ』
真顔で階上を指さすアラスター。ただ事ではない様子にルシファーは戸惑う。思わずハスクを振り返るが、無言で背を向けられた。ルシファーは赤い背に着いていくしかない。
目的地の分からない道中、アラスターは無言だった。喧嘩した時のような張り詰めた雰囲気に言葉をかけることもできず、ルシファーは処刑される罪人のような気分になる。
最上階まで上がり、到着したのはルシファーの部屋だった。最近はアラスターの部屋でもある。
入室し、鍵もきちんと閉めたところで、ようやくアラスターは振り返った。その顔は複雑な感情に彩られている。
『……ルーシィ。一つ確認したいことがあるんですが……』
「な、何かな?」
恐る恐る尋ねたが、アラスターは口を開いたり閉じたりを繰り返して、なかなか喋ろうとしない。
「アル?」
アラスターは応えないまま目を泳がせ、やがて躊躇いがちに口を開いた。
『その……そんなに、したいですか? ……私と……セックス……を……』
数秒、ルシファーの時が止まった。
──今、アラスターの口からとんでもない言葉が飛び出した気がする。
ルシファーは混乱しながらも尋ねた。
「……何で、そんなことを聞くんだ?」
『……前にも言ったじゃないですか。あなたは全部顔に出てるって』
「?? うん」
『だから、顔に出てるんですよ。その……したいっていうのが……』
ルシファーは目を見開いて固まった。
暫く言われたことが理解できずにいたが、次第に白い顔から汗が滲み出す。
「……いつから?」
『……押し倒されたその日からです』
つまり、最初からルシファーの下心は見え見えだったということだ。ルシファーは大口を開けて取り乱した。アラスターは追い討ちをかけるように続ける。
『マッサージの時から何か企んでるな、とは思っていました。ですが、変なことをしてくる様子はなかったので、好きにさせておこうと思ったんです。でも日に日に私を見る目が、ギラギラしてるというか……おかしくなってきてるのを感じて……そしたらさっき、エンジェルに言われたんです。その……あなたが……』
「……私が?」
『……猛獣みたいな目で私を見ている、と……』
ルシファーは頭を抱えた。本人だけじゃなくて周囲にまで悟られているとは。恥ずかしいなら情けないやらで爆発しそうだ。
『安心してください。チャーリーは気付いてないようですから』
「それは……良かった。うん……」
流石に娘にまで知られてたら立ち直れない。チャーリーだって親の性事情なんて知りたくないだろう。
『……それで? やっぱり、したい……ですか?』
ルシファーは顔を上げる。
いつもは眦を染める程度しか顔に出さない恋人が、頬を赤くして目を伏せていた。苦手な話題だからだろう、眉間に幾つも皺を作って、下唇を噛んでいる。
ルシファーは自然と答えていた。
「はい。したいですっ」
何故か敬語である。
力強い返答に気圧されるアラスター。
『そ、そんなに……?』
「したい」
『そう、ですか……』
アラスターは頬を引き攣らせる。一度大きく溜め息を吐いてから、重々しく口を開いた。
『……正直に言いますと、私はセックス……というか、そういったことがあまり好きじゃないんです。処理も最低限しかしたことがありませんし、誰かとセックスしたいという欲求も持ったことがありません』
「へっ?」
初めて聞く事実にルシファーの目が点になる。
『あなたの告白を受けた時も、想定していたのはキスまでで、セックスについては全く考えてもいませんでした。……ベッドに押し倒された時初めて、恋人とはセックスをするものだと思い出したんです』
俯き気味の恋人を唖然と凝視するルシファー。
ずっと、アラスターは初めての恋愛で、童貞で処女だから、セックスに羞恥や恐怖があるのだろうと思っていた。だから時間をかけて慣らしていけば、その内自然と本番を受け入れてもらえるだろうと思っていたのだが。
まさかセックスへの欲求自体がなかったとは、全く想定していなかった。
「……そんな罪人いるのか?」
『いますよ。あなたの目の前に』
ルシファーは宇宙を背負った。万年の生の中で、そんな人間初めて見た。
『でも、あなたはしたいんですよね?』
「うん……」
混乱しながらも体は素直なもので頷いてしまう。
アラスターは躊躇った様子で目を彷徨わせていたが、やがて意を決した様子で顔を上げた。
『分かりました。私も覚悟を決めます』
「え?」
『あなたがそこまで言うなら、しましょう。……セックス』
言下、ルシファーの体を喜びと興奮が駆け巡る。全身が急激に熱を持ち始めるのを感じながら、今すぐ押し倒したい衝動をなんとか抑えつけた。
「で、でも、アルはしたくないんだろう?」
『したくないというより、したいと思わないんです。そういった欲求が分からないというか……あなたのことは愛していますけど、その感情と性欲が結びつかないんです。ですから、嫌という訳じゃありません』
「無理強いしたい訳じゃないし……」
『……そんな顔で言われましても』
「エッ」
思わず顔をペタペタと触って確かめる。どんな表情をしているのかは分からないが、頬はやたらと熱かった。少なくとも興奮していることはバレている。
数十分前のチャーリーそっくりに目を回す恋人に、アラスターは溜息を一つ零した。
『……ルーシィ。あなたはいつも私に色々よくしてくれますよね。それは何故ですか?』
「それは当然、恋人に喜んでもらいたいからだ」
『私も同じです。あなたに喜んでほしいと思っているんですよ』
ルシファーは息を飲んだ。こちらを真っ直ぐ見つめてくる赤い目は揺れているのに、逸らされることはなかった。アラスターは小さく首を傾げる。
『喜んでくれますか? ルーシィ』
「……ああ、勿論。勿論だ。ありがとう、アル」
泣きたくなるほど愛おしい。ルシファーは涙ぐみながらアラスターを抱き締めた。腕の中の体はビクリと震えたが、抵抗はない。控え目に腕を回してくる仕草が可愛らしくて仕方がなかった。
ルシファーは吸い寄せられるようにアラスターのコートの下に手を伸ばし──
『……優しくしてくださいね』
思いっきり自分の顔面を殴った。