雨(うわ、まじか……)
電車の窓に映った俺の顔が不機嫌なときの凛みたいになっていた。つまりは、ものすごく渋い顔。そこそこ混雑している車内は外の天気に気づいた瞬間、湿度を増した気がした。
最寄り駅まではあと2,3駅。だけれど降り始めた雨は勢いを増すばかりでやむ気配はない。あと1時間、いや30分でも待ってくれれば良かったのに。同じ電車にとんでもない雨男が乗ってるに違いない。
(凛……その辺にいたりしないかな)
確か夕方には帰ると言っていた。もし傘を持っていて同じタイミングで帰るのなら入れてもらおう。そんなことを考えながら通話アプリを開いて文字を打ち込む。『いまどこ?』———返事は期待していないのですぐに閉じて、窓の外に目を戻した。
AIが勝手に選んでくる流行りの音楽が全く頭の中に入ってこない。凛は返事が遅い方だから下手をすれば帰り着くころに既読が付く可能性だってある。そう分かってはいるのに、俺はそわそわとスマホの画面を見てはポケットに入れるを繰り返す。
凛、無事に終わったのかな。今日は協会の偉い人と打ち合わせとか言っていた。時間通りに終わったならもう帰ってる頃だけれど凛の事だ、とんでもない暴言を吐いて会議が3分で終わるか、みっちり説教をくらって予定の3時間増しで帰れないかのどちらかだろうと想像する。出かけるときにはこの世の終わりかと思うほどどんよりとした表情で出て行った。人に会うのにそんな顔しちゃだめだろ、と諭しても無理やり笑わせた顔はこちらが引く程悲惨な表情だった。
凛はどうやら協会の広告塔に使われているらしい。日本サッカー界随一のイケメンで世界的にも名の知られた糸師凛を協会は引退後も離さなかった。金儲けと言われればその通りだけれど、凛にあこがれてこの世界に入る少年少女は今も後を絶たない。以前の凛なら「どうでもいい」なんて言って切って捨ててただろうけれど、あの凛も丸くなった。まぁ、今朝はシャワーを浴びながらバスルーム越しに「あのハゲ殺す」と叫んでいたのが聞こえたけれど。ちなみにハゲとは協会の会長ではなく、広告塔に推薦した実の兄の事だ。
最寄り駅に着き、改札を出る頃にダメ元でもう一度画面を確認すると、いつの間にか既読が付いていた。返事を待ってみる。けれど数分経っても反応はない。
せめて質問に答えろよ……とふと顔をあげた俺はどこかから生暖かい視線を感じる。
「……?」
ぐるりと見渡してみる。小さなコンビニと、スーパーと駅ビルの入口、そしてカフェが一つ。そのカフェの窓際の席にこちらを見てリスのようにもぐもぐと口を動かす凛がいた。
慌ててカフェに入りコーヒーを注文する。凛はこちらを目で追いながらも口の動きを止めない。
「返事しろよ」
隣に座った俺は開口一番に言った。
「念は送った。気づいたからいいじゃねぇか。忙しかったんだよ」
「食べるのがだろ」
「糖分取らねぇと無理」
よく見ると凛の目の前にはプリンとモンブランとココア。甘い×3の最強の組み合わせだ。プリンの皿は既に空で、モンブランを頬張った後にココアを飲んでいる。
「信じらんねぇ……」
「返事位でギャーギャー言うなよ」
「いやそっちもだけど、その組み合わせ」
「……やんねーから」
それでも、この凛の様子を見て俺は少し安心した。きっと大きなトラブルを起こすことなく終わったのだろう。
「てっきり説教かと思った」
「は?何の話だよ」
「凛が説教食らって帰れなくなったのかと思って」
「するかよンな事。文句は全部兄ちゃんに言った」
多分、俺の言いつけを守って気の乗らない協会の偉い人たちとの会議に真面目に参加したんだろう。ストレスで糖分を大量摂取したくなるくらいに。直接その場の人たちに不満をぶつけるのではなく、諸悪の根源(と凛は言っている)に申し立てるのなら、あの凛がなんと丸くなったことだろうか。涙が出てくる。
「そうだね、凛も大人になったね」
頭をわしゃわしゃと撫でた俺を一瞥して、凛は無言で残りのモンブランを自分の口に入れる。
あ、こいつ本当に全部ひとりで食べやがった。
「お前、傘持ってんだろうな?」
「え、凛は?」
「何のためにお前待ってたと思ってんだ」
……前言撤回、やっぱこいつ子供だ。潔と帰りたかったとか一言でも言ってくれれば、俺は即そこのコンビニで傘を買ってきてやったのに。
「じゃんけんだな」
突然繰り広げられる良い大人二人の本気のじゃんけんに周りの目が突き刺さる。数秒後、凛の悔しそうな顔がそこにあった。
それでも、凛が小さめのビニール傘を一本だけ買ってきた事に気をよくした俺は、右肩が濡れるのもいとわず、満面の笑みで帰路についたのだった。