被食さる希望「大将って、すごい美形だよな」
不意に芳子がそう言った。
底冷えする砂漠の夜のこと。小さな荒屋の、砂っぽい絨毯の上で一行は休息を取っていた。
緑郎は何やら出かけて、まだ戻らない。
ぼんやりと物思いに耽っていた正人は、咄嗟に何を言われたかわからなかった。
「そうは思わないかい」
「え」
飛び出した声は掠れていた。
「どうして、急に」
確かに、緑郎は美形だ。
学生の頃から、往来ですれ違う少女が黄色い声を上げることもしばしば。侮蔑の眼差しで少女らを青ざめさせる兄を冷酷と思いつつ、裏腹に安心していたのを思い出す。思い出したくない感情だった。長じては、生来の華やかな甘い顔立ちに悪魔的な魅力が加わり、老若男女を惹きつけるようになった。九割は彼の苛烈さに打ちのめされて去っていくけれど、残り一割は緑郎の熱烈な信奉者と化してしまう。彼の義父である三田村要造も一割の類ではないかと、正人は内心疑っている。
「いやぁ、実は今日『美形の日本人を探してる』って声かけてきた奴がいてさ。もしかして、と思って大将のところに連れて行ったらドンピシャよ。人探しの特徴にされるほどの美形って、そういないぜ」
「美形の日本人というなら、ボクは正人の方が素敵だと思います」
ルイが小さく異論を挟む。
「あの人を美形というなら、貴女の方が綺麗だし、ボクだって負けてないわ。まあ…ひとより見れるのは認めますけど」
「弟のあんたとしては、どう思う?」
「いや、その…恥ずかしい話、最近兄さんの顔を正面から見てなくて」
「アハハ!確かに、おっかないもんなあ!」
途方に暮れた正人がマリアを見ると、彼女は手元に目を落として
「華がある容姿だとは思いますよ」
と呟く。
「子供の頃は、さぞ可愛かったでしょうね」
脳裏に幼い日の兄が浮かぶ。正人と違い、緑郎は人見知りしない子供だった。周りの大人達に可愛がられ甘やかされて、ふわふわ笑っていたのを覚えている。
「おいで」
そして必ず正人を振り向いてくれた。
声変わり前の兄の声の明るかったこと。いつも正人を人の輪の中に導いてくれる手の、柔らかかったこと……そして、今やその手は剣だこで硬くなり、ささくれてしまったこと。
「兄さんは…小さい頃は『お人形みたいに可愛い』って評判だったな」
「へえ〜。大将にも子供時代があったんだなあ…」
芳子が感慨深げにため息をつく。そして、正人に向き直った。
「しかしその口ぶり、あんたは、あまり気にしたことなかったんだ。兄ちゃん相手にヤキモチ妬くこともなかったか」
と芳子が目を細める。
「なっ」
正人の頬が真っ赤に染まり、おかしいほどだ。
「だって、あんだけ美形ならさぞやモテたろ。好きな娘兄ちゃんに取られて、悔しい思いした事とかない?」
「そっ、そんなことないよ。僕は兄さんの交友関係なんて全然知らないんだ」
嘘をついた。
緑郎目当ての少女が、正人に近づいてきたことは何度もあった。そういう娘は大体美人で、正人は胸を乱されたものだ。
兄に手酷く振られる娘に、昏い喜びを感じる己を恥じたことは一度や二度ではない。
獣の感情は物心ついた頃には正人の中にあって、鎖に繋いで見ないふりをしてきた。
「ああいうの、もう取り次ぐなよ。迷惑だ」
いつかの夕方、玄関先で兄は言った。やけに夕陽の赤い日だった。靴を脱ごうと屈む兄を見下ろし、正人は「ごめん」と呟いた。その時も、声は掠れていた。
「でも、兄さんはひどいよ。せっかく女の子が好いてくれてるのに…綺麗な子だったじゃないか」
詰襟から、緑郎のうなじが見える。思わず喉が鳴った。緑郎の身体はしなやかな猫のようだ。
「フン。あの程度、僕が女装した方がよっぽどマシだろうさ」
そうだろうな、と正人も思う。緑郎ならば、この世のどんな娘より美しく化けるだろう。
夕焼けの赤の中で、兄の肌の白さが目に染みる。
靴を脇に避けて、兄は立ち上がった。正人の顔を見て、緑郎はニヤリと笑った。
「そんな顔するなよ。兄さんにヤキモチか?」
薄い唇が捲れ、鋭い歯が覗く。酷薄な、しかし絶世の。
(──魔性)
正人は首を振る。
緑郎は正人に手を伸ばす。彼はやけに嬉しそうに見えた。羨ましけりゃお前も強くなれとか、相変わらず的外れな説教を垂れながら、その両手は正人の髪をぐしゃぐしゃと撫で、頬をきゅっと抓った。
飼い慣らしたはずの獣が、正人の中で吠えている。喉が渇いた。兄の顔はすぐそこにある。手綱を離してしまいたい──あの唇に噛みついてしまいたい。
「ヤキモチじゃない」
俯いて答えると、緑郎は正人の肩をこづいて奥へ上がっていった。やはり機嫌が良いらしい。どうか振り返らないでくれと正人は祈った。
今の表情を見られたら、きっと言い逃れができないだろうから。
〇
大きな音を立てて、表戸が開いた。
芳子とルイが飛び上がる。「美男子のお帰りだぜ…やっぱり、おいらはあの人がおっかねえや」「シッ」ひそひそ話の二人を、マリアが横目に見つめる。
やがて緑郎が部屋に入ってきた。どうやら徒労だったらしい。彼はイライラと首を振り、荷物を床に叩きつけた。
ふと、四人の視線が緑郎に集まる。緑郎は違和感に目を上げた。常なら気まずく逸らされる視線が、話題が話題だったせいで誰もが緑郎の顔をまじまじと見つめる。
緑郎は大きな瞳をさらに見開き、顔を顰めた。
「なんだ、ひとの顔をジロジロ見て」
スッキリと通った鼻筋、小さく整った唇。全体に女性的な印象を引き締める、凛々しく男性的な眉。
緑郎が正人を見た。
「なんとか言えよ」
美しい男。
美しい、兄。
正人は、実の兄に恋をしている。
返事をしない正人にため息をついて、緑郎は芳子の方を見やる。
「大将は男前だなあって、みんなで話してたのさ」
緑郎は大袈裟に鼻を鳴らした。
「薄ッ気味悪い」
自分に向けられた悪態でもないのに、正人は小さく肩を窄めた。