【若イチ】地獄の底で楽しい鍋パ 地産地消、という言葉をご存じだろうか。俺は知らなかった。なんでも地域でとれた生産物を、その場所で消費することを意味しているらしい。なるほど確かに野菜は採れたてのものが一番うまいし、肉も魚も新鮮なままで消費者の元に届くのがベストだろう。運送のコストだって無駄にはならない。
俺がまだシャバにいた十数年前にはそんな概念無かったような気がするなぁ、いや単に世間知らずで知らなかっただけなのかもしれないが。そんなことをぼんやりと考えながら、俺は野菜売り場にずらりと並んだ旬のお野菜の前で立ち尽くしていた。
わざわざ仕事帰りにちょっと遠回りをしてまでこのスーパーに来た目的は、特売品の白菜と白ネギのためだ。どちらも困窮する我が家のお財布事情を助けてくれるヒーロー的食材であり、栄養価も満点。売り場のポップには丸っこい字体で『地元で今朝採れたばかりの新鮮な野菜です!!』と書かれている。
時刻はまさに夕方の買い物ラッシュの真っ最中。
狭いスーパーマーケットの中はご近所の主婦さんたちで溢れていたが、いつまでも突っ立っているわけにもいかない。人の波を縫うようにしてなんとか目当ての野菜をカゴに入れ、さらにタイムセールで安くなっていた鶏もも肉もゲットした。やったぜ。
迅速にお会計を済ませて店を出た俺は、ギコギコと変な音を立てる中古の自転車をこいで坂の上にあるアパートを目指した。いつの間にか日は沈んで、刺すように冷たい風が通り過ぎていく。寒すぎて、だんだん手袋をはめているはずの両手の感覚まで無くなってきた。東京育ちの身には、北国の寒さはどうにも慣れない。
この街に住み始めて最初の本格的な冬だった。東京では体感したことのない寒さに、毎日のように驚いては、その度に慣れ親しんだ土地から遠く離れてしまったことを思い出す。
傾斜のきつい坂を立ちこぎで登り切った俺は、戦利品を両手に抱えて、手すりの錆びた外階段を上っていく。そっと歩いたつもりだったけれど、カンカンカンと鳴る靴底の音は消せなかった。
このアパートは取り壊し間近で、現在の住民は非常に少ない。俺たち二人と、下の階に住む足の悪い老人と、真夜中にしか帰ってこない水商売の若者だけ。つまり必然的に、この足音は俺のものだということが家の中にいるあの人にも伝わったはずだ。
ドアの前に立って小さく息を吐く。寒すぎて頭が痛くなった。かじかむ手でポケットから鍵を取り出して、冷たいドアノブを回す。扉を開ける。
玄関からそのまま足を踏み出せば一歩でたどり着ける和室と、かろうじて備わっているオモチャのように小さな台所。笑ってしまうくらい狭くてボロボロのこのワンルームが、今の俺の城だった。
「若! 見てくださいこのでっかい白菜!」
「うるせぇイチ! どうせ今日も鍋なんだろうが!!」
バァンッ! とドアを開け放って開口一番、俺は先ほど手に入れたばかりの戦利品を頭上に掲げて勇者のように堂々と戦果を報告した。しかし俺の言葉にすぐさま反応した若は、不機嫌そうに顔を歪めて声を上げた。
極寒の夕闇から帰還したばかりの俺の目に入ったのは、ぬくぬくとした部屋でふわふわの上着をまとってコタツと同化している若の姿だ。コタツの天板の上には小さなノートパソコンだけが置かれている。その光景も、ちょっと猫背で机に向かっている姿勢も、明日の天気予報が流れているつけっぱなしのテレビも、俺が早朝に家を出たときとほとんど変わっていない。流石にこの人の運動不足が心配になってくる。
「つーかお前、声がデカいんだよ。早くドア閉めろ」
「す、すみません」
「しかもまた鍋とか……」
「不満ですか?」
「最悪だ」
「最高じゃないっすか、鍋。あったかいし美味いし。なんか問題あります?」
「問題しかねぇ」
そんな会話を交わしながら俺は部屋に上がり、若の背後を歩いて小さな台所に買ってきたものをドサリと置いた。とりあえず一服といきたいところだが、一度コタツに入ってしまったら絶対に抜け出せない予感というか確信があったので、コートを脱いでそのまま夕食の支度にとりかかった。と言っても、買ってきた野菜を洗って切って鍋にぶち込んで、カセットコンロをコタツの上に準備するだけだ。この部屋は狭すぎて、数歩で全ての行動が完結するから、ある意味では楽な作業と言えるのかもしれない。
冷たい水で野菜を洗い、いまだに慣れたとは言えない手つきでデカい白菜を切り刻んでいると、後ろから妙に沈んだ声で若が話しかけてきた。
「……なあ、一番」
「なんすか」
「そろそろ気が付かないか」
「何がですか」
「鍋だよ」
「はい」
「鍋、多くないか」
「そうっすか? 俺は毎日鍋パーティでも全然構いませんよ」
「テメェ俺との鍋パーティ今日で何日目だ?」
「えっと、五日くらい?」
「十日目だクソが」
若の吐き捨てるような台詞に、おもわず一瞬だけ手を止めた。マジか、いつの間にそんなにも時間が経過していたのだろう。己の自覚している時の流れが現実とズレていることにほんの少しビビりつつ、しかし俺は何事もなかったように野菜を切る作業を再開させた。
思い返せば確かに、楽で安上がりという理由で最近は鍋料理が続いていたかもしれない。日に日に寒くなってきて、温かいものを食べたいという本能的な欲求もあったのだろう。それに、俺としてはぶっちゃけ食べられるならなんでもいい。どん底の食生活を経験したことがあるせいで、俺自身の食に対するハードルはとことん低い。最悪、道端の草だって美味しくいただけるとおもう。まだ試したことはないけれど。
しかし今はコタツでふて腐れているこの人は、きっと俺とは全然違う。ヤクザの組長の息子、それから東京の都知事として生きたことのある人間だ。現状を考えると、ものすごい状況の変化だろう。きちんとした料理人が作った健康的な食事や、一流シェフによる名前を読み上げることすら困難なフルコースとか、そんなものを食べてきた人が十日間もの間、ヘタクソな鍋料理を食べ続けているのだ。苦痛を感じるのも当然、仕方ない。
「もう飽き飽きなんだよ、白菜も、煮た肉も、なんかデカいキノコも……!」
若は心底嫌そうな声でそう言った。
感情に語彙が追いついていないせいで、切実な訴えの割にはものすごく馬鹿っぽい発言になっていることを、気が付いているのだろうか。
ちなみになんかデカいキノコの正体とは、この地域の特産品である椎茸だ。東京のスーパーでお行儀良くならんでいた野菜とは違って、この辺りで採れた野菜は全体的にワイルドで、新鮮で、サイズもバラバラだ。俺にもっと調理スキルがあれば、そんな地元の食材を使って充実した食生活を提供できるのかもしれないが、料理初心者には難易度が高い。
文句があるなら自分で料理をすればいいのでは? 一日中家にいるのに?
若に対して、そんな至極当たり前でありきたりな疑問も浮かんだが、口に出すのことは出来なかった。立場と環境が変わっても身についてしまった習性は消えないというかなんというか。たぶん俺は若の車いすを押していた頃から、精神的に何も変わっちゃいないんだとおもう。
「アンタ、俺のこと家政婦かなんかと勘違いしてませんか。所詮、十八年間ムショ暮らしの元ヤクザですよ」
「くっ、正論で殴ってきやがって」
「料理なんて、コッペパンに焼き魚を挟んだものくらいしか知らなかったんすから」
いやあれは料理と呼べるような代物では無かったかもしれないけど、それでも俺の中で美味かったものランキング上位に食い込むことは間違いない。
「それは罰ゲームの話か?」
「また今後詳しく説明しますよ」
俺はそう言って曖昧に微笑んだ。全ての具材を切り終わったので、材料を積み重ねたボウルを持って、コタツの天板の上に置いた。不揃いにカットされたの冬野菜とぶつ切りの鶏肉を見下ろして、若は露骨に嫌そうな顔をしてため息を吐いた。
「テンション低いっすね」
「なんだろうなこの既視感」
「はい?」
「昨日も同じ会話をした気がするんだが」
「元気出してくださいよ。シメのうどんもありますから」
「いやそれも十日間続いてるからな」
「そうでしたっけ」
「夏はそうめんばっかだし、やっぱ馬鹿だろお前」
「いやいや、そうめん、うどん、冷や麦、みたいにローテーション組んでましたよ」
「太さ以外はほぼ同じ麺類だろうが」
「茹で時間とか結構違いますって」
「そんな話をしてるんじゃねぇ」
「大丈夫です、どれも合法的な白い粉から作ったものなんで!」
「非合法であってたまるか!」
いたって真剣な顔で若は言った。
四十を過ぎた大人とは思えないくだらない会話だが、昔よりもほんの少し饒舌になった若とくだらない話をしているこの時が、なんだかんだで俺にとって憩いの時間だった。
なんせ工場のラインで働いているので、一日中立ちっぱなし、ほとんど無言で過ごしているのだ。足は痛いし喋れない時間が長いから声の出し方も忘れてしまいそうになる。それでも、こんな自分が仕事にありつけるだけでも有り難いことだよなぁ、と俺は思い直した。この小さな街は昔から海沿いに工場が数多く立ち並んでいて、出稼ぎの労働者が多いのだという。それゆえに俺たちみたいな余所者も、なんとか居場所を見つけることが出来たというワケだ。
俺は買ってきた出汁のパックと野菜を鍋の中に投入して、火をつけた。この部屋に住み始めた頃は、ホームセンターで安価で買ったコンロがこんなに活躍してくれるとは思わなかった。もはやこのむさ苦しい男二人暮らしの城には、コタツとカセットコンロがない生活なんてあり得ない。
湯気が狭い部屋の低い天井に当たっては消えていく。俺が菜箸で適当にどんどん野菜をぶち込んでいると、それを見た若はぽつりと言った。
「お前の料理はとてつもなく雑だが、春菊を入れないところだけは評価してやる」
「シュンギク、ってどんなやつでしたっけ」
「葉の形が菊に似てる、香りの強い葉物野菜だ」
「ああ、なんかゴワゴワしてるやつっすね?」
「間違ってないとはおもうが、お前って変なとこで世間知らずだよな」
「水菜とか小松菜とかほうれん草とか、草でしょ全部」
「大ざっぱすぎる」
呆れた顔で若が呟いたので、俺はへへへと笑った。
普通の家庭という形からは完全に転がり落ちた場所で育ったせいか、こんなに生きてきてもまだ知識の偏りを感じることがある。最初から失っていたものを取り戻す気にはならないので、あまり考えないようにしているが。無いものを数えるよりも、いま手の中にある物をあたためて大切にする方が、俺の性に合っているのだ。
「鶏肉かぁ」
俺の手元をぼんやりと見ていた若が、ため息交じりに言った。
「なんすかその切なそうな顔」
「フグが食いたい」
「ふ、ふぐ?」
「まさか、知らないのか、フグ」
「いや、知ってますよ、あの、蒼天堀にでっかい看板が」
「食ったことはあるのか」
「大阪行ったときに食おうとおもったんですけどねぇ、ちょうど手持ちが少なくて……」
「一度もないのか」
「な、ないです」
「四十にもなって?」
「止めてください真っ直ぐな目でこっち見ないで!」
「可哀相だなぁイチ」
「どーせ俺は世間知らずですよぉ」
俺が困っている様子を見て、若はくすくす笑っている。なんだかこの人は、俺を苛めているときが最もイキイキとしている気がしないでもない。どれだけからかわれても、馬鹿にされても、若が楽しそうだと俺も嬉しくなってしまうので、感情の行き先はいつだって袋小路だ。
自分の中にある、この人に優しくしたいという気持ちはどこからやって来るのだろう。家族だから、友達だから、同じ時間を過ごしたから、それだけが理由ではない気がした。いつか自然と理解する日が来るだろうか。
俺と会話をしながらもキーボードのタイピングを続けていた若が一際大きな音をたててキーを弾き、それからパタンとパソコンを閉じた。大きく伸びをしている。
「何か良いことでもありました?」
「まあな、それなりに結果が見えてきた」
俺が工場のライン工として日銭を稼いでいる一方、若は日夜カタカタとパソコンに向かって株とかデイトレードとか仮想通貨とか、頭の悪い俺にはよく分からない何かを行っている。気になって一度聞いてみたことがあるが、まったく理解が出来なかった。
「その稼ぎで、フグでも何でも買ってきてくださいよ」
「いやまだだ」
「まだって何が?」
「お前、俺が説明したってどうせ理解出来ないだろ。時間の無駄だ」
「はぁ」
今日もまた煙に巻かれてしまった。まあ、アンタが楽しそうならそれでいいんですがね。そんなことをおもいながら、ちょうどいい感じにぐつぐつと煮えてきた鍋の中身を見下ろす。俺の単純な脳みそは、十日目の鍋だろうがなんだろうが、何度繰り返しても幸せだとおもってしまう。
火の通った白菜や椎茸をお玉ですくって、お椀を若に手渡した。色々と文句を言っても、結局は素直に受け取る若のことを可愛いとおもったのがバレたら半殺しにされるだろうな。
自分の分のお椀にも具材を入れようとしたその時、つけっぱなしになっていたテレビに見覚えのある姿が映って手が止まった。
それはありふれた音楽番組だった。新人発掘だとか何とか説明する司会者の横には、肩からアコギを下げた二人組が緊張した面持ちで立っている。ちょうど今から演奏を始めるところらしい。
「あ、」
「なんだよ急に」
「俺、コイツらが生で歌ってるの見たことあるんですよ」
「なんだ、歌手?」
「路上ライブ? とかいうの、やってたんですよ」
「どこで」
「伊勢佐木異人町のアーケードです」
「ふーん」
「すげえな、高見を目指すとか言ってたけど、本当にテレビにでれるようになってるなんて」
他人とは言え自分の知っている人間が夢を叶えようとしている瞬間を目の当たりにして若干興奮気味の俺とは違って、若はまったく興味がなさそうだった。そりゃそうだろうな。
俺はメシを食うことも忘れて、歌い始めた二人の姿に完全に見入ってしまった。
冬をテーマにした、静かなバラードだった。片方の男が優しい声で主旋律をなぞって、もう一人が透き通るような高音で声を重ねる。二人の声が揃って、合わさって、一対の楽器のような完璧なハーモニーを奏でていた。
こりゃ売れるはずだ、と俺は感動してしまった。音楽についてはよく分からないが、あのころ聞いていた音よりも、もっともっと研ぎ澄まされている。
二人の歌うバックには、横浜の街の映像が流れていた。伊勢佐木異人町の街並み、港から眺めた夜の海、ホテルの並ぶ綺麗な大通り、結局一度も乗ることのなかった観覧車。水と光の多い街だった。思い出すと美しい光景ばかりが脳裏によみがえる。もう会えなくなってしまった人に送る歌詞が、俺の心をぎゅっと歪めた。
「……帰りたいか?」
少し俯いて視線を落としたまま、若はそう問いかけた。
「まさか」
俺は言った。
そしてテレビのチャンネルをバラエティ番組に変えて、お椀によそった肉と野菜を食い始めた。
帰りたいなんておもうはずがない。今この瞬間が奇跡だということを知っている俺は。
腹をグサリと刺されて生死をさまよって、なんとか一命を取り留めたこの人が選んだのは『青木遼』として生きた時間をなかったことにすることだった。どうやら荒川真斗の名前を捨てた際に、万が一、本当の自分のことがバレたときに逃げ延びる方法はいくつも考えていたらしい。確かに、別人になりすまして生き続けるなんて普通は出来ることじゃないし、悪事が露見する可能性がゼロではない以上、出来る限り手は打つべきだろう。それにしても虎視眈々というか、用意周到というか。もっとぴったりな言い回しがあるのかもしれないけれど、いまいち当てはまる表現が見つからなかった。
俺がこの人の手を取った理由は、単純明快だ。
真っ白の病室で、たくさんの管に繋がれたこの人から、たった一度向けられた縋るような瞳。
それだけでもうノックアウトだった。白旗だ。
たぶん俺が少しでも厭うような素振りを見せたら、もう二度とこの人は自分の前に姿を現さないだろうと確信した。若に対する怒りや悲しみの全てが無かったことになったわけではない。罪を償うことなく逃げ出すことを止めない時点で、俺も共犯者だ。
それでも、絶対に、筋を通すべきだろうと。
俺がオトシマエをつけるなら、ここしかないだろう、と。
俺はその瞬間に、全てを理解した。
地獄の底まで付き合う覚悟を決め、捨てられるものは全て捨てて、こんな北の果てまでやって来た。この部屋の外で俺は春日一番ではないし、目の前の人も違う名前を名乗っている。真実はこのおんぼろアパートの一室だけに存在して、後はもう俺たちの存在した証なんて人々の微かな記憶の中にしかない。
後悔? んなもん犬にでも喰わせとけ。
この部屋で、安っぽいライトに照らされた若の頬が赤くなって、熱くなりすぎてボロボロ崩れる豆腐を不機嫌な顔で頬張っているその姿。そんな当たり前の日常を目の前で見ることが出来る、その奇跡。たった一人の、俺の家族。その人と生きてるってだけで、全部お釣りがくる。
ズ、と鼻をすすった。センチメンタルな気分になってしまったのは、あの二人が歌った唄のせいだけではないだろう。
「イチ」
「はい?」
「明日は牛肉が食いたい」
「いいですねぇ、じゃあすき焼きにでもしますか」
「いっぺん鍋から離れろお前」
死んだはずの人間と、今日も飯を食っている。
ここが地獄かどうか今の俺には分からなかったが、すくなくとも本日の鍋も美味い。