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    激重執着無意識巨大感情拗らせ元引きこもりズ

    【杉九】夜の帳はすり減って「……九十九君、ホントに大丈夫?」
    「ええ。まったく問題ありませんよ」
    「本当の、ほんとうに?」
    「杉浦氏ぃ、心配してくださるのはありがたいのですが、このやり取り何回目ですか?」
    「でも、うん、ごめんね」
     謝罪の言葉を口にした杉浦は、事務所のソファに並んで座る九十九をじぃっと見つめた。どうしようもない息苦しさを覚える。
     九十九の右頬には大きめなサイズの絆創膏がぺったりと張り付いており、そこからはみ出した口元は赤黒く染まって痛々しい。あきらかに暴力の痕が残る九十九は、黙り込んだ杉浦に対して困ったような顔で微笑んだ。
    「これはボクのミスでもあるのです。それに依頼の途中で怪我をするなんて、探偵としての誉れではないですか」
    「そんなとこまで八神探偵事務所に影響受けなくても……いや、やっぱり僕のせいだ。僕が不甲斐ないせいで、九十九君をキズモノに」
    「落ち着いてくだされ杉浦氏、妙な言い回しになっていますぞ」
    「うぅ、だって」
    「仕方がなかったのですよ」
     九十九は穏やかな声で今日の出来事を振り返る。まれによくある、不幸な一日だった。

    「一人暮らしの女子大生から、家の周りで謎の視線を感じるから調査をしてほしいと依頼があって、実際に調べていくうちに彼女の自宅周辺で下着泥棒が多発していることが発覚。現時点での警察の動きとしては見回りの強化のみということで、ボクらが張り込みで監視を続けた結果、依頼主の感じていた視線というのは下着泥棒とはまったく関係がなく、実は彼女を心配する父親のものだったことが分かったのですよね。過保護で心配性の父親は、仕事が終わると毎晩アパートの周りで彼女の行動を逐一チェックしていた。そして父親は、依頼遂行のためにアパートの前で彼女と会話をしていた杉浦氏を交際相手だと思い込んでしまった……まあそこまでは、よくある話なのかもしれませんが……うちの娘に何をしているんだと詰め寄った依頼主の父親、突然の父親の登場に驚く依頼主、そして、そのタイミングでまさか本物の下着泥棒がアパートのベランダから落ちてくるなんて、誰も予想できません」

     小説のあらすじを朗読するかのような淡々とした説明に、杉浦は頷いた。

    「うん。それで、パニックに陥って暴れる下着ドロから依頼主の女子大生を守ることには成功したけど、僕のことを彼氏と勘違いした父親がどさくさに紛れて殴りかかってきたのを、九十九君が庇ってくれたんだよね……あの男ホンットに」
    「いや、ですから杉浦氏、こうして何もなかったのですからいいではないですか」
    「何もなくないよ! 怪我してる!」
    「少し頬が腫れているだけです。お見苦しいものを見せて申し訳ないですが、数日もすれば戻ると思いますので」
    「そういうことを言ってるんじゃなくってさぁ」

     大きな溜息をついて、杉浦は首を振った。九十九が言葉を尽くしてくれているのは分かっている。警察へ下着泥棒を引き渡し、依頼主の父親からの誤解も解けて謝罪を受け入れて、ようやく戻ってきた事務所で同じような会話を何度もループしているが九十九は根気強く杉浦に付き合ってくれている。
     そもそもの依頼は彼が先ほど語った内容の通り、不審者の発見と依頼主の感じていた視線の原因究明だったはずだ。気を抜いた覚えもなければ、どこかに落ち度があったわけでもない。ただタイミングが悪かった。
     今日の己の仕事ぶりを省みて、ひと欠片でも油断があっただろうかと自問自答する。
     そんなものはなかった。最悪なことに、最善を尽くした結果がこれだ。ではどうすれば良かったのか、その答えが出ない。
     暴れる下着泥棒から依頼主を守るために彼女の体を抱き寄せた瞬間、後ろから人を殴るときの重く鈍い音が聞こえて、軽々と吹っ飛んだ九十九の姿を思い出して泣きたくなった。

    「そこまで重く捉えなくてもいいのではないでしょうか?」
     あくまで落ち着いている九十九の声に思考が打ち切られる。いつの間にか祈るようなポーズで指を組んでいたことに気がついた。
    「これは由々しき事態だよ」
    「ボクはこの程度の怪我ですみましたし、反省点もあることにはあるのですが……杉浦氏はどうしてそんなにも落ち込んでいるのです?」
    「それは、九十九君に申し訳なくて」
     そう言いながら、杉浦は視線を落とす。彼の顔を見ていられなかった。
     こんな仕事をしているのに傲慢な考えかもしれないが、九十九には常に安全な世界にいてほしいというのが杉浦の本音だった。
     痛みや怪我とは無縁の平和な場所で自分に指示を出してくれたなら、彼の手足となって何だって叶えてあげられるのに。そんなことを、いつだって真剣に考えている。
    「いつも言ってるじゃん、身体張るのは僕の担当だって。それなのに九十九君に怪我させちゃったから」
    「しかし、ボクは杉浦氏を守れて嬉しかったですよ」
     思ってもいなかった九十九の言葉に、一瞬理解が追い付かなかった。なぜか心臓が冷えた気がした。
    「嬉しい……って、なに?」
     杉浦は言った。思っていたよりも暗い響きの声が出たことに自分でもビックリした。
     顔を上げて九十九の瞳を見つめる。一瞬だけたじろいだように見えたが、すぐに平時と同じような声色で九十九は答える。
    「いつも杉浦氏には力仕事をお任せしていますし、ボクが荒事に巻き込まれないよう細心の注意を払ってくださっているのも感じています」
    「うん」
    「ですが、杉浦氏に殴りかかる依頼主の父親を見た瞬間、体が勝手に動いたのですよ。ボクは自分のことを、頭で考えてからしか動けない人間だと思っていたのに」
     甘やかな声で九十九は続けた。
    「それが、嬉しかったのです。無意識であっても自分は誰かを守れるのだと、そう思えて」
    「分かるような、分からないような」
    「杉浦氏は肉体派ですからね」
     九十九の言ったことはただの事実だったけれど、それが引き金になった。お飾りと化した前頭葉を通過して、感情がこぼれ落ちていく。

    「……それでも僕は、庇わないでほしかった」
     喉の奥から絞り出した情けない声が、静かな事務所に響く。九十九は分かりやすく悲しげに目を伏せた。
     思考よりも先に身体が最適解を得て、反射的に動いてしまう一瞬なら杉浦もよく知っていた。それでも、自分のような人間が九十九に守られる理由にはならないと思うのだ。きっと酷いことを言っていると分かっているのに、訂正する気にはなれなかった。
    「迷惑でしたか?」
     俯いたまま九十九は言った。違う、と言いたかったけれど上手く言葉にならない。そういうことではないのだが、とても単純なことなのに伝わらない。
     微妙な空気が二人の間に広がって、そのせいで間違いはより大きくなっていく。
    「だってこの事務所のブレインは九十九君なんだよ」
    「それは役割の話ですよね」
    「いやでもさ、九十九君さえいればどうにかなるのは事実でしょ」
    「だから、自分はどうなってもいいのですか」
    「そうは言ってないけど」
    「では、詳しく説明してください」
    「理詰めで追い込んでこないでよ……」
    「詰問しているつもりはありません、純粋に知りたいだけです」
    「えっと、だからさ、適材適所って言葉があるじゃん」
    「ええ、それで?」
    「そういうことだよ。それぞれが優先するべきなのは何なのか、って話」
    「……ボクが勝手なことをして、ご迷惑だったなら謝罪します、申し訳ありません」
    「違う、違うって」
    「謝罪も受け入れたくないと?」
    「あのね、九十九君」
     苛立ちが声に乗っていることをもはや隠さずに、二人は言葉を交わし続けた。
     浅い思考がどうでもいい答えをはじき出して、つぎはぎのような言葉を並べている自覚はあった。しかしもう止められなかった。
     九十九は指先が白くなるくらいぎゅっと両手を握り合わせていた。それを見下ろして、可哀想だなぁと思う。なんでこの人、さっきは殴られて、今はこうして難癖をつけられているのだろう、不憫だ。
    「九十九君が、そこまでする価値はないんだよ」
    「どういう意味ですか」
    「僕なんか、少しくらい傷ついたって構わないのに」

     そう言った瞬間、顔をパシッと軽く平手打ちされた。痛みなんか感じない、掌が触れるだけの殴打。
     あ、この人、案外先に手が出るんだ。こんなに賢い人なのにな。
     そんなことを、ぼんやりとした頭で考えた。
    「……避けられたでしょう?」
     明確な怒りをはらんだ声で、九十九は言った。その目が見たことのない強さで杉浦を睨んでいた。弱々しいビンタを避けようと思うのは確かに簡単なことだったけれど、意味が分からなくてそのまま受け入れてしまった。
    「避けれたけど。え、なんでそんなに怒ってるの?」
     九十九のめずらしい怒りの発露に、苛立ちを忘れて普通に聞き返した。神室町で出会った頃を含めてそれなりの期間を共にしてきたけれど、こんな形でネガティブな感情をぶつけられるのは初めてだった。
     杉浦の口にした言葉はさらに九十九の機嫌を刺激したらしく、その理由が分からない杉浦はますます混乱した。
    「いつだって杉浦氏は、そう……なのですね」
    「何それ。ちゃんと言語化してよ、九十九君もよく言ってるでしょ」
    「いいです、もう」
     そう言って九十九は立ち上がると、定位置である部屋の奥のパソコンデスクへと向かった。
     いつものように椅子に胡座をかくと、スリープモードだったPCが立ち上がる音が聞こえてくる。彼のご自慢の機械はすぐに複数のモニターに鮮やかな映像を映し、そのうちの一つが見覚えのある画面に変わる。どこまで続いているのか分からない、英字と数字と記号の羅列。杉浦にはその内容までは理解できないが、それがプログラミングと呼ばれるものだということは知っている。
    「仕事終わったら、今日は帰るって言ってなかった?」
    「ええ……」
     かろうじて聞こえる小さな返事に、再び腹の底からよく分からないどろどろとした感情が溢れ出すのを感じた。呼吸が浅くなる、思考がどんどん鈍くなる。ざらざらとした気持ちをぶつけるためだけに、杉浦は口を開いた。
    「ねえ、それって今やらなくちゃいけないこと?」
    「いえ、違いますけど」
     思いやりや優しさの欠片も含まない遠回しな言葉を杉浦が投げつけると、九十九も同じようなトーンでしれっと返事をする。
     沈黙。カチカチとタイピングをする音だけが響く。常ならば心地よく感じるはずの音が、今は無性に腹立たしくて下唇を噛んだ。
     どうして分かってくれないのだろう。大切なものは明確で、杉浦の優先順位も行動原理も、すべての矢印はただ一人に向かっているのに。
     何を考えているのか分からない他人なんか捨て置いて、二人だけに適用される約束の中で生きていければいい。血とか痛みとか暴力とかを飲み下すのは自分の方が向いているから、九十九にはそんなことをしてほしくなかった。ただそれだけの話だ。
    「……九十九君のばかっ」
     叫ぶのと同時に駆け出して、換気のために中途半端に開いていた窓から飛び出す。元引きこもりのくせに運動神経だけはいいので、これくらいの高さは余裕だった。おそらくそれを分かっているであろう九十九も、追いかけてくる気配はない。いや、同じように飛び出してこられても困るのだが。




     夜の異人町は春の隙間に落ちてしまったみたいに生ぬるい空気が満ちて気持ちが悪い。平和な街並みを駆け抜ける。どれだけ必死に走ろうと、誰も自分のことなんて気にしちゃいない。
     街の灯りが眩しいほどに何処にも居場所がないような錯覚に陥ってしまいそうで、人気の少ない道を選んで進んだ。
     目の奥が熱い。肺が悲鳴を上げているけれど、無理やり手足を動かして走り続ける。
     頭の中ではぐるぐると、九十九の口の端から流れ出た血の色や、地面に崩れ落ちて一瞬ピクリとも動かなくなった彼の手足の映像が浮かんでいた。
     九十九本人にどれだけ否定されようとも、やはりどうしても譲れないと思った。大切な誰かが傷を負うのが嫌だ。ましてやそれが自分を庇ってできた傷だなんて、受け入れられない。
     自分でもこれが心的外傷によるものだとは薄々気がついてはいた。それでも考えてしまうのは、最愛の家族が最期の瞬間、どんな痛みや絶望を抱いていたかという悲しい現実。理屈ではなく、自分が傷つくほうがいいという思いは消せない。
     九十九の優しさに慣れてはいけない。けれどもう、戻れないところまで絆されていることも分かっている。自分を相棒と選んでくれたあの人に、この手に掴める何もかもぜんぶ捧げたい。言葉にするとそれだけなのだが、何かおかしいだろうか。まあ、同性の友人に向けるにしてはヘビーな感情ではあるかもしれない。

     走って、走って、走って、海の見える公園まで辿り着いた。
     対岸の眩しさとは対照的に夜の海は化け物のように暗く、なにもかも飲み込んでしまいそうな迫力があった。
     空いているベンチに腰掛けて、乱れた呼吸を整える。海風が通り抜けて、すでにぐちゃぐちゃの髪がもっと大変なことになっているのを感じた。
     飛び込めたらいいのにな、と他人事のように考えた。短絡的に死にたくなる癖を止めたい。
     いつかは終わりが来るけれど、それは今じゃないだけ。そんな奇跡と地獄の紙一重を生きて、それだけで良かったはずなのに欲が出た。人と深く関わるってそういうことなのだろう。自分以外の誰かの人生を良い意味でも悪い意味でも、歪めてしまう。
    「……ああ、そうか」
     苛立ちの向こう側に隠し持っていた本音を掘り起こす。彼を守りたいのか閉じ込めたいのか、その境界が曖昧だったことに気がついてしまった。
    「僕が、悪いな……うん」
     あえて口に出して確認する。ただもうそれだけだった、何もかも自分が悪い。
     このままではいけないと分かっているのに悪い流れを止められなかった。九十九は八つ当たりに巻き込まれただけだ。優しいからそんなことをしないと分かってはいるが、見限ってくれてもいいのにと思った。
     帰らなくちゃ、はやく。
     頭の中で事務所のイメージが思い浮かぶのと同時に、よみがえった記憶があった。今朝、九十九と交わした会話の内容だ。
     事務所の冷蔵庫に貰い物のプリンがあるから、帰ってきたら一緒に食べようと話していたんだった。別にプリンが大好物だというわけではないが、そういう小さな約束が二人の間の空気をやわらかくする時間が好きだった。あのときの、平和で脳天気な自分たちの雰囲気を思い出してなぜだか涙が頬を伝った。なんでこのタイミング? そう思ったけれどぼろぼろと雫はこぼれ落ちていく。情緒がおかしい。
     ぐずぐずと鼻をすすりながら、星のない空を見上げる。落ち着いたら事務所に戻ろう。どんな覚悟を差し出せるかどうかは、まだ分からないけれど。




     いつの間にか深夜と呼べる時間帯になっていた。街頭に照らされた人通りの少ない道を、ふらふらと頼りない足取りで事務所へと帰る。外から見えた九十九課のガラスの向こうにはまだ明かりが灯っていた。そのことにホッとしたような、苦いものが込み上げるような、矛盾した感情を抱きつつ階段をのぼる。パルクールで鍛えた全身の筋肉を全力で駆使して、限りなく静かに足を進めた。
     辿り着いた事務所の中で、九十九はソファの上で丸くなって眠っていた。
     なにこの人かわいいな。そんな感想が勝手にわきあがる。ネットカフェで生活してた頃にはよく見た光景だったけれど、この街に来てからは久しぶりだった。
     ぐるりと部屋の中を見回す。結局パソコンの画面は消えているし、机の上に読みかけの本や資料が置かれている様子もない。仕事に逃避しているように見えたのは、杉浦への当てつけだったのか。
     
     九十九の横たわるソファの空いている隙間に座って、腕で隠れている顔を覗き込もうとした瞬間、くぐもった声が聞こえた。
     一瞬だけ逃げ出してしまおうかと思ったけれどそうもいかないので、杉浦はそのままの体勢で九十九を見下ろした。
     ゆっくりと目を開けた九十九は、杉浦をぼんやりとした顔で見上げてくる。眼鏡かけっぱなしでよく寝られるな、と頭の隅でどうでもいいことを考えた。
    「……そう簡単には死にませんよ」
     寝転んだ状態のまま、かすれた声で九十九は言った。いきなりの右ストレート、もしくは零距離射撃だった。
     頭のいい人だから、杉浦が恐れているものの正体にはとっくに気がついていたに違いない。もしかしたら本人よりも先に、明確に。だからっていきなり本題に入るのはどうなんだろう。
     九十九の頬の腫れは時間と共に酷くなっているように見えた。
     それなのに九十九はなんでもないような顔をしているし、おそらく死にそうな顔をしているのは自分の方なのだ。何もかもがちぐはぐで不明瞭な空間で杉浦は問いかけた。
    「ほんとに?」
    「ええ」
    「じゃあ……極論だけど、事務所に爆弾を仕掛けられたらどうする?」
    「素人の作った爆弾なら、ボクでも解除できます」
    「依頼の途中で、犯人がナイフを取り出したら?」
    「今回の反省を活かし、護身用のスタンガン等の導入を検討しています」
     淡々とした返事に、そうじゃないと叫びだしたくなる。真っ黒の瞳と目が合って、衝動的に九十九に向かって手を伸ばした。
    「……首を、しめられたら?」
     上から覆いかぶさるようにして片手で九十九の首に触れた。指先から生きている人間の温かさをリアルに感じて目眩がしそうだった。
     抵抗はされなかった。ああほら、こんなにも簡単に終わらせることができる。分かっていないのはどっちだ。
     ぐっと、白くてやわらかい皮膚を押す。肉と骨の感触。喉仏が沈む。頸動脈に指を這わせると、脈が波打っているのを感じた。口元の傷跡が小さく震えている。
     たった一人、杉浦が出会ってしまった大切な人の運命が、この手の中にある。
     九十九の眼鏡の奥の瞳がすっと細くなって、生理的な涙が滲んでいるのが見えた。
    「……杉浦氏、以外には、誰も……この距離に近づくことを許していません、ので」
     とぎれとぎれの声が紡ぐ言葉が耳に届く。冷静な九十九の声に、杉浦は自分が呼吸を忘れていることに気付き、同時にそっと手を離した。九十九は軽く咳き込んだが、恐ろしく近い距離で交わる視線からは何も読み取れない。馬乗りのような体勢で九十九を押さえつけてしまっていることを思い出して、杉浦は体を起こした。
     罪悪感で死にそうだった。

    「ごめん」
     杉浦の声に返事をしないまま九十九ものろのろと起き上がり、二人はソファの上に並ぶような形になる。
     消えてしまいたい気持ちに蓋をして、彼の言葉を、すなわち断罪を待った。
    「……大切な人を守れて嬉しかったのは、ボクのエゴです。しかし、それだけじゃないのも、分かってくだされ」
     平坦な声で九十九は言った。
     優しい人は、杉浦の愚行を責めなかった。胸の中のごちゃごちゃした感情が僅かに解かれて、素直に頷いた。
    「僕が……ネガティブに考えすぎてるって自覚はある……けど、それも仕方がないとも思ってる。メンタルだってそんな丈夫じゃない僕の人生で、あんなことがあったんだし」
    「理解したい、と思います」
    「でもさぁ」
     隣に座る九十九の肩にぽすんと頭を乗せて、杉浦は言った。軽くではあるが首を絞めた相手がすり寄るような振る舞いをしているというのに、九十九はまったく嫌がる素振りを見せなかった。逆に困る。
    「いつか本当におそろしいことが九十九君の身に降り掛かったとしたら、僕はまともでいられる自信がないよ」
     邪悪としか呼べないなにかが世界には渦巻いていることを杉浦は身をもって知っていた。取り返しのつかないことも、どれだけの後悔を積み重ねても時間は戻らないということも。
     杉浦はゆっくりと息を吐いた。全身の力が抜けていくのが分かった。九十九の体にもたれかかるように体重をかけると、彼の体温が伝わってくる。
     九十九が何か言う前に、泣いて喚いて暴れたかった。きっと優しく慰めてくれるのは分かっている。でもそれじゃあまりにもカッコ悪いと思って激情を押し込んだ。今さらこれ以上の醜態を晒しても、なんにも変わりはしないだろうけど。
    「安心してください」
     穏やかではあるが強い口調で九十九は言い切った。
    「置いていかれる苦しみを知っている人を、本当の意味で置き去りにするつもりはありません。いつか、何らかの理由で事務所が立ち行かなくなる日が来たのなら」
    「そうなったら?」
    「一緒に駄目になってしまいましょう」
    「それもまた極端だな……けど、ちょっと嬉しいかもって思っちゃうんだよなぁ」
    「元引きこもりがやっと見つけた相棒への執着心、なめないでください」
    「それはこっちの台詞でもあるよ。ねえ、九十九君」
    「はい」
    「絶対に絶対に絶対に長生きして」
    「分かりました」
    「どんな理由があっても、僕より先に死んだら許さないから」
     呪いのような愛の言葉を吐くと、九十九の体が震えたのが分かった。どうやら苦笑いをしているらしい。
    「熱烈ですねぇ」
    「ごめんね」
     形だけの謝罪を口にするが、相変わらず九十九はクスクスと笑っている。こんな弩級に重たい発言を繰り出してもドン引きしないなんて、やっぱりうちの所長はすごい。優しさが限界突破している。好きだ。
    「こちらこそ、申し訳ありません」
    「なんで九十九君が謝るの」
    「きっと同じ状況になったら同じことを繰り返しますので」
    「いいよ、僕だって守られっぱなしじゃない」
     この先の未来で同じような出来事が起きたときは、どんな相手でも根こそぎぶちのめす。きっと、絶対に。
     こんなめちゃくちゃな人生でやっと見つけた光を消させはしない。

    「なにかお茶でも飲みませんか。夜風にさらされて、杉浦氏の身体が冷えているように感じます」
     九十九は明るい声で言った。こういう切り替えの速さ、良くも悪くもクールで空気を上手に読めるところも彼の魅力だと杉浦は感じていた。
    「いいよ、僕が淹れるから九十九君は座ってて」
    「ですが」
    「いいから」
     立ち上がろうとする怪我人の肩を押さえてその場に留めるとキッチンへ向かって歩き出す。飾り棚の上に無造作に置かれていたカップを手に取り、お湯を沸かす準備をしながら杉浦は呟いた。
    「九十九君の傷口に染みないかなぁ」
    「もう時間も経っていますし、見た目よりは軽症ですよ」
    「ならいいんだけど」
    「あ、そういえばプリンの話を覚えていますか?」
    「ああ、うん」
     覚えているどころか、港で一人そのことを思い出して涙を流していたなんて言えるはずもなかったので曖昧に頷いておく。
    「冷蔵庫に入っていますので、よければそちらも。日付が変わってしまったので賞味期限は切れていると思いますが」
    「それくらいなら大丈夫でしょ」
    「ええ、余裕です。ボクがネカフェに住んでいた頃は、期限切れのおにぎりも二日くらいなら平らげていましたから」
    「それって賞味じゃなくて消費期限の話だよね?」
    「はい、三日目ぐらいからはかなりヤバい感じになるのですよね、フヒヒ」
    「いやいや、当たり前みたいに言ってるけど全然笑えないからね?」
     さっきまで真面目な顔で切実な話をしていた友人の、案外ずぼらな一面を知ってしまった。
     そこら辺の価値観のすり合わせはしていなかったなぁ、と遠い目で昔を思い出す。なぜかネットカフェに遊びに行く度に、おにぎりをくれたっけ。あれ、日付とかちゃんと見てなかったけど大丈夫だったのかと今さら不安になる。
    「九十九君」
    「なんでしょう」
    「美味しいご飯を食べて、ちゃんと睡眠をとって、健康でいてね」
    「それはもはや田舎のお母さんの発言なのでは」
     九十九はそう言って笑った。杉浦もつられて吹き出す。ようやく深く息が吸えた気がした。
     夜の底には今もどうにもならない現実がはびこっているのだろうけど、部屋の中は明るい雰囲気に満ちている。もうすぐお湯がわいて二人はちょっとだけ気を遣い合いながらそれを飲むのだろうし、プリンの賞味期限はそこまで切れているわけでもないし、下手くそなケンカは仲直りで終わりを迎えたみたいだし、たぶんここには愛しかない。限りなく歪な形をしてはいるが、二人の前には確かに存在している。今はそれで十分だ。冷蔵庫を開けながら、そんなことを考えた。
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