【杉九】星に祈った お祭りがあるんだって、という明るい声で九十九は椅子に座ったまま振り返った。外から帰ったばかりの杉浦は、片手にコンビニ袋を持って、空いた方の手でパタパタと顔を仰いでいる。赤い顔をしているので、八月も終わりだというのに相当暑かったのだろう。太陽がちょうど真上にいるような時間帯なので仕方がないのかもしれないが。
窓の向こうに広がる横浜の空はどこまでも青く晴れ渡っていた。クーラーを常時稼働させている事務所の中でひたすら仕事に打ち込んでいる九十九にとって、皮膚が焼ける感覚や呼吸をする度に胸の奥まで熱が迫ってくるような暑さは、遠い世界の出来事のように思えた。
「お祭りですか?」
「うん。今晩、近くの神社で夏祭りがあるみたい」
ソファに深く腰を掛けながら杉浦は言った。ビニール袋から取り出したペットボトルを保冷剤のように額に当てている。ちらりと見えたうなじはうっすらと赤く染まっており、日焼けをすると痛くなるタイプだと言っていたことを思い出して少し心配になる。
九十九は己の無駄に白い手の甲を見下ろして、今年の夏は仕事ばかりでどこにも行かなかったことを思い出した。元よりアクティブに外出するタイプではないので、夏の思い出に分類される記憶がひとつも無いことなんてちっとも気にならないが、そんな忙しい日々に付き合わせてしまった杉浦には、所長として少し申し訳なく思う。
「通りの東側なんだけど、なんかいつもより人が多くてざわざわしてて、なんだろうな〜って思いながら歩いてたら貼り紙がしてあったんだ」
「そうなのですね、最近あまりこの辺りを歩かないのでまったく知りませんでした」
「今年の夏はいっぱい働いたもんねぇ」
杉浦は遠い目をして言った。
確かに彼の言う通り、横浜九十九課は春の終わり頃から絶えず依頼に追われていた気がする。九十九と杉浦のたゆまぬ努力の結果、事務所の知名度と評判がじわじわと口コミで広がっていたようで、ありがたいことに仕事が途切れることはなかった。
東に不倫に溺れる男がいれば行って証拠の写真を取り、西に家から逃げ出した猫がいればポケットからチュールを取り出し、素行調査やイジメの実態把握やネット上での情報操作などなどいろいろ、ほのぼの系からダークなものまで様々な依頼を怒涛の勢いで解決していった。
「あっという間に夏が終わっていましたなあ」
九十九がそう言うと、杉浦はへらりと笑って返事をした。
「いい経験になったよね」
「ええ、本当に」
慌ただしい季節を必死に乗り切ったおかげで、二人の仲はさらに一段階くらい深まったような気がする。友達や同僚というものから、もう少し種類の違う、強くて優しいなにかに変わったと九十九は感じていた。戦友とでも呼べばいいのだろうか。忙しくて事務所に泊まり込む日々の中で、相手の寝顔を見たり意味不明な寝言を聞いたり、ひとつしかない最後のカップ麺を深夜に分け合って食べたり、徹夜が続いて逆に眠れなくなって二人で延々と語り合ったり、そういうどうでもいい時間の積み重ねが距離を埋めていった。
長くネットの中で生きてきたような九十九からすると、こんなにも正しく健全な人間関係を築き、それを平和的に維持していることこそが奇跡であり、その機会を与えてくれた杉浦にはもはや感謝しかない。
「九十九君、今日はなにか予定ある?」
「いえ、特にはありませんが」
杉浦の問いかけに、小さく首を振って答える。
パソコンの画面にちらりと視線を移して新規の通知を確認するが、特に追加の業務は無さそうだった。急ぎの仕事は全て完了しており、溜まっている作業や確認したい事柄も多くはない。今日こそは労働基準法を遵守し、人としてまともな帰宅時間を迎えることができそうだ。
「じゃあさ、少し遠回りして一緒に帰ろうよ」
にっこり、という擬音を乗っけたくなるような笑顔で杉浦は言った。こういうときなんとなく、彼が弟という属性持ちであったことを思い出す。有無を言わせない甘えた声や、期待を込めた真っ直ぐな瞳に貫かれて、変に遠回しな受け答えをしてしまう。
「ボクでいいのでしょうか」
「どういう意味?」
「お祭りに行くんですよね?」
「そのつもりだけど」
「他の方を誘わなくていいのかと思いまして」
九十九は言った。なんせこの夏は起きている時間のほとんどを共に過ごしてきたのだ。さすがに自分の顔も見飽きてるだろうと気を遣った結果の発言だったのだが、杉浦は軽く笑い飛ばすだけだった。
「九十九君以外に、誘う相手がいると思う?」
「いないのですか?」
「この街でそこまでの人間関係構築してないよ」
そう言って微笑む杉浦に、これでいいのだろうかと九十九は思う。自分のことは完全に棚に上げて。
杉浦が誘えば誰だってOKしてくれるはずなのだが、真面目に九十九を誘ってくるあたり他のお相手がいないというのは本当なのだろう。九十九はもはや諦めの境地に達しているが、杉浦ならばこの歳からでも、真っ当な人生とか有り触れた幸福みたいなものを掴むことが出来る気がするのだが。自分がその妨げになってはいないかと少しだけ気がかりだったが、ともあれ見た目も中身もSSRの杉浦を独占できるありがたさを噛み締めつつ、就業中につきあくまでも事務所の所長として冷静な口調で九十九は言った。
「では、ご一緒させていただきましょう」
「やった!」
思っていたよりも弾んだ声が事務所に響いて、つられるようにして表情筋がゆるんだ。今日だけは世界が終わっても仕事を残さないようにしようと決意を新たにして、パソコンに向き直る。
夕方に向かって流れる時間はいつもよりも期待に満ちて、後ろからは小さく鼻歌が聞こえてくる。そのメロディをもっと聞きたくて、九十九は限りなく優しいタッチでタイピングを続けた。
事務所の外はどこか懐かしさを感じる、夏の夜の湿った空気が広がっていた。少し歩いただけでもじっとりと肌が濡れるような蒸し暑さに、夏はまだまだ続くのだという現実に打ちのめされそうになる。四季の中では夏がいっとう苦手かもしれない。近年の異常な猛暑は、繊細な機械類には厳しすぎる。気温が高いというだけでハードディスクへのダメージが甚大なのだ。
人の波に流されながらたどり着いた夏祭り会場となっている神社は、そこまで大きくはないものの境内が広く、想像していたよりも多くの人で賑わっていた。
浴衣を着た中学生くらいのグループ、紐のついた財布を振り回しながら歩く少年たち、母親に手を引かれた小さな子供、明らかにデート中の若いカップル。そんな中で、連れ立って歩く成人男性二人組は少々異質な存在ではあった。時折小さく突き刺さる視線を感じたが、杉浦と二人でいると何処に行っても割とこんな感じであることを思い出し、意識しないことに決めた。
夜店の並ぶ眩しい参道を明るい顔で行き交う人々の雰囲気につられて、こちらまで気分が高揚していくのを自覚する。仕事以外での外出は久しぶりなのでなおさらだ。隣を歩く杉浦も同じようなことを考えていたのか、周囲を見渡して嬉しそうな顔をしている。
「みんな楽しそうでいいね。お祭りって感じがする」
「ええ、思っていたよりも活気がありますね」
「今更だけど、人混みって苦手じゃなかった?」
「得意というわけではありませんが、問題はありませんよ」
「良かった。九十九君が行くお祭りって、夏と冬にやってる漫画のお祭りのイメージくらいしか無かったから」
「その認識でまったく間違っていませんねぇ」
杉浦のぼんやりとしたコミケに対するイメージを微笑ましく思いながら、九十九は頷いた。
そもそもそれなりの期間、混沌と無秩序の大安売りをしているような街のネットカフェに暮らしていたので、この程度の人混みですり減るような可愛らしい神経は持ち合わせていない。この街にやって来た頃は、夜が静かすぎてビックリしたのを覚えている。神室町では一時間に数回のペースで救急車やパトカーのサイレンが聞こえることも珍しくなかったので。そんな平和な異人町でかなり物騒な事件に遭遇したこともあったが、それでも根本的な治安のレベルが違う。祭りの提灯の下を歩く人々を見ながら、そう思った。
「ひとつでも、夏らしいことが出来て良かった」
騒がしい人混みの中で杉浦は小さく呟いた。隣に立つ九十九の耳にかろうじて届くレベルの声量だった。
「杉浦氏は、夏がお好きですか?」
「じゃなくて」
隣を歩くイケメンはなぜか視線をそらしたまま、首を横に振る。
「九十九君と一緒に、ってこと」
心臓に向かってどストレートに投げ込まれた言葉に、変な声が漏れた気がする。一瞬、右足と右手が同時に出たが気付かれていないことを祈る。
「そ、うですね。ええ、誘ってくださってありがとうございます」
「いや、こちらこそ」
男二人でよく分からない感情をキャッチボールしながら、九十九は友人であり同僚でもある男を横目で見た。赤い顔をしているのは夏の暑さのせいではなく、祭りの雰囲気に当てられて普段ならば言わないような言葉がこぼれ落ちてしまったからであろう、たぶん。
「……はっ、杉浦氏」
なんとなく気恥ずかしくて別の会話にスライドするための口実を探していたところ、視界の端に見覚えのあるシルエットが映った。これはチャンスと強引に話を変える。
「どしたの?」
「あそこの射的の屋台に、かなり希少度の高いフィギュアが並んでいますぞ……!」
「え、そうなの、すごいね」
「あれほどの逸品を並べるとは、店主はなかなかの目利きですな」
「射的にはそこまで自信があるわけじゃないけど、取ってこようか?」
「いえ、大丈夫です。ボクはもう保存用と観賞用のものを持っていますので。いやはや、夜店の屋台というのは、こういう意外な出会いがあるのですよ」
フヒヒと笑いながら杉浦を見ると、妙に居心地の悪い空気と共に、なぜだか静かな声音が聞こえてくる。
「九十九君」
「はい?」
「もしかして、そのためにお祭りに来てくれたわけじゃない、よね?」
「いやいやそれだけではないですよもちろん、ええ、はい」
「ホントぉ?」
杉浦から疑惑の目を向けられて慌てて言葉を取り繕う。拗ねたような顔でこちらを眺めていた杉浦はふっと笑って、口を開いた。
「まあいっか。じゃあ射的はパスで」
「ですな」
「とりあえずなにか食べる? 夕飯もまだだし」
「そうですねえ」
二人で並んで歩いている参道には夜店が並び、店の前には若者たちが列を作っている。金魚すくい、たこ焼き、わたあめ、かき氷などの定番のものから、電球ソーダやチュロスなど自分が子供の頃にはなかったような屋台もある。かき氷を手に持ちお互いの舌の色を見せ合いケラケラと笑いながら歩く子どもたちとすれ違った。いつの時代も、子どもはエネルギーを発散させて生きているなあと心が和む。
「あ、いいこと思いついた」
「どうしました?」
「うん、ちょっと待ってて」
なぜかテンションの上がった杉浦は飴を売っている屋台に向かって行ったかと思えば、りんご飴を二つ手にして帰ってきた。そうして片方を九十九に差し出して、笑顔で口を開く。
「はい、これ」
「ありがとうございます……?」
「どういたしまして」
「この会場にいる誰よりもりんご飴が似合ってない気もしますが、いただきます」
杉浦に礼を言ってから赤い飴でコーティングされた塊を受けとった。血の色のように赤いなと台無しなことを思ったが、その感想はそっと胸に仕舞っておく。
「そんなことないよ、よく似合ってる」
「それ、喜んでいいのでしょうか」
「もちろん。それでさ、えっとね、写真を撮らせてもらっていい?」
「ええ。ですが、どうして?」
「八神さんに自慢したくて」
「なるほど」
通行している人たちの邪魔にならないように境内のはしっこへと移動すると、杉浦はスマホを取り出し二人で並んだ姿を自撮りした。そのまま機嫌が良さそうな顔でスマホをいじっているので、おそらくこの場でメールを送信しているのだろう。アラサー二人があまりに浮かれてはいないだろうかとも思ったが、八神も時折かなりどうでもいい報告を送ってくることを思い出した。つい先日も、シャルルに設置されているガシャポンで五回連続同じフィギュアが出てきたというメールと証拠写真が送られてきたらしく、僕は八神さんの日記帳じゃないんだけどなぁとぼやく杉浦の声を覚えている。
「また、いつかさ」
片手で操作をしているスマホに視線を落としたまま杉浦は言った。
「もし機会があれば、みんなを誘ってみても面白いかもね」
「ああ、それはいいですな。八神氏は器用ですから、型抜きなどにチャレンジしていただきたい」
「面白そう〜、じゃあ海藤さんには射的をやってほしいな」
「それは……上手くても下手でもコメントに困るやつなのでは?」
「そ、そうかも」
「元本職の方ですから……」
「そだね……ふと思ったんだけど、神室町ってお祭りとかあるのかな?」
「どうでしょうね、毎日がお祭り騒ぎみたいなところですから」
「異人町とは全然違うよね。まさかこんな遠くに来るとは思わなかったな。地理的な距離の話じゃなくて、なんというか、雰囲気的な?」
「杉浦氏の言いたいこと、よく分かりますよ」
「うん、ありがと」
あのネットカフェで息をしていた頃と比べると、かなり人間らしい生き方をしている自覚はある。元引きこもりの二人が並んで祭りの人混みの中でりんご飴を齧っているなど、数年前の自分に言ってもきっと信じなかった。
思えば遠くに来たものだ、まさに杉浦の言ったとおり。
神室町にはあそこでしか生きられない人たちがたくさんいて、自分も同じような生き物なのだと九十九は思っていた。底の底から青空を見上げて、なんとか今日をしのいでいく毎日。それなのに、いつの間にかこんなにも広くて自由な場所で息をしている。しかも、ひとりぼっちではなく、心から信用と信頼のできる誠実な友人と共に。
目に映る景色が色鮮やかに見えるのは、きっと隣に杉浦がいるからだ。
「ねえねえ九十九君」
「はひ」
割り箸に突き刺さったりんごを落とさないようにがじがじと齧っていたせいで、変な返事になった。
「りんご飴ってさ、いまいち美味しい瞬間が分かんないよね」
「確かに。そう言いながらも買ってしまうのがお祭りの怖いところですな」
「ねー」
杉浦の言う通り、飴の部分は意外と甘いのに果物としての味の主張も強くとても美味しいと声を大にして言えるようなものではない、気がする。あくまで個人的な主観に基づく感想ではあるが。これは祭りの屋台で売っている品物全般に言えることだが、雰囲気を楽しむ装置の一種なのだろう。
しばらく無言になって口の中の甘さと格闘していると、目の前を小学生くらいの少年たちが駆けていった。金魚すくいの袋や、ピカピカ光る剣のようなもの、顔のサイズより大きな綿あめなどを手にしている。夜の闇の中、屋台の灯りだけが煌々と輝いていて現実感が薄い。就業後の疲労感と幻想的な光景のおかげで頭の中がふわふわとして、いい感じにアルコールが回った後のような幸福感があった。きっとこんな日常の延長にある素敵な景色も、ネットカフェに引きこもってばかりの自分のままでは知ることもなかった。
「お祭りなんて本当に久しぶりなので、なにもかも新鮮です」
人々の平和な様子を見回しながら、九十九は言った。
「僕もだよ。最後にお祭りに来たのって、小学生とか中学生とか……とにかくかなり前だと思う。小さい頃は近くの神社で毎年お祭りがあって、家族でよく行ってたんだけど」
「大きいお祭りですか?」
「ううん。ここと同じくらいの、花火大会とか盆踊りもないようなお祭りなんだけどね。でも子供の頃って自分の周りの世界が全てだから、すっごく特別で楽しかったのは覚えてる」
目を細め、いつもより穏やかな声で杉浦は言った。すぐに取り出せるようなところに彼の幸福な記憶があることを嬉しく思う。出会ってから今までの期間、二人の間で杉浦の過去の話は完全にタブーというわけではないが、あまり気軽に踏み込めるものではなかった。傷つけるくらいなら遠ざけておきたい、そんな九十九の態度を杉浦は優しさだと解釈してくれているが、言い方を変えれば臆病なだけでもある。
「今思うと、僕はすごく甘やかされてたな」
どこか困ったような顔で笑みを浮かべて、杉浦はひとりごとのように呟いた。
「そうなのですか?」
「うん……下手くそな僕の代わりにいっぱい金魚をとってくれたり、二人で買ったわたあめのほとんどを僕が食べちゃっても笑って許してくれたり、そんなことばっか」
杉浦はここではないどこか遠く、遠くをじっと見つめたまま言った。
甘く仄暗い響きを持つ声で、彼が誰の思い出を語っているのかはすぐに分かった。
ここにはいない大切な人、もう二度と会えない、家族の話。
とても強くて優しい女性だったのだと、杉浦や八神から話だけは聞いたことがある。真っ直ぐで、正直で、大切な人のために行動することを厭わない。きっと杉浦に似た、見た目も心も美しい人だったのだろう。
会ってみたかった、と九十九は単純に思った。子供の頃の彼がどんな毎日を過ごしたのか。日々のくだらない出来事の記憶、家族しか知らないような秘密のお話。平和な時間の中で出会い、言葉を交わしてみたかった。叶わない願いは、いつも苦い感覚を伴う。
「いっぱい優しくしてくれたのに、ちっとも返せなかったなぁ」
叱られたあとの子供のようにしゅんと落ち込んだ感じで杉浦は言った。そこには恨みや憎しみといった感情は見当たらず、ただ大切な人に会えない哀惜だけが積み重なっていた。
ここで当たり障りない言葉をつむぐのは簡単だけれど、それでは意味がないと思った。おそらく出会った頃ならあきらめていたであろう距離に足を踏み入れることを覚悟して、九十九は口を開いた。
「ボクの、勝手な意見ですが、もらった優しさをそのまま返そうと思わなくてもいいのではないでしょうか」
「どうして?」
「……きっと、みんな、杉浦氏のことを可愛いと思っていたからですよ。可愛い子には、優しくしたいものですから。杉浦氏のご家族は、幼い君が笑ってくれるだけで嬉しかったはずです」
愚かしいほど純粋に、真剣に、心に溢れた感情をそのまま言葉に紡いだ。
彼らのことを本当にはよく知らない他人の、しかも出会ってからそこまで長く一緒にいるわけではない人間の憶測だ。もしかしたら気分を害するかもしれない、的はずれなことを言っているかもしれない、けれどありきたりな言葉で彼を慰めることはしたくなかった。
風が吹いて、杉浦の前髪を揺らした。わずかな沈黙のあとで、少しだけかすれた声が返ってくる。
「そっか。そんな風には、考えたことなかったかも」
ありがとう、と風にかき消されてしまいそうな声が聞こえた。
顔をあげた杉浦はいつもと同じ明るい顔をしていた。その強さも柔軟な優しさも、どうしようもなくいとおしく、きっと自分の推論は間違っていないのだと思った。
「でも、どっちかっていうと九十九君にはカッコイイって言ってもらいたいな」
「ボクの相棒はいつでも格好いいですよ、ご安心くだされ」
「ありがとう……堂々と真正面から褒められると照れるね」
「本心ですよ?」
「うわあごめん恥ずかしいから一旦止めて……」
杉浦は片手で顔を覆い隠し、なにやらぶつぶつと呟いている。明らかに狼狽えているのが分かるので、これ以上の追撃は止めて笑顔を向けるだけにしておく。
「な、なんか喉乾いちゃったからちょっと飲み物買ってくるね! さっきペットボトル売ってる屋台があったから、ここで待っててくれる? 九十九君はお茶でいい?」
パッと顔を上げた杉浦は視線をさまよわせながら早口で言った。
「一緒に行きますよ」
「いや、ちょっと落ち着きたくて……ちょうど人も少ないし、ここにいてください……」
「なにゆえ敬語?」
「うん……あ、これも捨ててくるね」
「ああ、すみません」
半ば奪い取るようにして棒だけになったりんご飴の残骸を手にして杉浦はあっという間に走り去った。手持ち無沙汰になってしまったので、人気の少ない境内の端でそのまま待つことにする。ひとりになった途端、夜でもまだまだ元気な蝉の鳴き声が妙にうるさく感じるから不思議だ。人混みの向こうに紛れてしまった友人の後ろ姿はもう見えない。
「こういうのを、スパダリというのでしょうか」
残念なイケメンだなあと思った。彼自身が残念だというわけではなく、その優しさを発揮する相手が自分だという点で。己のことを卑下している訳ではない、知識も技術もそれなりにある割り切った人間であると自認しているし、杉浦の隣に立つことに疑問を感じたことなんて一度もない。けれど彼があまりにも九十九にばかり優しさを振りまくので、錯覚してしまいそうになる。
つまりは今がとんでもなく幸せだから、らしくないことを考えているということだろう。そのことに気がついて九十九はため息をついた。手にしたものが大きいからこそ失うのが怖いなんて有り触れた話だ。頭では分かっているのに、時折小さな棘が刺さったように痛みを訴えることがあるのは、知識と実践はまた別物であるがゆえ。生粋のヲタクなのでどうしても知識重視になってしまう自分の思考の癖を反省する。
せっかくの夜につまらないことを思案しても意味がないと一旦思考を打ち切って、屋台の提灯の灯りを眺めてその構造について脳内で考えていると、数メートル先に小さな女の子が一人で立っていることに気がついた。迷子だろうか。小学校低学年くらいのショートカットの女の子で、金魚柄の浴衣を着ている。辺りをきょろきょろと見回しているが、その顔に不安そうな様子は見えない。それどころか、その幼さには似合わない冷静さを感じた。
声をかけたほうがいいのかもしれないと思ったが、いかんせん己と女児の組み合わせが最悪すぎる。今までの人生で不審者扱いされてきた記憶を思い出して、九十九はあえて視線を地面に落とした。
もし本当に親とはぐれた迷子なのだとしたら、人の多いところまで誘導をして声を上げればいいだろうか、いやその前に杉浦に連絡をして彼に来てもらったほうが早いかもしれない。
そこまでの思考を迅速に巡らせて顔を上げると、いつの間にか少女は九十九のすぐ目の前に立っていた。
「おにーさん、なにしてるの?」
あ、これ通報されるやつだ。いやいやさすがに近所の祭りでそれは勘弁願いたい。今宵の祭りを楽しんでいた友人の顔を思い出しながら、九十九はじわじわと後退りして口を開いた。
「……ボクは人を待っているところなのですよ。お嬢さんは、誰かを、探しているのですか?」
少女はふるふると首を横に振って、そのままじっと九十九を見上げてくる。澄んだ黒い目が、パチパチと瞬きを繰り返している。九十九が一歩後ろに下がると、少女は同じ距離だけ近付いてくる。
事案だ。これはダメだ。早急に杉浦に連絡をとろうとしてスマホを取り出したが、通信が完全に死んでいる。つい先日買い替えたばかりのデュアルSIMの最新スマホなのに何故だ。原因究明は先にするとしてとりあえず今は現状を打破するしか無いと周囲を見渡したが、幸か不幸か近くに自分たちを気にしている人間はいないようだった。
「ねえねえ、知ってる?」
少女は仲のいい友達に話しかけるような気軽なノリで九十九に声をかけてきた。意外と心理的な距離が近くて完全に挙動不審になる。
「な、なんでしょう」
「あのね、今日は流れ星がいっぱい見れるんだって」
「なんとか流星群、みたいなやつですかね……?」
「そう、それ!」
目の前の女の子はにこにこと笑顔のままで九十九を見つめている。今どきめずらしいくらいに人懐っこい子だが、だからこそ危うい。早く保護者の方を見つけてあげなくてはいけないと痛感したが、しかし色んな意味で自分一人がそれをするのはよろしくない気がする。下手に動かないほうがいいだろうと九十九の勘が告げているので、とにかく早く杉浦が帰ってくるのを全力で祈るが、九十九の内心の葛藤など知る由もない少女は次々に言葉を投げかけてきた。
「流れ星、みたことある?」
「どうでしょうな……はっきりとした記憶にはありませんが」
「そっかー、私も見たことないんだ」
「そうですか」
「あのね、流れ星を見つけたら、お願いをするといいんだって。えと、どうするんだっけ?」
「流れ星が消えない内に、三回願うのですよ」
「三回かあ、大変だね」
「ソウデスネ……」
少女は普通に話を続けているが、九十九は冷や汗が止まらなかった。誰か助けて、いやしかしこの女の子はまったく悪くない、だが冤罪からの誤認逮捕は嫌だ。早く戻ってきてくだされ杉浦氏。そんな言葉ばかりがぐるぐると頭の中を回っている。
「おうちの方は、一緒ではないのですか?」
九十九の問いかけに少女は再び首を横に振って、想定外の方向からの返事を投げ返した。
「あのね、私ね、お願いごと決まってるよ!」
「ほう」
幼い子に理路整然とした会話を求めるのは諦めて、九十九は小さく頷いた。少女は両手を胸の前で組んで、祈るように目を閉じた。なぜだろう、白い頬も切りそろえられた前髪も初めて見るのに何かを思い出しそうになった。涙が出そうなほど切実に祈り続ける少女を見下ろして、思わず九十九は問いかけた。
「……何を願っているのか、お聞きしても?」
夏の長い夕方に終わりを告げた夜空の下は、少しだけ非日常で、特別な何かがはじまりそうな雰囲気をたっぷりと含んでいた。こんな純粋な願いなら、軽やかに空の上まで届いてきっと叶うだろうと、そんな心地になる。
「かぞくがみんな、元気でいますように」
そう言って女の子はパッと手を離してえへへと笑った。
なんていい子なのだろう。混沌とした地上に天から舞い降りた天使なのかもしれない。天然記念物並みに貴重なので早く保護してあげてほしい。時間的にそろそろ杉浦が帰ってきてもおかしくはないのだが、というか戻ってきてほしいと頭が痛くなるほどに願っていると、ふいに少女が空を指さした。
「あ、あれって流れ星?」
「ええと、どれでしょう」
九十九も空を見上げるが、木々の向こうに見える夜空には平時と変わらぬ星が瞬いているだけだった。
「うーん、あれ、飛行機だったのかな」
「しかし流星群の時間帯によっては、一時間で何十個も流れ星を観測することもできるそうですから、可能性としてはありえますよ」
「物知りだね!」
「お褒めいただき光栄です」
「流れ星見つけたら、なにお願いする?」
「願いごと、ですか……」
一瞬、事務所のさらなる発展、フィギュアの抽選販売の確率上昇、そんな言葉が頭の隅で流星のごとく過ぎ去っていったが、あまりにも真摯に祈る姿を見てしまった後ではそんなことを言えるはずもなかった。
見知らぬ少女の前であえて言葉にするのは気恥ずかしかったけれど、なぜか誠実に答えなくてはいけない気がした。
「……友人の幸福、ですね」
空を見上げたまま、九十九は言った。
今はこの目に流れ星を見つけることは出来ないが、代わりに心のなかで真剣に祈りを捧げる。優しい友人に、これからの人生、幸せがいっぱい降り注ぎますように。いつでも彼に、帰る場所と温かい寝床がありますように。心が踊るような瞬間がいっぱい、いっぱいありますように。まるで幼い子供のように透明な気持ちで、ただ願った。
くすくすと、隣から小さく笑う声が聞こえた。
「おにーさん、いい人だ」
「そんなことありませんよ」
「ううん、良かったなぁって思った」
「はい?」
「あのね、おにーさん」
「はい」
「あの子に優しくしてくれて、ありがとね」
舌っ足らずな声が急に大人びて、そのことに疑問を持つ前に強い風が吹き抜ける。目を開けていられなくて、少し俯いたあとでそのまま辺りを見回す。
「…………は、あ?」
そこは誰もいない空間が広がっているだけだった。ざわつく人混みから少し離れた境内のすみには、自分以外は誰もいない。
脳内の情報処理能力には自信がある方だが、その思考回路は完全に混乱の渦に飲み込まれていた。
「…………なるほどぉ」
九十九は重く深い息を吐いて両手で顔をおおった。沈黙。それから目眩。なんだろう、どう判断するべきか分からない。周囲には誰もいない。存在の痕跡すら見えない。つまりこれはあれだ、夢を見ていたのだと理解すればいいのだろうか。こんな短い間に、白昼夢のようなリアルな夢を。だとしても、それにしたって。
少女の笑顔を思い出して、よく似た瞳を持つ友人とそっくりだったことに、今さら泣きたくなった。
「あれ、九十九君?」
足音が聞こえてのろのろと顔を上げると、ようやく九十九の待ち望んだ人の姿が目に入った。両手にそれぞれペットボトルを持っている。彼がここを離れていたのは長くても数分のことだったのだろうけど、時空が歪んでいたかのように長く感じる。どこかとんでもなく遠くへ行って帰ってきた後の気分だった。
「杉浦氏……」
「どしたの? 人混みに酔っちゃった?」
おそらく情けない顔をしているであろう自分を気遣って、杉浦は九十九の顔をのぞきこんでくる。なにから説明しようにも順序立てて話を組み立てることが出来なくて、とりあえず杉浦の言葉に軽く頷いた。
「そうなのかもしれませぬ」
「大丈夫? とりあえず、これ飲む?」
「……ありがとうございます」
差し出されたペットボトルを素直に受け取って喉の乾きを癒した。冷たい水が食道を通り過ぎるのと同じくらいの速度で、徐々に落ち着きを取り戻す。
この体験を言語化するにはまだ少し時間がかかりそうだった。もしかしたら永遠と同じくらいの時間が必要かもしれない。九十九は静かに息を吐いた後で、ぐっとペットボトルを握りしめて顔を上げた。
「杉浦氏ぃ」
「うん?」
「一生、幸せにしますね」
「は、へ……プ、プロポーズ!?」
あきらかに血迷った発言を笑い飛ばされるかと思ったら、素早くスマホを取り出した杉浦は、とりあえず録画するからもっかい言って!もっかい!!と迫ってくる。
これでいいのか、いいんだろうな。
なぜか九十九は杉浦の幸福の一端を担っているようだし、それを二人とも嫌がってはいない。そして九十九は、どんな形であっても一生を背負う覚悟はある。
にっこりと笑って杉浦からの押しの強い提案を却下し、夜空を見上げる。
あの子の、たましいの平穏を、そして大切な友人の恒久的幸福を。少しだけ熱い瞼の裏で、星に祈った。