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    itoha_bouba

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    itoha_bouba

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    泥の花の前半部分です。
    先般一度上げたのですが、自信なくなって削除したのを再掲しています。
    今度は消さないので、長いのですが……読んでいただければ幸いです。

    泥の花「あなた、不思議な魂を持っているのね」
     要圭が足を止めて振り向いたのは、その声がまるで花の香りのように目の前まで漂ってきたからだ。
     圭に倣ったのか、清峰葉流火も圭の隣で立ち止まった。葉流火を煩わせてしまったことは、圭にとって少し気まずいことだ。普段、圭は決してそんなことはしないのに、何故だろう、この声は聞き逃してはいけないような気がしたのだ。
    「俺たちのことですか」
     戸惑いながらも返事をした相手は、白いケープを纏った女性だ。真夏の昼下がりにそんなものを羽織ってるだけで異質なのに、汗の一つもかいていないのが不気味だ。それにこんな住宅街の道端で『占い』なんて開いているのだから、酔狂にもほどがある。
    「あなたたち、じゃなく、あなた。向日葵の髪をしているのに、魂は違う色なのね」
    「魂?」
     そんな抽象的なものを、圭は信じない。隣の葉流火をちらりと見遣ると、怯えているような表情をしている。中学に入ってからもう何ヶ月も経つのに、未だに少し子供っぽいところが、圭は決して嫌いではない。
    「そう。しかも、そうね──かたちも普通の人間とは違うみたい」
    「あの……俺みたいなガキには言われたくないかもしれませんが、占いのお誘いにしては少し芝居がすぎると思いますよ」
     圭がそう指摘すると、女はころころと笑う。きれいな女性だと思うが、どうしてだか、どういう顔立ちだとかが頭に入ってこない。圭は他人の顔はすぐに覚えてしまえるたちなのに。
    「はっきり物を言う子ね。今のあなたはそれでいいわ。でも、気をつけて。それだけではあなたは立ちゆかなくなるから」
    「ご忠告痛み入ります。それじゃあ、失礼します」
    「待って」
     有無を言わせない、とはきっと彼女の声のことを言うのだろう。圭は立ち去りかけたのに、また視線を女へと向けてしまった。
    「持って行きなさい」
     彼女が差し出してきた、青白いほどの細い腕。まるで引き寄せられるかのように、圭は手をそちらへ伸ばした。普段の自分の行動とも思えないのに。
     ぽとり。
     手の中に落ちてきたのは、場違いに冷たい、金属製のなにか。手のひらを見遣ると、柳の葉のようなかたちをした無数の花弁からできている、白い花のチャームがあった。
    「これは?」
    「蓮の花。あなたにそっくりな花よ。あなたには困難がいくつも待っているけれど、あなたさえ気を強く持てば、泥の中でだって生き延びて、蓮と同じようにきっと咲くことができる」
     ふんわりと笑った彼女は美しいのに、空恐ろしい。言っていることが一つも分からないのに、不思議なことに、的を射られたような気がしたのだ。
    「さあ、行きなさい。迷う必要はないわ」
    「……ありがとうございました。さよなら」
     圭は愛想笑いを浮かべて、葉流火の背中を叩いてから歩き出す。何者かも分からない相手にもらった蓮の花を、ポケットに入れて。
     しばらく足を進めてから、何となく気になって圭は占い師を振り返った。だがそこには誰もいない。占いをする卓ごと、跡形もなく消えている。
     圭は少しぞっとして、だが気にしたって仕方がないと足を進めた。隣の葉流火が不思議そうな声を上げる。
    「さっきのひと、もういない。──圭、何もらったの? ハスって何?」
    「ああ、これだ。レンコンの上の部分に咲くやつ」
    「食べられるってこと?」
    「食べられない。この食いしんぼめ」
     葉流火と笑い合って、そうしてポケットの中の物を圭は忘れてしまった。
     ──忘れていたはずなのに。
     時折、蓮の花のチャームは不意に圭の目の前に転がり出てきて、圭を戸惑わせた。だっていつも、圭が迷いそうなときにばかり、そこにあるものだから。

    *

     桜が咲き始める時季だ。宝谷シニアのロッカールームの脇に、ここいらでは唯一の染井吉野が植えられている。来月には中学二年になる圭と葉流火は、もうあと二回、ここの桜を見ることになる予定だ。
     まだ二分咲きと言ったところのそれに何となく目を向けた圭は、すぐに目線を元に戻した。
    (もう花の咲く頃か)
     桜にも春にも、圭は何の思い入れもない。だが、時候の話題として把握しておく必要はあるし、季節ごとに葉流火や自分のメンテナンスを多少は変えなければならない。そろそろ黄砂の季節だから喉のケアが必要だ、とか。それ以上の感慨はない。
     だが、ロッカールームに入った途端に、圭は季節が春であることを、皮肉のように認識した。春は馬鹿が増えるのだ。今日でこのシニアを卒業する三年たちにも、その手合いがいたようだ。
    「二人だけでやる野球は楽しかったかよ」
     ドアを開けた葉流火に投げつけられた声に、圭は意識すらせずに、当然の成り行きで葉流火の前に出た。ロッカールームの中の、いつものざわめきが全て止む。だが、全員の視線が葉流火と、大声を上げた三年を見ていた。
     圭は、くだらない罵声に葉流火を付き合わせたくない。睨み付けてくる三年のポジションはピッチャーで、控えにさえなれなかった人間だと思い出した圭だ。だから彼にはどの高校からも推薦は来なかった、はずだ。
     逆恨みなんて馬鹿なことに、葉流火の時間は割かせられない。──あの馬鹿は、もう二度と会わない人間なのだから。
    「え……と」
     敵意に怯んだ葉流火の手から圭はロッカーの鍵を奪って、葉流火の荷物を引き出した。それを葉流火に手渡し、目を白黒させている葉流火をドアの外に押し出す。
    「葉流火、先に帰ってろ。俺が話を聞くから」
     そうして圭がドアを閉めようとしたら、更なるののしりが飛んできた。鬱陶しいことこの上ない。
    「いいよなあ清峰、要に守られてお山の大将やって、お前は随分楽しそうにしてたもんな」
    「それくらいにしてください。監督を呼びますよ」
     圭は淡々と告げた。相手にすればするだけ、こういう者はつけ上がる。それを分かっているから、怨みの相手、つまり葉流火を遠ざけてさっさと圭が対処するまでだ。
    「清峰。お前のこと、きっと誰もが恨んでるぜ。お前のせいで全員が」
    「葉流火。外出てろ」
     妬みから葉流火の足を引っ張る見苦しく愚かな者、そんなのには、葉流火は視線をくれてやる必要すらないと圭は信じている。それでなくとも葉流火は繊細だから、敵意を無視するということができないのだ。
    「圭、まだ着替えが」
    「いいから出てろ」
     圭の力いっぱいで葉流火を外へと押し出し、すぐにドアを閉めた。鍵まで掛けてしまったから、背後でドンドンとドアが叩かれ続けている。
    「はっ。要お前さ、そうやって天才様のこと守って、いい気になってるだろ。お前も結局、清峰を利用してるだけじゃねえか」
     馬鹿は馬鹿の視野しかないものだな、と圭は冷笑する。この少年に、圭の心は永遠に分からない。
    「先輩。あなたと会話するつもりはありません。実力で葉流火に及ばなかったのに葉流火に八つ当たりするなんて、そんなだから一度もマウンドに立てなかったんですよ」
     あっさりと圭が事実を告げたら、頬に強烈な痛みが来た。殴られる、くらいは圭の想定の範囲内だ。こうさせるのが一番早い、とも。事実、大慌てで周囲が仲裁に入ってきた。自分の痛みも、ロッカールーム全てを巻き込んだ騒ぎも、圭にとってはどうでもいい。
     自分のロッカーから荷物を引き出し、さっさと外に出てしまう。背中に飛んできた叫び声も、宥める誰かの声も、圭は全て聞き流す。
    「葉流火、お待たせ」
     呼びかけると、葉流火は怯えた表情のまま、建物の曇りガラスの格子窓から様子を窺っていた。
    「圭! その頬どうしたんだ。もしかして殴られた?」
     葉流火の目が潤んでいるのが分かる。申し訳なさそうに、そして怖がっているように。
    (ああ、しまった)
     ひとつ、よりによって、一番大切なことを考慮に入れるのを忘れていたことを圭は悔やんだ。葉流火が殴られた跡を見た時の反応。圭のことなど気にしなくていいのに、葉流火は圭に何かあるとやけに不安がる。昔からそうだ。
     だから、葉流火を安心させることに圭は注力しなければならない。圭はできるだけ安らかな笑みを浮かべ、葉流火に向けた。
    「あー、お前は気にするな。挑発した俺が悪かった」
    「でもそれ、俺のせいじゃ」
    「違うって。俺の対処が良くなかった」
     葉流火のせいではないと、静かに、できるだけ穏やかに告げて、「いいから早く着替えよう。さっさと自主練したいもんな」と葉流火の思考を別に向けさせようとした。
    「……うん」
     葉流火は頷いたが、その表情は晴れない。のろのろとユニフォームを脱ぐものだから、圭はさっさと葉流火のアンダーまで脱がせて制汗シートを渡した。帰宅ルートではバスに乗らなければならないから、逐一汗を拭くのは少し面倒だ。
     自宅近くの橋の下への道のり、なるべく明るい話題を選んだが、葉流火の顔色が良くなることはなかった。
    (葉流火はピッチャーらしく、もっと傲慢でもいいのに)
     清峰葉流火は天才だ。
     だがそこに、精神面の強さは含まれない。
     だから自分が支えてやらなくては、と圭は思っている。葉流火の心がもう少し耐性を身につけて、誰よりも強く振る舞えるようになるまでは。

     翌日、葉流火と一緒にチームの練習場へ行った圭は──二人は。明らかに『腫れ物』といった扱いを受けた。それはまるで、昨日の事件がまだ終わっていないことを告げるようだった。
    (面倒だな)
     チームメイトとの関係性は、そこそこで保っておきたい。
     この名門シニアでは、誰もが『次への切符』、つまり高校の推薦を得るのに必死だ。だから、それに破れた昨日の三年のような者を除けば、基本的には皆、品行方正にしている。
     だからこれまで、一年にしてエースという葉流火、そして葉流火が球を受けてほしいと頑として聞かない相手である圭とも、上辺だけはうまく機能するようにやってきたと、圭は思う。葉流火はともかく、圭は味方の応援もするし、笑顔を交わし合ったりもする。
     だが、このままではそれも難しいかもしれない。
    (何処まで力を割いて、調節すべきだかな)
     チームとしての体を保てなくなることは、所属する誰もにとって不利益にしかならない。だから少し頭を回せば、葉流火と圭を冷遇し避けるのは自分のためにならないことは分かるだろうに。
    (まあ、そう振る舞うのも難しいか)
     圭自身は。できれば負の感情には振り回されずに、理路整然と野球に取り組みたい。だが、難しい年齢である周囲の誰しもに、同じ考えを押し付けるのは傲慢であることは、圭にも分かる。
     しばらく様子を見た方が良いだろうと。そう判断した圭が、時間に解決を任せていたのが良くなかったのかもしれない。
     チームメイトからの二人への消極的不関与は続き、やがて試合で勝った後にも、誰も喜ばなくなった。葉流火の好投が連続したから、他のメンバーの活躍の機会が少なかったというせいもあるだろう。その一方で葉流火と圭は雑誌の取材まで受けるようになっているから、不満も鬱積したのかもしれない。
     圭がチームメイトとの関係を改善しようとした時には、手遅れにすぎたのかもしれない。
    (まずい。手を割かなければ)
     行動を開始するには、圭は少し遅すぎた。
     空気の悪い中、味方のエラーで負ける、という事態が発生したとき、誰もかもが互いに声を掛けフォローをしない、というようにまで、宝谷シニアの人間関係は悪化していた。
     負け試合では圭は必ず監督に説教を食らう。今日はそこに、エラーした選手も一緒だった。監督はひとつひとつのプレイを丁寧にすることを、信念にしている。だから、エラーをした選手には激しい叱責が飛んだし、連帯責任だかなんだかで、圭も共にこっぴどく叱られた。
     圭はもう、怒鳴れるのも慣れた。だが、エラーをしたショートの三年は顔色を真っ青にしてひたすら頭を下げている。やっとお叱りから解放される頃には、隣の彼は涙を落とす直前だった。
    「先輩、戻りましょう」
     ロッカールームの方からはもう誰の声もしない。きっと葉流火も先に帰宅しているだろうから、ショートの彼に圭はそう声を掛けたのだが。
    「……要さ、いつもこんなの食らって平気な顔してんのかよ。やっぱりお前も天才なんだな。凡人の意見なんてどうでもいいんだろ」
     そんなつもりはない。
     本当に圭がそう思っているのなら、毎日のように監督に質問しに行ったりはしないことも、このひとには分からないのだろうか。第一、圭は天才などではない、決して。
    「俺はそんなつもりは」
    「お疲れ。先帰るわ」
     圭の言葉を聞きもせず、ショートの三年は走って去って行ってしまった。誤解というものは、こうやって積み重なっていくものなのだろうか。
    (早々に手を打たなきゃな)
     頭痛がしそうだが、葉流火も圭も、あと二年ここで野球をする必要がある。だから、表面だけでも連帯を生まなければならない。このチームの誰も彼もを、葉流火の適切な踏み台にするためには、圭が考えなければならないことだ。
     足取りも重くロッカールームに戻ると、ショートの彼がちょうどドアから出てくるところだった。
    「は。いいザマ」
     その言葉は圭には向いていない。
    (まさか)
     急いで扉を開けると、中には、美しい黒髪の後頭部、膝を抱えてうずくまる葉流火がいた。
    「葉流火! どうした」
     考えるより先に、葉流火の側に膝をついた。肩に手を置いて、葉流火をそっと揺する。だけれどその顔が持ち上がらない。
    「……圭、俺、野球やったら駄目なのか」
    「葉流火……」
     彼に何が起きたのか、何と想像の容易いことだろうか。ふつふつと、圭に怒りがこみ上げる。ろくに努力すらせずに他人の足を引っ張るだけの人間を冷笑して無視できるほど、葉流火の精神はタフではない。チームメイトはそれを知っているからこそ、圭が葉流火を一人にした時を狙って葉流火をこうしたのだろう。
    (許さない)
     葉流火に危害を加えた者は、絶対に。
     だがその前に、圭にすら顔を見せずに泣いている葉流火のケアをしなければ。清峰葉流火はこんなことで潰れていい人間ではない。
    「葉流火、言われたことは全部忘れていい。お前は何も悪くない。僻んだり嫉妬したりする奴らがおかしいんだ」
    「……でも」
    「お前は野球、好きだろう。何を他人に言われたって、野球をしてていいんだ」
     葉流火の背中をさする。震えているのがあまりに哀れだ。圭はリトルの頃を思い出した。周囲の年齢も、葉流火と圭の心もまだ幼く、すぐに誰かに突っかかられては泣いていた葉流火を慰めていた頃。その頃から、葉流火の落ちこみ方は変わっていない。だから、葉流火を宥めるのは慣れているといえば慣れている圭だ。だが。
    「でも」
     その沈みきった声に、声変わりした後の葉流火がこれほど落ち込むのは初めてだと気付く。こうなる前に、いつも圭が処置してきたから。
    「俺がいると、皆が楽しく野球できないって。チームの雰囲気悪いのも、相手チームにいちいち恨まれるのも、全部俺のせいだって」
     涙声の葉流火から漏れる嘆きに。圭の怒りは突沸した。
    (下衆ばかりか、ここも)
     チームメイトだと、思いたくすらない。葉流火に毒を注いだ責めは必ず受けさせる。
    (葉流火)
     圭は膝を握った葉流火の手に、自分の手のひらを重ねた。そうしてしばらくさすってやるうちに、葉流火がちらりとこちらに目線を向けた。目が真っ赤で、涙の跡がべちょべちょで。圭は目許を拭ってやった。そうして頭の上に手を置いて、そっと髪を撫でてやる。まだ目に涙を溜めている葉流火に近付いて、横に座って。すると圭の肩に、頭を預けてきた葉流火だ。彼に信頼されている、誰よりも。だから、背中をずっと、手でさすってやって。
    「圭の手、あったかい。安心する」
     そうして、ちょっとだけ葉流火が笑ってくれるようになるまで、圭は待っていた。
    「葉流火、気分転換に行かないか」
     二人にとっての『気分転換』はいつも、キャッチボールだ。だが今の葉流火はそれすら酷だろう。それに圭は、葉流火に『汚らしい人間』のことを何一つ思い出させたくなかった。
    「……何処?」
    「そうだな、……海とか」
     自分でも安直だと圭は思ったが、だが葉流火も圭も、遊びというものがよく分からない。だから、きれいなものでも見たら気分も変わるかと思った。
     それに何より──葉流火と二人きりで話したい。まだ春の盛りの海辺はきっと、誰もいないだろうから。
    「行こう、葉流火」
    「うん」
     電車を乗り継いで、隣県の海に向かう。やや遠い距離だが、休日でありもう夕方も近いためか、逆向きの方向の電車の方がはるかに混んでいた。何とか葉流火と隣に座れたので、顔色の悪い葉流火の手をこっそりと握ってやった。葉流火が不安なときにこうしてやると、昔から彼はちょっとだけ笑ってくれる。今も。
     並んで電車に揺られながらも、二人は無言だ。だから圭は一生懸命、考える。
     葉流火の感情面の弱さは今後克服していかなければならない。だが葉流火は優しすぎる。優しさは、迷いそのものだ。今の葉流火に迷い悩んでいる時間はない。今こそが伸び盛りで、高校野球の強豪校がスカウトの目を光らせ始めるのも近い時期に、惑っている暇などない。
    (どうする)
     思考に詰まった圭は、腿に置いた手を握りしめた。すると。
    (──何だ?)
     何かポケットに入っている。固くて薄いもの。中を探ると、いつか占い師にもらった白い蓮の花のチャームが出てきた。
    (どうしてこんなところに)
     そう疑問に思うと同時に、どうしてだろう、心が軽くなった。迷宮に入りかけていた思考に光が射したような気分だ。
    (何だ──簡単なことじゃねェか)
     葉流火の心が育つまで、葉流火の重荷は全て、圭が持てばいい。今の葉流火に必要なのは、低レベルの相手に構う時間ではない。そんなものは全部、圭が引き受ける。葉流火から目を離さずに──圭が葉流火の野球を守る。
     春の海はまだ冷たそうだった。夕闇が近いからか色も黒を帯びていて、足許をさらわれたなら、そのまま攫われてしまいそうだ。
     だが、思った通りに他人が誰もいないのは、圭にとって都合が良かった。
    「海なんて久しぶりだな」
    「……うん」
     葉流火は未だに憂鬱そうで、海と砂浜の境を見たまま俯いている。こちらに背を向けたままの生返事は葉流火の心がここにないことを示している。
     環境を変えただけで気が晴れると考えるほど、圭は甘くない。
     それに圭は。
     葉流火がしゃがみ込んで助けを必要としているのなら、腕を伸ばすのはいつだって自分でありたい。清峰葉流火が笑ってくれるだけで、圭はしあわせだから。
    「お前はこれから出会う球児全員を殺していくんだ」
     それを葉流火に告げるのに、圭に躊躇いがなかったと言えば嘘になる。
     葉流火はきっと純粋に野球を楽しみたいだけだ。事実であるとはいえ、葉流火の野球によって心を殺される人間がいることを認識させるのは酷だろう。傷ついている葉流火に追い打ちをかけることにもなりかねない。
     それでも、葉流火を守りながらこれから先を共に歩む道を、圭はこれしか思い付かなかった。
    「俺も共犯者になってやるよ」
     虚飾の自信を顔に貼り付けて、圭は葉流火にそう告げた。
     ずるい言葉であるのは、圭は自分で分かっていた。葉流火が昔から圭の側を離れたがらないのを利用することになるから。それでも、葉流火の心に生じた迷いを断ち切り、そして野球を続けさせるには、圭が側に立って「一緒に殺したのだ」と。そそのかすしかない。
     そしてそれは二人にとって必然であり、当然のことだと考えさせるように仕向けなければ。このままでは葉流火はきっと野球を続けることもできない。
     だから。
    「葉流火は野球、続けたいだろう」
     その答えが否ではあり得ないことを知っていながら問う。誘うように。
    「俺は……もっと、圭と一緒に野球がしたい」
    「ああ、俺もだよ。そのためなら誰だって殺せるな?」
    「……うん」
     葉流火が力強く頷いたから。圭は安心して、やっと自分の笑顔を浮かべることができた。
     海辺の砂地はトレーニングに向く。だが、二人はそこを走ったりはしなかった。
     流木に並んで腰掛けて昔のことを話した。葉流火が楽しかったことだけ思い出せるように。やっと笑ってくれた葉流火に圭は安堵する。
    (葉流火を、葉流火の野球を守りたい)
     それはずっと圭の心にある願いだ。それをできる自分であることが誇らしい。
    (葉流火)
     誰からだって、何からだって、圭はこの少年を守る。どんな窮地からだって救ってみせる。『絶対』に。

    *

     そろそろ梅雨も明ける頃。
     葉流火の投球技術は、ここのところますます伸びている。迷いを断ち切ったからかもしれない。そんな自惚れすら感じるから、圭の方こそ気を引き締めなければならないと自制する。
     それでも圭が、葉流火の好調を喜んでしまうのは抑えられなかった。
     今日の試合も勝てた。葉流火は相手チームに一点も与えずリリーフへ繋いだ。球数も少なかったから、完投させても良かったくらいだと圭は思う。
    「葉流火、お疲れ。今日も調子良かったな」
    「うん。圭のリードすごかった」
    「俺は普通だ」
     そんなことを話しながら歩く、球場からの帰り道だ。今日は試合後現地解散だったので、上辺だけの関係を何とか繋ぎ直したチームメイトへ虚しい笑顔を向ける必要もないので圭の心は軽い。
     あの後宝谷シニアからは数名の選手が辞めた。それに圭が関与しているのは、気付いている選手もいるだろうが、誰も表立って問いただしては来ない。チームとして纏まるためには膿を出す必要があることを、理解している人間もいるのだろうし。
     この球場は少し変わっている。周りを蓮の池が囲っているのだ。訪れるたびに、泥の池を設えた球場側の意図が分からないと圭は思っていたのだが──今日は白い蓮の花が咲いていた。
    (なかなかきれいなもんだな)
     ふと、奇妙な占い師にもらったチャームを思い出した。あれも白の蓮だったはずだ。その記憶のせいで、ふと、足を止めてしまった。
    「どうかしたか? 圭」
    「いや……前に占い師に会ったの、思い出しただけだ」
    「ああ、圭がレンコンの何かもらってた」
    「レンコンじゃない。食べるのから頭を離してくれ」
     きっと葉流火は、好物であるレンコンのはさみ揚げでも想像しているのだろう。そういう嬉々とした表情の葉流火に苦笑して、何気なくトレーニングウェアのポケットを探ると。
    「え?」
     何故だかあの蓮のチャームが出てきた。金属でできた、白い蓮。
    「圭、ずっと持ってるのか?」
    「いや……そんなはずないんだけどな」
     だが、チャームは良くできていた。目の前の蓮の花にそっくりだ。目線の高さまでチャームを持ち上げて、泥池の蓮と見比べるが、まるで花をそのまま写し取ったかのようだ。
    「圭に似てるって、言ってたよな──占い師」
    「余計なことだけ覚えてるんじゃねェよ」
     葉流火の記憶していることの基準がよく分からない。妙な例え方をされた圭のことなど、忘れていいのに。
     葉流火の視線もチャームから池の方へと飛んでいく。何となく葉流火を見上げると、目を細めて花を眺めている。春、桜へ目もくれない葉流火でも、花に見蕩れることがあるのか、と、圭が考えを新たにしていたとき。
    「でも本当だ。この花、圭みたいにきれいだ。ええっと……凜としてる、っていうのか」
     葉流火の口にした見当違いの言葉に、圭は大きく溜息を吐いて肩を落とす。葉流火はこんなロマンチストだっただろうか。野球と食事しか興味がないくせに。
    「あのなあ……俺は男だぞ。花って柄じゃないだろ」
    「男なのは……分かってるけど。でも俺にとっては、圭は花だ。だからあの花、俺は好き」
     葉流火はいったい何を言っているのだろう。幼なじみをずっとやってきて、葉流火の考えがこれほど分からなかったことはない。
    「葉流火?」
    「圭が笑ってくれると、俺は」
     横から手が伸びてきて、不意に圭の手を掴んだ。蓮を握っていない方の手を。
    「葉流、火」
     圭が彼を呼ぶのをつっかえてしまったのは、葉流火が見たことのない表情をしていたからだ。頬を赤くして、小ぶりな口を引き結んで、俯いて。
    「圭」
     圭を握り込んでくる手が熱くて。
     圭ですら知らない顔をしている葉流火を見ているのが自分だけであることに、途方もない優越感を感じて。
     そうして圭は、自分の頬もまた赤いことに気が付いて。
    (うそだ)
     心臓が速い、言葉が出てこない、なのに胸の中がどうしようもなく苦しい。
    「俺は。圭が笑ってるの、好きだ。嬉しくなるし、もっと──もっと」
    「……葉流火」
    「圭、ごめん。もうちょっとだけ、手、握ってていい? 俺の勇気が出るまで」
     何の勇気だか、知らないけれど。この手をいつまでだって離されたくないことに圭は気が付いてしまった。
     気付きたくなんて、なかった。
    (ああ、俺は葉流火が好きなのか)
     きっとそれは、友人の好きでもバッテリーとしての好感でもなくて、もっと──醜くて独占欲にまみれた、それでいて甘いもの。
    (恋って、こんな感じだったんだな)
     なんだ。圭の側に、心の中にずっと、あったものじゃないか。
    「圭」
     葉流火の声で呼ばれるのすらしあわせで。だけれど──この先は、掴んではならないものだと、咄嗟に判断した。
    (葉流火は日本一のピッチャーになるんだぞ)
     恋愛に興じている場合でもないし、ましてやその相手が自分だなんて。そんなの許されない。
     葉流火には輝かしい未来が待っている。だのに、例えば幼なじみのバッテリーと恋愛関係にあるなんて、世間に知れたら。葉流火の名声に傷がつくようなことも起こりかねない。
     そんな風にして清峰葉流火を汚すくらいなら、圭は。
    「葉流火、もう行くぞ。帰って今日の反省しなきゃな」
    「う、うん」
     手を離して葉流火に背を向けた。追いかけてくる足音は、子供の頃より随分と変わったと思う。
     それでも圭は。
     変わらずにずっと清峰葉流火だけが好きだ。
     好きで、だが、これは叶えてはならない。ポケットの中の蓮を握る。やけに尖った花びらが刺さるのが、圭を冷静にさせる。だけれど、それでも。
    (それならせめて、葉流火にはいつも笑った顔を見せてたい)
     葉流火が圭の笑顔を好きでいてくれるのなら。あの花を見る目線のように、愛おしんでくれるなら。
    (俺が花なら、全部差し出すから)
     だから、葉流火と恋はできなくても、それでも愛されたくて嫌われたくない。
     こんな醜悪な気持ちは、圭だけの秘密だ。きっとこれは、墓まで持っていくことになるだろう。一生消えない強い想いである気がしたから。

    *

     葉流火が好調だと言うことは、すなわち、どんどん『殺し方』がえげつなくなるということだ。
     葉流火は最近、スライダーを覚えた。中学レベルをはるかに超した、打つことはおろか掠ることすらできない球だ。『殺した』相手の絶望はますます深くなる。
     最初はただ、圭はそれを誇らしいとだけ感じていた。後々考えれば──人を殺すというのがどういうことだが、圭は分かっていなかったのだ。殺人者の苦悩を甘く見ていた。
     対戦相手の調査データの名前に幾つバツを書いたか、圭が分からなくなってきた頃、それは不意に現れた。
    (見られている?)
     一人きりの自分の部屋の中なのに、どうしてか圭には、そんな気がしてならなかった。
     振り向いても誰もいない。当然の事実なのに、圭は少しばかり安心した。だが──訝しみながら顔を前へと戻したとき。
     虚像が見えた。
     大泉シニアのユニフォーム、バッターボックスで項垂れる姿。
     それは。
    (藤堂、葵?)
     たしかそんな名前だったはずだ。彼が打席で見せた絶望はとりわけ深かったのを覚えている。
    (俺は今、何を見てるんだ?)
     これは圭が過去に見たもの──すなわち虚像だ。それは分かっているのに、震えが止まらない。
    (見るな)
     そんな顔でこちらを見るな。あれはまるで地獄からの使者だ。圭をあちらへ引きずり込もうとする。
    「見るな!」
     思わず上げた大声に、目の前から虚像が消える。
     しんとした深夜だけが圭に降り注ぐ。静かすぎて、ボールが放られる前の球場の静けさを思い出した。その一瞬後には、葉流火と向かい合った球児は皆、あの顔をしている。圭はいつもそれを見ている。見て──。
     藤堂葵の幻がまだこちらを眺めていて、泥に落ちたはずの手を伸ばそうとしている気がした。
    (違う。違う──)
     そちらに行くのは圭ではない。そのはずだ。
     だが、あれに捕まったらお終いだという気がしてならない。
     そしてきっと、これはまだ始まりにすぎないことも、圭は予感していた。

     それから。
     圭の身に、フラッシュバックが頻繁に起きるようになった。
     グラウンドで、学校で、葉流火との帰り道で。部屋で野球の勉強をしているときに。
     殺した球児の顔がこびりついて離れない。
    (復讐でもされてる気分だ)
     これを葉流火が味わっていないことだけが圭の救いだ。
     葉流火のために、葉流火に必要のないものは全て圭が飲み込むと決めた。だから、これくらい何でもない顔をして克服しなければならないのに、眠ることすらできない。夢の中まで追いかけてくるし、眠気が訪れないほどに圭は追い詰められている。
    (情けねェ)
     睡眠時間の不足は思考の低下に繋がるし、疲れも取れない。
    「圭、調子悪い? 顔色よくない」
     葉流火にそう心配される始末だ。
    「いつも通りだ。心配するな」
     そう返すけれど、その日のリードもキャッチングも自分ですら失敗だったと圭は思う。──試合で負けた責任は捕手にある。監督から常々そう言われている。だからその日。いつになく激しく圭を叱責した監督は言った。
    「お前は勘がいい。他人の気持ちを汲むほうだが──……相手打者にまで同情しただろう。相手にも失礼だ、甘さを捨てろ」
     その言葉に圭ははっとした。
    (同情か)
     まさにその通りだったからだ。
     ずっと、ずっと圭に襲いかかってくる、フラッシュバック。それにいつの間にか取り込まれそうになっていた自分を恥じた。
    「清峰を勝たせたくないのか?」
     勝たせたい。葉流火を、葉流火の未来を圭が守り、支えたい。だから。
    (飲み込め、全部)
     耐えがたい虚像も、それによる苦痛も、誰かからの怨みも全部、全部。決して外へ漏らすことのないように飲み込んでしまえ。
    「はい。次は必ず勝ちます」

     日付、というものが段々認識できなくなっていることに、圭はふと気付く。
     試合まであと何日というのは分かる。だが今日が何月何日で、どんな季節でどんな天気で自分が何を着るべきかさえ、圭にはよく分からなくなっている。
    (明日、試合か)
     今日の天候は思い出せないが、明日は雨が降らなければいいと、気になった圭だ。
     明日の予報なんてスマホを見れば分かるのに、どうしても冷静な誰かの声が聞きたくて、随分と久方ぶりにテレビを付けた。圭には今、葉流火のボールを捕球したときの幻聴しか聞こえていないから。
    『わたしたちはラブ&ピースだよ』
     可愛らしい女性の声に、ミットとボールのぶつかる音が途切れたのを感じた。
     テレビの強い光のせいだろうか、目がチカチカして、いつものフラッシュバックが消えた。
    (え?)
     画面に映し出されていたのは、少女の笑顔だ。
    『高校生活を楽しむの』
     新たに始まったばかりか何かの、アニメなのだろうかと圭は察した。すぐにニュース番組にチャンネルを変えようとしたのに、どうしてだか手が動かない。
    『ですね! この制服着たくてこの高校にしたんですから』
     一瞬だけ。相手はテレビアニメの登場人物で、実在の人間でもないのに、圭は発言した少女を軽蔑した。
    (高校生活を楽しむ? 制服のために高校を選ぶ?)
     圭にとっては唾棄すべきような発想だ。そういう人間が一定数存在するのも理解はできる。だけれど圭にとっては、這入り込む余地のない感情だ。
     だというのに、何故だかテレビ画面から目が離せなかった。──今、虚像が消えているからだろうか。
    ラブ、と、安らぎピース
     それを圭は知っているのに、識らないものであるような気がして、繰り広げられている光景に据わりの悪いものを感じる。
    『みんな友だち! みんな親友なの』
    (なんて甘っちょろい考えだ)
     同じチームで毎日毎日毎日顔を合わせる相手ですら、友人にすらなれない。なりたくもないが。
    『帰りは吉祥寺に行くのです~!』
    (行って何になる。時間の無駄だ)
     少しでも時間があるのなら、勉強なり何なり、未来のために投資するべきだ。
     圭はそう逐一呆れる。
     だが、呆れるほどに──その甘くて無目的で無駄な世界がじくじくと肌に染みて、侵入してくる。
     愛。
     葉流火の未来のために捨てたものだ。
     安らぎ。
     葉流火と居続けるためにそぎ落としたものだ。
     圭が、自分の意思で全てそうした。
     だのに、あの追い縋ってくる殺した球児たちのように──圭の服の裾を引っ張り、指を手のひらを腕を伝って、いつの間にか身体を包み込まれている。
    『助けて』と。
     捨てたものが、そう悲鳴を上げながら、心臓を締め上げている、ような気がする。
    (助けて、って何だよ)
     苦しくて、圭は喘ぐように息をする。
    (野球の神は、そんな感情を愛したりしない)
     だから圭は捨てたし切り落とした。
    (だから、黙れよ)
     どうしてそうも、圭に拾ってほしそうに、救われたそうにしているのだ。
    (野球には。葉流火の側に居るには)
     必要のないもの、なのに。
     だけれど。
     だけれど、もし。
    (野球さえ。葉流火さえ──ければ)
     ちらついた思考に、はっとする。
    『のんびりおかしタ~イム』
     いっとうのんびりとした声が部屋に響いて、圭はテレビの電源を切った。
    (何で動揺してるんだ、俺は)
     たかがテレビ。たかがアニメだ。圭の人生には何ら関わりのないもの。
     そのはずなのに。
    (どうして、あんなに眩しい)
     圭は、自分で自分が分からない。
     冷静さを取り戻したくて、机に向かい直そうとすると、絶対ノートの上に置いた覚えのないものがあった。占い師にもらった蓮のチャームだ。驚いて手に取ると、やけに温かい。ひとの手、みたいに。
     その温もりに不思議なほど胸を引っ掻かれて、チャームを握ったままベッドに転がった。元々眠れずにテレビを付けたのだったことを思い出した圭だ。
     目を閉じるとあのアニメの映像が浮かぶ。
    (何を迷ってるんだ、俺は)
     握りしめた手の中で、蓮の花が刺さっている。
     圭には何一つ、迷うべきことなんかない。
     それなのに。──それなのに。

     あの深夜アニメを観た日から、過去の虚像のフラッシュバックが減った。その一方で、自分の足許に影がまとわりついてくるような感覚がある。足のもつれる、ような。足を地面に引っ張られる、ような。
     それでも平然として圭は歩くのだが、平衡感覚を失うようなときがごくたまにある。
     練習や試合に集中しているときは平気だ。しかし、ほんの一瞬。ロッカールームで練習着を脱ぐとき、朝顔を洗うために洗面台の鏡を見たとき。ぐにゃりと歪み、その場に倒れ伏してしまいそうになる。
    (助けてくれ)
     そう考えた自分を叱咤し、意のままにならない足を踏みしめる。
    (しっかりしろ)
     倒れてなるものか、この場を、この立場を失ってなるものか。
     自分の手で葉流火を輝く未来に届けるために野球をすること。
     それが圭にとって唯一の願いで使命だ。
     こんな不調ごときで、それができる立場を失う訳にはいかない。
     助けて、とか。
     そんな言葉が頭を過るのは、覚悟が足りていないのだと圭は思う。だって──圭を救えるのは圭だけだから。
     自分のしたことしか、自分には返ってこない。
     だから。
     だから、だから。
     圭はただ、野球に没頭し身を捧げ、そうして心の何処かで少しだけ、待っている。この日々が葉流火の将来への足掛かりとして機能することを。
     そうしたらやっと、圭は救われるだろうから。

    *

     高校からのスカウトの目が光る時期になった。
     いの一番に圭の家までやって来たのは、自宅のある西東京の強豪、帝徳高校の監督だった。あそこは、圭と葉流火を特に熱心に欲しがってくれているようで、圭はもらった名刺が嬉しかった。
     自分はあくまで葉流火を支える立場であって、天才は葉流火だけだと、そう圭は考えている。それでも、実力も実績もある相手に評価されて、葉流火と一緒に取ってもらえるというお墨付きを得られたのは、自信に繋がる。
     名刺はなくさないように封筒に入れて、絶対ノートと一緒に保管することにした。だがいつまでも浮かれてはいられない。監督が帰った後は葉流火と共に自主練だ。
     天気のいい、だが爽やかな風の吹く日だ。久々に気分も悪くない状態。張り切りすぎて怪我をするのはいただけないから、圭はいつもより少しだけ力を入れて練習をした。
    「圭、今日は調子よさそう。最近、顔色変だったから」
    「そんなことないって。お前は自分のことだけ心配してろ」
     葉流火に何度目かの釘を刺してから、圭は自分にも言い聞かせる──これくらいで喜ぶな、と。ましてやそれがコンディションを左右するなど、あってはならない。
     夜も遅くなった。用具を片付けて、葉流火と家に帰る道を辿る。昼間晴れていたから、星が出ている。理科で習った季節の星座の名前が圭の頭に自動的に浮かぶが、見つけられはしなかった。
    「帝徳のひと、家に来てた。圭はあそこ行くのか?」
    「いや、少し待つ。できれば──大阪陽盟に行きたいからな」
     それが圭の現時点での目標だ。葉流火に『甲子園の優勝投手』の箔を付けてやりたい。手元に確かな推薦があるのは安心材料だが、それで慢心してはいけないと圭は思う。
    「前から言ってたとこ」
    「ああ。お前は日本一のピッチャーになるんだから『プロ養成校』でトップ取ってた方が見栄えがいいだろ?」
     葉流火の実力ならば確実にそうなると圭は信じている。だが、この話をするたびに葉流火は少しだけ顔を曇らせる。
    「……大阪」
    「不安か? どのみち何処でも寮生活になるぞ」
    「そうだけど……」
     葉流火は臆病だ。中学に入ったときも、しばらくは校舎や上級生にびくびくとしていたことを圭は思い出した。だが、スポーツでは名門の陽盟、それも花形である野球部に所属することになるのだから、もっと堂々とした態度をしていていいだろう。
    (シーズンが終わったらメンタルトレーニングに注力するか)
     そして入学するまでには、葉流火を国内トップクラスの球児として相応しい精神力まで鍛えよう。そう圭は考えたので。
    「大丈夫、心配するな。お前なら陽盟でだってちゃんとやれる」
     自分がそこに所属できるかは分からない。だが、葉流火ならという確信はある。
    (俺に実力さえあれば、高校までは葉流火の球を捕りたいが)
     陽盟から評価されるということが、どれだけ高い壁であるか、圭は知っているつもりだ。推薦が来なければ一般受験で陽盟を受験して野球部に所属し、葉流火の役に立つためにできることがあるならばそれを成す。そこまでは考えているが──冷静な思考と希望は別だ。
    (葉流火のための捕手でいたいよな、本音を言うなら)
     葉流火を日本一のピッチャーにすると約束したのは他ならぬ圭だ。マネージャーでも友人でも、葉流火を助ける方法はないことはない。
     だけれど、葉流火のマウンド上での孤独を救って、側にいて導いてやれるのは捕手だけ。
     だから、だから圭は。
     大阪だろうがプロ養成校だろうが、付いていかなければならない。不確実なことを葉流火に告げはしないけれど。
    「……圭」
     不安げな葉流火が、こちらを呼んだ。何とはなしに葉流火を見上げた圭は、その目の色に驚く。
    (何だよ、その顔)
     心細さ寂しさと、それから切なさ。
     圭が読み取った葉流火の感情はそれだ。
    (切なさ、なんて)
     どうして圭に向けるのだろう、彼は。
    「圭」
     葉流火が立ち止まるから、圭もそうした。二人の間を風が通っていたのに、それが消失した。葉流火の腕の中に閉じ込められたからだ。
     生々しい、汗の香り。葉流火の腕の強さ。圭の鼓動が走り出す。だがそれには、止まるべき塁も目指すべきホームベースもなく、暴走するばかりだ。
    「葉流火?」
    「俺は。俺はずっと、圭に言いたかったことがあって」
     視線をつむじに感じて、何故だかそれが恥ずかしくて、圭が顔を上げたら。視線の合った葉流火に射竦められ、そのままキスをされた。
    (──葉流火)
     禁じていた感情があふれて、あふれて。圭はその奔流を受け流すことすらできない。身体中が甘みで満ちていく。指先が震えるし、気管を握られたように苦しい。
    「圭が好きだ。友達でもバッテリーでもなくて──キスとか、もっと色々、圭としたい。圭にずっと、俺といてほしい」
     もう一度、唇がふれあう。目を伏せた葉流火がきれいで。葉流火の唇は比較的小さく薄く、形が良い。それが圭に、圭を選んでふれたのかと思うと、目眩すらするようだ。
    「好きなんだ」
     圭は。葉流火から逃げるのも、葉流火を退けるのもできない。なのに、これだけは分かる。
    (それだけは、駄目だ)
     圭の役割はそれじゃない。
     どれだけ今、嬉しくとも。抱き締め返したくとも。
     葉流火の執着を自分に向けてはいけない。いつか圭は、葉流火の前から消えなければならないから。
    「俺は」
     息を呑み込む。手を握りしめる。爪はちゃんと切ってあるのに、刺さって痛い。まるであの蓮のチャームを手にしているときみたいに。葉流火のために自分の気持ちを偽ることなんて、慣れているのに。
    「俺は──お前をそういう目では、見られない」
     貼り付くような喉を無理矢理動かし圭は言った。その瞬間に、葉流火の眉が歪む。
    「……そう、だよな。分かってた」
     葉流火を傷つけたことが一目で分かる、悲惨な顔だ。そんなのが見たくて圭は嘘を吐いた訳ではない。だから胸がひどく痛む。でも圭はきっと今、葉流火のために正しいことをしている。そう信じたかった。
    「もう、しない。ごめん」
    「ああ。そんな気持ちは忘れろ──野球には必要ないだろ」
     葉流火をちゃんと突き放そうと、腕の中でもがく。だが、ますます強く抱かれてしまって、圭の困惑は深まる一方だ。
    「ごめん、圭の言うことでも、これだけは忘れられない」
    「……葉流火」
     どうしてそこでごねるのだろう、葉流火は。圭の言うことを聞かないのは、葉流火にとって譲れない何かがあるときだけだ。
    (そんなのに、俺が好きとかが合致しなくてもいいだろ)
     恋愛感情をくだらないとは思わない。まさに今、圭を動かしているものはそれだからだ。だけれど、清峰葉流火に相応しくない人間を選ぶ失敗を、葉流火にさせる訳にはいかない。
    「葉流」
    「俺は、圭とする野球が好きだから」
     それは構わない。だがそれを恋心とはき違えないでくれと、圭は言いたいのに。何故だか声が出ない。
    「野球するなら、圭と一緒じゃなきゃ嫌だ」
    「葉流火、それは」
    「俺が何を忘れたって、圭が好きな気持ちだけは絶対に忘れない」
     決意、に。満ちあふれた葉流火の瞳に、圭の思考は止まる。この表情の葉流火を覆すことがどれだけ困難か、圭はよく知っている。
    「圭が俺を好きじゃなくても」
     またふれそうになった唇がぎりぎりのところで遠のく。それが寂しい、なんて心は、存在してはならない。
    「ごめん。こんなの、しちゃ駄目だな」
     葉流火の傷ついた顔を、圭は見ていられなかった。圭から目を背ける葉流火、なんて、知らない。それが嫌で仕方がないなんて、感じてはいけないのに。
    (やめろ、ちゃんと拒絶しろ)
     理性はそう叫んでいるのに、感情がそれを嫌がる。
     葉流火を導ける存在でありたい自分と、葉流火が伸ばしてきた手を取りたい自分とで堂々巡りをするのは、どちらも圭の本音だからだ。
    「……しょーがねェな」
     漏れ出た言葉に、圭は自分へ失望した。本当に『しょうがない』のは圭だ。
    「お前の気持ちには応えてやれない。俺なんか忘れて他の奴を好きになってほしいのは本当だ」
    「……圭」
     まるで正論を振りかざすかのような顔をして、葉流火を思い通りに動かそうとするなんて、傲慢すぎて、今すぐにでも喉笛を掻き切ってこんな言葉を吐くのを止めたい。だのに。
    「でも、そのせいでお前の投球に影響するのも、俺は嬉しくない」
     葉流火が困り切っている。勿体ぶった圭の台詞の結論が見えないからだろう。
    「そんな、こと」
    「あるだろ。お前落ち込むとすぐ調子崩すから」
    「うー」
     葉流火の素直さを利用する自分自身を、圭はきっと一生許さない。だけれど、どれだけ自責の念に駆られとしても、一時いっときだけでも葉流火を。
    「だから、お前が他の奴を好きになるまでは、俺にしたいことは全部、大目に見てやる」
    「どういう、こと」
    「さっきみたいにキスするの、止めなくてもいいってことだ」
     ぱあっと表情の明るくなる葉流火に、心の底で圭は謝る。こんな自分勝手な手を打った圭を許さなくていいし、恨んでくれていい。それでも、一瞬の葉流火の温もりが、圭は欲しい。
    「……何で、そこまでしてくれるの?」
    「俺はお前のためのキャッチャーだから。だろ? ピッチャー」
     野球までもを言い訳にして。いつか処罰が下るかもしれないのに。
     葉流火の手が、圭の頬を愛おしげに包むから。
    (もう、どうでもいい)
     清峰葉流火が好きだ。圭は自分の全てを葉流火に捧げる覚悟がある。でも、この恋心だけは、圭が自分で抱いていたい。
    「……うん。でも」
     キスが甘く感じるなんて知らなかった。知りたくなかったのに、歓喜する身体が圭は憎くて、そして嬉しい。
    「いつか圭が俺を好きになってくるまで、俺は続けるから」
     眩む、ような。葉流火の体温と腕に捕らえられる感覚。こんなものを味わい続けていたら圭は葉流火から離れられなくなる予想くらい、簡単にできる。だが、それでも圭はもう選択してしまった。生き地獄の、未来への先送りを。
    「俺を好きになれ。好きになって、圭」
    「……催眠かよ」

    *

     自分の真の価値を思い知ったとき、こんなにみじめな存在に成り下がるなんて。落ちぶれるというのはきっとこんなことを言うのだろうと圭は思う。
    (何をやってるんだ俺は)
     自分が葉流火のバーターでしかなかったことは、昨晩、夜が明けるまでの時間をかけて受け止めて、呑み込んだはずなのに。葉流火のためにその立場を甘んじて受け入れようとしたのに。
     二人で陽盟に行けることを喜ぶ葉流火を前にして、どうして葉流火を責めるようなことをしてしまったのだろう。
    (こんな溝を作るつもりじゃ)
     葉流火にあんな、絶望した顔をさせてしまった。
     葉流火は必ず後悔するだろう。
    (そんなつもりじゃなくて)
     どうしてあそこで我を出してしまったのか。今まで何だって呑み込んで、葉流火には微笑みだけを向けてきたのに。
    (台無しだ)
     圭が自分で台無しにしてしまった。
     葉流火を利用して、自分の恋心を満たそうとした圭への罰なのかもしれない。なんてむごい。
     もう、葉流火との関係は終わりだ。葉流火にきずを、作ってしまった。圭が見つけ出し磨き上げた何より素晴らしい宝石だった葉流火に、瑕を。
    (もう俺は、葉流火のコンディションを損ねるだけの存在だ)
     事実、圭が受ける葉流火の球はどんどん、乱れてきている。葉流火が精神的に脆く、あんなことがあれば調子を崩すのは分かっていたのに。
     それでも日々は続くし、瓦解した関係はどうしようもなく崩壊していく。
     葉流火が圭にふれなくなった。それを当然だと思っていたのに、唐突に、縋るかのように圭を抱き締めてくるようになった。監督から陽盟の推薦への返答の催促があった日からだ。
    「側にいて、圭」
     葉流火のその声が掠れているのが、哀れで仕方がない。
    (全部俺のせいだ)
     今の葉流火に必要なのは自分ではない気がしてならない。圭が葉流火を傷つけたのだから、圭が葉流火を修復しなければならないのに。
     圭はいつだって、自分の責任は自分で全うしてきた。だのに、努力する気力は失せ、そのための方策も思い付かない。
     全て。
     全てやり直したい。
     生まれ変わりたいだなんて、馬鹿なことが頭を頻繁に支配するようになった。
    「……め! 要! どうした? 監督が呼んでるって何度も言ってるのに」
    「あ……悪い」
     意識が、記憶が飛んでいるようなことが起きるようになった。
     その都度また、こんな見るに堪えない自分は捨てて、生まれ変わりたいと願う。生まれ変わって、もっと葉流火のために笑ってやれる、葉流火を傷つけない、そして何より葉流火が圭だけを見るようなことを起こさせない、そんな人間になりたい。
     あんなことがあったのに圭の側を離れようとしない葉流火に、肩を揺さぶられてはっとすることも増えた。
    「圭、どうしたんだ」
    「ああ、悪い。気にすんな」
     そう誤魔化した一瞬の後には、何をしていたか不明瞭になることすらある。
    「……い」
     葉流火が何を言っているか、もう、圭には分からない。
     ここは何処で、いつで、何故圭はここに立っているのか、それすら圭は認識できないけれど。
     これだけは伝えなければ、清峰葉流火の未来のために。
    「俺のことは忘れろ」
     葉流火が嫌だと首を振る。
    「陽盟で、お前に新しいキャッチャーが待ってる」
     葉流火が嫌だ圭と一緒にいたいと涙をこぼす。
     でも圭はもう。
    「だから、全部忘れろ」
     手から転がり落ちた蓮のチャーム、それが地面にぶつかる音が、最後の記憶だ。
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