チェリー・ピンクの日 シニアに上がってから、練習量が増えた。
宝谷という名門シニアでは、一年だからといって練習に上の学年との差はない。付いてこられないのなら勝手に脱落しろ、という競争社会だ。
小学生としてはとても体格が良かった葉流火でも、三年とのフィジカル差はやはりある。投球練習や打撃練習はともかく、ランニングや筋力トレーニングを上の学年と同じようにこなすのは厳しい。毎日練習後にはヘトヘトに疲れている。
だが──葉流火が本当に疲れるのは、家に帰ってからだ。宿題が出ている日に、それを終わらせること。中学になってどの科目もとても難しくなったから、葉流火ひとりではとても宿題はやり遂げられず、いつも圭に教えてもらっている。
圭と一緒にいられるのは嬉しいのだが──中間テストが近いとかで、宿題は増えている。うんざりしている葉流火だ。
「一応勉強もしとけよ。中学は義務教育だから、出席さえしとけば卒業できるけど、あまり成績が悪いと将来、同級生にSNSでバラされるぞ」
圭にもそう釘を刺されている。葉流火が勉強が苦手なのは圭が一番分かっているはずだが、どんなことであっても葉流火が馬鹿にされるのが圭は気に食わないらしい。なので学業面では、圭はチクリと棘を出してくる。
(圭は賢いから勉強も苦労してないけど)
葉流火は勉強が苦手だ。子供の頃食べられなかったピーマン以来の、大の苦手だと言っていい。ピーマンは克服できたが、勉強はどうにかなる気がしない。ひとつ、溜息を吐いた葉流火だ。
「葉流火、集中しろ」
「ううー……圭ちゃん厳しい」
「圭ちゃんじゃない。圭」
中学に上がってから、圭は葉流火の呼び方を変えた。いつまでも『ちゃん付け』ではいけないと。そして葉流火にもそうしろと言ったのだ。
(一番の友達みたいで、前のも好きだったけど)
だけれど呼び捨てにするのも、圭のかっこよさを強調するようで、悪くない。だけれどまだ口が慣れていなくて、気を抜くと葉流火は前の呼び方に戻ってしまうのだ。
「ほら、勉強終わったらデザートが待ってるぞ」
圭がそう指摘したのは、葉流火の母が盆に載せてきてくれたサクランボだ。
貰い物の高級品らしく、母としては本当はいつも葉流火の面倒をみてくれている圭へのお礼のつもりらしい。だから葉流火がこれを食べられるのはあくまで圭のついでなのだが、今や圭によって葉流火のやる気を出させるための餌になっている。
「圭はもう宿題終わっただろ。先に食べてていい」
「お前を差し置いて一人で食うほど人でなしじゃねェよ」
つっけんどんに言うくせに、内容は優しいことを言う圭が、葉流火は好きで好きでたまらない。圭のためにも頑張ろうと思う。
だが。
「──……分かん、ない、っ!」
「…………休憩するか、葉流火」
結局圭に気を遣わせた。しかし休憩の提案はありがたい。
疲労困憊でテーブルに突っ伏した葉流火の髪を、圭が撫でてくれる。
(気持ちいい)
中学に入ってすぐの頃だったか、圭がそうしてくれるようになった。子供扱いされている、みたいだと思うが、葉流火は圭のその動作がとても、心地いい。圭の指に大事に撫でられている自分の髪が羨ましいくらいだ。
(圭にもっとさわられたい──さわりたい)
こうされているときいつも思い起こすのは、まだリトルの所属だった頃、寝ている圭にこっそりキスをした日のことだ。
感触も温度も、何度も、すり切れてしまいそうなほどに葉流火は思い出している。あの肌の一部が今、意思を持って、葉流火にふれてくれていると思うと、何ともいえない悦びが身体に満ちる。だから葉流火は決して頭を動かさず、圭にされるがままになっている。そしてしあわせな記憶を反芻する。
そうして、あの記憶に辿り着くのだ、いつも。
後ろめたく、それでいて甘美な、思い出。
(ピンク、だったな)
あれから、圭も背が伸びて成長している。
今の自分たちは身体が大きく変わっていくときのようだが、まだあの美しいピンクは圭の身体にあるだろうか。
対象がはっきりとした性欲を葉流火が覚えたのは、あのきれいなピンクをどうにかしてしまいたいと思ったのが初めてだ。だから、ではないが──髪を撫でられているだけで圭を脱がせたいとか考えてしまって、机に突っ伏していてよかったと思う葉流火だ。きっと欲望に満ちた顔をしてしまっているから。葉流火は表情を変えないようにいつも努力しているのに、何故だか圭には見破られてしまうのだ。
「葉流火、こっち向け」
「ん?」
ちらりと横目に見た視界に、赤い丸いものがふたつ、揺れた。
「これだけ食べていいから、やる気出せ」
圭の言葉にそれがサクランボだと気付く。
起き上がった葉流火が圭を向くと、双子のサクランボを圭がこちらに向けていた。近い。サクランボが口に近い。
「ほら、あーん」
圭が何でもないような顔をしてそう言った。
あーん、とは。
圭が手ずから、食べさせてくれるということだろうか。
葉流火の心臓が跳ねる。好きな子からのあーん、なんて男の夢すぎる。
だが、本当にそんないい目をみていいのかという気持ちになる。だって葉流火は勉強ができなくて、そのせいで休憩することになって、圭の時間を余計に奪っているのに。
「け、圭」
「要らないのか?」
「要る!」
慌てて大声を出してしまった葉流火だ。それに何故だか圭が笑ってくれて、葉流火のドキドキはもう、頂点に達している。
「あ」
「あーん」
「……あーん」
まるで馬鹿なカップルみたいなやり取りをしている自覚はあるが、ここでためらったなら一生後悔する。
「うまいか?」
甘酸っぱい、のだろうとは思う。だが、圭がじっと上目遣いで見詰めてくれるので、その様子がかわいくて、もはや味はよく分からない葉流火だ。なので。
「世界一おいしい」
「そうか。ほら、種吐き出せ」
「ん」
ティッシュで口許から種を取ってくれるというご褒美付き。生きてて良かった。圭の指は、爪の下までピンクでかわいい。ごくりと喉が鳴る。
「ほら、もう一個」
当然と言わんばかりにサクランボを差し出してくる圭に、葉流火は首をぶんぶんと横に振った。
「俺はいい。圭が食べて」
もう一度、なんて、心臓が持たないと思う。それに、葉流火だけが食べるなんて、きっと悪いことだ。──何より。
「俺はもう宿題終わってるって」
「いいから」
取り残された双子のサクランボの片割れを圭から奪い取る。
「圭、あーん」
きょとん、とした顔の圭なんて随分久しぶりに見た。圭の視線がサクランボと葉流火の顔を行ったり来たりする。
「俺はそういうのは」
「いいから。あーん」
圭の口の前にサクランボを突き出すと、圭はかすかに目をうろつかせて、頬をピンクにした。
「圭、照れてる?」
「照れてない」
圭は嘘吐きだ。絶対に照れていると思う。ああ、あのピンクの頬にかぶりついてみたい。きっとサクランボよりおいしい。
「……ん」
ちょっとだけ開いた唇に、押し込んだサクランボ。圭の舌に攫われるのに目が釘付けになる。
(……圭、えっちすぎる)
葉流火がそう思っていることを圭本人が聞いたならばきっと怒る。だから葉流火は全力で表情を消して、サクランボを食べる圭を一生懸命眺める。かわいい。
「……ちょっと腹も膨れたろ。宿題の続きやるぞ」
「う」
宿題は嫌だ。
だが、これを終えたら圭が皿の上のサクランボをあーんしてくれるかもしれない。そんな下心を全力で働かせて、葉流火は何とか宿題を全て終えた。というか、圭にほとんどヒントをもらって山を越えた、という体だ。
「お疲れ。おばさんに飲み物もらってくるから、葉流火は休んでろ」
頭をよしよししてくれた圭に、葉流火は慌てる。
「いい、俺が行く」
「いいから。休めるときに休め、疲れてるだろ」
すっと圭が立ち上がったので、情けないが葉流火は圭に甘えることにした。さっきからずっと甘えっぱなしだが。
床に転がると、ひんやりとしていて煮えた思考には気持ちがいい。
(圭、無理してないのかな)
葉流火がこれほど疲れているのに、圭はまるで平気そうにしている。──昔からそうだ。圭の隠れた努力を、葉流火は見ないことにしているけれど、心配なのは心配だ。それなのに更に葉流火を甘やかして、圭は本当に大丈夫なのだろうか。
そう考えていると、ドアの開く音がした。反射的に身体を持ち上げそうになるが。
「いい、そのままにしとけ」
圭の穏やかな声が葉流火を制止した。
「……うん」
こういうときまで、圭の言うことを聞くのは、いいことなのかどうなのか、葉流火には分からない。
テーブルに盆を置いた圭が、葉流火のすぐ横に座った。
「葉流火、頭、こっち寄越せ。床じゃ痛いだろ」
「え?」
葉流火が見上げた圭が、ぽん、と叩いたのは圭のふとももだ。
(それって)
膝枕、という奴では。
さすがの葉流火も、動揺を隠せなかった。宿題をこなしただけで好きな子に膝枕してもらえるなんて、夢か何かなのだろうか。
「ほら、早く」
急かされて、葉流火は慌てて圭のふとももに頭を載せた。
ふとももは固い、けれど。圭がこんなに近い。
心臓がばくばくとうるさい。圭が髪を梳いてくれるからもう、目を開けているのすら恥ずかしくなってくる。
だが、葉流火はふと、気が付いてしまった。
圭が、あまりにも柔らかく、微笑んでいるから。
(もしかして圭、甘えてる?)
今甘やかされているのは葉流火だ。だけれど、葉流火との接触を求めたのは圭の方。髪を撫でてくれるのも、あーんも、この膝枕も。全て。
(圭はきっと、甘えるなんてできないから)
だから、もしかしたら。葉流火を甘やかすことでしか、圭は甘えられないのではないか。
(まさか)
そう思うのに、どうしても確かめたくなった。自分が──圭にとって甘えられる存在であるか否か。
「圭」
思い切って圭の腰に腕を回して、抱きついてみる。愛おしくて困るけれど、それよりも。
「──っ」
圭が息を呑むのが分かる。髪を梳いていた手が止まる。
(やっぱり嫌、かな)
幼なじみに抱きつかれる、なんて。葉流火は永遠にだってこうしていたいけど。
だが。
するっ、と。圭の指が葉流火の耳を撫でた。
「甘えんぼ」
圭のその声はまるで蜜だ。背中に手のひらの感触。温かい、いい匂いがする、ドキドキする。
(圭)
ああ、駄目だ、この少年のことが、葉流火は好きすぎる。
腕の中の細い腰も、体温も、優しく撫でてくれる手も。
要圭の全部が全部、葉流火だけのものであってほしい。
こんなにしあわせなのに、自分でぞっとするほどの独占欲が心の中にある。
(圭が甘えてくれるなら)
一生この腕の中から放したくない。
(圭、どうか──俺だけに甘えて)
誰にも渡さない。葉流火だけが圭のこんな一面を知っていればいい。
(圭、好きだ)
心の中だけで叫んで、そっと腕に力を込める。
「……葉流火」
呼んでくれる声が、さっき食べたサクランボみたいに甘酸っぱくて。
こんな風にふれ合えるならば、心を預け合えるのならば、練習も厳しい宿題も、葉流火は喜んでこなす。
だからずっと、ずっとこのままでありますよう。