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    はやく書き終わらないかな〜

     起きてすぐの着信音に、またおひいさんかと相手も確認せずに出た電話は無言で切れた。なんでって、朝5時半に電話かけてくるような相手はおひいさんしか浮かばなかったから。
     間違って切ったのか? 一応画面を確認すれば、けれど表示は『七種茨』だった。
    「……は、茨?」
     よほど急ぎの用事だろうか。茨はメッセージは多用するけれど、電話はあまりかけてこない。仕事の話は後で見返せるようにメッセージで送ることにしているらしい。ちなみに他人に見られたくないような話は呼び出すだけ呼び出して口頭での説明になる。仕事以外でも、多忙な茨はオレとのやりとりをメッセージで済ませることが多かった。
     その茨から、こんな早朝に着信。かけ直したほうがいいのかもしれない。スマホを握ったまま数秒考え込んでいると、もう一度、今度は通知音が鳴り響いた。
    「うわっ」
     驚いて、思わず小さく呟く。聞き慣れたメッセージ通知の音だ。
    『早朝から失礼します。起きているようですので、以下のスケジュールについて確認の上、不可能な部分があれば返信をお願いします』
     起きているようですので、というのは電話を取ったからだろう。電話をかけてきたことから考えれば、寝ていても叩き起こすつもりだったに違いない。
     とにかく送られてきたスケジュールを確認する。きょうの自分の予定ーーダンスレッスン、雑誌インタビュー、Eveで番組収録、それに連載している原稿の締切まで、自分でも把握している内容が太めの文字で書かれていた。特に仕事が増えた様子はない。ただその合間を縫って、細めの文字でいろいろな指示が挟まれていた。
    「閣下朝食、レッスン前コンディション確認、Gスタお迎え……?」
     普段は茨がやっているナギ先輩周りのアレコレだ。ご丁寧に朝食と夕食のレシピも付いている。文末にはオマケみたいに『本日のダンスレッスンは欠席させていただきます』。珍しい。4人揃ってのレッスンはなかなか時間が取りづらいから、茨だってかなり重視してるのに。
    『なんかありました?』
    『体調を崩しておりまして』
    「えっ」
     思わず声が出てしまった。あの茨が、普通の人みたいなこと言ってる。丈夫な上に多少の無理は見せないタイプってイメージが強いから、素直に体調不良だなんて言われるとびっくりする。隠せないぐらいひどいんだろうか。
    『風邪?』
    『たぶん』
    『ひどいんですか』
    『自分は問題ありませんが、万が一にも閣下や殿下にうつすわけにはいきません。無理に出る必要のないスケジュールでしたので、自分の予定はリスケしました』
     なるほど。そういや最近あいつは「少しでも体調が悪いと感じたときには必ず連絡してください。周囲にまき散らしては困りますし、できる限り休めるよう調整しますので」としつこく言っていた。いくらこんな業界といえど、最近はそういうアレコレが大事なんだとか。あれは自分にも適用されるらしい。そりゃ茨がどんだけ丈夫でも、うつされる側はそうじゃねぇかもしれないんだし当然か。それでナギ先輩のお世話をオレに頼んできたと。そういう理由なら早速、朝食の準備をしないと間に合わなくなる。
    『分かりました。このスケジュールで動けます』
    『何か問題が起きた際には速やかに連絡するように』
    『それはいいんで、おとなしく寝ててくださいよ』
     送ったメッセージには返事がなかった。休む気ねぇな。病院に行けだとかなんか食えだとか、そういうのはオレから言ったところであしらわれるだけだろうから、メッセージはそれで最後にしておいた。

    ***

     茨は副所長として、コズプロの偉い人として、規範として休んでいるだけで元気なんだと勝手に思い込んでいたオレの手には今、コズプロオフィスで茨を探していたプロデューサーから預かった荷物がある。
    「データは送ったんだけどね、やっぱり実物も見せたほうがいいと思って」
     そう言って持ってきていたそれは布見本らしい。急な出張が入ったから行く前に渡せて良かったと言いながらバタバタ去っていった彼女は、それでもきちんと茨に連絡を入れてくれていたようで、オレが『今から届けに行きます』と送ったメッセージには『了解』とすぐに返信が付いた。
     茨が寮に戻らないときの居場所をオレは知っている。あとは誰が知ってるんだろう。さすがにナギ先輩には教えてるか。オレが知っているのは別に何か特別な理由があるわけじゃなく、たぶん茨にとって気安く扱いやすかったからってだけ。今回みたいな理由で届け物をしたり預かり物をしたり、3回ほど呼ばれたことがある部屋だ。
     この部屋のことは誰にも言うなと念押しされている。だから一応ナギ先輩にだって言っていないし、ナギ先輩から聞いたこともない。
    『着きました』
     オートロックの前でメッセージを送れば、目の前で勝手にエントランスホールの鍵が開いた。一応、後ろから誰かが入ってこないことを確認して鍵が閉まるのを見届け、天井が高く造られているせいで足音がきれいに響くホールを抜けてエレベーターへ。ある程度の広さが確保されているくせに妙に息苦しい箱が上へと上がっていく。窓でもあればいい景色かもしれないのに。あとは茨の部屋の前でインターホンを押すだけ、というところでやっぱり勝手に鍵の開く音がしたから、こっちもインターホンは押さずにそっとドアを開けた。
    「茨~、お邪魔しますよぉ」
     返事はない。きょうの茨は外出禁止を自分に課していそうだと思ったから、適当に飲み物や食べ物も少しだけ買ってきた。入れるものを持っていなかったからレジで買った袋がガサガサ音を立てる。返事はないけどコレを冷蔵庫に入れたりもしたいし、と靴を脱いだところでピコンと通知音。
    『あとで確認しますのでソファにでも置いてください』
     ……んん? 違和感に首を傾げてスマホを再びポケットに突っ込む。オレに風邪をうつさないために会わないようにしていると言われたら、そうっすよねぇ、と頷くけれど。静かだ。家全体が静かすぎるし、そもそもソファは茨の仕事机と同じ部屋にある。たぶんあそこは家のつくりとしてはリビングだけど、茨はこの家自体を仕事にしか使っていないし、自分以外を入れるような予定がないからわざわざ分ける必要がなかったんだろう。
     殺風景な短い廊下を、手に持った袋を相変わらずガサガサさせながら歩く。リビングまでは玄関からせいぜい10歩ほどで、磨りガラスの扉を開いた向こう側には、やっぱり。
    「……いない」
     茨は仕事部屋にいなかった。今まで呼びつけられたときには毎回、この部屋で仕事をしていたのに。オレが来るのを見越してか電気こそ付いているものの、仕事をしていた形跡もない。きれいに整っているというよりは使われていなかったとしか思えない部屋の空気はひんやりとしていて、エレベーターと同じく妙に息苦しくもあった。
     2LDK程度の家だ。玄関、リビングが分かっていて、ついでにトイレも借りたことがある。となれば残りの部屋の場所だっておよそ見当は付く。妙に静かな部屋の中では何となく足音も潜めてしまう。そうっと静かに歩いて、ここだろうというドアの前で小さく息を吸ってから、まるで泥棒みたいにひっそりドアを開けた。
     今までよりもさらに一段、空気が重くなる。確実に澱んだみたいな、長く閉め切った暗さと重さに混じる発散された熱。ドアを隔てて2℃ほど気温が上がったのはきっと気のせいじゃない。あ~、この感じは知ってる。こいつ、熱があるんだ。しかも結構高いやつ。
    「……なにを、勝手に」
     いつもの艶やかさは見る影もない、掠れた音が辛うじて耳に届いてきた。と同時にケホッと小さく咳き込んで、それで文句は不自然に止まる。
    「あんた、オレに『問題ない』って言いましたよねぇ……?」
     まず呆れてしまった。めちゃくちゃ体調悪そうなんですけど、どういうことっすか。何が『問題ない』のか説明してみろ。勝手に部屋に入ってきたオレを咎めたいんだろうに、起き上がりすらしない。普段の茨からは考えられない。
    「本当に、もん、だい、」
     身体こそ起こさないものの、何かを言いかけて再びケホケホ咳き込んで。
    「ああぁもぉ~! いいから黙って寝ててくださいよ!」
     説明してみろ、とは思ったものの、本当に説明されたって納得できるわけない。全然『問題ない』ように見えないんだから何を言ったって無意味でしかない。とりあえず、こんな勝手なことしてこいつの風邪でももらって帰ろうもんならマジでキレられる。慌ててポケットからマスクを取り出した。医療用のしっかりしたヤツだって茨本人が言ってたから、まあちょっとは意味もあるはず。マスクを着けてからズカズカとベッドに近寄った。起き上がろうとしているのか、もぞもぞ動く身体を布団の上から軽く押さえつける。
    「起きなくていいんで」
     それだけで諦めたように静かになった。とろりと潤んだ瞳に鋭さはなく、でもまだ悔しさみたいなものが滲んでいる。しんどいくせに。ホントに素直じゃねぇな。
     こんな状態だってこと、オレにバレるつもりなんてなかっただろう。遠目でさえ一発で高熱だと分かるぐらいで、近づいてしまえば茨を核として熱気が振りまかれているみたいだった。この部屋の温度はこいつが上げてる。間違いない。
    「病院……はどうせ行ってないんでしょ。なんか食いました? 飲みもんは?」
     オレが偶然届け物を頼まれなければ、きっとこいつは何も言わずに隠し通したはずだ。それが分かっているから、つい責めるみたいな口調になった。自分の声が低くなってしまったことに気が付いて、慌てて声を和らげる。返事はない。けれど気のせいかもしれないぐらいほんのちょっと、微かに首を横に振った、ような気がする。
    「ま、でしょうねぇ〜。ったく、ひどいんなら最初から言ってくださいよ。もうちょいなんか買ってきたりとかできたのに」
     別に怒ってるわけじゃない。頼ってほしかったとは思う。朝、連絡をくれたときにでも、ついでにこれが欲しい、ってひとことくれていたら。そうしたらオレはいつでも茨のために動くつもりぐらいあるのに。ずっとそう伝えているつもりなのになあ。だって体調が良くないからちょっと助けてくれって、それぐらいなら別に頼ったっていいでしょうが。けどオレは茨からそうやって伝えてもらえない。
     おとなしくなってしまった茨の首筋に手の甲を当てる。あっつ! マジで熱い。仕事と仮眠ぐらいにしか使われていないらしいこの部屋に、体温計や薬なんてなさそうだ。買ってきてやりたいけど、茨は今、オレを歓迎していないだろう。このマンションはオートロックで、オレが買い物のために部屋を出てしまったら勝手に鍵が閉まって、合い鍵を持っているわけでもないオレは、茨が開けてくれない限りもうこの部屋には戻ってこられなくなってしまう。
    「言われたとおり荷物はソファのそばに置きました。確認、無理そうですけど」
     言いながら今度は手を額に当てても、茨は文句も言わない。目を開けているのもつらいのか、何度も閉じかけているのを無理やり開き直すみたいに緩慢に瞬いている。僅かに開いた唇からは高温の吐息を何度も浅く吐き出しているので、見ているこっちが苦しくなりそうだった。持ったままだったボディバックから未使用のタオルを1枚出して、額に滲む汗を拭ってやる。
    「……急がなくて大丈夫じゃないっすかねぇ。あの人、めちゃくちゃ急な出張だったみたいでバタバタしてたんで」
     だからおとなしく寝てろ、とは言わずともさすがに起き上がらないとは思う。けどコレ茨だからなぁ。そう考えると、オレに見られても平気な顔して高熱を隠しきってニコニコ元気よく敬礼とかしてこないだけ、以前よりはマシだ。もっと前ならこいつは絶対こんな姿、何があってもオレに見せなかったし、オレだって違和感に気付かず言われたとおりに届け物だけして帰っただろう。
     いつまでもそばにいたところで、むしろ寝るには邪魔になる。かといってこの状態のこいつを放ってさっさと帰ってもどうせ気になるし、リビングにでも居させてもらおうか。もう目を閉じたまま瞬きもしなくなってしまったのを一度確認し、そっとそばを離れようとした瞬間。
    「っ、うわっ!?」
     高温に腕をガシリと掴まれた。思わず叫び声が出たので、起こしてしまうと咄嗟に空いた手で口元を押さえたが、よく考えずとも掴んできたのは眠ったと思ったはずの茨本人だ。
    「……る、」
     掠れた声が落ちる。
    「え、何、なんて?」
    「うつる、から、問題ない、ので」
     かろうじてそこまで聞き取って。
    「あ~……はい……」
     なんかもう、それ以外に出てこない。そもそも相手は「どこが問題ないんすか」なんて言い合いをできるような状態じゃないわけで。それでも茨は自分の状態よりも、そばにいるオレを気にしてる。はぁ、とこぼれてしまった溜息は思いのほか深かった。
     掴まれた腕から力が抜けていく。最後に「帰れ」と唇が動いたのは見なかった振りをした。

    *****

     普段から早寝早起きを心掛けているから、夜更かしは得意じゃない。ふあ、と欠伸が出たのはちょうどいい区切りで、読んでいた台本は閉じてスマホに手を伸ばす。そろそろ0時。ここに来て3時間ほど経っていた。
     茨はおとなしく眠っているらしくなんの物音もしなかった。台本チェックはしていたけれど、正直、茨の容態はずっと気になっていたから、台本に集中しすぎて聞き逃したということもないはずだ。やっぱり病院に連れていったほうがよかったか。でも本人が絶対嫌がるし。せめて薬。買いにも行けないけど。看病だけでも……それも受け入れてもらえないですけど。ため込んだ息を深く吐き出して、ソファに沈んでいた身体をぐっと起こす。ここで一夜を過ごしてしまっては、さすがに茨が怒るだろう。
    (や、たぶんもう怒ってんだけど)
     頼まれごとは終えたのに、勝手に部屋を覗いて病人に近寄って、帰れと言われたにもかかわらずまだここにいる。もう日も変わるのに。何か買ってこられるわけでもない。そばにいて世話を焼いてやれるわけでもない。ただオレが気になるからってだけで。さすがに帰らないと。サクラくんにだって、遅くなると連絡は入れたけれど心配されてしまう。

     相変わらずリビングはしんと静かで、茨が最初に付けていた電気はまだ付いているけれど温かみなんて何も感じられなかった。寝室の熱に触れてしまったから余計に、この部屋がひんやりと冷たく孤独に感じるのかもしれない。
     帰ろう。その前に一度だけ、茨の具合を見てから。オレがここに来てから茨はたぶん一度も寝室を出ていないし、さっき見た感じだと水分を寝室に持ち込んでいる様子もなかった。熱も高かったし、さすがに水分は取らせたほうがいいだろう。買ってきたパンやなんかはあの様子だと食べられないし。
    「あんだけ悪いって分かってりゃ、もっと食べやすいモン買ってきたのに……」
     結局、教えてくれなかったことに尽きるのだ。音が乗ってしまった文句はどうしようもない。申し訳なさがありつつも勝手にキッチンでコップを探したけれど、食器は何ひとつ見当たらず、代わりに白い紙コップがあった。100個入り。オフィスでまとめ買いしてるやつと似てる。
    「マジかぁ」
     紙コップ。茨らしいと言えばそうなのかもしれない。しかも白。飾り気ゼロのやつ。そういや調理器具もねぇな。料理しないのか。まあここで作ったところで本人しか食べないわけで、あまり食事に興味のない茨がわざわざ自分のために料理をするとは思えない。仕方なく、なんの変哲もない紙コップをひとつ拝借して水を汲んだ。妙にサイズが大きいけど、何度も入れ直さなくていいようにか? 随分と大ざっぱなことで。水道水で大丈夫かと一瞬不安になったものの、そういやあいつ、サバイバルには慣れてるんだっけと諦める。どうせ水分を買いに出ることだってできないし、冷蔵庫に飲料は入っていないんだから考えるだけ無駄だ。飲まないよりはいいだろ。
     寝室に入る前に、もう一度マスクの装着を確認した。よし、大丈夫。ノックはせずに、さっきと同じようにそおっとドアを開ける。右手に持った水をこぼさないように、うるさくしないように。やっぱり暑い。ドアを隔てて、廊下と室内で温度がかなり違う。少し換気してやりたい。
     静かにベッドに近寄ってみる。睫毛長い。閉じた瞳と微かに寄せた眉。横向きに寝る癖でもあるのか、こっちを向いて眠っている。小さく開いた唇から熱を吐き出しているのが分かる。布団の上から見た感じだけれど、身体は小さく丸めているようだった。寒いのかもしれない。汗、もう一回拭いたほうがいいよな。サイドテーブルに水を置いて、さっき置き去りにしたタオルを手に取り茨に向き直ったところで、大きな目がぱちりと開いた。
    「うわ」
    「……まだいる」
     いつもあんなにハキハキツヤツヤした声してんのに。それは思わずかわいそうになるほどかさついた声で、でもさっきよりは格段に意識がはっきりしてるみたいだ。喉は熱にやられてるんだろうけど。オレに向けられた青も、本物の海みたいに水をたたえて揺らいでるけど。あと頬が赤くて……頬っつうか、顔全部赤くねぇ?
    「はいはい、まだいますよぉ。……あっっつ!」
     起きているならと無遠慮に赤い頬に触れてみると、さっきよりも明らかに熱い。
    「熱、上がってますねぇ」
    「よるなので、」
     掠れた答えが返ってくる。そういや熱って夜中に上がるもんでしたっけ。
    「いや答えなくていいから。喉痛いでしょうよ」
    「べつに」
     全然「別に」じゃない声で答えて、でも茨はそれで口を噤んだ。やっぱり浅い呼吸を繰り返しているから、意識こそはっきりしているけれどしんどいのは間違いない。
    「とりあえず水飲みましょうよ。ずーっと飲んでねぇでしょ。熱も高いし、脱水?になっちまうんで」
    「いい」
     いいって。OKってことじゃねぇよな。いらないってことか。
    「よくねぇの」
     動きたくないのか起き上がれないのか、茨はそのままぴくりともしない。仕方ねぇな。
    「ちょっと起こすんで触りますよぉ」
     青い目だけがギシリと軋むようにオレを睨んだ。さすがに今のあんたにそんな目されたって怖くねぇんですけど。首の下に手を差し入れて肩を支え、自分のほうへもたれ掛けさせるようにすくい上げる。無駄に鍛えてるわけじゃないんで、なんならこのまま抱き上げて移動させることだってできなくもないとは思う。ん~、ついでに着替えさせたほうがいいかもしれない。
    「……さむ」
    「あ、ごめん」
     起き上がったことで掛けていた布団が肩から滑り落ち、半袖から覗く腕が露わになっている。なんで半袖で寝てんだこいつ。
    「ちょっと飲むだけなんで」
     言いながら、空いたほうの手で熱い腕をさすってやると、茨は嫌そうに一度身をよじった。それでもオレの身体にもたれたまま、勝手に離れたりはしない。というか離れる元気もなさそうだ。とにかくさっさと飲ませてしまおうと紙コップを持ち上げて、口元まで運んでやる。
    「飲めそう?」
    「ん……」
     僅かに頷いたのに合わせて赤い髪がさらりと揺れる。けれど、それだけだった。この水を飲むためには、紙コップを持って顔を上に向けなきゃいけないのに、今の茨にはとてもできそうにない。紙コップを受け取ろうとは思っているらしく手を伸ばしてくるけれど、水の入ったコップを預けられるほどには全然信用できなくて、オレはコップを掴んだ手を離すこともできなかった。
    「ストローあればよかったっすねぇ。そしたらそのままでも飲めたし」
     あとは、……口移しとか? いや、ないない。元気になったときにどれだけキレられることか。仕方ないから、微かに震える唇に無理やり紙コップを寄せてやってそのまま傾けた。少し、本当にほんの少し、茨の喉に水分が落ちていった気がする。それ以上にこぼれたけど。
    「つめた……」
    「ごめん……」
     だってしょうがねぇでしょ。とにかく、もうこれ以上は飲んでくれないだろう。揺らさないように、衝撃を与えないようにそっと枕に頭を戻してやると、茨は安堵したみたいにゆっくりと息を吐き出した。
    「本当に、問題ないので、帰って大丈夫ですよ。いつも、寝れば朝には、治っているので」
     ゆるゆる、呼吸を挟みながら静かに紡がれる言葉に、常習犯かとうなだれる。オレは全然知らなかった。茨だって人間なんだから、どんだけ丈夫だってたまには体調を崩すことだってあるだろう。そんなこと考えたこともなかった。熱は夜に上がって朝には下がるって言うし、ただの風邪みたいだから、茨の言うとおり朝には元気になっているのかもしれない。でもさぁ。
    「病院とか薬とか、なんかあるでしょうが。食いもんとか、熱あるんだから水分だって」
     こんな状態の茨に言ったって負担になるだけだって、分かってんのに言わずにいられなかった。茨は伏せていた目を開いて、透き通った青でオレを見る。どこもかしこも熱くなった茨の、そこだけがひどく冷静に、いつもどおりの温度を保っているみたいだった。それから唇の端を僅かに持ち上げ、呆れたみたいに無音で笑う。
    「ジュン、こういうとき、戦場で、生き延びたければ、じっと、動かないことです」
    「……ったく、ここは戦場じゃねぇんですけど?」
    「弱っているなんて、知られたら、いつ、どこから、攻撃を受けても、おかしくない」
     相変わらず熱にやられてガサガサ掠れた声で、茨はご丁寧にオレに指南する。
    「死にたくなければ、ひとりで、」
     喉、痛いでしょ。もう喋んなくていいんで、じゃあ早く寝て早く治してくださいよ。頼むから、これ以上は。
     茨の一言一句が、なにかとても受け入れがたいものみたいにオレを締め上げて、だからオレは気が付いたら茨の目を覆っていた。熱で反応が鈍くなっているからか、そうしても茨は特に何も言わなかった。ただこんな状態でさえ饒舌だったのがぴたりとおとなしくなっただけだった。
    「……おやすみ」
     声のトーンが下がったのが自分で分かる。今、こいつは体調が悪いんだから、優しくしなきゃと思うのに。
     悔しい。心配だとか悲しいだとか、そういうこともなくはないけど、何よりも悔しい。悔しくて仕方ない。茨はまた眠りに落ちてくれたらしい。瞼からそっと手を離しても、再び水をたたえた青をきらめかせることはなかった。



     茨の育ってきた施設のことには全然詳しくない。こいつ、自分からは話さないし、無理やり聞きたい話でもねぇし。オレも同じように、子どもの頃の話なんてしたくはないから。でもそれが真っ当な場所じゃなかったことぐらいは何となく分かる。
     自分だってろくな生育環境だったとはとても言えない。でもやっぱり幸せだった時間も確かにあった。まだまだ小さかった頃、それこそ親父がオレをアイドルにしようと躍起になる前には、熱を出したとき母親が看病してくれて、子ども特有の変なこだわりで冷えピタを嫌がるオレのために冷たいタオルを何度も取り替えに来てくれたり、りんごをすり下ろしてくれたり、そんな記憶だってある。リバースライブで両親のことを昇華したせいか、そういう良かった記憶を思い出したりもした。
     でも茨は小さな頃から、弱っていることを誰にも知られないようにただじっと息を潜めて、重苦しい夜をひとりきりで耐えてきたのかもしれない。まるで野生動物だ。そうして朝を迎えたら何もなかった顔をして憎まれ口を叩くだけ。
     ああそうだ、伏見さん、あのひとは助けてくれなかったんですか。幼なじみ?なんでしょ。
     自分だってずっと気付かなかったくせに、オレは卑しくも他人に矛先を向ける。ぎゅっと握りしめた手が痛くて、傷つけたら茨に叱られる、と慌てて力を抜いて代わりにタオルを握りしめた。
    「……あ、タオル」
     そうだ。せめてオレがしてもらったみたいに。
     タオルと、ついでにほとんど中身の減らなかった紙コップを持って静かに部屋を出る。キッチンに戻ってコップの中の水を捨てた。ぱちゃんと跳ねてしまった水滴が腕にかかって、ひんやりと気持ちが良かった。タオルのほうは濡らして絞る。本当はこまめに取り替えてやれればいいんだけど、それはむしろ茨の負担になる気がする。オレがそばにいることで、あいつは気を抜いて休むことすらできないのかもしれない。分からない。ずっと、何か自分じゃないものがそばにいると思って気を張っているんだろうか。
     絞ったタオルと、一応新しい水も持って寝室に戻る。そろそろ廊下と寝室の温度差にも慣れてきた。一瞬だけ、と細心の注意を払ってカラカラと窓を開けると、真夜中の青白い空気が流れ込んできて、オレにとっては心地良かった。
     やっぱり相変わらず小さく身体を丸めるように眠る茨は、誰にも見つからないように隠れているみたいだ。濡らしたタオルを額に当ててみると、ちょっと首を振ってから、ころんと上を向いた。ちょうどいい。そのまま額にタオルを乗せても嫌がられる気配がなかったので、ゆっくりと手を離す。気のせいか、茨の表情が微かに和らいだ気がした。


     茨はきっと最初から、オレが思うよりEdenを大事にしていたけれど、いつでも自分とEdenの間には一線を引いていた。ずっと「Edenはビジネスのつながりです」と言い続けてきた茨がその主張を諦めたとき、オレは嬉しかった。だってオレは茨から、ビジネス以上に大事にされている実感があったから。だから、茨がEdenのことを大事にするみたいに、オレだって茨のことをちゃんと大事にしたいと思ってる。
     でも。オレがどれだけ助けになりたくても、茨からは届け物ついでの買い物ひとつすら頼んでもらえなかった。熱が高くてつらいはずなのに、「しんどい」のひとことすら聞かせてもらえなかった。普段ならどうでもいい理由でパシリにされたり、ナギ先輩とおひいさんに対するしょうもない愚痴を聞かされたりもするけれど、本当に必要なときに手を伸ばしてもらえなかった。
     分かってる。茨にはオレを拒否する意図なんてなかっただろう。今まで一度も助けてもらったことがないから、茨にとっては「ひとりきり」がいつもどおりで、確かに「問題ない」。だって茨はそれ以外を知らないから。それに、大事なEdenのメンバーに万が一にでも病気をうつしたとなれば、それこそ茨は後悔する。
     分かっているのに、オレはさっき生まれてしまった「悔しい」をどうにもできずに唇を噛む。だってさぁ、茨。
    「ここは戦場じゃねぇし、オレはあんたの味方なんですよ、茨……」
     無条件に味方だと信じて寄りかかってほしい。さっきのはきっと、意識が朦朧としていたせいで昔の記憶を口走っただけ。今の茨は自分がひとりきりじゃないことを知ってくれているはずだ。少なくともEdenが、ナギ先輩とおひいさんと、役に立つかはともかくオレもいるでしょう?
     オレは最初よりずっとずっと茨のことを信頼している。茨がオレで遊んだり愚痴を言ったり、口が悪かったり楽しそうに笑ってくれたり、全部、気を許してくれているからだってのは別に自惚れじゃないはずだ。なんとなく緩く気安く仲良くなって、相手もそう思ってくれている。それが分かっているから余計に悔しいのかもしれない。

     起こさないように静かに、再び窓に手を掛ける。部屋の中はこんなに暑いのに、窓枠はどこまでも冷たい。外はしんと静かで、カラカラ窓を閉める音が大きく響いた気がした。額のタオルはもうぬるくなっているだろう。取り替えてやりたい。オレがいるから安心して眠って大丈夫ですよって、信じてくれたら。そうしたら、朝まで看病したって構わない。それぐらいしますよ。いつも世話になってるし、何度も助けられてる。オレだってあんたを助けますよ。
     それなのに、オレはここに居ていいのかどうかすら分からない。オレがいるせいでゆっくり休めないかもしれないと思うと、自分がそうしたいというだけで居座ることはできなかった。
     ひとりきりで敵から身を隠して眠る、いつかの小さな茨のことも、助けられたらいいのに。
    (……帰りますね、茨)
     ゆっくり休んでください、おやすみなさい。
     本当はそう伝えたかったのに、何も言葉にはならなかった。
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