西日が染め上げた白髪に、学生時代の鮮烈な記憶が蘇る。黒鉛の走る音とページの進む音が満ちていた、あの静謐の教室のこと。2人きりのあの時間、交わした唇の柔らかさを想う。
遠くで帰り道の子供がはしゃぐ声がする。
「ウァプラ」
「あ?」
隣のウァプラが下げていた視線をこちらに向ける。ウァプラの膝の上に座り、顎を持ち上げた。刹那に絡んだ青を瞼の内側に閉じ込めた。身をかがめていき、唇が重なるその瞬間に、阻むように鳴ったウァプラのスマートフォン。瞳を開くとウァプラの視線が下がっていた。それを釣られて画面を覗くと、トーク画面の相手を捉えた。目の前の男のお気に入り。甘やかな橙の少年から、なんてことのない日常の連絡が届いている。
返事を打ち込もうとする手から奪って、サイドテーブルに伏せておく。
「妬いたのか?」
意地の悪い顔で笑った。取り戻そうともせず、飼い猫の悪戯を面白がるような声で。
「違うよ」
「そりゃ残念」
間髪入れずに答えた声をまた笑う。普段は仏頂面以外の表情を知らないような顔をしてる癖に。クックッとあがる笑い声に顔を顰めて見せるが、さらに楽しそうにするだけだった。黙らせてやろうと下唇に噛み付いた。歯を立てれば薄い皮膚は簡単に傷がつく。滲む鉄の味に気分がすこしだけ回復した。
「アンドラスがすぐに帰ってくるぞ」
「…わざと言ってるだろ」
「そうだと言ったら?」
今度こそ完全に黙らせようと、赤に染まる唇を塞いだ。呼吸までも奪ってやろうと舌を絡めると、ようやく甘い吐息だけになる。互いに奪い合って、息も上がった頃にようやく酸素を与えた。
「…ねぇ、触って」
投げ出されていた手を取り、服の下に導く。見つめた青が細められる。肌に触れた瞬間にぴくりと跳ねる指。するりと撫でた後に出ていってしまう。
「……髪が床につくだろう」
戯れのように髪を弄ぶ指先。さらさらと掬ってはこぼす手慰みの癖は昔から変わらない。
「じゃあ俺が上だな」
「オマエ上で動くの下手くそだろ、無理すんなよ」
「そう?まあ安心しなよ、練習しておいたから」
ぷつりとボタンを外していく。俺に他の男の存在を見るのは気に入らないのか、眉を顰める。自分は独占されないのに、ずるいひとだ。
「サタナキア」
白い肌に赤黒い染みが散らばる。噛み付いて上書きして、ウァプラ越しに彼の存在を想う。
「アンドラスの機嫌が悪くなるんだが」
「俺の機嫌はどうでもいいのか?」
「なんだよ、なにが…」
「俺をなんだと思ってるんだ」
口をついて出た恨み言に、ぱちぱちとウァプラが瞬きを繰り返す。
「可愛いと思っている」
「そういえば俺が許すと思ってるんだろ」
甘えだとむっとすれば、ウァプラは不思議そうに首を傾げた。
「ゆるしてたのか?」
「……」
許していたというか。すでに絆されていて、これまでにこの言葉で許したことがなんだったか忘れてしまっていた。それに気づいて言葉に詰まった俺を見て、ゆるゆるとウァプラの口角が上がりだす。
「ふはっ、はははっ」
声を上げて笑うのは珍しい。下がったまなじりと眉。軽やかな笑い声が響いて、慣れないことをしたというように、小さく息をはいて終わらせた。
「本当に、可愛いやつだな」
噛み締めるような言葉は、恋人に向けるものではなくて、子供甘やかすようなそれが気に入らなかった。
「やっぱり今日は俺が抱く」
「なんだよ、珍しい」
裾から手を差し込んで、その肌を撫でると息を詰めた。小さく熱い吐息をこぼして、だが抵抗するように腹を押した。
「ヤるなら、夜までまて」
「なんで?」
「なんでって…」
西陽が完全に地に沈む。あんなに眩しく焼いていたのに切り替わるのは一瞬で、世界は濃紺の薄布で覆ったように染まっていく。窓の向こうの遠くで、穏やかな生活の数を示すように、橙の光が散らばっている。
「もう夜だよ」
「だから、アンドラスが」
身じろいで逃れようとするウァプラが、往生際悪く言葉にする。
「ここで俺以外の名前を出すの」
思っていたよりも低い声がでた。不機嫌を隠せないそれに、俺の方が居た堪れなくなる。服を掴んだまま動かない手を解いて、シワのついたシャツの代わりに、その指を絡めてきた。
「……あれ相手に嫉妬か?」
「そうだっていったらご機嫌取りでもしてくれるの」
「…しかたねぇな」
つまらない言葉の攻防はもうおしまい。重ね合わせた唇の熱に酔いしれる手前で、玄関の扉が閉まる音がした。帰宅を知らせるそれの後、軽い足音が近づいてくる。
「あれ、なんで電気つけてないんだ?」
ぱちん、となった軽い音を追うように部屋に光がみちる。
「なにしてるんだ?」
「いちゃいちゃしてる、おかえり」
「ただいま」
何も入ってなさそうな薄い鞄をおろして、そこらに置く。そんなことして、多分また怒られるのだろうな。
「俺もまぜてくれないか?」
ソファの背もたれに身を乗り出してこちらに問う。髪を掬って親指の腹で撫でる。楽しげに笑う目が俺を見つめているのが不思議だった。アンドラスは俺ではなく、ウァプラに構われたいだろうに。
「オマエは手洗え、うがいもしろ」
「したよ、アルコール消毒までした」
アンドラスが、ソファの後ろからウァプラの隣に移動する。ぽすりとウァプラの肩に頭を預け、もう一度俺の髪に触れた。
「俺ともしてよ」
「……なんで」
「残念だったな、こいつは俺がいいんだそうだ」
ウァプラの手が俺の耳に触れる。なぞる動きに、ぞくりと腰から寒気に似た何かが駆け上がる。
「んっ…ぁ」
唇から吐息が漏れる。
「なぁ、ウァプラ。俺も」
アンドラスが、ウァプラの空いた手を取り頰に導いた。猫のように擦り寄る姿に愛しげに青を細めて見つめる。可愛がって撫でる手に、内臓がざわつくようだ。今この時ぐらいは俺だけを。
「だめ」
ウァプラの視線を無理やり奪う。
「今日は俺とだから」
驚きに薄く開かれた唇も奪った。
「んっ、サタナキア…」
吐息の艶が脳を痺れさせる。ウァプラの意識が俺にだけ向かうのが嬉しいと思ってしまう。
俺とウァプラ以外の、もう1人。
「…俺は、ここにいない方がいいかな?」
感情の読みづらい声が、少しだけ寂しそうに響いている。俺の服を弱く握り込む指先に絆されて、また。
「……俺の次ならいいよ」
この男なら、アンドラスならば、ウァプラを共有しても構わないと思えるぐらいに、俺も気に入ってしまったのだ。
「サタナキアに触るのは?」
「い、いけど…意味ある?」
「楽しいよ」
アンドラスが身を乗り出す。ぶつからないようにと角度をつけたのも、瞳を伏したのも、アンドラスはわかっているようで触れ合ったままの唇が笑みを描く。
「サタナキアも、そうなら嬉しい」
「まぁ…つまらなくはないけどね」
間近にあるオレンジの虹彩と見つめ合う。こんなにしっかり見るのも珍しくて、ついじっくりと眺めてしまう。
「俺がつまらん、アンドラスこっちに」
大人しくしていたと思ったら、ウァプラがアンドラスの胸ぐらを掴んで引き寄せる。噛み付くような口づけは、呼吸を奪うようで俺の服を掴むアンドラスの指先に力が入る。
散々に貪られたあとに解放されて、永遠に沈まない夕陽の瞳が、とろりと蕩けてウァプラを見つめる。
「部屋にいく」
濡れた唇を拭ったウァプラが、俺を抱えて立ち上がる。襲う浮遊感に体に力が入った。
「アンドラス」
「俺もそれやって欲しいな」
「今度な」
「おろしてくれ、歩ける」
「構えって言ったじゃねぇか」
「こういうのじゃない」
「ー、うるせぇな」