絆創膏 緊張で身体が硬直して、ピンと背筋が伸びる。何度もしていることなのに、まるで悪いことをしている気分になる。
生体認証システムがピ、と味気ない音を出して、ロック解除を示す画面が表示された。恐る恐る、目の前の扉を開く。部屋の中は真っ暗で、家主の気配はない。ほ、と胸を撫で下ろした。
気配をセンサーが感知し、家中が瞬く間に明るくなった。わずかに籠っていた春の陽気を、ブン、と稼働した空調が攫ってゆく。
家に着くのに合わせて起動するように、設定することもできると家主は言っていた。だけど、迎え入れられているような感じが好きなのだ。断わったら、首を傾げられてしまったけれど。
台所に立ち、道中の店で買ったものを広げる。野菜がいくつか、それと牛肉。パーカーの腕をまくり、勝手知ったる引き出しから大鍋を取り出して、たっぷりの水をコンロにかけた。
この家の主、アスランは、放っておくと計算された栄養価を摂るためだけの、味気ないゼリーやスティックで食事を済ませようとする。食……ひいては、自分のことに執着が無いのだと思う。出会った頃に、無茶をしようとするところを目の当たりにしてしまってから、ずっとそのイメージが抜けなかった。
料理を振る舞ったら、美味しいと言って食べてくれた。アスランが望んだわけじゃない、シンが勝手にしたことだ。
食べられればなんでもいい、なんて言われたらどうしようと思っていたのに。あまりに素直なアスランを、もっと喜ばせたくなった。だから時間が合えばこうして作るようにしているのだ。
ニンジンの皮を剥き、まな板の上に置く。包丁を取り出して、一口大にカットする。まず、一品目はポトフだ。簡単だし、余ったら味変もできる。正直なところ、ニンジンはあまり好きじゃ無いのだけれど、彩りがあった方が、美味しそうに見える。折角なら、そう思ってもらいたい。
トン、トン、と包丁を落としながら、次の工程を考える。野菜を煮詰めている間に、肉の下味をつけておこう。それから、パンをカットして……それで……。
没頭していたのは、認める。だけど。
「シン。ただいま」
なんて、急に。甘い声色で呼び掛けられたら。手元が狂ったって、仕方ないと思う。
「わ……っ!」
刃先が僅かに外れ、左の親指を擦った。その瞬間、じわりと赤が指先に広がってゆく。——まな板に、垂れてしまう。咄嗟に、舌先でそれを舐め取る、特有の金属味が生々しかった。
「ちょ、っと……待ってろ、手当するから——」
振り返ると、アスランはバタバタと居間の方へ行ってしまった。まるで気配を感じなかった。それにまだ、聞いていた帰宅時間まで一時間ほどあったはずだ。
帰ってきたばかりなのに、心苦しくはあったが、下手に遠慮してもきっと拗れて言い合いになってしまうだろうから。言われた通り、台所に止まり、居間で戸棚の扉を開いて、首を傾げているアスランを眺める。
「救急箱、どこだっけ……?」
「そこの、二段目にないですか?」
「ああ、あった……」
——って、なんで俺の方がアスランの家のこと把握してるんだ。いや、俺が持ち込んだものだったかもしれない。アスランは意外にも整頓が上手くないらしく、適当なところに物を置くから。それを本人が把握してなかったら意味がない気もするけれど。
足早に戻ってきたアスランは、シンの左手を取り、ガーゼで血を拭き取った。避けた皮膚から溢れたそれは、大袈裟に真っ赤に染めてゆくけれど、痛みはほとんど無かった。傷口は浅そうだ。眉を顰めているアスランは、不用意に責任を負っていそうな気がする。
「大したことないですよ」
「うん……よかった」
柔く摘まれた親指の先を、四方から覗き込まれて居た堪れない。大事ないと判断したのか、アスランは絆創膏を取り出し、親指にくるりと巻き付けた。
「ちょっと、歪んでます、ふふ」
「難しいんだよ、これ」
我が物顔でくっついている、ただの肌色のビニール。なんだか特別なものに見えたのは、アスランが親身に巻いてくれたものだからだろう。心労を増やしたくはないのに、手当されるのだって、くすぐったいだけなのに。
ふう、と息を吐いたアスランを見上げた。額に汗を浮かべて、まるでアスランが怪我をしたみたいだ。ずいぶんと乱れてぼさぼさになった藍の髪に手を伸ばして、そっと解く。
「おかえりなさい、アスラン」
「ああ、うん。ただいま」
なにか手伝う、と言うアスランに、ポトフの煮込みを頼んだ。コンロの前に立って、覚束ない手つきで鍋をかき回すアスランが、不釣り合いで、可笑しい。
集中を欠きそうになったけれど、またアスランを心配させるわけにもいかない。慎重にパンをカットし、肉を焼く。無事に夕飯が揃い、二人で食卓を囲んだ。
「お前、料理上手いよな。おいしい」
「ありがとうございます」
決して手際はよくない。親指の先を意識すると、じん、と少しだけ痛んだ。でも、アスランがそう言ってくれる限り、アスランの食事を少しでも彩りたいのだ。
「痛むのか?」
ソファにだらりと腰を掛け、無意識に親指に付いた絆創膏に触れていた。やっぱりどこか歪なのに、剥がれない。剥がしたくない。くっついてるのが気になる。ただそれだけだ。
夕飯の食器を洗い終えたアスランは、憂いを帯びた表情で、シンの隣に腰掛ける。
「平気です。……俺の不注意ですし」
「でも、変なタイミングで声掛けたし……悪かったな」
——やっぱり、気になるのか、これ。俺だって、もし逆だったらきっと、気になってしまうだろうけれど。
心配されたいわけじゃなかったのに、人の痛みは分からないものだから、どうしようもない。
「ほんとに、大丈夫ですから!ほら!」
絆創膏を、思い切って剥がした。いやだったけど、それよりもアスランの浮かない顔を、変えたかった。
やたらと白い親指の側面に、一筋のまっすぐな赤い線がコントラストを主張している。でも、それだけだ。もう血も止まっている。大きな翠色のすぐ前に持っていくと、溢れてしまいそうなほど見開かれて、ぱちぱちと睫毛を上下させていた。
「だから、もう、気にしないでくださいよ」
「ん……。でも、その、バツが悪くて」
「アスランが?なんでです?」
ぐ、と身を乗り出して、双眸を覗き込む。えっと、と言葉を詰まらせて、視線を右往左往させてから、はあ、と大きくため息を吐いていた。
「お前が、料理してるとこ見たことなかったから。というか……いつも、俺に時間、合わせるだろ。だから、……その……」
浮かれてたんだ、と、ともすれば聞き逃してしまいそうなか細い声が、シンの鼓膜に届いた途端。なんだよそれ、と咄嗟に口をついてしまいそうになるのを必死に堪えた。
同時に、胸の奥にぽかぽかとした温もりが灯ってゆく。
かっと熱くなる頬は、きっと真っ赤に染まっているだろうし、アスランがそれを見ているのだと思うと、どんどん熱が増してゆくのがわかる。
気配を消して、一時間も早く帰ってきたのが、もしそのためだったとしたら。——俺だって、あまりに浮かれすぎているだろうか。
「怪我の功名っていうんですかね、これ」
指先にくっついた絆創膏を、剥がすのを勿体なく思っていたことが馬鹿みたいに思えた。ぽい、とゴミ箱に投げ入れると、こら、と叱責が落ちてきたけれど。そのままアスランを抱き寄せた。