檸檬 バターを焦がしたような、香ばしい匂いに誘われるように意識が覚醒してゆく。まだ陽の光は差しておらず、辺りは薄暗いと言うのに、さらりとシーツの表面を撫でてみても冷たいだけだ。一体どれだけ前に起きたのだろう、あの人は。
ぐうすか寝ていたところを見られたと思うと、居た堪れないし。腹いせに、ふて寝してやろうかとシーツにくるまってみたところで、ぐう、と腹が呻き出した。
昨日、この家へやってくる途中。賑わっているパン屋があって、手土産に買ったバゲット。あれを焼いた匂いだろうか。腹の虫に罪はないのだと言い聞かせ、シンはのろのろと起き上がった。
「おはようございます」
「おはよう、早いな」
それはこっちのセリフだけど。
ダイニングテーブルに腰掛けながら、清々しく返すアスランにすっかり毒気を抜かれてしまった。傍らに端末を置いて操作しながら、澄ました顔でパンを口に運んでいる。せめて、気を紛らわせるために一つ息を吐いた。
「ご飯食べながら、仕事してたんですか?」
「ちょっと、退屈で……」
「なら、起こしてくださいよ」
話し相手にくらいはなれたというのに、とアスランの起きる気配に微塵も気付かなかったことを棚に上げた。それが災いしたのか、ぎゅるる、と胃が収縮する音がダイニング中に響き渡る。——最悪だ。
さぞかし馬鹿にされるだろうと身構えたが、アスランはふ、と口元を緩めただけだった。
「お前の分、持ってくる」
「え、でも……」
いいから待っていろ、と続けて、すくりと立ち上がると、アスランは台所へ引っ込んでしまった。残されたのは食べかけのサラダに、すっかり熱を失っていそうな飲みかけのコーヒー。そして開きっぱなしの端末には、ニュースサイトが表示されていた。強引なところとか、じっとしていられない性分を、少しは直した方がいいとシンは思う。出会った頃から変わらないし、もう今さらだけど。甘んじるしかないのだ、とアスランの座っていた向かいに腰掛けた。
背もたれにどさり、と重心を預け、落ちてくる瞼をそのままにする。野菜を洗う水音や、じゅうじゅうと何かを焼く音が飛び込んで来て、思わず耳を傾ける。まだ夢の中にいるみたいだ。
こうしてアスランの家に来た時は、シンが料理を作る側に回ることが多かった。だが少し前から、アスランは朝食を作ってくれるようになった。元々、計算して何かを作るのが好きな人だから、きっと料理も向いていると思っていたけれど。まだ凝る段階ではないとも言っていた。
しばらくして、慌ただしく食器を取り出す音が聞こえてきて、アスランの気配が戻ってきた。身を乗り出して覗き込んだトレイの上には、ハムが乗ったサラダと、目玉焼きに、野菜の入ったスープ。そしてバゲットのトースト。勝手に湧いてきた生唾をごくりと飲み込んだ。
「苺のジャム、使うか」
「これですか?美味しそう」
「だろ、お前がくれたバゲットに合うと思う」
トレイから、てきぱきとテーブルに料理を並べ、アスランは再び台所へ戻って行った。
苺のジャム、そう言っていたものはスプーン三杯分くらいしか入ってなさそうな小さな瓶。ラベルは見たことがないもので、ロゴには金の縁取りがされている、見るからに高級そうだ。中身は鮮やかな赤色で、食欲をそそられる。その時に気がついたが、同じラベルの小瓶がもう一つ、テーブルの上に乗っていた。手を伸ばしかけたところで、アスランが戻ってきた。
「アスラン、これは?」
「ああ、そっちは俺のだ」
隙のない所作で、するりと取り上げられてしまう。ちらりと見えた中身は、柑橘のような色をしていた。アスランの皿に乗ったバゲットにも、同じ色が塗られている。確かに、苺の方が好きだけど。なにか、都合の悪いものなのだろうか。
しかし何よりまず、呻き続けている腹をどうにかしなければ。アスランが腰掛けると同時に目配せをすると、こくり、と小さな頷きが返ってきた。
「いただきます!」
「ん、どうぞ」
さっそく、掬ったスープを口の中に流し込む。ちょうどいい温かさが食道を伝う。煮詰めた野菜の甘さがふわりた広がって、チキンの風味が掠める。ほろほろに溶けたオニオンにはしっかりと味が染みている。
「美味しいです、これ」
「そうか、よかった」
じっと向けられていた視線は、ゆっくりと離れていった。アスランも同じなのだと、少し胸の奥が高鳴った。料理を振る舞う時は……少しの挙動も気になってしまうものなのだ、と。
皿に残っていた、一口よりやや大きなバゲットを手に取ったアスランは、半分ほど齧りながら端末を操作し始めた。
「何時の便で戻るんだっけ?」
「十一時です」
「そうか。昼過ぎから雨らしいが、降られることはなさそうだな」
言い終えてから唐突に「あ、」と漏らしたかと思えば、瞬きのうちに見逃してしまいそうなほどの速さで、端末のディスプレイをバタンと閉じた。彼らしくないあからさまな動揺に、シンは首を傾げる。
「どうしました?」
「お前に、悪かったかなと思って……」
所在なさそうにしながら、アスランは一口サイズになったバゲットを一気に放り込んでいる。起き掛けにシンが言った一言を、気にしているのだろうか。変なところで、律儀な人だ。
「あなたらしいとは、思いますけど」
「ん……?」
食べながら、不思議そうな色を湛えた翠が覗き込んできた。シンの持ってきたバゲットだ。こっちだって気になる。噛み砕くのに合わせて動く口元を見つめた。——あれ、なんだ。差し込む朝陽に反射して、唇の端が不自然にきらきらとしていた。そして見覚えもあった。バゲットに乗っけていたジャム、のように見えた。
何の味なのかも、教えてもらえず遠ざけられてしまったものだ。アスランはいつだってそうなのだ、今日もずっと。一人で勝手に決めつけて、行動する。それが気に食わないというのは、子どもじみた主張だと分かってはいる。けれど、一つくらいシンが同じようにしたっていいだろう。
落ち着きのない、なんて人のことを言えないかもしれないけれど。シンは、振り切るように立ち上がった。
「シン……?」
牽制する声に構うことなく、シンはテーブルを回り込み、アスランの傍へと向かう。怪訝そうに見上げる顎をそっと摘んだ。間違いない、至近で見て確信に変わる。そこにこびりついているのは、ジャムだ。
食事中に端末を見てるから悪いのだ。そう唱えながら、吸い寄せられるように身体を傾ける。
「おい、……シン」
もう一度、さっきよりはっきりと呼び声がした。だけど、止めることなんてできなかった。ペロリと口の端のジャムを掬い取って――ついでにくちびるごと喰んで、表面に舌を滑らせた。
「あまい……」
「――レモンだぞ、これ」
「レモン、のジャム……?」
何だ、それ。あまりに合点がいかず、ただ繰り返してしまった。
そうだよ、と素っ気なくあしらわれながら、肩口を掴まれたって、分からない。レモンの味なんて、しなかった。シンはレモン、もとい酸味が幅を利かせている食材が、大の苦手なのだから。
それで、アスランはこれをシンから遠ざけたということだろうか。やっぱり、シンの意見だって少しは聞いてほしい。
「でも、甘いです」
「はちみつ、入ってるからか……?っんむ……」
ゆるく掴まれた腕を解いて、再びアスランの味を確かめた。押し当てた脣の柔らかさに怯みそうになるけれど、味覚に訴えるべく舌を這わせる。もう、ジャムはシンに絡め取られて無くなってしまったのかもしれない。やっぱり甘いばかりなのだ。
離した唇は、三度目を許さなかった。さっきよりも強い力で、ぐい、と押し返されてしまう。
「アスラン……まだ」
「じゃあ、こっちにしろ、酸っぱくても知らないからな」
少しだけ、赤らんだ頬を隠すようにふい、と顔を背けたアスランは、取り上げたジャムの小瓶の中身をスプーンで掬った。だけど、いかにもその酸味を表すまばゆいほどの黄色に、レモンの皮が覗いている。見ているだけでじわりと唾液が沸いてくる。だが差し出されるままに、ぱくりとそれを咥えた。舌で転がすのが少し恐くて、油断した様子のアスランに、また口付けた。結局、味は分からないままだ。
一矢報いようと必死だった反面、アスランが頑なに制止させようとしていた理由が、腑に落ちてしまった。こんなときにキスするのは、やめたほうがいいのだ、悔しいけれど——帰りたくなくなってしまうから。