歯ブラシ 店の外に一歩出ると、むわりと熱い空気がシンを包んだ。まだ昼前だと言うのに、降り注ぐ陽の光は容赦がない。
ふらりと入った電気屋で、最新の家電やら、通信デバイスなんかの物珍しさに惹かれて、見て回っていたのだが。あの人の家には必要なものは揃っているし、不便を感じたことも無い。この辺りは、彼の方が詳しそうだ。
ショッピングモールは休日のせいか、家族連れや若者たちで溢れていて、シンのように一人でふらふらしている男なんてほとんど居ない。そんなことには目もくれず、もう随分この場所で暇を持て余して時間を潰している。
事前にアスランに伝えた時間まで、一時間ほどあった。この場所から彼の家まで三十分も掛からないだろうから、まだ早すぎる。午前中に行われるシンポジウムに参加するべく、昨日オノゴロ島にやって来たのだが、予定よりもだいぶ巻いて終わってしまったのだ。プラントからやって来ていた同僚たちは、同じようにオーブで過ごしたり、一足早くシャトルで帰ったりしている。シンは、元より明日まで滞在する予定だった。
時間に厳しいアスランは、シンの都合で急に予定を変えることを良く思わないだろう。テラス席を構えているカフェ、色とりどりの果実で飾り立てたケーキの並ぶショーウィンドウ、きらきらと照明に反射するアクセサリーの数々。モール内を歩き回りながら、どこで過ごそうかと模索していた時だった。
「これ、女っぽいかなあ?」
「そんなことないよ! ユリが選んだんだし、絶対使ってくれるって!」
雑貨屋の店先で、女の子二人が身を寄せながら話していた。長い黒い髪をすとんと下ろした子、そしてその女の子の背をぽんぽんと叩いている、鮮やかな橙の髪を後ろで結った子。シンよりも少し幼く見えるその二人は、携帯電話に付けるストラップを幾つか手に取っていた。
「でも、お揃いって重くない? ミサだって、この前彼氏に、文句言ってたじゃない」
「あれは、アイツのセンスが無いの!」
盗み聞くつもりは無かったのだが、シンはその店先に並んだ食器を眺めながら、二人の会話に耳を傾けていた。ユリ、と呼ばれた女の子が、付き合っている相手にあげるプレゼントを選ぶのに、友達のミサが付き添っているようだ。
ユリは、色違いのストラップを買うかどうか、随分迷っているが、ミサに後押しされている。結局、ユリの方が折れ、彼には紺色のもの、そして自分に赤いストラップを買うことを決めたようで、彼女たちは店の奥へと向かっていった。
「お揃い、ねえ……」
無意識の内に声に出してしまい、慌てて口を噤む。周りを見回したが、幸いにも喧騒に掻き消されたシンの溢れた呟きを気を止めている人物は居なかった。
一応、アスランとは付き合っている、とシンは思っている。だが、浮いた話が一つもないのが、正直なところ現状だ。二人きりでご飯を食べるし、同じベッドで寝ることもあるし、キスだってするけど。それって、付き合ってる、ってことになるのだろうか。さっきの女の子たちに、そう言えるだろうか。とてもじゃないが、ルナやメイリンには、笑われてしまいそうで言えた試しはない。
雑貨屋を離れ、再びぶらぶらとシンはショッピングモールを歩き回る。高級そうな黒と白を基調とした店構えのアクセサリー店は、入口で二の足を踏んでしまった。有名ブランド店の前には、独創的な柄が描かれた、シンプルな型のシャツを着せられたマネキンがガラスケースに入れられている。当て所なく眺めてみたけれど、どれもしっくりこなかった。アスランは、身に付けるものへの頓着がまるでない。その場に合った服装をすれば、色だとか、ブランドだとかは、何だっていいのだと言っていた。
だから、お揃いのアクセサリーや、服を買ったとして。必要ないとか、趣味じゃないとか、言われそうだし。そうしたら、少なからず落ち込んでしまいそうだし。それで言い合いになってしまっては、元も子もないし。
女の子に感化されて、考えを巡らせてはみたものの、やっぱり浮いた話とは程遠い。それでも、今の関係に不満があるわけじゃない。
大分時間は経っていたが、これといった収穫もなく、シンはショッピングモールの出口へ向かった。その道すがらにドラッグストアが現れた。そういえば、歯ブラシを持って来ていないのだった。買うつもりでいたのに、すっかり忘れてしまっていた。
吸い込まれるようにして店の中へ入り、目当てのものの売り場へと向かった。カラフルな持ち手のそれらが並んでいて、ふと過る。このくらいなら、良いだろうか。
少しだけ迷ったが、使わないと言われたらシンが持ち帰ればいいだけだ。シンは、一つ呼吸をしてから色違いの二本を手に取った。
「何、してるとこでした?」
アスランの家へ向かうべく、タクシーに乗り込んだシンは電話を掛けた。アスランに迎えに来てもらう約束をしていたけれど、いつも任せてばかりというのも格好がつかない。シンの方には時間があったし。やっぱり、少しでも早くアスランに会いたかった。
「さっき起きたから……そろそろ支度しようとしてた……」
「じゃあ、待っててください。今、向かってるとこですから」
スピーカーから、ふあ、と噛み殺した欠伸が漏れていた。声色も少し上擦っている。
「ん……そうか。分かった」
「少し、早いですけど。あと二十分くらいで着くと思います」
まだ完全に覚醒し切っていないのか、力無い相槌が鼓膜を震わす。じゃあ後で、と告げて電話を切った。おおむね夜型のアスランに休暇を合わせてもらっているから、この時間にはっきりとしないのは、無理もないのかもしれない。
「良いね、若い頃を思い出すよ」
端末をポケットに仕舞い、車窓を流れてゆく青々とした海を眺めていると、運転手がそう言った。バックミラー越しに覗き込むと、コノエ艦長くらいの年の男性は、目尻を細めて人の良さそうな顔で笑っている。
「え……?」
「ああ、ごめん。勝手に聞いちゃって。あまりにも、大事な人なんだろうと思って、つい」
「いえ、大丈夫です。でも、大事とかそんなんじゃ、なくて……えっと……」
今日会っただけの人が聞いて分かるほど、何か声に現れていたのだろうか。続く単語を探したけれど、見つからなかった。だけど電話口のアスランの声は、いつもより覇気がなくて、少し鼓動が高まったのは確かだ。運転手は、言葉に詰まったシンをそれ以上言及しなかった。
ラジオから流れて来る、最近流行りの曲を聴き流しながら、抱えた袋をぎゅ、と握り込む。ショッピングモールの女の子たちと、シンはきっと同じなのだと思う。ストラップを、あの子——ユリはどうやって彼に渡すのだろう。渡した彼が、喜んでくれたら良いと思う。悩んでいたユリに、報われて欲しいから。
タクシーを降り、今着きました、と一行メッセージを送ったが、リアクションはなかった。きっと支度の途中なのだろうと、シンは勝手知ったるマンションのセキュリティ認証を済ませ、アスランの家へ上がり込んだ。
「お邪魔します」
そっと扉を閉めて、部屋の中へ向かうとダイニングにはコーヒーの匂いが立ち込めていた。シンはコーヒーの苦味があまり得意ではなかった。だが、アスランが愛飲しているブレンドの香りを、この家で朝を迎えるたびに覚えてしまい、鼻に抜けるような芳しさは、いつしか好きなものに変わっていた。
「ああ、シン。悪かったな、迎え行けなくて」
「いえ……早く終わっちゃっただけなんで」
部屋の奥に足を踏み入れると、アスランが濡れた顔を拭きながら現れた。藍色の髪は毛先がいくらかピンとはみだしていた。タクシーで電話した時ほどの、ぼんやりとした様子ではなさそうだったけれど、支度途中のアスランの姿は、普段よりも無防備で、あまり見ることがないから新鮮だ。
「それにしたって、ゆっくりじゃないですか。昨日、遅かったなら、無理しなくても……」
「お前だって、用事の合間だろ。お互い様じゃないか」
でも、いつもシンにアスランが合わせてくれているのに、と言いかけて、やめた。ついムキになって、もやもやとする胸の内をぶつけるように返してしまったら、揉めごとになるだけだ。その気配を避けることを、少しずつ覚えていた。そんなことを、しに来たわけじゃないのだ。
アスランに腕を伸ばし、流れに沿って夜色の髪を解いてゆく。シンのそれよりも硬いからか、撫ぜただけではすぐにぴょん、と元に戻ってしまう。何度も繰り返していたら、アスランが肩を揺らしてくすくすと笑っていた。
「どうしてるんですか、いつも、これ」
「濡らしたり、ワックスしたり、色々だな。今日は特に癖が……だから後回しにしてたんだけど」
知らなかった。アスランの髪はすん、と重力に従い、整っているイメージだったけれど。シンの方はいつも撫でつけるだけだから、気に留めたこともなかった。
ふうん、と漏らしている間に、アスランは洗面所へ引っ込んでしまった。咄嗟に追い掛けてゆくと、アスランはブラシを手に取って髪を解き始めていた。
後ろ姿をただ見つめているわけにもいかず、視線をうろうろとさせていると、洗面台にある歯ブラシに目が行った。普段であれば、気にすることもなかっただろうけれど、今日ばかりはそれが、憎らしくも思えた。
「歯ブラシ、買ったんですよ。さっき」
仕舞ったまま、持って帰ることもできたけれど。あの女の子たちの後ろ姿が浮かんで、シンはゆっくりと切り出した。
「よっぽど、めずらしいものでもあったのか……?」
「いや、……フツーの。持ってくるの忘れちゃって。それで……」
首をもたげ、怪訝な表情が向けられる。当然のことだと思う。シンの方は、どんどん脈が速くなっていって、耳の先に熱が灯ってゆく。ますます、不思議がられるばかりだ。
タクシーの中でどうやって渡そうか、いくつかシミュレーションを浮かべていたというのに……ダメだ。全く思い出せないし、できる気もしない。
「あ、……あんたと同じものが、欲しくて二つ、買ったんです。だから、一つ、もらってください」
「はあ……?」
ドラッグストアの袋から、緑の軸の歯ブラシの箱を取り出してアスランに手渡した。シンの方は薄いピンク色だ。本当は赤色が良かったが、置いていなかった。
ぽたぽたと髪の先から雫を滴らせながら、見開いたエメラルドがシンに向けられていた。もっと、格好つけて渡したかったのに。でも、渡すものが歯ブラシでは、どうやっても無理だったのかもしれない。
「同じもの、って、何……?」
「いわゆる、お揃いってやつですよ。付き合って……るんだから、ひとつくらい、欲しいじゃないですか!」
震える声を誤魔化すように、シンは強く言い放った。流されるように買っただけだったのに。欲しかったんだ、本当は……何でもいいから、アスランとの繋がりになるものが。
アスランは、ああ……と納得したような声を漏らしたかと思えば、いや……と首を傾げている。ぱちぱちと長い睫毛を往復させながら、シンに手渡された歯ブラシの入った箱に、じっと視線を向けている。
「それで、これ……?」
「いらなかったら、捨てられるでしょう。これなら」
腑に落ちない様子で、うーん、と眉根を寄せながら考え込むアスランの手のひらから、それを引き上げてやろうかと、少しばかり考えたけれど。アスランはどう思っているのか、知りたいような気がした。だが、要らないと言われたら、やっぱり受け入れられなくて、取り乱してしまうかもしれない。挙句の果てに、シンは踵を返して洗面所から離脱した。
もし、服とか、アクセサリーを買っていたらきっと、渡すことすらできなかったと思う。だって、そんなのは重たいだろう。ショッピングモールの女の子だって、そう言っていた。歯ブラシひとつ渡すのだって、まだ胸の奥がザワザワしていて、きっともっと良い方法があったはずだと、思い詰めそうになってしまうのに。
◇◇◇◇◇
「付き合う、って……こういうことなのか?」
アスランは、めずらしく顔を真っ赤にしながらそう言った。
洗面台には、色違いの歯ブラシが二つ、寄り添うように置かれていた。ピンク色の方は昨日の夜、シンが使ったもの。そしてもう片方は……紛れもなく、昨日シンが買ったものだ。
結局、シンが渡した歯ブラシの一件はあの後蒸し返されることはなかった。シンも少し忘れかけていて、もう無かったことになってしまったのだと思っていたのに。
いくら、アスランが口下手だと分かっていても、こんなやり方はずるいと思った。だから、カッとなってお腹の奥から湧いてきた靄を、ぶつけてしまおうと思ったのに。
その表情を見たら、全部吹き飛んでしまった。
「……俺、また、買ってきちゃいますよ」
さすがに歯ブラシはやめるけど。でも、こうして並んで置かれているだけで、誇らしく感じるのも確かだ。
「いや、いい。今度は俺が……考えるから」
きり、と眉を真っ直ぐにして、じっとシンを捉える翠に、吸い込まれてしまいそうだった。考えるなんて、シンは言い切れなかった。だから、歯ブラシなんかで済ませてしまったのだ。大袈裟だったかもしれない。もっと、ちゃんとしたものを……選ぶべきだった。
いつしか、アスランのことが大事だと、胸を張って言えるようになるのだろうか。少しずつ、進んでいる実感はあったけれど、その行き着く先がどこにあるのか、シンには分からなかった。