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    kannspa

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    kannspa

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    以前書いた「誰がために花は咲く」という小説の続きを書こうとしましたが、導入とスパシーンしか書けず、あまりにも世界観が壮大になりそうだったので一旦ここに供養します。キャラが気に入ったので絵などで描いていきたいです。

    誰がために花は咲く(続)時代は1915年───。
    ヨーロッパに属する、とある国の港町。

    夜の帳がゆっくりと町を包み込む。

    マフィアであり、町の影の支配者「ヴォルペ・ファミリア」の別邸にも静寂が降りていた。

    庭園には雨の名残があり、湿った石畳の上に水滴が残っている。

    灯されたガス灯の橙が、そのひとつひとつを琥珀の粒のように照らしていた。

    風が通り過ぎるたび、庭園に咲き残るバラが香る。
    それは甘く妖艶で、しかしどこか青臭い苦味を含んでいた。

    そんな夜の庭園に少女が一人佇んでいる。
    彼女の名前は”リリーナ”。
    ヴォルペ・ファミリアのボス、アルジェント・ヴォルペの一人娘だ。


    石造りの噴水の縁に腰かけたリリーナの姿が、霧の中で浮かび上がるように見えた。

    陶磁器のような艶やかな肌。
    美しい藍色のドレス。

    夜気に晒された肩が冷たさを物ともせず月光を纏っている。

    そんな彼女を、リリーナのお世話係、シュウロウは、少し離れた木陰から見ていた。

    ───お嬢がこんな時間にひとりで庭に出るなんて。珍しいこともあるものだ。

    シュウロウの仕事はアジトの門番とボスの娘であるリリーナを守ること。

    ボスに忠義を尽くし、お嬢を守る。
    まるで犬のような忠誠心という名の鎖が、彼の心臓には絡みついていた。

    だがリリーナを前にすると、それより強くどうしようもなく滲み出してくる感情があった。

    それはあの夜───。

    幼いリリーナが、自分の手を取って「怖くない」と言ってくれた、あの時から始まった。

    いつものようにリリーナを少し離れた所から見守る周狼。

    けれど今夜はいつもと少し違った。
    彼女の視線が、長く自分に向けられていることに気づいてしまったからだ。

    「シュウロウ。……あなたって、ほんと律儀よね。」

    「……?」

    「こんなに寒いのに、私に付き合ってそこにずっと立ってるんだもの。」

    「…それが俺の仕事です。」

    「ふふ。……そうね、仕事なのよ……。貴方は”あの人”に言いつけられて私を見張っている。」

    リリーナは微笑む。
    彼女の表情と声には、どこか言われもない寂しさが混じっていた。

    それを感じ取ってしまった瞬間───シュウロウの心が揺れる。

    彼女の香水の残り香が、風にのってシュウロウへと届く。
    それは甘く温かく、シュウロウの心の奥底に触れてくる。

    シュウロウは思わず彼女に背を向けた。
    視線を合わせてしまえばもう抑えがきかないと思った。

    けれどリリーナはシュウロウに向かって歩み寄り、そっと周狼の背に触れた。

    「あなたって黙ってるときが、一番本音が聞こえるの。……不思議ね。」

    「……………お嬢。」

    「いいの……傍に居てくれるだけで嬉しいわ。」

    その声が、あまりにも優しくて、哀しくて、あまりにも痛かった。

    「…………。」

    シュウロウは静かに目を伏せた。




    夜霧はさらに濃くなり、あたりは白い靄に包まれていた。

    リリーナはシュウロウの背中にそっと手を置いたまま、微笑んだ。

    「付き合わせてしまってごめんなさい。……帰りましょう。」

    「はい……。」

    2人は屋敷を目指し歩き出す。

    ───ボスの命令は関係なく、俺はお嬢に幸せになって欲しい。

    ───そんな台詞、俺には似合わない。
    それに俺の役目はお嬢を“ただ守る”ことだ。

    これ以上彼女に深く踏み込んではいけない。

    余計な感情を閉じ込めるためにシュウロウは目を瞑る。

    だが、次の瞬間だった。

    カチッ。

    ───乾いた小さな音が庭園に響く。
    庭園のガス灯が、一つ、また一つと消えていく。

    刹那、シュウロウの背にひりつくような鋭い“違和感”が走った。


    ───殺気か。


    シュウロウは勢いよく振り向く。
    しかし気がついた時にはもう手遅れだった。

    パンッ───!

    破裂音のような銃声が夜の空気を裂いた。

    「…………!」

    乾いた衝撃とともに、シュウロウの腹に鋭い痛みが走る。
    遅れて焼けつくような熱が、身体の奥を這い回った。

    息が詰まり視界が滲む。

    「………!? ……………っ!!」

    リリーナが悲鳴を上げるより早く、数人の黒のフードを被った人間が霧の中から飛び出してきた。

    武装と連携、動きに一切の迷いがない。
    統制された何らかの組織である事は明らかだった。

    「………シュウロウ!」

    「……お嬢……逃げ……っ!」

    膝をつきながらも、シュウロウはリリーナに向かって手を伸ばす。

    しかし無情にも伸ばした手は何もない空間を掴む。

    ───届かない…!

    グラリと意識が遠のき、身体が地面へと崩れ落ちる。

    リリーナの手が無理やり引かれ、遠ざかっていく。
    視界の端に、彼女の身につけていた指輪が落ちるのが見えた。

    「───やめて!……放して!!」

    リリーナの声が遠くなる。彼女の影が霧に飲まれていく。

    「………ま……て……っ。」

    赤黒い血が口の端から滴る。
    傷口からは温かいものが流れ出し鼠色の服を濡らしていく。




    複数の足音と去っていく車の音が響き渡る。

    庭園に残されたのは、倒れた男と広がる血溜まり、地面に転がる金属の薬莢、そして、バラの香りとリリーナの香水の残り香だけだった。


    辺りは再び静けさに包まれていた。
    倒れたシュウロウの耳に聞こえるのは、自分の荒い呼吸と、ひどく乱れた鼓動の音だけだった。

    ───…………俺は…何をやってるんだ。

    視界が霞んでいく。
    血に濡れた拳を握りしめる。

    ───………お嬢は…必ず取り戻す。…………俺の命に変えても………。

    そのままシュウロウの意識は深い闇の中へと沈んでいった。






    どれほど時間が経っただろうか。

    シュウロウの意識は深い水底から這い上がるように、ゆっくりと戻ってきた。

    目を開けてまず感じたのは、鈍く脈打つ腹部の痛み、そして冷たい地面の感触。

    喉の奥が焼けるようだった。
    血の味が口内に広がり、鉄臭さに顔を歪めた。

    夜の霧は薄れ、星の光がかすかに瞬いていた。
    シュウロウは空へと手を伸ばす。

    リリーナの最後の表情が、まぶたの裏に焼きついて離れない。

    自分の名前を呼ぶ声と必死にこちらへ手を伸ばす姿、そのすべてが夜の霧に呑まれて消えていった。

    シュウロウの伸ばした手は虚しく空を掴み、地面に叩きつけられた。

    「彼女を守る」という誓い。
    そのすべてが、たった一発の銃弾で瓦解してしまった。

    ───不甲斐ない。何も出来ないなんて。

    無力感に苛まれ、シュウロウは腕で顔を覆う。




    「……番犬のくせに、侵入者を許してんじゃねえよ。」

    ─────乾いた靴音が、夜の庭園に響いた。

    その声音は、まるで心底うんざりしたかのようだった。

    立ち上がる気力すら失ったシュウロウの視界に、ヴォルペ・ファミリアの幹部の一人、ヴィートの影がゆっくりと浮かび上がった。

    革靴を地面に鳴らしながら、無遠慮にシュウロウの作った血の水たまりを踏んでくる。

    黒いスーツ、乱れひとつないネクタイ、そして黒い革手袋を外す仕草はどこまでも冷ややかだった。


    彼とは子供の頃から共に過ごしてきたが、ある時からヴィートはシュウロウの事を憎み、敵意を向けるようになった。

    シュウロウも初めは仲を取り戻そうとしたものの、ヴィートに話しかければ暴言を吐かれるか皮肉を言われるかの二択だった。

    ヴィートは野心家で頭が切れる。
    情に絆されず、使えないものは容赦なく切り捨て、薬や武器を捌いてのし上がってきた。

    彼が幹部にまで登りつめたのは紛れもない実力だ。

    一方でシュウロウは組織内での地位を上げることに興味がなかった。

    無駄な闘いはなるべく避けたかった。
    ボスやリリーナ、仲間の居場所を守れればそれで良かった。

    しかしヴィートはそれすら気に食わなかったようだ。

    ヴィートもシュウロウも表立って争いはしない。

    しかし歳を重ねるに連れ、二人は対立する存在へと変わっていった。



    「いやあ……笑っちまうよな。ヴォルペ・ファミリア、忠義の番犬様が、腹に穴空けられて地面に転がってるだなんてな。」

    シュウロウは口を開こうとするが、息を吸うたびに痛みが走る。
    その様子を見て、ヴィートはあからさまな溜息をついた。

    「リリーナはどこだ?……ああ、いや、答えなくてもわかる。」

    「……………。」

    「まあ当然だよな。………元からお前じゃ無理だったんだ。“犬ころ”に背負わせるには、ちと重たすぎたんだよ。」

    ヴィートは煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
    その動作すら、まるで弱者に対する侮蔑を纏っているようだった。

    「…………お嬢は………俺が取り戻す。」

    「……お前が?馬鹿も休み休み言えよ。」

    「……………。」

    「リリーナは取り引きの道具としては最上級だ。攫われたところで暫く殺されることはないだろう。」

    ───道具。

    シュウロウの眉がぴくりと震える。

    「…………お嬢を…モノみたいに言うな。」

    周狼の声が低くなる。
    ヴィートは口の端を微かに吊り上げた。

    「わざわざ口に出さないだけだ。ボスも含め、皆がそう思ってる。」

    感情が昂り身体が熱くなるのを感じた。
    シュウロウはヴィートを睨みつける。

    「………何だよ、その顔は。それじゃあリリーナは一体お前にとって何なんだ。」

    「………。」

    シュウロウは何も答えない。
    そんな周狼を見て、ヴィートは顔を歪めて笑った。

    「………おいおい身の程ってもんがあるだろうが。所詮お前は、ボスに拾われた身だ。骨の一本でも貰えたら上出来だったんじゃねぇの?」

    シュウロウの視界が滲む。
    それは痛みのせいか、怒りのせいか、自分でもわからなかった。

    「……っ……黙れ……。」

    「へえ…吠える元気はまだあるんだな?じゃあジックリほじくってやろうか。───お前の失態を。」

    「───ゔぁっ!?」

    ヴィートは立ち上がると、シュウロウの撃たれた腹を足で踏みつけ体重をかける。
    灼けつくような痛みが走り、シュウロウは呻き声をあげた。

    「まず庭の警戒を解いてたな?次に敵に対する反応が遅れた。───決定的なのは、腹を撃たれる間抜けっぷり。………言い訳のしようがないな。……どうする?オレが代わりにボスに報告しといてやろうか?」

    その言葉のひとつひとつが、ナイフのように胸に突き刺さる。
    痛みに喘ぐ身体より、心の方が先に壊れそうだった。


    ヴィートは煙を吐き出しながら、目線を落とす。

    「……のたれ死ぬ前に、お前の甘っちょろい忠義でも悔やんどけ。お前が手離したのは、“リリーナお嬢様”だ。どうせ生き残った所で一度落としたボスの信頼は、二度と取り戻せねえよ。」

    そのまま踵を返し、ヴィートは夜霧の中へと消えていった。



    再び庭園は静まり返った。

    残されたのは、冷えきった風と薔薇の香り。
    そしてただ一人、己の不甲斐なさに身を焼かれるシュウロウだけだった。


    ───お嬢を助け出す………。今俺に出来ることはそれだけだ。


    痛みに歯を食いしばりながら、シュウロウはふらふらと立ち上がる。

    足元が自分の血液で濡れていた。

    温もりを失った赤が、歩く度、石畳にぽたりぽたりと落ちていく。

    早くこの血を止めなければ。

    「…………ちくしょう。」

    しぶとく歩を進めるたび、腹の奥に鋭い痛みが走った。

    まるで内臓を焼き切られるような感覚。

    呼吸をするたびに傷口が開き、あまりの痛みに今にも意識を手放してしまいそうだった。

    それでも足を止めるわけにはいかなかった。


    庭園の中に、月明かりに反射して地面に光る何かが見えた。
    シュウロウは目を凝らす。

    「……………。」

    それは黒い小瓶とリリーナがいつも身につけている亡き母親の形見の指輪だった。

    シュウロウは小瓶と指輪を手に取る。
    黒い小瓶に見覚えはなかったが、何かの手がかりになるかもしれない。

    シュウロウは迷わずポケットに入れ、庭園を出た。







    街灯のほとんどが壊れたままの港町の裏通り。
    月の光すら届かない、薄暗い路地。

    煤けた看板も、灯りの消えた街角も、いつもと同じく静かだった。

    だがシュウロウの鼠色のシャツの下に広がる血のぬくもりだけが、現実の苛烈さを物語っている。

    拳を握ると、腹の穴からまた血が滲んだ。
    痛みも意識も限界はすぐそこだ。


    「こんな時に頼れるのは…あいつのとこしかない……。」

    マフィアをやっていれば、血まみれになるのは、一度や二度じゃない。
    その度にシュウロウが向かう先は決まっていた。

    ふらつく足取りで曲がり角をいくつも抜ける。

    誰にも知られず、ひっそりと灯りがともる古びた建物。
    その一角が、シュウロウがこの街の中で一番信じられる場所だった。


    ″アラン・グレイ″。

    彼はこの街で、シュウロウが唯一友人と呼べる男だった。

    この街に住む人間なら誰もが知っている闇医者。

    傷ついている人間は誰でも助けるのが彼のポリシーで、警察にも、特定のギャングにもマフィアにも属さず、ただ淡々と治療をこなす孤高の男だ。

    「頼む、まだ起きててくれ……。」

    肩で扉に寄りかかりながら、古びた扉を二度ノックする。

    返事はない。
    けれど、この建物の住人はいつだって無言で迎え入れてくれる。

    震える手で重たい扉を押し開けると、薬品と血と煙草の混じった匂いが鼻をつく。
    薄明かりの診療所の奥で、黒い縁の眼鏡をかけた男が静かに器具を磨いていた。


    「アラン……助けてくれ……。」

    小さく声が漏れた。
    その瞬間、膝が崩れかける。
    だが、まだ倒れるわけにはいかない。


    「……またですか。」

    乾いた声が部屋に響く。
    椅子を引く音と布の擦れる音が室内に響いた。

    「…早く横に。腸を貫かれてたら笑えません。」

    アランに言われるまま診察台に身を投げ出すと、すぐにシャツを裂く感触があった。
    アランは傷口にそっと指を這わせる。

    「………急所は外れてる。霧が出ていたのは幸運でしたね。」

    「このまま弾を取り出します。───良いですね。」

    「───頼む、やってくれ。」

    シュウロウが口を開くと同時に、麻酔もないままメスが入る。

    「───っ!」

    部屋の中に金属がぶつかり合う音と、シュウロウの微かな呻き声が響く。

    「シュウロウ───貴方はいつもそうだ。いきなり血塗れで現れたと思ったら───泣きもしないし、喚きもしない。」

    針が皮膚を縫う音がやけに静かだった。
    糸が肉を引き寄せ、裂けた場所が閉じられていくたびに、痛みが鈍く身体の奥へ沈んでいく。

    「……………。」

    しばらくの沈黙のあと、包帯を巻き終えたアランががようやく椅子に腰を下ろした。
    その指には火を灯した煙草が挟まれていた。

    「しばらくそのままで───せっかく縫った傷がまた開きます。」

    アランは口に煙草を咥えた。

    「……で、今度は何があったんですか。」

    シュウロウの顔が苦しげに歪む。

    「……お嬢が、連れ去られた。」

    ふぅ、と長く煙が吐き出される。

    「そうですか。」

    それだけだった。

    叱責も、慰めも、同情もない。
    ただ静かに事実を受け入れる声。

    思えばアランと初めて出会った時もそうだった。

    黒い髪に黒い瞳。
    シュウロウの見た目はこの国では浮いていた。

    それ故に常にシュウロウは差別され、奇異なものを見る目で見られてきた。

    しかしアランがシュウロウの見た目を気にする様子はなかった。
    だからこそ彼と話していると妙に心が落ち着いた。

    「……最近、街で少々変な話を聞きました。流通ルートも定かじゃない、得体の知れない薬の噂です。」

    灰が小さく落ちる。
    アランは再び口を開いた。

    「表社会も裏社会も、妙に出どころを探ろうとする人間が多い。詳細を知る人間は未だに居ないようですが…………その名前は妙に耳に残る。」

    煙草の煙が揺れる。
    港町の夜風が、隙間からわずかに吹き込んだ。

    「その名は“レーテ”。……冥界の川の名前と一緒ですね。」

    ───ズキリ。
    腹の奥で疼く痛みが、なぜかその名に反応したような気がした。

    「……お嬢が連れ去られた後、地面に瓶が落ちてたんだ。」

    周狼は黒い小瓶を取り出した。

    「…恐らく違法な薬だ。」

    「……見覚えはありませんね。違法な薬には詳しくありません。…私はギャングやマフィアとの深い関わりはありませんので。」

    「…………。」

    「……シュウロウ、そんな顔をしないでください。……貴方は別です。」

    言い終えると、彼は立ち上がり、薬棚から包帯の束をひとつ取り出す。

    「持っていってください。傷が開くと全部無駄になる。……死なないでくださいよ。」

    「………ありがとう。」

    彼から受け取った布のぬくもりが、言葉にできない想いを静かに伝えていた。






    アランの診療所を出て、アジトへ戻ってきたシュウロウは扉をゆっくりと開ける。

    夜気を孕んだアジトの空気は、どこか湿っていて不安を掻き立てる。

    外よりも暗い室内。

    かつて馴染んだはずのその空間が、今は異様に空気が重たく感じる。

    腹に巻かれた包帯に包まれた傷がじわりと疼く。
    アランの処置がなければ、再びアジトまで帰り着けなかっただろう。

    だが───
    無事に辿り着いたからと言って、救いがあるとは限らない。

    背後から乾いた足音が迫りくる。

    「───ずいぶんと情けない姿で戻ってきたじゃないか。」

    その声には憐れみも驚きもなかった。
    あるのはただ嘲りと確信に満ちた優越感だけ。

    シュウロウがゆっくりと振り向くと、そこにはヴィートがいた。

    煙草を指の間で弄びながら、あくまで気怠げに、それでいて隙のない姿勢で佇んでいる。

    「なぜ戻ってこれる?侵入者を許した挙句、あんな無様に倒れておいて………。それに、よりによって攫われたのは“お嬢”だぞ、なぁ?」

    わざとらしく肩をすくめながら、一歩、また一歩とシュウロウに近づいてくる。

    シュウロウはただ黙って立っていた。
    悔しさが、腹の傷よりも深く心に刺さっていた。

    ───自分のせいだ。あの瞬間、自分が撃たれたせいで、彼女を守れなかった。

    シュウロウは唇を噛み締める。
    ヴィートの言葉が図星であるだけに、何一つ言い返すことは出来なかった。

    「───どうした?今度は吠えないのかよ。
    ああ……そうか。痛いのは腹だけじゃないんだよな。自尊心もぐしゃぐしゃか?」

    ヴィートは皮肉たっぷりに笑った。

    「やっぱり犬ってのは時々噛むから役に立つんであって、吠えもしねえ噛みもしねえ番犬なんて置物以下だよな。」

    少しだけ近づいて、すれ違いざまヴィートはわざと肩をぶつけてくる。

    「────っ!」

    まだ癒えぬ傷が疼き、周狼は顔を僅かに歪める。


    その時、廊下に重たいブーツの音が響いた。

    「ヴィート…そこまでにしなさい。」

    そこに現れたのは、”ジーナ″。

    唇は艶やかなルージュで彩られ、紫の濃い巻き髪が揺れる。
    冷たい眼差しでヴィートを見下ろしていた。

    「ここは男の子同士でマウント取り合う場所じゃないわよ。仲間でしょ。………仲良くやってちょうだい。」


    「……姐さん、こいつが何やったか分かってんのか。」

    ヴィートがジーナを睨みつける。
    その顔には苛立ちが滲んでいたが、ジーナは相手にしなかった。

    「処遇はボスが決めるわ。あたし達はそれに従うだけ。……………そうでしょ?」

    その口調には艶があったが、1歩も譲らない芯があった。

    ヴィートは舌打ちして、壁を蹴るようにしてその場を離れた。

    ジーナはシュウロウのそばまで来てふっと微笑む。

    「………無理はしちゃダメよ。」

    その声には、皮肉でも侮蔑でもない、純粋な優しさがあった。

    シュウロウが言葉を返すより先に、彼女は背を向けて、闇の中へと消えていった。

    ヴィートはシュウロウに向き直る。


    「…………ボスにはオレから伝えておく。番犬は吠えもせず、大事な″もの″を奪われましたってな。」

    「───っ!」

    その言葉を吐き捨てると、ヴィートは背を向けて廊下の奥へと消えていった。

    ひとり残されたシュウロウの胸には、煮えたぎるものがあった。
    だがそれを口にすることはなかった。

    ───ボスの元へ行かなければ。

    自分の無力さと、守るべきものを奪われた現実を噛み締めながら、シュウロウはただ一人静かに拳を握りしめた。







    アジトの奥まった部屋。

    分厚い扉の向こうに広がるのは、重厚な木製の机と、背後に飾られた銀色の狐の剥製。

    静かに煙をくゆらせる葉巻の香りが満ち、重く威圧感のある沈黙が室内を支配していた。

    「……それで? リリーナが連れ去られた、と?」

    低くよく通る声が響き渡る。
    透き通るような銀の髪に藍色の瞳。

    彼の名は”アルジェント・ヴォルペ”。
    ヴォルペ・ファミリアのボスだ。

    椅子に背を預けるその姿は、老獪というより、むしろ静かなる猛獣のようだった。

    サングラスで遮られてはいるがその視線には今なお獣のような鋭さが残っている。
    彼が“銀牙の狐”と呼ばれる所以が、何よりその眼光に宿っていた。

    「ええ…そうです。護衛を任されていたあいつが油断して撃たれた──その隙にリリーナ様は連れ去られました。」

    ヴィートは丁寧な口ぶりで言うが、その声音には棘がある。
    報告というより告発に近い響きだった。

    「これは明確な失態です。門番が門を開けたまま、眠っていた。……正確には“撃たれて倒れていた”のですが、どっちだって構いません。リリーナが攫われたのは彼の責任でしょう。」

    ───沈黙。

    ボスは何も言わず、静かに指先で葉巻の灰を落とす。

    ヴィートは期待していた。
    シュウロウが犯したのは明らかな失態。

    ここでボスが怒りに身を震わせシュウロウを追放、あるいは降格でも命令すれば、目障りな邪魔者は消える。

    だが顔を上げたボスのその目は違った。

    「………生きて戻ってきたんだろう?」

    「…………………ええ、一応は。」

    「なら、それで充分だ。……まだシュウロウの役目は終わってない。」

    ヴィートの眉がぴくりと動いた。

    「……随分とシュウロウに甘いんですね。この件で組織の立場が揺らぐ可能性だってある。なのに、まだあいつに任せるつもりですか?」

    アルジェントは、煙を細く吐きながら静かに笑う。

    「……忠義とは失敗で測るもんじゃない。血を流してでも戻ってきたってことは、あいつにはまだ“消えない火”が残ってるってことだ。………お前にはそれが見えてないのか?」

    「……。」

    「……………。」

    「………何のために。…シュウロウをリリーナ様の傍に置いてきたんですか。」

    ヴィートの声がいつになく荒い。
    静かだった室内に、ヴィートの苛立ちを押し殺しきれない熱が満ちる。

    「何も気付かず、無様に撃たれて、何も守れず……! それでも“戻ってきた”ってだけで、あいつを庇うんですか?」

    「……貴方がシュウロウを特別視しているのは知っています。」

    「………でもボスの庇い方は異常ではありませんか。………まさかシュウロウを後継者に、なんて考えているんじゃないでしょうね。」

    「そもそもあいつは──────!」

    銀牙の狐───アルジェントは、葉巻を机に置き、静かに息を吐いた。
    その仕草一つで、部屋の空気がガラリと変わる。

    「……ヴィート。」

    「───!」

    名前を呼ばれた瞬間、空気がぴしりと張り詰めた。

    「怒りは目を曇らせる。おまえは優秀だが………若い。まだ見えていないものがある。あいつは命を懸けて戻ってきた。…………それを信じてやれるのが、“家族”ってもんじゃないのか?」

    ───家族。

    ヴィートの喉が鳴る。
    言葉にならない苛立ちが喉元までこみ上げたが、それ以上は言わなかった。

    ───いや、正しくは言えなかった。
    アルジェントの声には、ヴィートにも逆らえない“重み”がある。

    その時───扉の外に一人の足音が近づいた。

    「……………失礼します。」

    ヴィートはボスに一礼し部屋を出る。

    扉の前で立ち止まっているシュウロウを一瞥し、ヴィートは舌打ちを飲み込むように鼻を鳴らす。

    「……ボスがお呼びだ。」

    視線を合わせず、ぶっきらぼうに告げて、ドアの前から退いた。

    シュウロウが扉に手をかけると、ヴィートは低く吐き捨てるように呟いた。

    「────せいぜい”とってこい”くらいは必死にやれよ。」

    その言葉にシュウロウは反応を返さず、ただ静かに扉を押し開けた。






    扉が開くと、ボスの部屋から重苦しい空気が流れ込む。
    シュウロウは包帯の下に痛みを抱えたまま、ゆっくりと足を進めた。

    「シュウロウだな。…………来い。」

    アルジェントの声は短く、命令のようでいて、どこか柔らかい。
    シュウロウが机の前に立つと、彼はじっとその目を見た。

    「………顔色が悪いな。例の医者に診てもらったのか?」

    「……はい。」

    部屋に静寂が訪れる。
    空気が張り詰めるのを感じ、シュウロウは唾を飲み込んだ。

    「…………………何があった。」

    部屋に響く低い声。
    しかしそこには怒気も詰問もなかった。

    全てを見透かしているかのようなアルジェントの深い眼差しが静かにシュウロウを包み込む。

    「……俺の、せいです。」

    言い訳のしようがない。
    シュウロウは目を伏せ俯いた。

    アルジェントはしばらく黙っていたが、ふいに立ち上がり、机を回って歩み寄るとシュウロウの目をじっと見た。

    「お前がリリーナを想う気持ちは誰よりも分かってる。………あの子がどれだけ無茶をしても、ずっと傍にいたのはおまえだけだった。」

    一瞬、ボスの声にわずかな哀しみが混じったような気がした。

    「おまえはリリーナを守りたいと思ってる。…………だから任せる。連れ戻してこい。どんな手を使ってでもな。」

    シュウロウの視線が揺れる。

    「おまえにしかできない。…………そう思ってるから、今ここに立たせてるんだ。この意味が分かるな。」

    ボスのその一言が、シュウロウの心を貫く。

    その言葉は皮肉でも情けでもなかった。
    アルジェントがシュウロウに向ける痛いほどまっすぐな信頼だった。

    「…………必ず連れ戻します。」

    ボスは頷き、シュウロウの肩に手を置く。
    その手は大きく、父のように、兄のように、あるいは……罪の意識を秘めた者のように重かった。

    「………行ってこい。」

    シュウロウが静かに頷くと、ボスは肩から手を離した。

    「…………ヴィートには俺から言っておく。おまえのやり方を見せてやれ。」

    「……はい。」

    シュウロウは軽く頭を下げると、踵を返して扉の方へ向かった。

    扉を出るとこちらを睨むヴィートの姿が、シュウロウの視界の隅をかすめた気がした。

    だが2人は最早言葉も視線も交わさない。
    シュウロウは振り返ることなく歩を進めた。







    (〜中略〜)

    (シュウロウは、情報を集めたり、町の外れにある「禁域」とされている洞窟を探索します。)






    雨が降っていた。
    しとしとと静かに降り続く冷たい音が窓越しに聞こえる。

    アジトの一室、書類の山を前に、銀の髪を撫でるように指で梳くアルジェント。

    その対面には、腕を組んで立つジーナの姿があった。

    「ねぇ………ボス。」

    いつもの余裕ある声じゃない。
    その声は低く、どこか揺れていた。

    「……ヴィートのことどう思ってるの?」

    「……………急にどうした?」

    アルジェントの手が止まる。
    深い藍色の瞳が、ゆっくりとジーナに向けられた。

    「ヴィートは………忠実だ。組織のためによく働くし頭も切れる。………時折感情に流されて、少々冷静さが欠けるがな。」

    ジーナの眉がぴくりと動いた。
    珍しく感情的に声を荒らげる。

    「───それだけ? …………組織にとって都合のいい駒としての評価しかあの子にないの?」

    「………違う。…………ヴィートは………。」

    言いかけて、アルジェントは口を閉じた。
    答えを飲み込んだまま、ただ窓の外の闇を見つめる。


    「………最近のあの子を見たら分かるでしょ。何か……大事なものが壊れかけてる。…………あんたも薄々気づいてるはずよ。」

    ジーナは一歩前に出る。

    「アタシにとってあの子は弟みたいなものなの。………アタシじゃ……………もうヴィートを止められない。」

    ジーナの瞳が潤み微かに揺れる。

    アルジェントはしばらく黙ったままだった。
    ジーナも言葉を飲み込むように、静かに煙草に火をつけた。

    ジーナは落ちた前髪をかきあげる。
    そして、煙草の灰を床に落としながら、アルジェントに静かに告げる。

    「ヴィートを拾ってきたのはアルジ、………あんたでしょ?」

    「ヴィートは信じてた。いつか、ちゃんとボスに見てもらえるって。でも……あんたが見てるのは、いつだってシュウロウだけだった。」

    「───アルジ、気づいてる? ヴィートはあんたに見てもらえなくても、あんたの事を愛してたんだよ。まるであんたを実の親のように、ずっと、ずっと報われない想いを抱えて、それでも必死で頑張ってたのよ。」

    ジーナの言葉にアルジェントの眉が動く。

    「────そうだな。」

    アルジェントは意味ありげに目を閉じた。銀の睫毛がわずかに揺れる。

    「ジーナ。」

    「構成員のひとりとして接することは出来るが……アイツ個人を見てやる事はオレには難しい。」

    「───オレの手は血に塗れている。リリーナにもヴィートにもどう触れて良いのか分からないんだ。」

    ジーナは顔を上げる。
    訝しげに眉を顰めた。

    「何で今……………リリーナの名前が出てくるのよ。」

    しまった、とでも言うようにアルジェントは僅かに目を見開いた。

    「────アルジ。まさか、ヴィートはあんたの………。」

    ジーナは口元を手で押えた。

    アルジェントは目を伏せる。

    「………………………。」

    数秒の沈黙の後、アルジェントは重々しく口を開いた。

    「───ヴィートにはオレの跡は継げない。継がせない、じゃない。───継げないんだ。」

    「リリーナは正妻の子だ。リリーナを妻に出来る人間に跡を継がせる。」

    アルジェントのその言葉にジーナは目を伏せた。

    「……………おかしいと思ってたのよ。……シュウロウには普通に接するのに、リリーナとヴィートの事は避けてるなんて……。」

    ヴィートは無言を貫いていた。

    ジーナはアルジェントの答えを聞かずに、背を向けた。

    「……そういう事ね。……あの子が真実を知ったらどんな気持ちになるか。」

    「………………あの子は止まらない。あたしにはもう…祈るくらいしかできないわ。」

    扉が静かに閉まる。
    ひとり残されたアルジェントの耳には、雨音だけが染み込んでいった。






    (〜中略〜)

    (ついにシュウロウはリリーナを助け出します。怪我をしたリリーナをアランに預けて、シュウロウは報告のためアジトへと帰ってきます。)









    シュウロウはアジトの扉を静かに開けた。

    夜の湿気が滲み込んだ空気が肺に流れ込み、しんとした重みを持って身体を満たしていく。
    軋む木の床、刻む秒針。時間がこの場所だけ静止しているかのようだった。

    ドアノブに手をかけた瞬間、シュウロウの視線がふと廊下の先へ吸い寄せられる。


    廊下の奥、ほの暗いランプの灯りの下に誰かの影が沈んでいたからだ。

    シュウロウは目を見開く。

    「ヴィート…。」

    足音もなく、ヴィートの影が立ち上がった。
    煙草の香りと、微かに甘ったるい花のような香水の匂いがシュウロウの鼻先をくすぐった。

    「────シュウロウ。」

    ヴィートのその声はまるで感情を捨てた機械のように、あまりにも静かで、平坦だった。

    「お前が帰ってきたって事は───リリーナは無事だったんだな。」

    「……ああ。」

    ヴィートは口元を歪めて笑った。

    言葉を交わしながら、シュウロウは部屋のドアを開けて、中へ踏み込もうとした。

    しかしヴィートの瞳を見た瞬間、シュウロウの胸の奥がざらついた。

    ──あれは……怒りの残骸。

    焼け焦げた憎悪の灰が、瞳の底で燻っている。そんな気がした。

    「───そうか。それならよかった。」

    ヴィートの言葉が終わるのと同時だった。

    ヴィートの手が、ポケットから何かを抜き取る気配。
    ヴィートの足音が、床板を踏み砕くように迫ってくる。

    振り向いたシュウロウの目に映るのは─────。


    銀色の刃。

    シュウロウは身体をひねり、間一髪で胸を刺されるのを避けた。
    だが、腕に鋭い痛みが走る。

    切っ先に血が跳ね、床に赤い点が滲む。

    「………何の真似だ。」

    シュウロウは距離を取り、ヴィートを鋭く睨みつける。

    振り向いた先に立つヴィートは、ゆっくりと短剣を構え直した。

    「─────お前が邪魔なんだよ。」

    次の瞬間、ヴィートの刃が弧を描いてシュウロウの喉元へと迫る。
    殺意は寸分の迷いもない。

    ───瞬間。
    シュウロウの右手が風を裂いた。

    だが──シュウロウの右手が風を切った。

    「───っ!」

    ヴィートの手首を迷いなく打ち払う。
    刃が床に落ちる高い音が部屋に響く。

    ヴィートの腕がわずかに軋み、微かな呻き声をあげた。

    「………っ……素手で勝てると思ってるのかよ……!舐めてんのか……!」


    言葉と同時に、ヴィートはスーツの胸ポケットから銃を取り出した。

    照準をシュウロウへと定める。

    ───はずだった。

    「────!」

    シュウロウはヴィートよりも先に動いていた。
    重心を沈め、下から突き上げるように振り上げた右拳がヴィートの脇腹に沈む。

    「ぐっ……!」

    ヴィートの身体がよろめく。
    そのまま背後のテーブルに肩をぶつけ、何枚かの紙と空のグラスが散らばった。


    「お前……っ……!」

    息を荒げ、立ち上がるヴィート。
    その足取りはどこか不安定だ。

    シュウロウは間髪入れず、ヴィートの鳩尾を肘で殴る。

    「………………っ。」

    鈍い衝撃音のあと、沈黙が落ちた。

    ヴィートが床に崩れ落ちる。
    肩を震わせ荒く息を吐く。
    それでもまだ、拳を握りしめたまま立ち上がろうとしていた。

    シュウロウはヴィートの両手首を掴み、勢いのまま壁に押しつけた。

    まるで狼に捕らえられた猫のようだった。

    体格差は歴然だった。
    ヴィートの抵抗はすぐに封じられた。

    「────クソっ!離せ!」

    ヴィートは藻掻くが、シュウロウは握る手に力を込める。

    ヴィートの顔が苦痛に歪んだ。

    「───っ!」

    シュウロウはただ静かにヴィートを見つめる。
    ヴィートの身体が微かに震えているのがシュウロウの手に伝わってきた。

    ヴィートの額を汗が伝い頬を濡らす。

    「…………………。」

    「…………………………。」

    「…………ははっ………不意打ちでも勝てないのかよ。」

    掠れた声でヴィートは笑う。
    それは、悔しさというより──諦めのような響きだった。

    「……ハッキリ言えよ。………無様だってな。」

    ヴィートはシュウロウを睨みつける。

    「───俺はそんな事思ってない。」

    シュウロウは静かに告げる。
    その言葉にヴィートはわなわなと身体を震わせた。

    「……………偽善者ぶってんじゃねえよっ……お前のそういう所が大嫌いだ!」

    ヴィートの目が獣のように光る。
    怒りと悲しみが交差するその目の中で、どこか懇願のような感情が見えたような気がした。

    「───見下せよ!オレはお前に何ひとつ勝てない!」

    シュウロウは静かに首を振る。
    ヴィートは肩を震わせた。目尻には涙が浮かんでいた。

    シュウロウはわずかに目を伏せると、ヴィートに歩み寄り、ヴィートをそっと抱きしめた。

    ヴィートは驚きで満ちた表情で目を見開く。
    目からは涙が零れ落ちた。

    「何で………何でオレに優しくするんだ!……嫌われてるのは分かってるだろ!」

    「酷い事もたくさんしたし、お前の事を殺そうとだってした…!」

    「それに……リリーナが攫われるのを黙って見てた………お前が居なくなればそれでいいって思ってたんだ!」

    「殺すなり、ボスに報告するなり好きにしろよ……………。じゃないと平等じゃないだろ?」

    ヴィートの声が揺らぐ。


    シュウロウは目を伏せたまま考えていた。


    ボスに報告すれば処罰は免れない。
    今まで見逃されていたのは、あくまでシュウロウが黙っていたからだ。

    まして、リリーナが攫われると知っていながら何もしなかったのなら、その代償は非常に重い。

    良くて追放。最悪────。

    ヴィートを見下ろす。
    怯えと後悔に揺れる瞳は、まるで叱られるのを待つ小さな子どものようだった。

    彼の罰はまだ終わっていない。
    本当は誰よりも、ヴィート自身がそれを求めているのかもしれない。



    「なあヴィート、俺が怒ってるように感じるか?」

    シュウロウの声は感情が見えない。
    ただ静かだった。

    抱きしめられているため表情も伺えない。
    ヴィートは何も言えなかった。


    シュウロウはヴィートから離れると、部屋の隅に置いてあるソファへと腰掛け、自身の膝に手を添えた。

    「───来い。」

    ヴィートの瞳がわずかに揺れる。
    何かを言いたげにシュウロウの顔を見たが、彼はそれを遮るように、無言で首を横に振った。

    「好きにしろって言ったのは、お前だ。」


    ヴィートは少し俯き目を伏せる。
    羞恥か、恐怖か、握りしめた拳が僅かに震えた。

    「───ヴィート。」


    名を呼ばれ、ヴィートがシュウロウへと目を向ける。
    シュウロウは、寂しそうに笑っていた。

    その表情に、胸の奥がきゅう、と締めつけられる。

    何かが喉の奥に詰まったような感覚。
    言葉にできない想いが、静かに心を満たしていく。


    ヴィートは微かに震えながらも一歩、また一歩と歩みを進め、シュウロウの前に立つと、唇をぎゅっと結び、膝の上へとその身を預けた。


    月明かりに照らされて、シュウロウとヴィートの影が重なり合う。

    静まり返った部屋にソファが軋む音が響く。
    シュウロウの膝は暖かかった。

    ヴィートは拳を握りしめ、顔を伏せ、歯を食いしばった。

    心臓の鼓動が速まっていく。
    それが羞恥か、恐れか、あるいは別の感情なのか、ヴィートには分からなかった。






    シュウロウの膝の上にはヴィートが抵抗もせず、大人しく横たわっている。
    微かに震えながら、それでも何も言わずにただ静かにそこにいた。

    ───あのヴィートが。

    シュウロウの胸には動揺が広がっていた。
    睨まれ、拒まれ、突き放されるだろうと、拒絶されると思っていたからだ。

    シュウロウの頭の隅に、ふいに遠い記憶が蘇る。

    ひとりぼっちだった自分が、アルジェントに拾われて家族が、帰る居場所が出来た。

    初めてアルジェントに会った時の事を今でも覚えている。
    暗い洞窟で花に埋もれて蹲っていたシュウロウにアルジェントは手を差し出した。

    「────おいで。」

    アルジェントの腕には幼いヴィートが抱かれていた。
    無垢な秘色の瞳がただ静かにシュウロウのをじっと見ていた。

    あの頃はまるでシュウロウとヴィートは本当の兄弟のようだった。

    アルジェントは父のようであり兄のようでもあった。
    ジーナは母のようであり姉のようだった。

    シュウロウは家族というものはどのようなものか分からなかったが、きっとこういうものなのだろう。
    そう思った。



    ───そして今、自分がヴィートにしようとしているのは、なんてことは無い、ただの「躾」だ。

    悪いことをすれば、お尻を叩かれる。
    この国では、それは至極当たり前、教育の一環に過ぎない。


    シュウロウはジーナやアルジェントから打たれる回数は多かったわけではないが、大人になった今でも記憶に深く残っている。


    ヴィートと埃っぽい部屋で取っ組み合いになったこと。
    つまらないことでムキになって、町外れの洞窟に探検に行って───
    あの時は崩落に巻き込まれ、傷だらけになって、ジーナにこっぴどく怒られた。

    ……あの頃はジーナには随分心配をかけていた。



    大きくなるにつれ、自分はボスの仕事を手伝うようになり、ヴィートとの距離は離れていった。

    次第にヴィートはシュウロウを避けるようになり、顔を合わせても睨まれるようになった。
    原因は分からなかったが、嫌われてしまったのだと哀しくなったのを覚えている。


    そういえば───ボスに打たれてるヴィートを庇った事もあった。

    既に散々叩かれた後なのか、ヴィートの衣服は乱れていた。
    さらに頬も打たれたようで赤くなった顔と涙で濡れた瞳が酷く印象的だった。

    あの時少しでも関係が修復されることを願ったが、ただ睨まれただけだった。
    庇われることが彼にとっては屈辱だったのかもしれない。

    それでも。

    嫌われても、憎まれても、自分にとっての兄弟はヴィートだけだった。

    かけがえのない大切な存在だった。

    だが時が経ち、揺蕩うような感情が複雑に絡み合うほどに、いつしか向き合うのが怖くなってしまった。

    今度はちゃんと向き合いたい。

    動かぬように、逃さぬように。
    シュウロウの大きな手がヴィートの腰に添えられる。




    「────いくぞ。」

    ヴィートは何も言わなかった。
    ただ静かに、全てを受け入れるように頷いた。

    その瞬間、シュウロウの手が振り上げられる。

    「──────っ!」

    風を裂く音と、鈍くくぐもった打音が静まり返った部屋に響く。

    ヴィートの腰がわずかに跳ねた。

    二発、三発。四発、五発。


    懐かしい感覚。じんわりとした鈍い痛みが、衝撃と共に布越しに染み入ってくる。


    ───痛い。衝撃が皮膚の奥底まで響く。

    子どもの時よりも痛みを強く感じる。
    ……ボスもジーナも加減してたのか。

    額から汗が滲む。

    ヴィートは必死に声を押し殺す。
    震える歯が噛み合わさるたび、口の端から微かな息が漏れた。


    シュウロウは平手全体でヴィートのお尻を覆う。
    一発毎にヴィートの身体が大きく揺れる。

    打たれ続けると、次第に腎部は熱をもち、じんじんとした痛みと感覚を脳に訴えてくる。

    シュウロウは一定の速度でヴィートを打ち据えた。
    ヴィートが身体を震わす度に、ヴィートの腰を押さえるシュウロウの手に力が籠るのを感じた。



    やがて、シュウロウの手がヴィートのズボンにかかり、下ろそうと───

    「────い………やだ…っ。」

    ヴィートが振り向き、シュウロウの手を掴んだ。

    痛みを感じる事も恐怖だったが、何よりもシュウロウに無防備な姿を、情けない姿を晒す。
    今さら抵抗してもどうしようもないが、それだけはヴィートのプライドが許さなかった。




    「──ヴィート。」

    シュウロウは静かに名を呼ぶ。

    その音にヴィートの身体の奥が熱くなった。
    怒りか、羞恥か、恐怖か。或いは───
    判然としない感情が胸を焼く。


    「今まで服の上からだけで終わるなんて事なかっただろ。」

    ヴィートの手に重ねるように、シュウロウは手を重ねた。
    ヴィートの手がびくりと震えた。

    そのままシュウロウはヴィートの手を握り背中に押さえつけてしまう。

    動けなくなったヴィート。
    シュウロウはヴィートのズボンに手をかける。

    「──────っ」

    そのまま勢いよく、ズボンと下着をずり降ろされた。
    桜色に染まった肌が露になり、部屋の冷たい空気に晒される。

    ヴィートは恥ずかしさのあまり、顔をソファへと埋めた。

    シュウロウは再び平手を振り上げ、ヴィートのお尻をさらに叩いた。

    先程よりも乾いた打音が部屋に響く。

    「……………っ……やめっ…………」

    掠れた声で、ヴィートは悲鳴をあげた。


    シュウロウは先程よりも叩く手に力を篭める。
    派手な音が部屋に響いた。

    ヴィートの声も比例するように大きくなる。

    みるみるうちに肌は赤く染まり、シュウロウの指の痕がヴィートの尻に浮かんでいた。


    「…………ぃた……………………うぅっ!」

    シュウロウは淡々と平手を振るう。
    ヴィートの牙を折らなければ、本当の気持ちは聞けないだろう。

    「……………………ぐすっ。」

    鼻を啜る音が小さく響く。
    ヴィートの肩が小さく震えていた。

    ヴィートは一発打たれる毎に身体を震わせながら必死に耐えていた。



    シュウロウの手が止まる。


    「───なあ、ヴィート。…………何でそんなに俺を憎むんだ。」

    シュウロウは静かに問う。

    「……………。」

    「…………………。」

    「───お前さえ……!」

    ヴィートの声は震えていた。
    それでもなお言葉を吐く。

    「────お前さえ居なくなれば………オレだって…………………。」

    「………オレだって、オレだって愛されたかった。」

    その言葉に、シュウロウのまぶたがかすかに震える。

    ヴィートは言葉に詰まり顔を伏せた。
    声は涙に濡れていた。

    「どうして……オレじゃなかったんだよ……!」

    「オレは……ずっと、必死だった……。銃を覚えたのも、薬を運んだのも、全部ボスに、組織に必要とされるためだった……! そうすれば、きっとオレも見て貰えるって……。」

    呻くような嗚咽が混じる。
    ヴィートは、されるがままで、もはや抵抗する力もなかった。

    「でも結局ボスが選んだのは……お前だった。いつだってお前を見てた!」

    「いつだってお前の事が憎かった!声も匂いも、お前がリリーナに向けるその目も、オレに向ける態度も、全部が気に食わなかったんだ!」

    ヴィートは泣きながら、言葉を絞り出す。
    心の底に塗り固められていた嫉妬と、愛されなかった哀しみが、声となって止めどなく溢れ出していた。

    「愛されたかったんだよ……ただ、それだけだったのに……!」

    「………なあ教えてくれよ。オレの何がダメだったんだよ。」

    シュウロウはしばらく動けなかった。
    涙でソファを濡らすヴィートを静かに見下ろしていた。


    静寂が部屋に降りる。
    やがてシュウロウは静かに口を開いた。

    「……………すまなかった。」

    その言葉にヴィートは目を見開いた。
    なぜシュウロウが謝るのか、理解できなかった。

    「………ボスがヴィートから一線を引いていることには気付いてたんだ。」

    「でも俺は何も言わなかった。」

    「……………お前と真正面からぶつかったら、もう戻れないような気がして避けてしまった。」

    「本当はお互いの気持ちを話し合うべきだったんだ。そんな事とっくの昔から分かってたんだ。」

    ───違う。
    シュウロウを遠ざけたのはオレだ。

    ヴィートの胸がずきりと痛んだ。

    「だから俺に対してやった事は全て許す。」

    「…………でもな、お嬢を巻き込むのは違うだろ。」

    シュウロウは手を再び振り上げる。
    平手が容赦なくヴィートの腫れた尻に打ち付けられた。

    「─────!」

    「俺を憎む気持ちは理解出来る。…でもお嬢は関係ない。そうだろう。」

    鋭い痛みが脳を突き抜ける。
    身体を震わせながら、ヴィートはただ衝撃を受け止める。


    「………それに彼女は都合の良い道具じゃない。お嬢は人間だ。」

    シュウロウは叩く手を一切緩めない。
    ヴィートの口から嗚咽が漏れだす。

    「お嬢だって母親を亡くし、ボスに見て貰えるわけじゃない。ヴィートならお嬢の孤独な気持ちがわかるだろ。」


    「……………分かってたまるか……………リリーナにはお前が居るじゃないか。」

    「…………っ……オレはひとりだ!」

    堪えていたものが決壊するように、ヴィートは泣きじゃくった。


    ふとシュウロウの手が止まった。

    「…………………そりゃあお嬢の事は大切だ。…でもお前の事だって大切なんだ。」

    「………お前は俺のたったひとりの兄弟だ。そうだろ。」


    驚いたヴィートは、ゆっくりとシュウロウの方を振り向いた。
    シュウロウの顔を見た瞬間───
    ヴィートは目を見開いた。


    「────────!」

    シュウロウは哀しそうに、目を微かに細めて微笑んでいたからだ。


    ───なんで………なんで、そんな顔をするんだよ。


    ヴィートの瞳が揺らいだ。

    ───小さかった頃、背伸びしてお前の隣に立とうとしたオレを、
    シュウロウは笑わなかった。

    特別優しいわけじゃない。

    けれど───
    ちゃんとオレのことを見てくれてた。

    それだけで嬉しかった。
    ……あの頃はそれだけで十分だった。

    でも───
    いつからか、気づいてしまったんだ。

    オレじゃ手に入らないものがあるってことに。

    ボスはお前を選んだ。
    リリーナもお前を選んだ。

    …ジーナだって、結局はお前の味方だ。

    リリーナが、お前に向ける感情。
    そして、お前がリリーナに向けるその目。

    大切なものが出来たんだって嫌でも分かった。
    そんな顔を見たくなかった。理解したくなかった。

    シュウロウ、お前の事が許せなかった。

    ───全部オレが欲しかったものだった。

    オレじゃダメだったんだ。
    オレは誰にも選ばれない。

    どれだけ足掻いても、地に這いつくばって血反吐を吐いても、幹部まで登り詰めても、欲しかったものは何も手に入らない。


    その現実が心に棘のように突き刺さって、ずっと抜けなかった。

    嫉妬、劣情、羨望。

    全てがぐちゃぐちゃに混ざりあって、心にどす黒い感情が絡みつく。

    シュウロウを見てると、吐き気がするほど胸が苦しくなる。

    だから、壊してしまいたかったんだ。

    何も手に入らないなら、せめて傷つけて、自分の方が上だって思いたかった。


    …………………みっともねぇな。

    結局オレは大人になれない。
    ガキのまんまだ。

    愛されなかったことを言い訳にして、全部ぶっ壊そうとしてた。

    なのに───シュウロウはまだオレを救おうとしてるのか。



    見捨てればいいのに。
    突き放せばいいのに。

    ……………………ああ、くそっ。

    どうしてそんな目をするんだよ。

    そんな目で見るな……………。
    どうしようもなく苦しくなるんだよ。

    ………シュウロウ、オレはお前とちゃんと向き合いたかった。

    お前に本当の気持ちを話せてたら、こんな事にはならなかったのか?


    ああそうか………………。
    オレが求めてたのは…………。

    ボスよりも、リリーナよりも

    ───シュウロウ、お前に愛されたかったのか。









    ヴィートはずっとどこか埋まらない孤独を抱えていた。
    愛されないと思うあまり、他人を、シュウロウを傷つける事でしか自分を守れなかった。

    今の今まで、後戻りをする事も、間違いを認めることもできなかった。
    心のどこかでシュウロウに罰される事を望んでいたのかもしれない。


    「……………。」

    「………………ごめ…んなさい。」

    震えた小さな声でヴィートは呟いた。

    シュウロウは何も言わずに、ヴィートの頭をぐしゃりと撫でた。



    「…………ゔぅ………。」

    「……………………ひぐっ……ごめんなさい。」

    ヴィートはシャツの裾を強く握りしめ、泣きじゃくっていた。
    月明かりに照らされた静かな部屋に、その嗚咽だけがいつまでも響いていた。





    ✻✻✻


    ヴィートは涙で濡れた顔をシャツの袖で拭う。
    動く度に顔を顰めるヴィートをシュウロウは静かに見守っていた。

    「………ボスに全部話してくる。」

    ヴィートは覚悟を決めたように顔を上げた。

    「ヴィート………。」


    「………そんな顔するなよ。ケジメは付けないと……だろ。」

    ヴィートは笑った。
    踵を返し、部屋を出ようとドアへと向かった。

    「………なあヴィート。」

    シュウロウはヴィートの手首を掴んだ。
    ヴィートは振り返る。

    「…………次の仕事は俺も一緒に行くよ。」


    ヴィートの目が見開かれた。
    その目には微かな希望のような光が灯っていた。

    「…………ありがとう。」

    そう言って、再びドアへと向かうヴィートの肩は小さく震えていた。





    静けさが戻った部屋で、シュウロウはひとり佇んでいた。

    荒れた部屋の中を見渡しながら、やれやれと息をつく。



    「───随分派手に散らかしたじゃない。」

    その声にシュウロウが振り返ると、ドアのところにジーナが立っていた。


    彼女は部屋へと足を踏み入れ、床に散らばった書類を拾い、机の上に整える。

    そして怪我をしたシュウロウの腕に目を止め、眉をひそめた。

    「あんた、腕血が出てるわ。部屋から出てきたヴィートも泣いてたし……一体何やってたのよ。」

    シュウロウは困ったように頭をかいた。

    「…………兄弟喧嘩。」

    ジーナは一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと笑みをこぼした。

    「────ふふっ、珍しいわね。」



    ✻✻✻


    世界はまだ黒く深い闇のなかにあった。


    シュウロウはソファにゆっくりと身を沈めた。

    ふと窓の外を夜の風がかすめた。
    シュウロウは窓際へと目を向ける。



    窓際に置かれた白い花が月明かりに照らされてぼんやりと光っていた。

    珍しくもない白い花。

    誰にも見られず、誰にも知られず。
    思い出されることもなく、忘れられることもなく。

    花はただ静かにそこに咲いている。





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