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    門キラ手紙本の没原稿、その1。割と書けていた箇所のみ抜粋。

    Dear Deer, From Moyuk -1-一九〇八年 六月二五日 

    「エラマスは、どう書くんだ」
    「エラマス? 聞いたことねえ鱒だな」
    「好き」
    「はぇッ?」
     間抜けな声を発してしまった受け口を、即座に噤んだ。が、遅かった。遅すぎた。この手の話に反応した時点で、詰みなのだから。
     畜生、しくじった。今一度被り直した狸の面の裏で、門倉は舌打ちをする。
     黄金争奪戦は終結した。負傷した左足の療養中、暇を持て余していたキラウㇱに請われて和語の読み書きを指南することになったのが、つい先週の話。講義の合間に交わされた会話に色恋めいた意味合いなど含まれているわけがない、なのに。
     あの黒目が、門倉を見ていた。真っ直ぐに、誠実に、何らかの想いを込めて。
     願わくば、聞かなかったことにしたかった。しかし、キラウㇱは文机に広げた帳面の上で鉛筆を握ったまま、じっと門倉を見つめて次の言葉を待っている。
     いや、待て。直角眉の間に皺を刻んで、門倉は必死に悪足掻きを試みる。何も『すき』が『好き』だとは限らねえだろ。魚か何かの名前かもしれねえし。
     などと詭弁を弄してみるものの、キラウㇱに通用するとは思えなかった。強面故に寡黙な印象を受けるものの、このアイヌの男は存外弁が立つ。門倉とて舌は回る方という自負はある。だが、キラウㇱが繰り出す的確な正論と妙に語感の良い誹りに、これまで何度やり込められてきたことか。
     ったく、どうしろってんだよ、これ。いよいよ進退窮まった門倉は、眉間の皺を深めていく。一方、キラウㇱはあくまで真顔で、
    「俺たちの言葉で『好き』って意味だ、エラマスは。和語での書き方を教えてくれ」
    「あ? あ〜……はいはい、そっちね……」
     心中胸を撫で下ろす。
     そんなもん書いてどうするんだよ。とは、聞かなかった。好きの語義が色恋とは限らないのだし、それ以上の詮索はそれこそ悪手だろう。
    「ちょっと詰めろよ」
     未だ左足を動かせないキラウㇱの隣へ、無理矢理体を捩じ込む。目を丸くするキラウㇱの右手を、包み込む。遠い昔、手習を始めたばかりの娘にしてやっていたように。
     すぐそばで、息を呑み下す気配を感じる。少々からかってやりたい悪戯心が半分、また余計な真似をしてしまったという後悔が半分。
     僅かな強張りを悟られる前に手を握って、黒い芯を帳面の紙へ定める。
     さら、さらりと一画一画を丁寧に記していく。
    「なんとなくは掴めたか?」
    「……あ、……ああ」
    「じゃあ今度は一人で書いてみな」
    「わかった」
    「偏は細長くな、んで」
    「下は揃えろ、だろ。何度も聞いた」
     口の減らない生徒が記した文字は、手先が器用なだけあって、それなりに形は整っていた。
    「まあ、悪くねえんじゃねえの」
     評価を伝えてやれば、キラウㇱの顔が誇らしげに輝く。
    「にしたって、恋文でも書くのかよ?」
    「コイブミ?」
     やらかした。重ねての失態を知りつつも、何食わぬ顔で解説してやる。
    「恋文ってのはなんだ、……手紙の一種だよ。惚れた相手に気持ちを伝えるためのな」
    「門倉も書いたことがあるのか? その、……恋文を」
    「書くわけねえだろ、んなこっ恥ずかしいもん」
     元の妻とは見合いだった。愛情がなかったとは言わないが、敢えて伝えた覚えもない。口頭は愚か、紙に書いて伝えるなど、考えたこともなかった。
    「……そうか」
     キラウㇱは息を吐いた。ほっとしたような色合いを、赤く染まった耳を、今日も今日とて見て見ぬふりをする。
    「今日はこれくらいにしておくか」
    「ありがとう、門倉セィセィ」
     ニㇱパ《旦那》とは口が裂けても呼ばないくせに、読み書きの時間だけはセィセィ《先生》と呼ばれる。心中擽ったさを覚えつつも、
    「おう、ちゃんと復習しておけよ」
     あくまで先生らしく言い残して、門倉は億劫そうに立ち上がる。閉めたばかりの襖に背を凭れて、
    「はあ~あ……」
     深く、深く溜息をついた。
     
     友人以上の感情を向けられている。薄らに感じていたそれが確信に変わったのは、
    『わぁあ⁉︎』
     座敷に通じる襖を開いた瞬間、ばっと文机に覆い被さったキラウㇱの狼狽ぶりを目にした時だったと思う。
    『いきなり覗くな、ジジイ‼︎』
     風呂が沸いたと伝えに来てやっただけで、この言われようだ。眉尻を下げつつも、腕の隙間から見えた文字に目は釘付けになっていた。
     『カドクラ』。何度も何度も繰り返された練習の跡が意味するところを考えずにはいられなかった。
     思い返せば、よく視線を感じていた。振り向くたびに、微かに弧を描く口許と目が門倉に向けられていた。
    「勘弁してくれよ、ったく……」
     天を仰いで呻いた顔を、隠すように抑える。五十も目前となった今、色恋沙汰など、無駄に感情を乱す厄介事でしかなかった。
     勃つか。嫌々ながら、検討してみる。確かにキラウㇱは程よく筋肉がついた好ましい肉体をしている、とは思う。だが、欲情を抱くかは全く別の話だ。赤い紋様が走る紺の着物に覆われたあの引き締まった肢体に触れたいと願ったことは、ただの一度もない。布団に組み敷いて暴いて、喘がせよがらせ啼かせたいかと問われれば、いやそんなことはねえけどと真顔で答えざるをえなかった。
     よしんば欲情したところで、男同士で体を繋げることを考えると、どうしたって避けられない問題がある。
     尻の穴。看守時代に指を差し入れて覗き込んだ、お世辞にも綺麗とは言い難い薔薇色の光景が脳裏をよぎる。更には狭い穴を広げた瞬間にむわっと立ちこめるあの臭いまで思い出してしまえば、
    「うぇッ……‼︎」
     無理だ。無理に決まってるだろ。歪めた口から、嫌悪にまみれた呻き声が漏れる。
     
     持ちえる感情は腐れ縁、よくて友だ。だからといって拒絶すれば、関係は決壊する。それは避けたかった。何くれとなく世話を焼いてくれる上に、遊び相手にもなる。そんな年下の男が沸かしてくれるぬるま湯に浸る気分は、悪くなかったから。
     故に、見て見ぬ振りをする。のらりくらりと躱し続ければ、そのうちキラウㇱも目が覚めるだろう。
    「……めんどくせえ」
     もう一度、声に出した。
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