Dear Deer, From Moyuk -2-一九〇八年 八月四日
だらだらと流れ落ちた汗が、シャツの襟に染み込む。
「暑っつい……よく生きてられるよな、あいつら……」
思いきり顔を顰めて悪態でもつかなければ、やっていられなかった。
あれだけのことをしでかしたからには、官憲にも目をつけられる。陸奥国にて生まれ北海道、しかも極寒の網走で長年過ごした門倉にとって、逃れた先たる本州の夏はなかなかに堪えるものがあった。
八寒地獄の次は八熱地獄かよ。ぼやきながら襖を開き、
「お〜い、戻ったぞ……何だこりゃ」
誰もいない座敷の隅、机にはペンと便箋が放置されていた。見る限り日本語のようだから、マンスールの筆によるものではない。
他人の手紙だろうとお構いなしに取り上げて、興味本位で目を走らせるものの、
「読めねえ~……」
大方アイヌ語なのだろう、片仮名で綴られた言葉をどうにも読み取れない。『シサム』『ニㇱパ』などの単語は辛うじて拾えたものの、前後の文脈がわからない以上、何の手掛かりにもならない。次第に面倒になって、雑に滑っていく目に飛び込んだのは、
『カドクラ』『エラマス』
心臓が跳ねた。
エラマス、即ち、『好き』。そんな言葉を己の名と連ねられた暁には、いよいよ逃げ場などなくなってしまう。
おいおいおいおい。動揺するうちに、ぽた、と何かが額から落ちた。
「げッ」
いつのまにか滲んでいた汗が、手紙に隠しきれない染みを作っていた。慌てて手で擦ってしまったものの、盗み読みの証拠はますます広がる一方だった。
ヤバい。面を引き攣らせた門倉の耳を、がらりと宿の引き戸が開く音が震わせる。ますます焦燥に駆られるも、足音は容赦なく近づいてくる。やがて襖がしゃっと開き、
「お、お帰り〜……」
「ただいま、……ん?」
キラウㇱは空の机を目にするや、怪訝そうに眉根を寄せた。
「手紙をここに置いておいたんだが……知らないか?」
「さあ、見てねえけど? 風か何かに飛ばされちまったんじゃねえの」
真顔ですらすらと嘘を並べ立てるものの、キラウㇱは釈然としない面持ちを浮かべていた。
「昼飯の支度をしてくる。……見つけたら教えてくれ」
「うん、わかった」
頼んで、再びキラウㇱは部屋を出て行く。遠ざかる足音を慎重に確かめて、門倉ははぁぁぁぁと肺に溜まった息を一気に吐き出した。衣嚢に手をごそごそ突っ込んで引き出したのは、ぐしゃぐしゃに握り潰してしまった先の手紙だった。
どうするよ、これ。こうなってしまったからには、何食わぬ顔で元の場所へ戻しておくわけにもいかない。返却は諦めるとして、気になるのは全文の内容だ。北海道を離れた今となっては、町で適当なアイヌに頼んで読んでもらうこともできない。仮に翻訳したところで、もしも中身が熱烈な恋文だとしたら。
『門倉、好きだ』
本人から伝えられてもむず痒い文言を他人の口から聞かされるくらいなら、頭から肥溜めに落ちた方がマシだった。
「二月以上四年以下の重禁錮、だな」
溜息混じりに嘯いて、解読不能の証拠物件を懐にしまい込もうとした。けれど。
今一度、折り畳んだ手紙をがさがさと広げる。
『カドクラ』『エラマス』。皺を刻み込んでしまった几帳面な文字を撫でた。何度も、何度も。