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    あずき

    @azumo4040

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    あずき

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    8/20 インテの流三新刊進捗兼サンプルです

    怪我をしたNBA選手の流川が、高校教師をしている三井の家で夏休みを過ごすお話です。
    怪我描写などありますが、絶対ハピエンです。

    やるぞ~!出すぞ~!頑張るぞ~!

    エンドロールはまだ早い Scene1.

    「――ねえ、早く!」
     熱気に湧くステイプルズ・センターのメインゲートをくぐりながら、私は振り返って恋人の名前を呼ぶ。試合開始まではもう少し余裕があるが、もう一秒だって我慢出来そうになかった。くしゃくしゃに皺がつきそうなくらい強くチケットを握り締める私を、恋人、――オリバーは、仕方ないなと言わんばかりの笑顔を浮かべながら見ていた。オリバーは、留学中に知り合った同級生だ。私よりも身長が三十センチ高くて、日焼けみたいなそばかすと癖のあるブロンドが可愛らしい人。
     オリバーは大学のバスケ部に入っていて、ポジションはスモールフォワードなのだと知り合ってすぐの頃に聞いた。流川楓と一緒だ。だけどどうやら、オリバーは流川選手があまり好きではないらしい。今日だって、ちょっと険しい顔をしている。アリーナ二階の指定席に腰を下ろして、私は眉間に皺を寄せているオリバーの顔を覗き込んだ。
    「……やっぱり、今日来たくなかった? 無理やり連れてきてごめんね」
    「違うよ、君のせいじゃない。試合だって楽しみにしていたさ。ずっと応援していたチームが十年ぶりに優勝しようとしているんだ、嬉しくないはずがないだろ。……でもなあ」
     そう言って、オリバーは肩を竦めた。でもなあ、と。その後に続く言葉は、何となく予想出来る。オリバーが昔からずっと贔屓にしていたエースは、去年流川選手がチームに加入したことによって出場回数が目に見えて減ってしまったのだ。
     最初こそ珍しい日本人選手というだけで注目されていた流川選手は、周囲の下馬評を跳ね除けてルーキーイヤーで最優秀選手に選ばれた。今では名実ともにチームのエースとなっており、オリバーの贔屓にしていた選手も「カエデには期待している」「カエデのおかげでチームがより盤石なものになった」――などなど、インタビューに答えているところを何度か見たことがある。
     実際の関係性なんてただのファンである私たちには分からないけれど、流川選手はチームで相当可愛がられているように見えた。つまるところ、オリバーが流川選手に対して抱いている感情は逆恨みである。多分それを理解しているからこそ、選手たちがアップをしているコートを見下ろすオリバーの表情はちょっと複雑そうだ。
    「……つまんないプレーをしてみろ。俺はまだあいつがエースなんて認めてないからな」
    「あんまり意地悪言わないで。……あっ。そろそろ始まるわね、楽しみ!」
     ――程なくして始まった試合は、今年のレギュラーシーズンの最後を飾るのに相応しい白熱としたものとなった。点を獲って獲られて、一進一退の攻防がずっと続くのだから心臓がどうにかなってしまいそうだ。
     バスケの試合って、こんなに拮抗するものだっけ? 開かない点差は、それぞれのチームが優勝に賭ける思いを具現化しているようだった。負けたくない、勝ちたい、――コートから、選手達のそんな熱量が伝わってくる気がした。
     中でも流川選手の鬼気迫るプレイは、やっぱり観客の目を奪って離さない。流川選手にボールが渡った瞬間に、会場内の熱気が一段と増す。流川選手がシュートを決めるたび、空間全部が震えるような大きな歓声が沸き起こった。
     流川選手がボールを持つと、相手ディフェンダーが必死で止めにかかる。リム、ペリメーター、ある時はハーフコートにまで出て流川選手を阻止しようとするのだ。厳しいマークを物ともせず、流川選手は着実にシュートを決めていく。
     ――あと少し。あと数分で、試合が終わる。相手チームが四点リードしている状態で、ポイントガードから流川選手にパスが出された。チェンジオブペースで一人目のディフェンスを躱した流川選手は、その勢いのまま一気にゴールに駆けていく。コートを縦断する彗星のような鋭い軌跡に、誰もが目を奪われていただろう。
     ――行け。
     思わず、胸元でぎゅうと力強く手を握り締める。隣に座るオリバーが、息を飲む気配がした。私たちだけじゃない。周囲の観客たちが全員、固唾を飲んで、流川選手を見ている。
     流川選手が強く地面を蹴り高く飛び上がった瞬間、相手チームのディフェンス二人がシュートコースを塞ぐように大きくジャンプした。流川選手よりも更に頭一つ分は背の高い、大きな選手達だった。だけどそれをものともせず、流川選手は高く手を伸ばしてブロックの隙間からボールを放り、――その直後に、勢いよくコートに叩きつけられた。
    「……ッ、なに、接触?」
     試合中に選手同士が接触するのは、よくあることだ。だけど素人の私でもいつもと違うと察してしまったのは、流川選手があまりにも不自然な倒れ方をしたからだ。ブロッカーの一人に覆い被られるようにして倒れた流川選手は、体の上から相手選手がどいても動く様子がなかった。遠目からでは、何が起きているか分からない。けれどすぐにレフェリーがサインを出して、試合が中断される。
     コーチとドクターが駆け寄り、流川選手の傍らにしゃがみ込んだ。選手達が、不安そうに流川選手を囲んで見下ろしている。動揺を色濃く映じた空気が、じわじわと会場内に伝播していく。
    「……ねえ、オリバー。どうしたのかしら。流川選手、大丈夫かしら……」
     オリバーのシャツを、きゅうと握り締める。聞いたって、当然どうにもならないことは分かっていた。だけどたまらなく不安で、思わず尋ねられずにはいられなかった。オリバーは何も言わず、袖を掴んだ私の手を握り締めてくれた。
     ――その試合中、流川選手が再びコートに立つことはなかった。起き上がれないまま担架に乗せられて、物々しい雰囲気で奥へと運ばれていったのを、私達サポーターは黙って見送ることしか出来なかった。
     エースを欠いたチームは残り数分の奮闘も虚しく、点差をじわじわと突き放されて敗北を喫した。帰路を辿る私とオリバーの間に流れる空気は、重たく冷たいものだった。もちろん、応援していたチームが負けてしまったからだとか、そんな単純な理由ではない。
    「……大丈夫だよ。流川楓は、タフネスだって武器の一つだろ。きっとすぐに良くなるさ」
     家に帰り着く直前、俯いたままの私にオリバーが優しく声を掛けてくれた。彼の口から流川選手に対する称賛を聞いたのは、これが初めてだったかもしれない。彼の優しさが嬉しかったし、それに何より、私も流川楓という選手の可能性を信じていた。大袈裟に運ばれて行ってしまったけれど、大事を取っただけかもしれない。きっとすぐに戻って来てくれるだろう、なんて。だけど淡い期待は、すぐに打ち砕かれることになる。
     ――流川選手が試合中の接触が原因で膝に大きな怪我を負ったこと。来季以降のチーム残留が絶望的であるというニュースを見たのは、その日の夜のことだった。


     Scene2.
     四月九日、レギュラーシーズンの優勝を賭けた決勝戦。
     その日のことは、たぶん生涯忘れられない。

     決勝戦は今までとは段違いの熱気に包まれており、例に漏れずオレだって興奮していた。オレだけじゃない。コートに立つ全員が、今日この瞬間、本気で勝利を掴もうとしていた。全力のぶつかり合いは、ここでしか経験出来ない熱を生む。執拗なマークで体力は容赦なく削られていくが、反して思考だけは鮮明だった。
    「行け、カエデ!」
     チームメイトの声が背中を押す。試合終了まで、あと数分。過重労働を強いられた心臓が全身に血液を送り出し、限界一歩手前の体に鞭を打つ。呼吸をするたびに肺が軋むような痛みを訴えたが、それもすべて些事だった。
     限界まで無駄なものを削ぎ落した五感の遍くすべてが、目の前のリング一点のみに収束していた。ブロッカー達がオレの前に立ちはだかるが、その向こう側のリングしか見えていなかった。強く地面を蹴り、腹底から込み上げてくる熱情すべてをリングに叩き込もうと手を伸ばす。
     けれどオレの手から放れたボールが、リングを潜ることはなかった。一瞬で視界が黒に染まる。全身に強い痛みが走って、暫くは目を開けることすらままならなかった。
     歓声が、どこか遠くで響いている。
    「――カエデ、大丈夫か!?」
     チームメイトの声に薄っすらと目を開くと、その瞬間に頭のてっぺんから爪先まで電流の痛みが走り抜けていく。骨が軋むような痛みを覚えるが、どこが発生源なのかもわからない。返事をすることすら出来ずに、オレは唇を噛み締めた。目に映る景色は輪郭を失い曖昧にぼやけており、何が起きているのかと理解することも叶わない。
     それでも、コートの端に転がっていくボールのことだけは捉えられた。
    「ッ、はあ、……ッ」
     早く、立たねーと。ここで抜けるわけにはいかない。早く、早く、早く。
     けれど込み上げる思いとは裏腹に、体中が痛くて辛くて、呼吸をするのもやっとだった。痛みで鈍る思考が、それでも本能的に察する。――これはきっと、だめなやつだ。
     転がっていくボールに、手を精一杯伸ばそうとする。けれど指先がボールに触れることはなく、ただ虚空を掴むだけだった。握りしめた拳の感覚すら曖昧で、全身から力が抜けていくのを感じる。
     チームドクターが、「早く担架持って来い!」と叫んでいた。それから救急車を呼べという指示、会場から近い場所にある病院の名前が頭上で飛び交う。このまま病院に運ばれるのだろうと察して何とか拒絶しようとするけれど、言葉ひとつ発することすら出来ず、されるがままに担架に乗せられた。コートが遠のいていく。歓声も熱気も興奮も何もかもを置き去りにして、次第に朦朧としていく意識の中でオレは必死に叫んでいた。
     まだだ。オレはまだ、ここに立っていたい。

     ▼

     病院に担ぎ込まれた後の記憶は、ひどく曖昧だ。
     何か口を挟む隙もないまま精密検査を受け、気がつけばベッドに横たわった状態で医師の説明を聞いていた。難しいことは何を言っているのか聞き取れなかったけれど、――膝の半月板と靭帯が損傷しているらしい。複雑な亀裂が幾つも入っており、普通に歩くことが出来るようになるだけでも一ヶ月以上はかかる。スポーツをするためには術後最低でも半年、或いは一生コートに戻れない可能性があるとも、告げられた。
     ――なんでだよ。どうして。どうしてオレが。今まで生きてきて二十六年間、バスケのことだけを考えて生きてきた。オレがオレとして呼吸が出来る場所はコートだけで、他のどこを探したって見つからない。それなのに。もしもバスケットボールを取り上げられてしまったら、そんなのは。――死んだ方がマシ。初めて脳裏に過ぎった言葉のせいで、汗が引いて冷えた体から、更に熱が失われていく。指先がひどく冷たくて、氷水の中に突っ込まれているようだった。この指がボールに触れることも、もうないのだろうか。
     言葉にしなくとも、言外にオレの訴えを拾い上げたらしい医師が、申し訳なさそうに、――けれどはっきりとした口調で告げた。
    「手術をしなくとも、日常生活に支障は出ないでしょう。ですが、プロのアスリートとして最前線に立ち続けることは難しい。手術をすれば復帰は叶うかもしれませんが、……成功率は極めて低い。成功しても以前のようなプレイが出来るか、保証はありません」
    「……失敗したら?」
    「……バスケットボールは、出来なくなるでしょう」
    「…………」
     その言葉を受け止めて、咀嚼して、飲み込もうとして、――出来なかった。現実が受け止められなくて、目の前の視界が色を失っていく。医師は悪くない。伝えるべき事実を伝えてくれているだけだ。この怪我だって、誰のせいでもない。試合中の接触は当たり前で、故意に相手を傷つける者はいないだろう。今回だってそうだ。不運が重なった、よくある出来事。こうやって予想外のアクシデントに襲われて、コートを立ち去ることを余儀なくされた選手のことを何人も知っている。
     だけど自分がいざその立場に立つ日がくるなんて、オレは思ってもいなかった。昔から体は頑丈で、こっちに来たって大格差はあれど打たれ強さには自信があった。
     なのに。なのに。
     人間を構成する二百六の骨のうちの、たったひとつ。そのたったひとつが、オレの人生を滅茶苦茶にするのかよ。
     こういう時、どういう反応をするのが正解なんだろう。泣けばいいのか、それとも何かに怒りをぶつけるべきなのか。――だめだ。何も考えることが出来なくて、オレは思考を放棄して目を閉じた。
     夜が、静寂を引き連れてやって来る。

     ▼

     それ以降の記憶も、殆どが曖昧だった。一日の大半を病院のベッドの上で寝て過ごすうちに、日々は淡々と過ぎていく。
     マネージャーが、入院の手続きや日本の家族への連絡も済ませてくれた。入院して最初の一週間程度はチームメイトから連絡がひっきりなしに入っていたが、そのすべてに返事はしなかった。出来なかった。そうするうちに次第に連絡は減っていき、今では病室は静寂に包まれている。放っておいてくれるチームメイト達の気遣いが、今はありがたかった。
     ベッドの上でオレが考えるのは、バスケットボールのことだけだった。手術を受けるべきか、否か。――決まっている。受けるべきだ。放っておいても得られるものなど一つもない。ならば出すべき答えは決まっているのに、未だに踏み切れずにいる理由は何だろう。
    「……」
     窓の外の青々とした木々の揺らぎを見遣りながら、小さく息を吐いた。
     ――オレは、怖いんだろう。多分。もし手術を受けて失敗すれば、そこで選手生命は永遠に断たれることになる。その先の未来のことなど、何も考えられない。今まですバスケがすべての主軸となってオレを支えていたから、それを失った後の生き方なんて知らなくても当然だ。バスケを手放す覚悟なんて、出来る筈がなかった。
     そんなことを考えているうちに、食欲は失われていった。何かを食べようとしても吐いてしまうし、怪我の治りが遅いという自覚もある。多分、精神的なものも関係しているのだろう。怪我をして、既に一ヶ月近くが経とうとしていた。当初は一ヶ月もすればリハビリを始める予定だと医師から告げられていたが、状況は芳しくない。使い慣れた体躯が、まるで別人のものに思えてしまう。今のオレは、指一本だって自分の思う通りに動かすことの出来る自信がなかった。
    「――お前、ひどいツラしてるぜ。ちゃんと飯食ってんの?」
     宮城さんがオレの病室を訪ねたのは、怪我からちょうど一ヶ月が経った日のことだった。マイアミを拠点にしたチームで活躍している宮城さんは、太陽の恩恵を一身に受けた小麦色の肌をしていた。元々口数が多いわけではないという自覚はあるけれど、挨拶以外の言葉がうまく出てこない。
    「また焼けたんすね」――そんな何気ない感想すら音にすることが難しくて、唇がはくりと震えただけだった。それに目敏く気が付いたらしい宮城さんは、少し眉尻を下げて肩を竦めた。
    「随分弱ってるみてーじゃん。お前でも、そんな風になることあるんだな」
    「……すんません」
    「謝らなくていいよ、当然だろ。むしろ落ち込まない方がおかしいって。……悪かったな、急に押しかけて。でもお前、今連絡しても絶対返事寄越さなかっただろ」
    「……」
    「ほら見ろ、押しかけて正解だったわ。あ、これ土産。林檎食う? 剥いてやろうか」
    「……や、いらねーっす。すんません。今、あんま飯入んなくて」
    「そっか、わかった」
     緩く首を振れば、宮城さんはそれ以上言及することなく手にしていた果物の入ったバスケットをサイドテーブルの上に置いた。テーブルの上には、他にもチームメイト達の差し入れが置いてある。すべてに手をつけられないままでいるから、まるでこの部屋だけ時が止まってしまったように思える。漠然とした恐怖が襲ってくるのは、アメリカにやって来て以降目まぐるしく時が過ぎていたからだろう。
     ベッド横の椅子に腰を下ろした宮城さんは、淡々とした調子で言葉を紡ぎ続けた。食欲わかなくても飯は食えとか、ちゃんと寝ろだとか親みてーなことをはじめ、手術どうすんのと合間に挟むあたり、本当に心配してくれているのだということが伝わってくる。
     宮城さんは、結構面倒見がいい。妹がいるらしいといつかの昔に聞いたことがあるが、何となく納得できた。高校時代と変わらず向けられる一切の不純を孕まない優しさが素直にありがたいと思えると同時に、自分がひどく弱いいきものになったかのような感覚を覚えてしまう。これも、初めて抱く感覚だった。
    「……あのさ」
     暫く話した後、宮城さんは少しだけ声のトーンを落とした。真面目な顔つきは、これから本題に入るという合図のようなものだったろう。
    「……しばらくは、普通に生活するのも大変じゃねえ? お前の家族も急にこっちに来たりとか、長く滞在するわけにもいかねーだろ。……流川、日本に一回戻ったりしねーの?」
     宮城さんの問に、時間が止まったような気がした。
     ――戻る? 日本に。
     考えなかったわけではない。けれど選ぶつもりのなかった選択肢を眼前にたたきつけられて、喉の奥がきゅうと締め付けられる。呼吸が苦しくなる。宮城さんが言う通り、日本に戻るべきなのかもしれない。リハビリは日本でも出来るのだし、慣れた環境の方が良いというのも理解出来る。
     だけどどうしても、そうしようとは思えなかった。このままアメリカに残っていても、もう一度コートに立てるのがいつになるか分からない。それどころか、二度とあの場所に戻れない可能性だってあるのだ。
     それでも、首を縦に振ることは出来なかった。――嫌だ、離れたくない。嫌だ。今この地を離れたら、いよいよバスケが出来なくなるのではないかという漠然とした恐怖が胸裏を襲っていく。吐くものなど何もない筈なのに、胃液が腹底からせり上がって来て、思わず口元を右手で覆った。
    「おい、流川。大丈夫か?」
    「……ッス」
     オレの背に右手を添えながら、宮城さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。申し訳なさそうな表情のまま、けれど言葉を探すように一拍の間を置いた後、宮城さんは遠慮がちに口を開いた。
    「流川、……もう一個質問するぜ、悪いな。……なあ。三井さんに、お前の連絡先教えていいか? お前の電話番号教えてくれって、昨日連絡きたんだよ」
    「…………」
     予想していなかった名前が耳朶に触れて、ゆっくりと顔を上げる。真っ直ぐとこちらを見つめてくる宮城さんと、視線が重なった。
     ――三井さん。乾いた喉でその名を紡ごうとしたけれど、掠れた咳がひとつだけ零れ落ちただけだった。吐き気は未だ拭えなくて、胃の腑を蠢く鈍色の感情も消えてくれない。それでも脳裏に浮かぶ名前だけは鮮明で、何年経っても未だ変わらない鮮烈さを放ってあの人の姿がまなうらに翻る。
    「…………いいっすけど」
    「よかった、ありがとな。じゃああとで教えとく」
     宮城さんが安堵したように息を吐くから、突っぱねなくてよかったと思った。いっそオレから連絡してやろうかなんて、そんな考えまでぼんやりと脳裏に浮かぶ。
     ――あの人の電話番号は、指先が覚えているから。

     Scene3.
     新緑の香りをまとった風が窓からやさしく吹き込み、白いカーテンを軽やかに揺らしている。窓の外からは体育の授業中らしい生徒達の声が聞こえてくるが、今は心地よいBGMでしかなかった。
    「ほら、寝るなー」
     机と机の間をゆっくりと歩きながら、居眠りをしている男子生徒の肩を軽く叩く。男子生徒は慌てたように大きく肩を跳ねさせたが、すぐにまた微睡に誘われるように頭を揺らし始めた。本当は、こういう時には必死に起こしてやるのが正解なのかもしれない。
     だけどオレは、この男子生徒の気持ちがわかる。そりゃもう、すごくよくわかる。
     教室全体を包み込む午後の柔らかな空気が持つ魔力に抗える者は、そういないだろう。かくいうオレも、学生時代はよく眠気と戦ったもんだ。
     特に、高校三年生のIH後。推薦を貰える保証もなく、バスケを続けるためには自力で大学に合格するしかないと悟ったあの頃。二年間の遅れを取り戻すために慌てて勉強を始めたんだっけなと、遠い日の記憶が脳裏を過ぎった。
     眠気を堪えながら必死にシャーペンを走らせた筆跡はミミズがのたくったようなものになっていて、とても読めたもんじゃなかった。赤木に「集中力が足りん」と説教をされた日のこともぼんやりと脳裏に浮かんで、自然と口角が上がってしまう。そうするうちに、授業終了を告げるチャイムが鳴った。
    「来週は今日やったとこの小テストするから、ちゃんと復習して来いよー」
     手にしていた古典の教科書を閉じ、教卓の前に立って生徒達に告げる。
    「えー」
    「やめようよ、三っちゃん」
    「えー、じゃない。それからちゃんと先生って呼べ」
     生徒から投げかけられる愛称に対して、一応形だけでも言い返す。ここまでが一連の流れになっていた。

     ▼

    「三井先生、いいですか?」
     授業を終えて職員室に戻ると、教頭先生が近寄って来た。教材を机の上に置くオレの隣に立って、「ちょっとお尋ねしたいことがありまして」と声を潜める姿は何となく深刻そうだ。今年で還暦を迎える教頭先生は、オレの記憶にある限りいつもにこにこと笑みを絶やさない人だった。生徒達からも好かれているし、新任の頃から世話になり続けているから、オレも父親のように慕っている。
    「はい、どうしました?」
     つられて小声になりながら、少しだけ背を丸めて声を聞きやすくする。教頭先生はこほんと咳ばらいをひとつ零して、遠慮がちに口を開いた。
    「三井先生、高校時代は流川選手とチームメイトだったんですよね?」
    「ええ、そうですよ。オレが二つ上の学年でしたけど」
     教頭先生は、バスケが好きらしい。赴任して最初の飲みの席で出身校を告げたオレに対して、「あの湘北の三井くんにお会いできるなんて!」と興奮を露わに握手を求められたことを、今でも覚えている。そんなこんなで、それ以降も教頭先生とバスケのことを話す機会は多かった。
     オレが顧問を勤めることになった部活の練習にもよく見学に来てくれていたし、バスケのことを話す教頭先生はいつも楽し気だった――が、今はその表情が曇っており、よくない予感が脳裏を掠める。嫌な緊張がじわりと腹底から込み上げてきて、指先が少し冷えた感覚を覚えた。
    「実は、さっきニュースで……。ああ、ほら、あれだ。三井先生、見て下さい」
     言って、教頭先生が職員室の前方に置かれたテレビを指さす。昼時のワイドショーは、スポーツコーナーが放送されている時間帯だった。ちらりとそちらに目をやった瞬間、心臓がどくりと音を立てる。
    『――NBAで活躍中の流川選手が、先日の試合中に病院に運ばれました。詳しい怪我の状況や、復帰の目途はまだ発表されていません。今後の試合についてもベンチから外れており――』
     淡々と原稿を読み上げるアナウンサーの声が、耳を素通りしていく。耳奥で鳴り響く拍動が、まるで他人のもののように聞こえてしまった。それだけじゃない。指先から急激に温度が失われていって、足元が崩れていくような感覚すら覚えてしまった。
     怪我、病院、復帰の目途は不明、――今聞いたばかりの内容がぐるぐると脳裏で回り続ける。テレビは既に次のニュースに移っていたが、オレの頭の中は流川のことだけで占められていた。
    「今年もMVPを獲るんじゃないかって思っていたんですが……。心配ですねえ、……大丈夫でしょうか」
     心配そうな教頭先生の声で、ようやく我に返る。冷たい汗が一筋、背中を流れ落ちて行った。寒くもないのに、嫌な感じだ。
    「あいつは、大丈夫ですよ」
     意図して口の端を持ち上げてみせたが、うまく笑えていた自信はなかった。大丈夫だという台詞も、そう思いたかったという意味合いが強かったかもしれない。
     流川なら、大丈夫。――昔のオレなら。あいつと同じコートに立っていたオレなら、胸を張ってそう言えていたかもしれない。けれど今のオレは、今の流川について果たして偉そうに語るだけの資格があるだろうか。なんせ、もう五年も会っていないのだ。会っていないどころか、連絡のひとつすら取っていない。
     日本で国語の教師をやっているだけのオレが、NBAの最前線で戦うアイツのことを知ったように口にするのはひどく烏滸がましいように思えてしまった。流川が今何を思っていて、何を感じていて、どのような状況にあるのか。そのうちのたったひとつすら真実を知ることの出来ない身が、ひどくもどかしくて堪らない。
     離別を選んだのは、オレの方なのに。――数年の時を経て、自業自得の四文字が質量を伴い肩に重く伸し掛かってきたような気がした。

     ▼

     それから先のことは、正直よく覚えていない。
     午後の授業と部活をいつものように終えて、学校から三駅程離れた場所に借りているマンションに帰宅した後、すぐにベッドに倒れ込んだ。Yシャツが、汗で肌に張り付いて気持ちが悪い。ネクタイを外す余裕もないまま天井を見上げるが、それ以上はちっとも動く気にならなかった。電気もついていない部屋は薄暗く、もうすぐ外は夜の色に染まってしまうだろう。そうでなくとも、目蓋を閉じればすぐに暗闇が訪れる。
     昼から続く陰鬱とした気持ちを誤魔化すように、強く目を閉じた。その瞬間、まなうらで鮮烈な光が翻る。
     思い浮かぶのは、高校時代の流川の姿だった。無口で不愛想で不器用で、天上天下唯我独尊を地で行く我の強い男だった。遠慮の二文字をどこかに置き忘れてきたのかと思う程にいつだって真っ直ぐで、飽きもせずにワンオンしましょうと挑んできた姿がまるで昨日のことのように思い出される。常に高みを目指して突き進む姿は同じバスケを愛する者として憧憬を抱かずにはいられなくて、アイツのプレーを見て、何度全身が湧きたつような興奮を覚えただろう。
     流川楓は誰よりバスケを愛していて、バスケに愛された男だった。遠く離れた今となっても、それだけは間違いなく断言出来る。
     頭のてっぺんから爪先まで、遍くすべての細胞がバスケで構成されているような流川が、怪我をした。大袈裟でも何でもなく、生きる意味を失っているのと同義だろう。流川が今どうしているのかと考えると、胸の奥が押し潰されそうな程に苦しくなってしまう。泣いてはいないだろうか、一人で塞ぎ込んではいないだろうか。あの流川に限ってと思わないでもなかったが、一度込み上げてきた疑問はどれだけ目を反らそうとしても消えてはくれなくて、オレはゆっくりと起き上がった。ベッド脇に放り投げていた鞄に手を突っ込み、携帯電話を取り出す。
     そうして目当ての人物、――『宮城リョータ』の名前を電話帳から選んで、迷わずにボタンを押した。国際電話って高いよな、と。そんな考えが一瞬脳裏を過ぎったが、それがどうした。今は一分一秒だって惜しかった。早く、早く。海を越えた場所にいるあの男に、連絡をしなければいけないと、漠然とした何かがオレを駆り立てていた。
     時差は十三時間。まだ起きているか怪しい早朝ではあるが、なんせ流川の一大事だ。宮城だって許してくれるだろう。
    『……もしもし? 三井さん、久しぶり』
     予想通り、数コールの後に電話に出た宮城が怒る気配はなかった。むしろオレから連絡がくることが分かっていたと言わんばかりの、落ち着き払った声色だった。
    「よう、久しぶり。急に連絡して悪いな」
     挨拶もそこそこに、オレは携帯を持つ手に力を込めて本題に入る。
    「……なあ宮城。流川の連絡先、教えてくれねえ?」
     電話向こうの宮城が一瞬息を飲んだのが、微かな空気の揺らぎとして伝わってくる。当たり前だ。なんせ宮城は、オレと流川の間に何があったかを知っている。――脳裏に、七年前の記憶が蘇る。苦い記憶を奥歯で噛み締めて、「頼むよ」と繰り返した。みっともないと思えども、今は宮城に頼むしかない。
     何と思われようと、――あんな後悔はもう二度としたくないと、そう思ったのだ。


     Scene4.
    『なあ流川、――しばらくオレの家に来ねえ?』

     三井さんから連絡が入ったのは、宮城さんが病院にやって来た翌日のことだった。
     もっと期間が空くかと思っていたが、相変わらず妙なところで思い切りが良いのは変わらないらしい。三井さんが紡ぐ言葉は一応疑問形ではあったが、オレが頷くことを信じて疑っていないような、そんな声色だった。
     宮城さんから事前に連絡を貰っていたおかげで、思いの外驚かずに済んだのが幸いだった。電話向こうの三井さんは、「夏はオレも結構暇してるからさ、こっちでのんびりしようぜ」「来月中旬くらいがちょうどいいかも」なんて、昔と変わらぬ調子で言葉を重ねていく。こちらの都合など知らぬ存ぜぬといった調子で進められる会話には懐かしい既視感があって、数年の空白がじわりじわりと埋まっていくのを感じた。
     同時に、肩を並べて帰路を辿った高校時代の日々を思い出す。例えば週末の練習試合についてだとか、購買の新商品についてだとか、そんなくだらないことばかりを話していた青い日々。遠い昔の記憶が脳裏を翻って、焦燥にも似た懐かしさを覚えてしまう。
     七年前と地続きの会話が心地良くて、なのに同時にたまらなく息苦しかった。まるで正反対の気持ちが喉に詰まって、うまく呼吸が出来やしない。
    「……三井さん、今どのへんに住んでるんすか」
    『藤沢だよ。どうせお前、まともに里帰りもしてねーだろ。ちょうどいい機会だし、実家にも顔出せば?』
    「……全部知った風なこと言う……」
    「はは、図星だろ。そんくらい聞かなくてもわかるって」
     ――オレは今、アンタが何考えてるかわかんねーけど。
     思わず口から零れ落ちそうになった恨み言を、ぎりぎりのところで飲み込んだ。どうやら自覚以上にヒクツになっているのかもしれない。今まで無縁だった感情を持て余し気味だという事実は自覚しているから、気持ちを落ち着かせようと息を吐く。
     一体どうして、今更、何のために、ただの後輩であるオレに連絡をしてきたのか。
     聞きたいことは山ほどあった。けれどそのどれもが今確認するべき内容ではないという気がして、結果、「行きます」とシンプルな答えを差し出すことしか出来なかった。「わかった」と答える三井さんの声はどこかほっとしたような色を滲ませていて、それが妙に気恥ずかしい。勢いがあるのか控えめなのか、どっちだかわかんねえ。
     帰国するのは来月、七月の中旬。空港に三井さんが迎えに来てくれるらしい。他の詳細は後から決めようという流れになって、その日の電話は終わった。数年の空白を埋めるには言葉も何もかもが足りていなかった気がするが、かといって他に話すことがあるかと問われればそうでもない。
     ――日本に戻って、何かすることがあるのか、とも思う。けれどそれは、アメリカにいたって同じだろう。手術を受けるかどうかを決めかねている中途半端な状態で、――バスケが出来ないのなら、地球上のどこにいても変わりはないのだ。
     松葉杖がなくとも歩ける程度には回復していたし、迷惑を掛けることは然程ない筈だ。三井さんから連絡を受けて一ヶ月後。チームに一時帰国の旨を告げて、オレは三年ぶりに日本行きの飛行機に乗り込んだ。

     ▼

     空港に降り立てば、日本に帰って来たという漠然とした実感がわいてくる。
     電光掲示板を流れる漢字だとか、周囲を歩く人の姿だとか。当たり前だが、アメリカとは目に見える光景も空気感も何もかもが違っている。最後に帰国をしたのは三年前のオフシーズン。姉に子どもが生まれたから、一度くらい顔を出せとせっつかれたのだ。
     久しぶりの日本に対してもっと思うところがあるのかと予想していたが、然程感慨はない。ここは、オレの故郷のままだった。
     ここ最近はどこに行くのにもカメラの気配を感じていたから、それがないだけでも随分と息がしやすい気がする。
     受け取ったスーツケースを転がしながら第三ターミナルを出れば、目的の人物の姿は到着口を出たすぐのところで見つけることが出来た。
    「流川、お疲れ。こっち」
     白のTシャツにスキニーデニムというラフな出で立ちのその人、――三井さんは、昔と変わらぬ快活な笑みを浮かべてこちらに手を振った。振った手の指にかかっていたキーリングが、その存在を主張するようにちかりと光る。
    「……お久しぶりです?」
     三井さんの見た目は、記憶の中と殆ど変わっていなかった。身長はそのままだし、髪の長さだって高校時代と同じくらい。とはいえ久しぶりの再会はどうしたって慣れない緊張が滲むから、軽く頭を下げながら向けた一言はそこそこぎこちないものだったろう。そんなオレの困惑を吹き飛ばすみたいに、三井さんは空気を震わす明るい笑い声を零した。
    「はは、すげー他人行儀な挨拶するじゃん。久しぶり。飛行機で寝れたか?」
    「まあ、そこそこ……十時間くらいは」
    「ほとんど寝てんじゃねーか。大丈夫そうだな」
     からりと笑って、三井さんは軽くオレの腕を叩く。テンポよく入るツッコミも昔と変わらなくて、点と点でしかなかった過去と今が線で結ばれるような気がした。息がしやすい。
    「キャリーケース貸せ。行くぞ」
     言うが早いかオレの手からキャリーケースを浚って、三井さんは歩き出す。ゆっくり、ゆっくり。子どもだってついていけるようなスピードで。
     松葉杖は先月いらなくなったし、今はもう普通に歩ける程度にはなっている。それでもしんどい時があるのは事実。
     気遣われているのだと察して、思わず唇を軽く噛み締めた。普段は騒がしいくせに、無言で相手を気遣うところも昔と変わらない。数歩先を進む三井さんの背中を見遣る両目を細めたのは、殆ど無意識だった。大きなガラス張りの窓から差し込む陽光が眩しかったのだ。そういうことにしてしまおう。

     ▼

     空港から三井さんの自宅まで、高速を走っても二時間程度かかるらしい。
     一昨年買ったらしい黒のランドクルーザーのトランクにキャリーケースを乗せ、三井さんは運転席に乗り込んだ。横目で見た三井さんは当たり前だが手慣れた様子ハンドルを握っており、昔からの知り合いが運転をしている姿を見るのは少し不思議な感じがする。
     アクセルを靴底で踏みながら、「あっちの飯って美味い?」「チームメイトと上手くやれてんの?」「観光地とかどこか行った?」——他にも、たくさん。三井さんは他愛のない言葉をオレと交わしたがった。
     絶え間なく重ねられる疑問符なんて平素は煩わしいとしか思わないのに、結局突っぱねることが出来ないのは、三井さんとの会話を心地よく感じていた証拠だったろう。「そこそこ美味い」「多分、それなりに」「自由の女神はあっちに行ってすぐの頃に連れて行かれた」——オレが返す答えはどれも端的なものばかりだったが、三井さんは特に何も言わなかった。それどころか、うんうんと繰り返される相槌はどこか楽し気な雰囲気を纏っており、一体何が三井さんをそうさせるのか不思議でならない。
     不思議だったが、――そういえば、三井さんは昔からこうだった。高校時代の記憶が、また脳裏を掠める。当時、オレたちが会話をする時は、三井さんが殆ど話していた。オレが何かを言うのは精々一割程度で、あとは三井さんが取り留めもないことをひたすら話していたのだ。
    「…………」
     車を走らせ始めて、三十分程経った頃だった。ラジオから聴き慣れた洋楽が流れてきて、短く息を吐いたのは無意識だった。あまりにも単純で情けない条件反射だ。アメリカを、――怪我をした瞬間のことを一瞬だけ思い出したオレの様子に気が付いたのかどうかは定かではないが、ハンドルを握ったまま三井さんが口を開く。
    「寝てていいぜ。もうちょいかかるし、時差ボケとかしんどいだろ」
    「…………ん」
     短く答えるが、驚くべきことにその時のオレはちっとも眠くなかった。けれど他に三井さんと話したいことも見つからず、目を閉じて窓ガラスに頭を預ける。
     流れてくる洋楽に合わせて、三井さんが適当な調子で鼻歌をうたっていた。リズムも音もずれているけれど、なぜだか妙に心地が良い。ちっとも眠くなかったはずなのに、下手くそな子守歌をBGMにするうちにすぐに微睡に包まれた。

     ▼

    「荷物はあっちの部屋に適当に置いてくれ。好きに使っていいぜ、オレもほとんど荷物置きにしてたし。あ、でも寝る時はこっちの部屋にしろ。ベッド使えよ、オレは適当に布団敷いて寝るから」
     家につくなり、三井さんは家で過ごす際のルールを説明し始めた。とは言っても、決まりという決まりは殆どなかった。
     冷蔵庫も風呂も好きに使っていい。出かける時は心配だから一応声を掛けてくれ、基本は好きにしろ。だけど寝る時は絶対ベッドにしろ、――これが全てだ。
     三井さんの家は一人で暮らすのには広めの2LDKで、大人の男一人が転がり込んでも問題はない様子だった。だからこそ、急にオレを呼んだのかもしれない。
    「ベッド、使っていいんすか」
     ベッドは、三井さんの寝室に置いてある。寝る時限定とはいえオレがそこに足を踏み入れるのは少し抵抗があったし、家主を布団で眠らせることに抵抗を覚える程度の感覚は持ち合わせているつもりだ。けれど当の三井さんは欠片も気にする素振りを見せず、「別にいいよ」とあっさりと言ってのけた。
    「一応客だしな。それに、NBA選手を床で寝かせる程人でなしじゃねーよ。お前もベッドの方がよく寝れるだろ」
     NBA選手。その単語にちくりと胸の奥が痛みを訴えたが、それを振り払うみたいに軽く首を横に振って口を開く。
    「オレは、どこでも寝れるけど」
    「忘れてた、そうだったな。……ま、どこでもいいならベッドにしてくれ。そっちの方がオレの気が楽だからよ」
    「ん、わかりました」
     三井さんがここまで言ってくれるのだから、断る理由はない。その提案を受け入れて、オレは「今日からしばらくお前の部屋」と指定された六畳の洋室にキャリーケースを運び込んだ。
     三井さん曰くの荷物置きにしていたらしい部屋に、生活感はあまりなかった。背が高い本棚がひとつと、衣装ケースが部屋の隅に二つ詰まれて置いてある程度だ。透明の衣装ケースの中には冬物と思われる洋服が詰められているようだったが、それ以外に取り立てて目を引くものはない。
     とりあえずキャリーケースを部屋の隅に置いてリビングに戻ると、三井さんが冷蔵庫の中を覗き込んでいた。眉間に皺を寄せて冷蔵庫と対峙している本人は真剣なのだろうが、傍から見ると少しだけ面白い。
    「流川、何か食いたいもんある? やっぱ和食?」
    「あー、……いや」
     時刻はもうすぐ十九時を過ぎようとしている。夕食の頃合いではあったが、空腹感はない。
     これも、今までは有り得なかったことだ。物心ついた時から今に至るまで、飯が入らないということは殆どなかったように思う。しっかり食えばその分当たりに負けない丈夫な体が作れる。食うこともトレーニングの一環だと思っていたし、何より体を動かせば純粋に腹が減った。
     だけど怪我をして以降、オレの中から食欲というものがすっかりと抜け落ちてしまっているようだった。
     怪我をした直後は特にそれが顕著で、固形物を食べると吐き気がこみ上げてくる始末。何かを無理やりにでも押し込めなければいけないことは理解しているが、それでも胃が正しく機能してくれないのだから仕方がない。今日だって機内食に殆ど手をつけなかったから、腹の中は空っぽのはずなのに。何を食いたいかと問われても、何一つ頭に思い浮かばない。
    「…………」
     押し黙ったオレをちらりと一瞥して、三井さんは冷蔵庫の扉を閉めた。
    「何もないなら、オレに任せろ。とびっきりの行きつけに連れてってやるよ」
     それから、深く考える素振りもなく言葉を続ける。仕方ねえなと肩を竦める姿は気安いもので、気持ちが少し楽になる。こちらを深く追求することも気遣うこともなく、当たり前のように振舞ってくれる居心地の良い距離感は三井さんだから生み出せるものなのかもしれない。この人は、昔からこうだった。息づく自然さでそこにいて、いっとう息のしやすい環境を作り出してくれるのだ。
    「……三井さんって」
    「ん?」
    「昔から、全然変わらないんスね」
     短い髪を見下ろしながら、思ったままに口を開く。一瞬驚いたように目をまあるく見開いた三井さんは、すぐに双眸を細めてくしゃりと笑った。「お前も全然変わんねーよ」と肩を竦めて、三井さんはさっさと玄関の方へと歩いて行く。
     カルガモの子どもが親鳥にくっついていくみたいに、オレはその後を追いかけた。変わらない。果たして本当に、そうだろうか。頷くことも否定することも出来ないくらいに、オレは今、世界との境界が曖昧になっている。

     ▼

     三井さんが連れてきてくれたとびっきりの行きつけという店は、家から歩いて五分程度の場所にある定食屋だった。白の暖簾と古い引き戸が昔ながらの趣を醸し出していて、妙に安心感がある。
    「よっ、やってる?」
     暖簾を潜りながら、三井さんはそんな定番の台詞を口にした。店内は十席程のこじんまりとした造りになっていて、オレ達以外にはスーツ姿のサラリーマンが一人いるだけだった。店の壁には手書きのメニューがたくさん貼られており、鯖の味噌煮や唐揚げ定食といった定番の文字が目に入る。
     勝手知ったるといった調子で、三井さんは一番奥のテーブル席に足を進めた。テーブルを挟んで正面に腰を下ろすと、すぐに割烹着を着た店員さんが水を運んできてくれた。
    「三井先生、こんばんは。今日は男前を連れてるのねえ」
    「オレも男前だろ。幸代さん、今日のおすすめ何?」
     幸代さんと呼ばれたその人は、多分オレ達の母親と同年代くらいの女性だ。穏やかな笑顔が、この店の雰囲気によく合っていた。幸代さんは少し考える素振りを見せた後、「今日は先生の好きな生姜焼き。それから豚の角煮もおすすめ」と続ける。
    「んじゃ、オレは生姜焼き定食で。あとはー……、幸代さん、何か軽いものって出せる? こいつ今夏バテみてーになっててさ、あんま食えねーんだよ」
    「あらあら、それは大変。お兄さん、何か食べたいものはある?」
     予想外の質問を投げ掛けられて、変に息を飲んでしまった。食べたいもの。本日二度目の質問だったが、答えはやっぱり変わらない。生姜焼きも、豚の角煮も、それ以外のメニューも。どれもうまそうだとは思うけど、食べたいかと問われれば頷くことは出来なかった。けれど素直にそう伝えるのも憚られて、思わず口ごもってしまう。
    「……えっと」
    「さっぱりしたやつならいけそう? つまみみてーなのとか。食えなかったらオレが食う、任せろ」
     唇を軽く結んだオレに気が付いたのか、三井さんが助け船を出してくれた。それなら何とかと頷けば、幸代さんは「わかりました」と両手を合わせて厨房へと戻って行く。
    「……ありがとうございました」
    「ん?」
    「今、助けてくれたでしょ」
    「そんな大層なことしてねーよ。それに、オレがここの飯食いたくてお前のこと連れ出してんだから。帰国したばっかりなのに。礼を言うのはこっちだろ、付き合ってくれてありがとな」
    「……」
     流れるように告げられる感謝は、三井さんの人柄をよく表していると思う。思ったことを嫌味なく、すぐに相手に伝えられるのはこの人の美点だ。
     ほんとに変わってねーな。この人は。
     オレの視線に気が付いたのか、三井さんが緩く首を傾げて口を開いた。「何か聞きたいことでもあんの?」
    「いや、別に……」
    「マジで? 七年ぶりだぜ? ちったあオレに興味持てよ」
    「そういうアンタは、どうなんだよ」
     言葉が若干の棘を孕んでいることに、言い終えてから気が付いた。零した言葉は無意識だったからこそ、どうにも後味が悪い。三井さんに向けた言葉が半ば八つ当たりの様相をしていたことにも気が付いてしまったから、思わず視線を横に泳がせた。
     ――数年間まったく連絡を寄越さなかったくせに、今になって突然オレを日本に呼んだ理由がわからない。
     まるで昨日の続きのように当たり前に言葉を投げ掛けて来る三井さんが何を考えているのかも、ちっともわからない。流されるがままに日本に戻って来たのはオレ自身だけど、まったく意図の読めない再会にやり場のないもどかしさを感じていたのかもしれない。
     見た目も雰囲気も何もかもが昔のままだったから、数年間の空白は再会後すぐに埋まったとも思えた。けれど、あと一歩。決定的に埋まらないあと一歩が、深い溝のように目の前にある気がする、――というのは、きっと考え過ぎではないだろう。
     両腕を組んだまま天井に視線を向けた三井さんは、何かを考えるように首を横に傾けた。それから呟く。どうなんだろうな、と。小さく紡ぎ落とされた一言に質量はなく、明確な答えを導き出せていない証左だったろう。
    「……聞きたいことは、山ほどあるよ。正直、今もちょっと我慢してるとこ。でも、根掘り葉掘り聞くのも違うだろって思うし……」
    「……思うし?」
    「久しぶりにお前に会って緊張してんのかもな。うまく言えねーけど」
    「……三井さんでも、そういうことあるんだ。……それでよく、何年も会ってない相手のこと急に呼び出して、しばらく一緒に暮らそうって言う気になりましたね」
    「はは、それは確かに。でもまあ、オレだって緊張するし、何言ったらいいかわかんなくなることくらいあるよ。当然だろ」
    「ふーん……」
    「おいこら、なんでそこでちょっと嬉しそうなんだよ。にやけてんぞ」
     そう言って、三井さんは人差し指をこちらに向けてくる。
     にやけてると三井さんは言うけれど、多分、他の奴らが見たら気が付かないような微細な変化だ。どうやら三井さんは、オレ自身すら自覚していないような変化に気が付くことに長けているらしい。昔からそうだった。
     けれどオレが知っている三井さんはいつだって馬鹿がつくくらい正直で、言葉に迷う素振りを見せるような人ではなかった。どんな時も相手が欲しがるような言葉を無意識で差し出せるような、そんな人。――でも、それは思い違いだったのかもしれない。この人も迷うことがあるのだと思えば、幾分息がしやすくなる気がした。その理由が今に限ってはオレなのだということも、悪い気はしない。
    「はい、お待たせしました。お兄さん、これなら食べられそうかしら」
     そうこうするうちに、幸代さんが再びやって来た。「無理はしないでね」と言いながら、テーブルに一つ一つ小鉢を置いていく。冷やしトマトに鳥皮ポン酢、それから薬味がいっぱい乗った冷奴と、蒸し鶏に何かネギのソースがかかったやつ。
     うまそう。テーブルに並べられた料理を見下ろしながら、最初に出て来た感想はそれだ。空っぽの胃がきゅうと収縮して、久しく忘れていた空腹感を訴える。
    「食えそう?」
     割り箸を割りながら、三井さんが小鉢を見下ろした。三井さんの前には、キャベツがたくさん盛られた生姜焼き定食が運ばれてきている。白くてつやつやの白米が湯気を立てているのを見て、また食欲が増した気がした。
    「ん、大丈夫そうっす」
    「よかった、連れて来た甲斐があったわ」
     何が嬉しいのか、三井さんは柔らかく双眸を細める。それから両手を合わせて「いただきます」と言う三井さんに倣って、オレも両手を合わせた。

     幸代さんが運んできてくれた料理は、どれも予想通りうまかった。「史郎さんが作ってんだけど、すげー美味いんだよ」と、食事の合間に三井さんが教えてくれた。史郎さんは幸代さんの旦那さんで、昔は都内の有名ホテルでイタリアンのシェフをしていたらしい。たまに日替わりでパスタが出てくるのがうまくておもしろい、と三井さんは楽しそうに話していた。
     そのどれもが、生きていくには必要のない話だ。だけどオレは、三井さんからこうして他愛のない雑談を聞くことが好きだった。オレが普通に過ごしているだけでは決して知ることのないだろうあらゆる出来事は、三井さんの目を通して色鮮やかに流れ込んでくるのだ。
     三井さんの声をラジオにしながら、オレは並んだ小鉢に箸を伸ばした。冷やしトマトには岩塩が振ってあって、今の季節によく合っている。たっぷり乗せられた大葉のさっぱりした味が、腹底の淀みを散らしてくれるみたいだった。
    「……うまい」
     ぽつりと零せば、三井さんが殊更嬉しそうに破顔する。太陽がそのまま落っこちてきたみたいな、眩しい笑顔だった。
    「そりゃよかった。まずは食え、話はそれからだ」



     Scene5.
     陽はもうとっくに落ちている時分だが、まだ昼間の余韻が残った空気がぬるく肌にまとわりついてくる。七月って、こんなに暑かったか? 毎年同じようなことを考えている気がするが、多分こんなもんなんだろう。忘れているだけで。大人になると、どうにも時の流れが早く思えてしまう。
     歩いて十分の帰路でじんわりと滲んだ汗を流すために、帰ってすぐにオレたちは順番にシャワーを浴びた。
     流川は烏の行水かってくらいのスピードでシャワーを終えてきたから、それがおかしくて少し笑ってしまった。「ありがとうございました」とリビングに顔を覗かせた流川の長い前髪からぽたぽたと水滴が落ちていて、世話を焼きたくなってしまうのはオレが歳上だからだろうか。
     もう、お互いにいい年だ。流川もオレもガキじゃない。だらしない真似してんなよと言えばそれで済む話だが、オレはソファから立ち上がって流川に近づく。それから首にかけていた自分のタオルで、流川の黒髪を拭いてやった。がしがしと大型犬を撫でるような仕草はさぞかし乱暴なものだったろうが、流川は特に抵抗する素振りもなくされるがままになっていた。
    「お前、いつも髪濡れたまま寝てんの?」
    「ん。めんどくせーし」
    「風邪引いても知らねーぞ。寝癖もすげーことになりそう……、それはちょっと見てえな。変な寝癖ついたら見せに来いよ」
    「嫌です。……先輩、まだ寝ないんすか?」
    「おう、ちょっと片付けてー仕事があるからやっちまうつもり。お前は気にしないで先に寝ていいぜ」
    「……うす」
     短く頷いて、Tシャツとハーフパンツ姿の流川はゆっくりと隣にある寝室の方へ歩いて行った。のそのそと歩く後ろ姿は、でっかい熊みたいに見える。
     会わなかったこの数年の間で、流川は随分と成長したらしい。最後に流川に会ったのは、オレの卒業式だ。その時に比べると、身長も十センチ近く伸びているんじゃないだろうか。高校時代、オレ達の目線はほとんど変わらなかった筈なのに、今では少し見上げなければいけなくなっていることが分かって少しだけ悔しい。厚みを増した筋肉も相俟って、流川は一回りも二回りもデカくなったように見える。
     バスケをするための体だ。コートを駆けるための、美しくしなやかな体。だけど流川の膝はオレと同じ、――あるいはオレ以上のでっかい爆弾を抱えていて、流川のバスケ人生を今この瞬間も削り続けているのだと思うとやるせない。本人から聞いたわけではないけれど、あのバスケ馬鹿がここにいることが怪我の深刻さをそのまま物語っていると考えてもいいだろう。
    「……」
     なあ流川。お前、これからどうすんの。手術は? 復帰は? まだバスケがしたいだろ? ――今日のうちに何度も聞こうとして、結局は音にならなかった言葉たちが脳裏に浮かんでは消えていく。
     鈍色の淀みが広がる胸裏を、ざらりとした感覚が撫でていく。それを誤魔化すみたいに唇を噛み締めるのと、寝室に入ろうとした流川が振り返るのは殆ど同時だった。
    「どうした」
     何か言いたそうにこちらを見てくる流川に、緩く問いかけてやる。流川は少し考えるように緩慢な瞬きを数度繰り返した後に、体ごとオレの方を向いたまま口を開いた。
    「……三井さん、先生になったんすか? さっき、店で先生って呼ばれてた」
     ――予想外の問に、一瞬何を言われたか分からずに思考が停止する。意識をしっかりオレの中に取り戻すまでに要した時間は僅か数秒だったが、さぞ間の抜けた顔をしていたことだろう。
    「今更聞くか!? 高校で国語の教師してんだけど、……知らなかったのかよ」
    「知らなかったっす、……誰も、三井さんの近況とか教えてくれなかったし」
    「拗ねんなよ。今も宮城以外に連絡取ってる奴いんの?」
    「石井とかは割と、……あとは木暮さんが、OB会のたびに飲み会の写真送ってくれてました」
    「アイツ、そんなに律儀なことしてたのかよ。やりそうだけど。……で、オレが先生やってるって知った感想は?」
     両腕を組んで尋ねたのは、単純な好奇心だった。自分で言うのも少しだけ虚しいが、オレが教師なんて柄じゃないのは自分自身で一番よく分かっている。なんせ高校時代はグレていた時期があるわけだし。お世辞にも人様に褒められる人生を歩んできたわけではないから、今更偉そうに教壇に立つことに一抹の申し訳なさを覚えてしまうのも事実。
    「ま、似合わねえよな。オレが教師とか……」
    「そう? 結構、合ってると思いますけど」
     だから流川に何か言われる前に自分で言ってしまえと、みみっちく引いた自己防衛の線はたった一言で容易く霧散した。予想していなかった肯定に思わず面食らっていると、そんなオレの様子などお構いなしと言わんばかりに流川は淡々と言葉を続けた。
    「三井さん、教えるの昔から上手かったし。面倒見いいし。ちょっと驚いたけど、いいと思う。先生」
    「……おう、そうかよ」
     教えるのが上手かった。面倒見がいい。
     流川の目には、オレはずっとそう映っていたのだろうか。出会ってから十年が経過しているが、今初めて知ったことだ。
     流川が紡ぐ言葉は端的なものだったが、こいつがお世辞を言うような殊勝な性格をしていないことはよく知っている。衒いない言葉が素直に嬉しくて、面映ゆさの滲む鼻先を人差し指で意味もなく引っ掻いた。胸の奥にあえかな熱が宿る。こんな言葉ひとつで嬉しくなってしまう単純さを口惜しく思えども、馬鹿正直なこいつの前で見栄や誤魔化しは無駄なのだということも知っている。それゆえ熱を散らすように息を吐き、「ありがとな」と短い感謝を口にした。
    「お前にそう言ってもらえると思ってなかったから、結構嬉しいわ」
    「ドウイタシマシテ。……あ。でも、国語の先生ってのは意外かも。三井さん、授業とか出来るんすか?」
    「出来るわ、馬鹿にすんな。明日お前に個別授業してやろうか」
    「いや、遠慮します。……それじゃ、先に寝ますね。おやすみなさい」
     軽く頭を下げて、流川は今度こそ寝室に引っ込んでいった。最後に微かに口元が緩んでいるように見えたのは、気のせいではないだろう。なんせオレは、昔から流川の表情の変化に気が付くことに関して一級の腕を誇っていたという自信がある。あれは、間違いなく笑っていた。ただそれだけの事実が素直に嬉しく思えてしまうから、オレは自覚以上に流川のことを可愛がっているのかもしれない。
     今も昔も。流川は、オレの可愛い後輩のままだった。

     ▼

     翌日の天気は、見事に快晴。
     朝起きて洗濯物を干すためにベランダに立てば、夏真っ盛りを具現化したような青空が広がっていて目を細めた。たった数分外に出ているだけで一筋の汗が背中を流れていくが、夏の暑さは嫌いじゃない。むしろ好きだった。どんよりとした厚い雲が広がる雨空よりも、晴れの方が色々と縁起が良さそうな気がするし。洗濯物もよく乾くし。良いこと尽くしだ。
     今日は、夏休みに入って最初の土曜日だ。今日も明日も部活は休みだから、日々忙しい教員の身にはなかなか珍しい二連休である。
     部活もない。夏季補講用の資料も作り終えた。やることは他に何もない、――が、予定は作ろうと思えばいくらだって作れるだろう。なんせ今寝室では、あの流川が爆睡ぶっこいている真っ最中なのだから。
     壁時計にちらりと視線を向ければ、そろそろ九時を回ろうとしていた。昨日の夜は二十二時にはベッドに入っていたから、睡眠時間としては十分な筈だ。放っておくといつまでも寝ていそうだというのは高校時代からの経験則で、オレは洗濯カゴを小脇に抱えて寝室へと足を伸ばす。
     猫みたいに背を丸めて眠る流川は、オレが部屋に入ってきてもちっとも起きる気配がなかった。耳をすませば、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてくる。時差や最近の色んなことを思えば、心行くまで寝かせてやりたいという気持ちだって嘘ではない。ベッドの傍らに立って穏やかな寝顔を見下ろしていると、その気持ちが更に加速していく。
     だけどオレ達の夏休みは、無限に続くわけではないのだ。教員生活数年目。夏季休暇を六日は取れと言われているし、溜まりに溜まった年休の使いどころはここしかない。初めてもぎ取った十連休を無駄にしてたまるかと、小さな決意を打ち立てる。
    「おい、流川。起きろ。もう朝だぞ」
     迷いを振り切るようにして、オレは流川の体を揺すって呼びかけた。
    「ん……」
     流川は緩慢な瞬きを数度繰り返し、「せんぱい?」と薄っすらと開いた双眸をこちらへ向けた。世の女が聞けば卒倒しそうな、舌足らずの甘えたな声だった。事実、女ではないがオレだって正直ちょっとぐっと来た。あの流川のこんな姿を見られるなんて、と俗っぽい優越感に口角が上がってしまう。
    「おはよう。そろそろ起きられるか? 無理そうでも頑張って起きろ、朝飯用意してやるから。……で、飯食ったらドライブしようぜ。オレの運転で」
     寝起きの流川の頭は、どうやら立て続けに投げ掛けられるオレの言葉を正常に処理出来ていないようだった。微睡を色濃く映じた瞼が再びくっつきそうになるのを必死に堪えながら、流川はもごもごと何か言葉を発した。不鮮明な言葉が聞き取れず、背を曲げて耳を流川の口元あたりに近づけてやる。んう、と意味を成さないくぐもった声が聞こえて暫く経った後、「……行く……」と、流川はようやくその言葉を紡いだ。
     半分意識は夢の中に足を突っ込んだままだろうが、それでも本人の口から了承を得られたのならばもう遠慮する理由はない。自然と浮かんだ笑みはそのままに、オレは思いっきり流川の布団を引っぺがしにかかった。
    「よし、さっさと起きろい。一時間後には出るぞ」
     オレの言葉に、流川は「うっす」と頷いてもぞもぞと起き上がる。結局昨晩は髪を乾かさずに眠ってしまったのだと、逆立った後ろ髪を見て思い出した。
    「ちゃんと寝癖も直せよ」
    「っす」
     聞いているんだか、いないんだか。大きな欠伸を零して、流川はのそりと立ち上がった。

     ▼

     一時間後には出る、――とは言ったが、オレ達が実際家を出たのは流川を起こして三十分後のことだった。トーストと目玉焼きを焼いただけの簡単な朝飯をぺろりと平らげた流川はその後洗面台に向かい、たった十分程度で「もう行けます」とオレに声を掛けて来た。
     寝癖は水で濡らした程度、服も黒のTシャツとスウェットという軽装である。それにも関わらずきっちり様になっている見た目は、こいつがバスケ以外に天から与えられた才能の一つだと思う。流川自身は全然頓着してねーだろうけど、美形であるに越したことはないだろう。羨ましい限りだ。
    「流川、どこか行きたいところある?」
     運転席に乗り込みながら問いかければ、流川は首を振って答えた。「や、別にないっす」
    「だろうな。んじゃ、適当に走らせればいいか。眠くなっても今日は寝るなよ、オレの話し相手になれ」
    「…………」
    「こら、露骨に嫌そうな顔すんじゃねーよ」
     目は口ほどに物を言う。――という言葉は、もしかしたら流川のためにあるのかもしれない。助手席に座った流川がこちらを見つめてくるが、無言にも関わらず圧がすごい。そこらの奴らなら委縮してしまいそうな雰囲気だが、今更流川相手に怯える理由もないから、気にせずにハンドルを握った。
     行き先はどこにしようかとしばらく悩んで、手っ取り早く湘南方面に向かうことにした。海岸線沿いに長く伸びた国道百三十四号線は定番のコースだし、失敗ってことはないだろう。
    「今日晴れてるし、富士山もはっきり見えんじゃね? 懐かしいな」
    「……そーっすね」
     車窓の外に流れていく景色をぼんやりと見遣りながら、流川が答える。事実、車を暫く走らせると白い帽子を被った富士山が現れた。
     澄んだ海の向こう側に聳え立つ富士山を流川と見るのは、今日が初めてではない。高校時代に少し足を伸ばして出かけた時だとか、それ以外にも、何かと目にすることは多かった。オレの「懐かしい」という言葉に同意した流川の脳内に浮かぶ富士山が、誰といつ見たものであるかは分からない。けれどアクセルを踏むオレの頭に浮かぶのは、間違いなく自転車を押しながら流川と見たあの景色だった。
    「今年の新入部員に、九州から引っ越してきた子がいるんだよ。富士山見るの初めてってはしゃいでてさ、何か新鮮だったな」
    「……新入部員?」
    「そう。オレ、今バスケ部の顧問やってんだよ。今年は結構いいとこまで行けるんじゃねーかな。元気いい奴らが揃っててさ、やる気もあるし」
     オレが語る話は、流川にとってはどこまでも他人事だろう。知る必要のない情報だし、聞き流されたとて文句は言えないことばかりだ。だけど流川が存外律儀に相槌を打ってくれることに気を良くして、思わずあれもこれもと話し続けてしまった。
     教頭先生がバスケが好きで、よく練習を観に来ることだとか。オレらの代の試合も観に来てたらしいぜ、だとか。生徒達からはみっちゃんって呼ばれることが多いだとか、――やっぱり、どれも取るに足らないくだらない話だ。それでも流川はオレの話に耳を傾け続けていたし、時折小さく笑ったりもするから、嫌がってはいないのだろう。そのことにひどく安堵するのと同時に、過日宮城に電話した際の会話が耳奥に蘇った。
    『――アイツ、誰とも話したがらねーし、まともに飯も食えてねーみたいでさ』
    『チームメイトとか、マネージャーとかとも連絡取れてないっぽいんだよな。チームは流川が落ち着くまで待つって言って、しばらく休み取るようにしてくれたみたいだけど』
    『怪我ばっかりは誰のせいでもないし、どうにもできねーけど、……わかってるから、余計しんどいよな』
    『……三井さん、流川のことよろしくね』
     ――よろしく、と。宮城にそう言われた時、オレは「任せろ」と条件反射で答えはしたが、その実ちっとも自信はなかった。
     なんせ数年間連絡を取っていなかった相手と、突然会うのだ。加えてその相手は心身ともに満身創痍で、大袈裟でなく今後の人生を左右する崖っぷちに立たされている。そんな男に何がしてやれるのかなど欠片も思いつかなかったが、流川は昨日飯を食っていた。今だって、会話をする程度の気力はあるらしい。
     宮城に聞いていたよりも少しは良い傾向が見える気がするが、さてどうだろう。様子を窺うようにちらりと視線を助手席に向けると、同じようにこちらを見ていたらしい流川と視線が重なった。そりゃもう、ばっちりと。しっかりと。
    「あんだよ」
     妙に喧嘩腰の問いかけになったことに意味はない。流川は然程気にする様子はなく、「練習、見てみたいっす」と続けた。練習、とは。
    「……もしかして、部活の練習?」
    「ん」
    「お、いいぜ。今日全体練は休みだけど、自主練やってる奴らがいるんじゃねーかな。このまま学校寄ってみるか」
     帰国してから初めて、流川の口から何かがしたいということを聞けた気がする。それだけではない。例え学生の部活だとしても、流川がバスケに興味を向けたことが嬉しくて仕方がなかった。うっかり叫びたくなるような衝動を喉の奥へと押し込めて、努めて平静の調子を意識しながらハンドルを右に切る。
     ――大丈夫かな。大丈夫だよな。学校に近づくにつれて、嬉しさと同時に不安も顔をのぞかせ始める。
     怪我をしている時に、誰かがコートに立っている姿なんて見たいもんじゃないだろう。少なくともオレはそうだったし、流川だって似たような感情を抱くに違いない。バスケに熱を注ぐ者程、どうしてオレが、――なんて。己の身に降り注いだ理不尽さを呪いたくなるだろうから、部活を覗きに行くことが吉と出るか凶と出るかは正直分からない。
     だけど流川が望むことは、何だって叶えてやりたかった。オレに出来ることは何でもしてやりたいという健気さに自分でも少しだけ驚いたが、一切の不純のない衒いない本音だった。

     ▼

     学校には、車で一時間程度で到着した。夏休みに入ったばかりということもあって、職員用の駐車場に車はほとんど停まっていない。教頭先生が乗っている白のセダンを横目に見ながら、トランクを開けた。
    「お前、足のサイズいくつだっけ」
    「29っス」
    「あー、じゃあオレのバッシュでもいけるな。ほら、一応これ持ってけ」
     トランクに詰んでいたバッシュの一つを手渡すと、流川は少し考えたように視線を泳がせたがそれを受け取った。オレも普段使っているバッシュを片手に、体育館に連れ立って向かう。
     体育館の扉は開け放たれていて、予想通りボールが体育館の床の上を跳ねる音が聞こえてきた。少し錆びれた鉄の扉に手を添え「やってるか」と体育館を覗き込むと、中にいた数人の部員が一斉にこちらを振り返った。
     スリーオンスリーの真っ最中だったらしく、ボールを持っていたのは三年生のキャプテンだ。
    「お疲れ様です!」
    「お疲れ様です!」
     キャプテンが最初に頭を下げたのを合図に、他の部員たちも同じように頭を下げる。でも、きっちりと礼儀正しい態度を見せたのはそこまでだ。そわそわとした落ち着かない空気の理由は、休みの日に突然現れたオレ、だけではないだろう。部員たちの視線は、オレの半歩斜め後ろに立つ流川に注がれていた。
    「…………え、三井先生、その人って」
     口を開いたのは、二年生のポイントガードだ。目をこれでもかって大きく見開いて、微かに震える指を流川に向ける。あまりにも分かりやすい動揺に、口角がにやりと持ち上がる。結構悪い顔をしていたかもしれない。ここまで予想通りの反応をされるとは思っていなかったから、少し楽しくなってしまったのだ。
    「流川楓だよ。お前らの練習見てーんだとさ」
     言って「な?」と顔だけで振り返ると、流川は一度頷いた。それから続ける。「よろしく」
    「えっ、えっ、え!?」
    「流川楓って、流川楓だよな!?」
    「先生、なんで!? なんで流川選手がここに!?」
    「先生知り合いなの!?」
     流川が言葉を発した瞬間に、体育館いっぱいに絶叫が響き渡る。十代のエネルギー全部を乗っけた大声が空気を震わせ、思わず「うるせーよ」と笑うが勢いはちっとも収まらなかった。
     わらわらと集まってきた生徒たちは、興奮を携えた煌めく眼差しを流川に向けている。そりゃそうだよな。なんせ流川楓といえば、NBAで最優秀選手賞を受賞した日本で一番有名なバスケットボール選手だ。日本だけじゃない。今や世界中が、流川楓の名前を知っている。あらゆるバスケット少年たちの羨望の的であり、憧れの存在。
     なぜだかオレまで得意気な気持ちになってしまうが、本人の様子は傍目には普段とはちっとも変わらないところも流川楓たる所以だろう。
    「高校時代の後輩なんだよ」
    「えっ……、先生、流川選手と同じチームだったんですか!? 教頭先生が言ってた『三井先生はすごい選手なんですよ』って、あれマジだったの!?」
    「マジだよ、教頭先生が嘘つくわけねーだろ」
     確かにと、神妙な顔で頷く生徒の様子が面白くて笑ってしまった。生徒たちは興奮気味に一歩引いた場所から流川を見つめていたけれど、そのうちの一人が「あれ、でも」と小さく紡ぎ落とす。「流川選手って、今、確か……」
    「……膝、故障中。だから、見学させてもらっていい?」
    「っもちろんです! よろしくお願いします!」
     オレが間に入るよりも先に、流川が自分の左膝を指さして言った。思わず表に出しそうになった動揺を噛み殺して、オレは握りしめた手のひらに力を込める。
    「…………」
     ――流川の怪我について、詳しくは聞いていない。メディアから得た情報から推測しか出来ないことが、ひどくもどかしいと思えた。今のオレは、流川についてそこらの一般人と同じ程度のことしか知らないのだ。隣に立っているのに、流川は随分遠いところにいるように感じられた。
     普通に歩けるようにはなったみたいだけど、まだまだ運動に復帰出来るレベルじゃないだろう。多分、先月までは車椅子や松葉杖の世話になっていたレベルだろうし。昨日も風呂上りの膝にはサポーターがつけられていたし、今だってきっとそうだ。
    「……」
    「なんすか、センセイ」
     オレの視線に気が付いたらしく、流川がわざとらしい呼称でオレを呼ぶ。なんでもねーよと軽く脇腹を小突いて、コートへと戻っていく生徒たちの背中を見送った。
     体育館の四隅でデカい扇風機が稼働してはいるが、大きな窓から降り注ぐ容赦ない陽光のせいで体育館は熱気に満ちている。黙って立っているだけでも汗が噴き出るような暑さにも関わらず、皆いつも以上に白熱した様子でボールを追いかけていた。
     そりゃそうか。なんせ今ここには、流川楓がいるんだもんな。憧れの選手の前で、腑抜けたプレーが出来るわけがない。
     流川の存在は、ただそこにいるだけも周囲の影響を与えるのだ。時には味方を鼓舞し、時には圧倒的なプレッシャーで相手に畏怖を与え、――今だってそうだ。生徒たちは皆、無我夢中でボールを追いかけている。言わばバスケの神様のような存在を前に、興奮しきっているのだ。
     だからこそ余計に、今の流川が何を考えているのかが心配になるというのも本音だ。コートに立つために生まれてきたような男が、今この瞬間、何を考えているのか。オレにはちっともわからなかった。
     もっと昔なら、――同じコートに立っていた時なら、もう少しは理解出来ただろうか。
    「……センパイ」
    「ん?」
     オレの思考を遮ったのは、流川本人だった。ちょいとオレの肩を叩いた流川は、そのままコートへと視線を向ける。
    「一緒にバスケは出来ねーけど、……口出すくらいは、してもいいですか? ちょっとだけ」
    「……当たり前だろ、むしろ願ったり叶ったりだ」
     予想外の流川の言葉に一瞬面食らってしまったが、すぐに大きく頷いてみせた。自分からコーチの役を買って出るのも、コートに足を踏み入れようとするのも、すべてが想定外だった。けれど流川はオレの驚きを見てふっと軽く笑った程度で、すぐに言葉通り生徒たちの方へと近づいて行った。きゅ、と。スキール音が鳴る。
    「……八番、もっと周り見て。自分で持って行くのも大事だけど、ガードは周りをもっと活かすことを意識した方がいい」
    「そっちはシュートの時、上体がぶれてる。膝をもっと使って。アーチの最高点はいつも一定になるように」
     それから、そっちは、――と。
     少し見ただけでそれぞれの課題を見抜いたらしい流川は、これまた意外にも的確なアドバイスを一人一人に告げていく。流川のボールやゴールへの嗅覚は鋭く、学生時代は本能や感性を原動力にしている印象が強かった。だけど当たり前だが、客観的にプレーを見る目だって養われているのだろう。成長したな、なんて。親のような感想を抱いてしまう。
     生徒たちは全員流川の言葉を一言一句たりとも逃すまいと、真剣な顔で耳を傾けていた。お前ら、オレの授業中もそんな集中力見せたことねーくせに。思わずツッコミそうになるのと、キャプテンが勢いよく口を開くのは殆ど同時だった。
    「……あのっ、流川選手! 上手くなるには、やっぱり練習するしかないですよね!?」
    「トーゼン。練習した分報われるとは限んねーけど、練習しないと上手くはならねえ。……あとは、練習の質も大事。信頼できるコーチがいるのといないのとじゃ、上達のスピードは段違いだから」
     そこで言葉を区切って、流川はゆっくりとオレの方を見た。切れ長の双眸が柔く細められたように見えたのは、多分気のせいじゃない。
    「……そのへんは、あの人の言うこと聞いてたら大丈夫。いいコーチだよ、あの人」

     Scene6.
    「今日は何食いたいよ、流川。また昨日の店に行くか? 寿司でも頼む? なんでもいーぜ、奢ってやるよ」
     体育館を後にした三井さんは、わかりやすく上機嫌だった。
     帰りの車の中でも鼻歌をうたっていたし、帰宅してからもずっとにやけた顔のままだ。この緩みきった顔の理由が何かはわかる、――わかるけど、どうしてここまで喜ぶのかはわからない。
    「……いいコーチって言われたの、そんなに嬉しかったんすか?」
    「あ? 嬉しいに決まってんだろ。しかもお前に言われたんだぜ?」
     冷蔵庫の中を覗いていた三井さんはこちらを向いて、「まあ座ってろ」とソファを指さす。言われるがままにリビングのソファに腰を下ろすと、三井さんは「それかハンバーガーとか食いたい?」と続けて疑問符を投げかけてきた。
    「……別に、なんでも。三井さんが食いたいもんとかないんすか」
     というか、飯は毎日一緒に食うことが決まっているんだろうか。日本に滞在するのは、二週間を予定している。その間、三井さんと何か約束をしていたわけではなかった。昨日だって出かける時は教えろと言われたし、四六時中一緒にいるつもりは三井さんだってないだろう。
     だけどわざわざ確認しなかったのは、面倒だったから、――という理由がひとつ。それから単純に、三井さんと飯を食うのは嫌いじゃなかった。
     ほんの数日前までは何も喉を通らない状態が続いていたのに、今は少しだけ空腹感を覚えている。腹の虫が久しぶりにきゅうと鳴いた。どうやらそれは、三井さんの耳にも届いたらしい。
    「腹減ってるなら、すぐ食えるもんにするか。座ってろ、ちゃちゃっと飯作ってやるから」
    「三井さん、料理出来るんすか?」
    「ははは、一人暮らしの男の自炊能力舐めんなよ。うますぎてぶっ倒れねーように心の準備でもしてろい」
     どこからそんな自信が来るのかわからないが、三井さんはふふんと鼻を鳴らして冷蔵庫から食材を取り出し始めた。昨日少し冷蔵庫の中を見た時にも気が付いたけど、確かに普段から料理をしているような形跡があった。調味料だとか、使いかけの食材だとか、キッチンに並んでる調理器具だとか。確か大学から一人暮らしをすると言っていたから、必然的に自炊の機会は多かったのだろう。
     特にやることもないから、ソファに座ってぼんやりと天井を見上げる。キッチンから聞こえる流水音や野菜を切るような音が、心地よいテンポで耳を撫でていく。こうした生活音の中に身を置くのも、随分と久しぶりな気がした。
     アメリカにいる時はオレもそれなりに自炊をしていたけど、人が作った手料理を食う機会なんてなかった。特にここ最近は、病院で出されていた食事の記憶ばかりが鮮明だ。
     だから、多分、結構。三井さんの作る料理が、楽しみだ。コンロに火をつける音がして、程なくしていい匂いが漂ってくる。すんと鼻が鳴ったのは無意識で、つられるようにまた腹が鳴った。
     ちゃちゃっと作るという宣言の通り、三井さんはすぐに「飯出来たぞ」と両手に皿を持ってリビングにやって来た。
    「三井特製スペシャル炒飯だ、おかわりもあるぜ」
    「三井特製スペシャル炒飯」
     語呂が良くて、思わず繰り返す。
     目の前に置かれた皿はほこほこと湯気を立てていて、シンプルに美味そうだった。どのへんがスペシャルなのかはわかんねーけど。続けてスプーンやらコップやらを持って来た三井さんは、「そっちに詰めろ」とソファの端にオレを追いやった。
     ダイニングテーブルもあるが、どうやら今日はこのままソファとローテーブルで飯を食うらしい。「いただきます」と両手を合わせた三井さんの横で、オレも同じように両手を合わせる。
    「冷蔵庫にあるもん全部ぶちこんで、よく作るんだよ。今日はレタスとベーコンと卵だから、運が良かったな。外れ食材ゼロだ」
    「……具だくさんだから、スペシャル炒飯なんすか?」
     スプーンで一口すくった炒飯は、厚切りベーコンがごろごろ入っている。だからこその純粋な感想だったが、三井さんはどうしてだかそれがツボに入ったらしい。ぶはっと噴き出したせいで、米粒がちょっと飛んだ。「きたねえ」と皿を持ったまま少し横にずれると肩口を狙った拳が飛んできたが、然程痛みはない。
    「急に面白いこと言うなよ、油断しただろうが」
    「別に、面白いこと言ったつもりはないっすけど」
     そういうとこも面白いんだよと雑に言い切って、三井さんは続けて炒飯を掻きこんだ。豪快な食いっぷりは、見ているだけで食欲を掻き立てられる。つられるように口に運んだ炒飯の味付けは濃い目で、食欲をそそられる。そうだ。そういや飯って、美味いもんだったな。
     当たり前の感覚を久しぶりに思い出す。気がつけば皿は空になっていて、結局オレは三井さんに促されるがままに二回おかわりをした。
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    Replies from the creator

    あずき

    PROGRESS8/20 インテの流三新刊進捗兼サンプルです

    怪我をしたNBA選手の流川が、高校教師をしている三井の家で夏休みを過ごすお話です。
    怪我描写などありますが、絶対ハピエンです。

    やるぞ~!出すぞ~!頑張るぞ~!
    エンドロールはまだ早い Scene1.

    「――ねえ、早く!」
     熱気に湧くステイプルズ・センターのメインゲートをくぐりながら、私は振り返って恋人の名前を呼ぶ。試合開始まではもう少し余裕があるが、もう一秒だって我慢出来そうになかった。くしゃくしゃに皺がつきそうなくらい強くチケットを握り締める私を、恋人、――オリバーは、仕方ないなと言わんばかりの笑顔を浮かべながら見ていた。オリバーは、留学中に知り合った同級生だ。私よりも身長が三十センチ高くて、日焼けみたいなそばかすと癖のあるブロンドが可愛らしい人。
     オリバーは大学のバスケ部に入っていて、ポジションはスモールフォワードなのだと知り合ってすぐの頃に聞いた。流川楓と一緒だ。だけどどうやら、オリバーは流川選手があまり好きではないらしい。今日だって、ちょっと険しい顔をしている。アリーナ二階の指定席に腰を下ろして、私は眉間に皺を寄せているオリバーの顔を覗き込んだ。
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