これが運命だと? ② 賢人アナクサゴラスはαである。
今でこそ樹庭の者であれば周知の事実と言われていることでも、彼の儚げな風貌と細身な身体を見てしまえば一目でαと認識するのは難しいだろう。
現にこれまで何度も学者、生徒問わずαやβからの告白を受けては「私はαです」と、現実を突きつけてやっていた。
しかし、稀にそれでも構わないとなかなか引き下がらない者もいる。
アナイクスにとって、ファイノンという生徒はそんな少々しつこい生徒の一人だった。
「僕、先生の事が好きだよ」
「……またそれですか」
その日も、ファイノンがアナイクスに通算十回目の告白をした時だった。
告白をする度に断られているのに、彼はめげずにアナイクスにアプローチをしては想いを伝え続けている。
流石のアナイクスも、ここまで何度も自分に告白をしてくる者ははじめてで、どうしたら諦めてくれるのだろうかと頭を抱えてしまう。
「貴方には何度も伝えましたが、私は貴方と同じαの人間です」
「うん。知っているよ」
「子を産むこともできなければ、いつか貴方を裏切ってΩの番を見つけて添い遂げる可能性だってあります」
「先生が子供を望むなら、僕がΩになって産んでもいい。Ωの番を見つけても、僕を選んで貰えるくらい、先生のこと大切にするから」
アナイクスの手を包み込むように握るファイノンの手に力が篭もる。
こんなのはもう告白というよりも懇願ではないかと思うほど、必死な表情を浮かべる目の前の教え子に呆れてしまう。
けれど、ここまで真っ直ぐな想いをぶつけられることは、不快なことではなかった。
暫しの逡巡の後、アナイクスは大きな溜め息をひとつ零す。
「貴方の気持ちは分かりました。ですが、私と貴方は教師と生徒という立場。今その気持ちに答えを返すことはできませんが、貴方が卒業しても尚考えが変わらないようでしたら、告白を受け入れましょう」
瞬間、ファイノンの目が驚きで満ち、徐々にそれは喜びへと変わっていく。
「ありがとう! 先生!」
感極まって思わずアナイクスに飛びつくよつなハグをしてしまい、すぐに「やめなさい」と頬をつねられた。
その痛みさえも幸せに感じてしまい、口角が緩んでしまって仕方がないほどだ。
しかし、関係の進展はファイノンの留年によって延びに延ばされ、ようやく正式な交際を始める頃にはかなりの時間を要してしまったことも、今では懐かしい思い出のひとつであった。
そんなことを思い出したからか、ペンを持っている手は動くことはなく、真っ白な紙を広げたままアナイクスはぼんやりとしている。
ペン先から落ちたインクが紙にシミを作るのと同時に、目の前でドサリと何かが置かれる音に思わず肩がビクリと跳ねた。
「お体の調子はどうですか?」
「悪くはありません」
音の正体は、ヒアンシーが持ってきた紙袋をアナイクスのデスクへと置いた時のものだった。
零れたインクでできたシミだらけの紙とペンを端に寄せてやれば、彼女は袋の中から様々な薬を取り出す。
「こちらはΩのフェロモンを目立たなくするものです。先生は常に甘い香りがしていたとファイノン様から聞いたので、身の安全子ためにこの薬は一日三回、食後に必ず服用してください。そしてこちらが──」
中から出てきたのはどれもΩの体質を抑制するための薬。
ヒアンシーによる丁寧な解説と共にズラリとデスクに並べられた錠剤の数々に、まるで自分が重篤な病を持つ病人かのように思えてしまう。
「私は抑制剤が欲しいと貴女に依頼したはずですが?」
「一口に抑制剤と言っても、その効果や使用用途は様々なんですよ」
αであった頃から性別問わずに言い寄られていたことを考えると、事故が起こってからでは全てが手遅れになる。
番もいなればΩとしての初潮も経験していないアナイクスの身を過剰に心配してしまうのも当然のこと。
そんな彼女の不安を察したのもあり、流石のアナイクスも今回ばかりは口をつぐんだ。
安心させてやるために、目の前でΩのフェロモンを抑制する錠剤を服用し、日常的に服用する必要がある錠剤と万が一ヒートが来てしまった時のために服用する抑制作用が強めの錠剤をケースに入れる。
肌身離さず持つように強く言いつけられたアナイクスは素直に頷き、それを懐に閉まった。
今の彼にとって、この小さな錠剤が自身の身の安全を守るに必要不可欠だからだ。
しまい込んだのをしっかりと確認したヒアンシーは大量の抑制剤と何かあればすぐに石板で連絡をするという約束を残して研究室から去っていく。
そのタイミングを見計らったかのようにアナイクスの石板から通知が届いた。
メッセージの相手はキャストリスからだ。
師の体を心配する言葉と共に、外へ出る際にはお供するのでいつでも声を掛けてほしいという内容が綴られていた。
つい数日前にも、同じ言葉をファイノンから言われていたことを思い出す。
「全く、あの子達は揃いも揃って……」
彼らは皆、師の体を案じている。
これまでαとして生きてきたアナイクスが、己の体がΩになっているにも関わらず無茶なことをしてしまうのではないかと。
過剰に構う必要はない、といくら言っても彼らは聞き入れようとはしないだろう。
アグライアとアナイクスの関係を取り持とうと奔走していた過去を考えれば、運命の番だからと二人を強引に引き合わせて番にさせようとしないだけマシだ。
樹庭で同じ時間を過ごしてきた彼女達はアナイクスとファイノンの関係も、ファイノンがアナイクスにどれほどまでに強い想いを抱いていたかも知っている。
故に、番に関してだけは決して話題に出さないよう気を使っていたのだろう。
アナイクスにしてみれば、反りが合わないから云々の問題ではない。アグライアと運命の番であっても、自分にはファイノンという前世からの恋人がいる。だから自分の番う相手はファイノンであってアグライアではないと認識していた。
しかし、ファイノンにとって彼女は敬愛する師であり、自分をオクヘイマへと導いてくれた恩人でもある。
他人の幸せを優先してしまうような心優しき救世主が、身近な者が運命によって引き寄せられていることを知れば、彼らのために自分は身を引くべきなのではなどと考えてしまうことなど容易に想像できてしまう。
アナイクスとアグライアが運命の番であることを知った日から、明るい顔を曇らせてばかりいることに気が付かないはずがないのだから。
「あの時の勢いは、どこへ行ったのでしょうかね」
Ωの番を見つけても自分を選んで貰えるようにアナイクスのことを大切にする、とファイノンは大見得をきった。
ファイノンが樹庭を卒業し、正式にお付き合いをする事になってからというもの、彼は言葉通りアナイクスをまるで宝物かのように大切にしていた。
すぐに飽きるだろうと思っていたのに、随分と絆されてしまったものだと、自分自身の甘さに笑みが零れてしまう。
本当は、彼に相応しい番が現れたらアナイクスは身を引くつもりでいた。
しかし、恋人となったその日からファイノンの愛情を一身に受けるようになり、それが堪らなく心地よかった。
過去に姉と過ごした時間と同じ、幼き日に一度失った愛おしくも温かな日常。気付いた時には、もう彼を手放せなくなってしまっていた。
命が尽きるその瞬間まで、彼と共にありたいと望んでしまうほどに。
だから嬉しかった。
α同士でも構わない、それでもいいと言ってもらえたことも、こうして自分自身がΩとなれたことも。
一生に一度、会えるか会えないかと言われている運命の番に出会える事ができるのは何にも変え難い幸福。
永遠の祝福が約束されると伝えられているオンパロスで、運命の相手から逃げようとするのは、運命を尊ぶ人々からしてみれば愚かなことなのだろう。
そんなことはアナイクスにとっては些末なこと。
今の彼にとって重要なのは、いかにしてファイノンに覚悟を決めさせて彼と番になるかどうかだ。
しかし、悩みに悩んでいるファイノンが自らアナイクスの元へ来るとは考えづらい。
向こうが来ないのであれば、こちらから行くしかあるまい。思い至ってからのアナイクスの行動は早いもので、キャストリスにお礼の言葉と共にオクヘイマに用事があるという旨を伝えればすぐに了承を示すスタンプが返ってきた。
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星座が浮かぶ幻想的な空間を眺めながら、ファイノンは一人で創世の渦心の縁に腰掛けている。
天外からやってきた相棒が、自分の考えを整理する時によく訪れてはこうして静かに考えていた。
確かにこの場所は考えを整理するのにはもってこいの場所だ。
樹庭から戻ってきてからというもの、ファイノンはこうして一人でいることが多くなった。
転生したアナイクスがαからΩになったこと。彼の運命の番がアグライアであったこと。
恋人に運命の相手が現れて、深く愛し合っていた恋人同士が別れてしまったという話は特段珍しいことではない。
運命というのはそれほどまでに強い結びつきなのだ。本人が望んでいなくとも。
本能は自分の運命を強く求めてしまう。
そう遠くない未来で、自分はアナイクスから別れを告げられてしまうのではという恐怖に思わず震えそうになる。
同時に、そんなことは決してないと必死に否定しようとする自分自身も存在していた。
あの日、アナイクスの目は困惑しながらも確かにアグライアへと向けられていた。けれど、彼の白く細い手は、襲い掛かるΩとしての本能に呑まれそうになりながらもファイノンの服を掴んでいた。
アナイクスなりの、本能への抵抗だったのだろう。
自分はこのままアナイクスの手をとっても良いものなのか、いくら考えても答えは出ないまま時間ばかりが過ぎる。
ヒアンシーからアナイクスの体調も落ち着いており、少しずつ研究や実験に没頭する日々に戻りつつあるという連絡を受けていた。
もう一度、きちんと話さなければとは思うものの、なかなか最初の一歩が踏み出せないでいた。
「僕って、いつからこんな意気地なしになっちゃったんだろうなぁ……」
思い切り手足を広げながら、上半身を床へと倒す。
見上げた視線の先には呆れた表情を浮かべたモーディスが、寝転ぶファイノンを見下ろすように佇んでいた。
「オンパロスの救世主が随分と腑抜けた顔をしている」
「はは、返す言葉もないよ」
あの日、モーディスも彼らと同じ場所にいた。
彼自身にはいまだ番も運命と呼べる相手もいない。ファイノンの抱える感情を全て理解できるわけではないが、背中を叩いてやることくらいならできる。
ファイノンの隣に腰かければ、暫しの静寂ののちにモーディスが口を開く。
「お前は、どうなりたい」
「え……?」
「どうなりたいんだ、アナクサゴラスと」
「どうって……そりゃあ、ずっと一緒にいれればとは思っているさ。でも──」
途端に穏やかだったファイノンの表情が曇る。眉間に深い皺が刻まれているのがよく見えた。
敬愛するアグライアと、恋人であるアナイクス。どちらも大切だからこそ、二人の幸せを望んでしまうのだ。
本来得られるはずだった永遠の祝福が、自分のせいで消えてしまうことが耐えられない。
だからといって、愛する人を手放す覚悟もできない。
「なるほど。お前にとって、アナクサゴラスはその程度の人間だったというわけか」
「なんだって……?」
聞き捨てならないとばかりに、ファイノンの鋭い眼光がモーディスを見やる。
自分のアナイクスへの愛を否定されるとは思ってもいなかったのだろう。
「モーディス……いくら君でも、言っていい事と悪いことがある」
ゆっくりとファイノンが上体を起こせば、二人の視線は同じ位置で重なる。
今にも一触即発な雰囲気に、ここが公共の場であれば民衆を震え上がらせていたことだろう。
「僕の中にある先生への想いは、そんな簡単に否定されるほど軽くないんだ。どんなに長い時が経とうとも、何度も転生を繰り返そうとも決して消えることはない。そう胸を張って言えるよ」
その言葉に偽りはない。
先までの弱々しい様子が嘘だったかのような、真剣な眼差しにモーディスの口角が僅かに上がった。
「それを言う相手は、俺ではないだろう」
握った右手の拳をファイノンの胸元へコツンと当てる。それ以上何を言うわけでもなく、立ち上がったモーディスは創世の渦心を去っていく。
「ありがとう、モーディス」
友からの言葉で、ようやく答えを見つけることができた。
歩く彼の背に礼の言葉を送れば、返事の代わりにひらりと手を振られる。
姿が見えなくなるその時まで、ファイノンはモーディスを見送った。
大きく息を吐きだせば「よし!」と勢いをつけてファイノンも立ち上がる。
迷うのも、悩むのもここまでだ。
──行こう、アグライアのところへ。
しかし、そう決意したファイノンが目にしたのはアナイクスの頬に手を添え、彼に対して優しく微笑むアグライアの姿だった。
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