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ざわざわと周囲を満たす喧騒、砂糖の焦げる甘い匂い。無数の屋台から漏れる白熱灯に照らされる境内は、普段のひっそりとした神社とはまるで違って見える。
「おお……流石にすごい人だな」
「だな」
感嘆のような声を上げながら隣を歩く博雅に、晴明がそっと視線を向ける。きょろきょろと辺りを見回す様子は楽しげで、晴明も自然と、頬の辺りが緩むのを感じた。
「……あっ、ベビーカステラ!懐かしいな」
「食べるか?」
「ううん……いや、先にお参りを済ませてからにしよう」
律儀なやつだ、と内心思う。年に一度の節分祭り。今日ここに来ているほとんどの人間は、きっと信心ではなく、縁日という非日常を楽しみに来ているに違いない。
「不思議だな……なんだか何もないときと比べて、随分広いように感じる」
「人の流れが遅いからだろ」
「まあ、それもあるだろうけどな……いつもの神社じゃないような、知らないところに迷い込んでしまったみたいな……わかるか?」
何気なく、本当にただ思ったままに、博雅はそう尋ねてみた。
晴明は──なにも答えなかった。ただじっと押し黙って、博雅の隣をついて歩く。
「……晴明?」
なにか、気に障ることでも言っただろうか。博雅が少し不安げに顔を上げると
「……手でも繋ぐか」
しっかりと、博雅の目を見つめながら──晴明は突然、そんなことを言った。
「なっ……なんで」
「はぐれないように、だな」
「そ、こまでの人じゃ……」
「いいから、ほら」
半ば強引に話を進めながら、晴明が自身の左手を差し出す。迷いつつも、博雅が控えめに右手を伸ばすと、躊躇する隙すら与えぬように、あっという間に絡め取られてしまった。
「博雅、お前……手まで熱いのか」
「っ、ばか……」
立ち上る煙、子供たちの笑い声。
ゆっくりとした流れに逆らわず、一歩ずつ、小さな歩幅で境内を進む。そんな時間が無性に幸せで、愛おしくて。顔を上げようとした博雅の耳元で──しゃんっ、と突然、鈴の音が鳴った。
───えっ
不審を感じ取ったのと、それが起こったのは同時だった。
人がいない。ほんの少し前まで、満足に前へ進めなかったほどの雑踏が──一瞬のうちに消えたのだ。いや、消えたのは人だけではない──それに気づいた瞬間、博雅は自身の顔から血の気が引くのをはっきりと自覚した。音がない。この感じは覚えがある。あの時と同じだ。なんで、怖い──!
「──声を出すな」
悲鳴が漏れかけた博雅の唇に、不意に何かが触れた。
「目を閉じろ、何も見るな。いいか、絶対にだぞ……」
ぎゅっと、右手が痛いほど強く握りしめられる。言われるがままに目を閉じながら、唇に触れたそれが晴明の人差し指だと、博雅は遅れて理解した。
「いいか、博雅よく聞けよ……ここを出るまで、絶対に手を離すな。俺が先導するから、目を閉じたまま真っ直ぐ歩くんだ」
早口に、晴明はそう言って聞かせる。焦りで声が掠れそうになるのを、なんとか押さえ込んだ。
「──何か聞こえたとしても、聞こうとするな。全て無視しろ、絶対に返事なんてするんじゃないぞ……声も出すな」
晴明の口調、この場の空気。ただ事ではない気配を痛いほど感じながら、博雅は小さく頷いた。
「よし……いいか、絶対に──手だけは離すなよ」
最後にそう念を押すと、晴明は博雅の手を引きながら、ゆっくりと歩き出した。足がもつれそうになるのを堪えながら、博雅も慎重に歩を進める。そうして歩き出した一瞬後、博雅の肩が、突破大きくびくりと跳ね上がった。
『──あれれ、行っちゃうよ?』
『──おかしいなあ、誘い込んだはずなのに』
声が聞こえた。風の音すらしない空間で。
人の声でないことだけがはっきりしていた。確かに聞こえてくるはずなのに、声から一切、情報が読み取れないのだ。小さな女の子のようにも、しゃがれた老爺のようにも思える。晴明の手を握る右手に、ぎゅっと力が入る。震えが止まらない。本能的に恐ろしいと感じる、不気味な声だった。
『──おおい、おおい、行くな、おいで』
『──縁日であそぼう、お山であそぼう』
おおい、おおい。呼びかける声が耳元で聞こえるようで、博雅は必死に目を閉じ続ける。聞こうとするなと、何度も自分に言い聞かせながら、小さな歩みを進め続ける。
『──引き留められない、なぜ?なぜ?』
『──隣のやつが邪魔してるから』
『──人間風情め』
『──人間風情め』
無感情だった声に、明確な怒りが宿る。悲鳴をなんとか噛み殺した。今や震えは全身を支配し、満足に歩けているかすらわからない。
『──引き剥がす』
『──じゃまものは消す』
声がそう言ったとを聞いた途端、博雅は思わず顔を上げてしまいそうになった。目を開くなと言われていたのを思い出して、なんとか踏み止まる。消すって、まさか、そんな──
『──しぶといやつ』
『──人間のくせに』
『──身体の中を潰すか』
『──血を吹き出すか』
『──腕をちぎるか』
『──目を溶かすか』
恐ろしい言葉の羅列に、博雅は自分の勘が正しいことを悟った。なんの目的か知らないが、声の主は俺をここに閉じ込めようとしていて──それを妨害する晴明を、今まさに害そうとしているのだ。一瞬のうちに、博雅の心に、ある選択が浮かんだ。今この瞬間、手を離してしまえば──自分がここに残る決断をすれば、加害は止まってくれるだろうか。
恐ろしい考えが浮かぶと同時に、博雅は、それが実行可能であることに気がついた。自身の手を握る晴明の力が、やけに弱いのだ。それこそ、博雅がその気になれば──振り解けてしまうほどに。
───ダメージを受けてる、ってことなのか……?
だとすればもう、他に選択はないように思える。これ以上はもう一秒だって、晴明を傷つけたくなかった。ゆっくり、握りしめた手から力を抜こうとした、その瞬間──
記憶が、よぎった。
記憶、としか言いようがない、頭の中だけで聞こえた声。記憶。けれどそれは確かに、力強く──博雅の心の、深いところで響き渡った。
───博雅、俺を信じろ。
その声を聞くや──博雅はハッと我に帰り、晴明の手を強く握り返した。危ないところだった。あの時、信じると決めたこいつのことを、手放してしまうところだった。あれ、けれどこんなこと、一体いつ言われたのだったか──
「……もう目を開けていいぞ」
その言葉に、夢から醒めたような心地がした。
そっと顔を上げると、そこは縁日の中だった。がやがやと、人々のざわめきが耳につく。
「……戻った、のか?」
「ああ。……帰ろう、家まで送る」
「え、ああ……ありがとう」
手を引かれるままに、神社の喧騒を後にする。晴明はただ、何も言わず歩き続ける。博雅もなんだか口を開きづらくて、無言でその後をついて歩いた。先ほどのあれはなんだったのか、体は大丈夫なのか。聞きたいことは山ほどあったが──尋ねる機会をうかがううちに、気がつくと自宅へ帰り着いていた。
「じゃなあ。念のため今日はもう外へ出るなよ」
「ああ……ありがとう、おやすみ」
せめて最後に、体の調子だけでも尋ねたかったのに──晴明がさっさと背を向けて行ってしまうから、博雅も引き留めることができない。玄関を施錠し、息を吐いてから──聞きたいことがもう一つあったのを思い出した。あの記憶、確かに聞いたはずのあの言葉は、一体なんだったのだろうか。
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玄関扉が閉まるのを横目に認め、足早に来た道の角を曲がる。どうやったって博雅の視界に入らない場所まで移動してから──晴明は大きく息を吐き、くず折れるようにその場にうずくまった。
───危なかった、危なかった……!
頭の中を引っ掻き回された気分だ。なまじ人間のことを知っているからタチが悪い。的確なダメージに腹が立つ。胃の内容物が迫り上がってくるのを必死に堪えながら、震える足になんとか力を入れようとする。ああけれど、これはもう──視界が揺れる。ぐら、と身体の軸が傾きかけて──
「──おっと、まだ気絶するなよ。男を抱き上げる趣味はないからな」
誰かに腕を引っ張り上げられて、なんとか意識を落とさずに済んだ。
「……なぜここに?」
「礼が先だろう……まあいい。あれだけ大規模な異変だ、気づきもするさ」
それもそうか。晴明は返す言葉を失って、苦し紛れに視線を逸らす。この人くらい自在に力を使えるのなら、当然のことだろう。賀茂保憲は真意の読めない微笑を口元に浮かべながら、肩に乗った黒猫に合図する。
「いつかの魚の礼に、沙門が乗せてくれるとさ」
「……ありがとうございます」
「なんだ、嫌に素直だな。……その様子では、無理もないか」
率直な言葉に、晴明の表情が悔しげに歪む。全く情けない。自分の未熟さが嫌になる。早く、もっと力をつけないと、このままじゃ──
「──焦るなよ、晴明」
晴明の思考を読んだように、不意に保憲がそう言った。
「焦るな。力を追いすぎた先に何が待っているか──知らないわけではないだろう」
「……だったらはぐらかさずに教えてください、"前世"のこととやらを」
「駄目だ」
「なぜ!」
「……今一番避けなければならん事態が、お前の暴走だからだ」
低く、鋭い声だった。力の暴走。それを言われてしまうともう、なにも言い返せない。
「晴明──自分の心と向き合え」
項垂れるように下を向く晴明に、保憲が静かにそう諭す。
「俺から言えることは、それだけだ」
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今から十二年前、幸せな一般家庭を悲惨な事件が襲った。
発見したのは警察ではなく、異常な力の渦を感じ取った賀茂家の人間だった。
男女二名が、胸部から血を流し動かなくなっていた。周囲には、血に塗れた刃物が無造作に落ちていた。
そして──凶器を握っていたであろう男もまた、苦悶の表情で事切れていた。
異常だったのは男の体に、外傷と呼べるものがなに一つ残っていなかったこと。
惨状広がる部屋の真ん中で、年端もいかない少年が一人、死んだように眠っていたこと。