遥か遠く、桜の下でまた君と『君にまた逢えるように……桜君。オレ、頑張るよ』
ぐぅぅぅぅ。
「お腹空いたね。見回りしながら何か食べるかい?」
今日一日の学校生活を終えた頃、育ち盛りの腹はとっくに空腹で、腹の虫が大泣きをしている。蘇枋は桜の腹の音を聞いて、笑う事なく買い食いを提案した。
「なんか、あったけぇモンがいい」
今日はパトロールの見回り当番ではないが、放課後は真っ直ぐ帰らず寄り道がてら、街の見回りをするのが日課になってしまっていた。
季節はもうすぐ春を迎えるが、まだまだ夕方の風は冷たい。桜はブルっと肩を震わせながら体が温まる食べ物を考えた。商店街近くは当番のチームが巡回しているので、そのエリアではない別の道を選ぶ。二人が歩く大通りは買い物がメインの商店街とは違って、飲食店やコンビニが並んでいた。
自主的ではあるが見回りの途中なので、店内に入って食べるより、手軽で簡単にコンビニで肉まんか、おでん等がいいだろう。桜の頭の中はすっかり温かい食べ物でいっぱいになっていた。
「肉まんにする?」
桜の思考回路が丸見えなのか、蘇枋は数メートル先のコンビニを指差した。当てられたと恥ずかしそうにしつつ、桜は小さく頷いてそのままコンビニに足を進めた──が……その時。
桜が突然反対側の道を指差して叫んだ。
「きつね!」
「え?」
「きつね‼︎」
「何? うどん食べたいの?」
「そうじゃねぇ、狐だ!」
空腹で食べ物の話をしていた時に「きつね」と聞けば、なんとなくきつねうどんを連想するだろう。温かい食べ物だけに、この数秒で食べたい物が変わったのかと蘇枋は思ったが。だが桜は、そうではないと言葉を荒げた。
「きつね」を指差しながら、何度も「きつね」と連呼する桜。蘇枋は不思議そうに桜の視線と指先の方向を見たが、通行人が数人歩いているだけできつねなど見えない。
「何もいないよ?」
「いや、間違いなくいたんだ……」
「猫じゃないの?」
「……いいや……確かに見えた……」
桜は尚も狐の存在を主張するが、実際どこにもその姿はない。
それでも蘇枋は信じた。そもそも桜はつまらない冗談や嘘をつく人間ではない。蘇枋が見た時にはすでに見えなくなっていただけで、桜に見つかった事でどこかに行ってしまったのかもしれない。
だが、都会とは言わないが、このまこち町も多少なりとも多くの人が行き交う街だ。そんな街中に、狐がいるとは思えない。
蘇枋はもう一度桜が指差していた方向を見やった。桜の言う「きつね」は見えないが、なんとなく「きつね」がいたとされる場所から、不思議と何か感じるものがあった。
この場所といえば、桜やクラスメイトと通るくらいで、決してなんの思い出も、事件もないのだが……。
「蘇枋、行くぞ」
狐の行方を気にしていたのは桜の方なのに、いつの間に諦めたのか歩みを進め、コンビニの入り口の前で蘇枋を呼んだ。
数日後。
あの日以降、桜は狐を見ていない。もしかしたらもう見た事すら忘れているかもしれない。あの時見たのは、本当に狐だったのだろうか? 狸が化けて桜を騙したのかもしれない……いや、そもそも狸も珍しい。近年よく聞く山を追われた野生の動物というやつか。だとしたら、野良猫と違って危険だ。人も動物もお互いに慣れていなくて攻撃的になるかもしれない。互いに怪我をしないうちに見つけ出さねば……。
とはいえ、もう町から出ている可能性もあるのでなんともはやだ。
蘇枋は一旦、見てもいない狐の事は忘れる事にした。
第一章
狐は疲れていた。
人間に追われ、走って走って走って、逃げて逃げて逃げて。
──そして油断した。
ガシャンッ!
硬い金属の音と共に狐に衝撃が走った。
脚が痛い。見つけられ難いように、姿を紛らわそうと隠れた枯れ草の中で、人間が仕掛けた罠に脚が捕まってしまったのだ。ギザギザに尖った罠が、噛み付くように狐の左の前脚を挟み込んでいる。狐の体は毛に覆われているが、脚の毛は薄い。グサリと刺さる刃先が、逃げようと動くたびに皮膚を裂き更に食い込む。深くなる傷口は止めどなく血を流していた。
脚の他にも人間から受けた傷で狐の体はボロボロだ。
理不尽な傷に体以外に狐の心も荒んでいく。
ニンゲンナンテ
狐は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは自分を追い回す、荒々しい人間たちの姿と暴言。
人間は勝手だ。
狐は害獣で食料だと思っている。見つかったら最後、鍬や鎌を振り上げ捕まえようと追いかけるのだ。そして捕まったら、毛を剥がれ、食われてしまうのだろう。
人間も生きるのに必死なのは分かる。だが、そう易々と捕まるものか。──と思っていたのだが、逃げるのに必死で走り疲れ、まんまと罠に脚を捕られてしまった。
「クーン……」
情けなくてつい声を漏らしてしまう。
ガサガサッ、ガサガサガサ。
パキッ
草を分け、忍ぶ様子もなく足を踏みしめる音が狐の耳に届く。
この音の間隔は人間の歩幅。こちらに近づいて来る音か……。
だが、匂いはしない……。人間の匂いなら嫌という程分かる。おかしい、鼻をやられただろうか? 炙り出しの煙は嗅いでいない。嗅覚は正常の筈だが、ニンゲン特有の匂いを、狐は感じる事ができなかった。
とはいえ、音はする。枯れ草を踏み締め、だんだん近づいて来る音。
動けない狐は動けないなりに、グルグルッと喉を鳴らし威嚇の声を発した。
ガサガサガサッ
「お? 何か獣の気配がすると思ったら……狐か。ぅん? 怪我をしているのか……。どれ、野ネズミの罠にでも噛まれちまったようだな」
牙を剥く狐の前に現れたのは人間の男。
農民とは違う成りをしている。身なり良く、質の良さそうな着物の上から、一見すると呪い師や術者が着る物と思われる白い衣を着ていた。この男は術師の類なのだろうか?
そんな身なりの良い男は狐の不運を観察すると、その場に片膝を着いてしゃがみ込み、着物が土で汚れるのも気にせず狐の脚を捕えている罠を外し始めた。
硬く閉じている罠を、自分も怪我をしないように慎重に引き剥がす。ぐぐぐっと力を入れ、少しずつ狐の脚から刃を抜いてやる。狐の細い脚に深く刺さっていた刃が抜けた傷口からは、更に血が垂れるほど溢れてきた。
狐は辛そうに「クーン」と小さく喉を鳴らした。罠が外れたが、傷を負った脚が痛みで震えて上手く立てないでいる。
「あぁ、これは痛ぇよな。止血しよう」
男は見頃の合わせから手ぬぐいを取り出し、狐の傷を巻いて血を止めようと、狐の脚に手を伸ばした。しかし。
「ヴヴヴヴーッ、グルグルグル」
動けないながらに狐は牙を剥いて唸り声を上げる。その声に一瞬男は手を引いたが、一拍置いてもう一度手を伸ばした。
「すまない。腹を立てているだろうが少し我慢してくれ」
落ち着かせる様に優しい声音で男は呟き、そっと狐の脚に触れた。
ビクッと足を震わせたが、狐はグルルッと喉を鳴らしながらも、大人しく男に脚を委ねる事にしたようで動かなかった。
手ぬぐいを細く折り畳み、ぐるぐると狐の傷口を覆うように巻いてやる。
「これでいいか」
手ぬぐいを巻き終えた男はそう言って狐の頭を撫でてやった。
「痛かっただろうに、動かなくて偉かったな。傷は少し深そうだが、俺の力に触れた手ぬぐいだから治りは早いだろう」
狐はまじまじと脚に巻かれた手ぬぐいを見た。力がどうとか意味不明な事を言っていたが、確かになんだか早々に足の痛みが引いていく様な気がする。
「人間がすまなかった。許してくれとは言わないが、どうか俺に免じて仕返しなんてのは、しないでやってくれないか?」
狐に向かって男は頭を下げた。動物を獲物としか見ていない様な人間が、こんな事をするとは……狐は目を見開いて驚いた。狐らしからぬ、深く濃い赤と紫がかった瞳を輝かせて。
そんな狐の珍しい瞳を男は見逃さなかった。
「……お前、狐だよな? 眼の色、狐にしては珍しいな。蘇枋色なのか……。まぁ、目の色に関しては俺も人の事言えたもんじゃねぇがな」
そう言いながら、男は左側の白髪の前髪を少し摘んで弄ってみた。
「ほら、俺は髪も瞳も奇妙だ」
狐は不思議そうに男を見つめた。男を見る狐の瞳にはもう、怒りや畏怖も宿っていない。
狐を助けた男は、自分で言う程に身なりも見てくれも大層珍しく、確かに奇妙であった。高位な術師と思われる綺麗な格好は、職業が理解出来るとして、服装以外に男をよく見ると、それよりも目を引くものがこの男にはあった。
短く整った髪が白と黒とに分かれているのだ。真ん中よりもやや左寄りで分かれ、右が黒髪で左が白髪の白黒の髪。髪を染めるといった文化はまだない。そんな中、左右で髪色が違うという事は、どんな時代だろうと受け入れ難い髪色だ。
実は術者の血筋は白髪が多い。だが、この男はほぼ半々の白黒。更には、髪だけではなく、眉とまつ毛も同じように左右で違っていた。
そして何より眼の色も驚かされる。動物で稀に生まれる事もあるが、人間では中々にして珍しい、灰色の右目と琥珀に似た左目、左右で違う二色の瞳をしているのだ。
「術師の血筋は白髪として生まれるんだ。だが、俺は見たとおり黒と白との半々でむしろ黒が多い。だからか、半人前だってずっと言われて一族の恥だとさ。目の色も驚かれる事の方が多いけど、どちらかっていうと、受け入れ難くて怖がられるな。お前は、虐められたりしてないか? 珍しいって狙われるだろうに」
自分の壮絶な環境をさらりと話す男は、自分の事はすでになんとも思っていないのかあっさりとしている。そして、自分に重ねて狐の事が気に掛かるようだ。
人も動物も、自分たちと違うものはなかなか受け入れられない。動物の世界にも仲間外れはあるだろう。男は自分がそうであるからこそ、狐の気持ちが分かる。だが狐は、掛けられた言葉が分かったのか首を横に振った。
「そうか、それならいい。お前は強いな」
男はよしよしと狐の頭を撫でて毛並みをくしゃくしゃにする。狐はすっかり男に心を許したのか、唸る事もせず、むしろ気持ち良さそうに目を細めた。それはまるで人間に飼われている、犬や猫のように安心した表情をしていた。
「そうだ、名前。俺は桜、桜遙だ。お前は? 名前あるか? ……って聞いても答えられないか。……俺がつけてもいいか?」
野生の狐に名前があるはずもなければ、呼ぶ者もいない。桜は顎に手をやり「うーん」と考えた。名前。名前。狐の名前。考えながらまじまじと、狐のピンとした耳の先から脚先まで見下ろしていくと、やはりここに惹き込まれてしまう。
狐の瞳だ。鋭く知的で、そして見透かされる様な奥行きがある色。
「蘇枋色……蘇枋……よし、これだ。蘇枋がいい。お前のこの綺麗な瞳から貰って蘇枋ってのはどうだ? な、蘇枋?」
良い名前が見つかったと、桜は満足気に笑う。そんな桜を見て、狐はどう応えていいか分からなかった。こんな風に、人間に優しくされた事も名前を付けて呼ばれた事も初めてだから。野生の獣に名前など不要だ。そんなモノを付けたら、愛着が湧いてしまう。狐は狩られる存在。人間とは住む世界も存在意義も違うのだ。だが、桜は違ったようで……。
「その様子だと、この名前は嫌ではなさそうだな? いいか? 名前って大事なんだ。名前を呼べば、お前を見てるぞ、思ってるぞって意味になる。だから、俺はお前の事を名前で呼ぶし、お前も俺の事名前で呼んでくれよな」
狐は鼻先を前脚で掻いた。狐なりに「分かった」という仕草だろうか。
そんな狐を見て、桜はうんうんと嬉しそうに大きく頷いた。
「蘇枋!」
数日後。桜と狐の蘇枋は案外すぐに再会した。というより、蘇枋が木の下でのんびりしていたところを桜に見つかったのだ。
「お前なぁ。こんな所でぼんやりしてると、また罠にでも捕まっちまうぞ?」
大きな桜の木の下。そろそろ蕾が付くかどうかといったところか。開花まではもう少しかかりそうだ。そんな桜の木の下で蘇枋はクーンと返事する。「大丈夫だよ」とでも言っているようだ。桜はふっと笑い、腰を下ろした。
「隣いいか?」
そう言って桜は蘇枋の隣に座ると、そのまま背中を倒して寝転んだ。もう、春はすぐそこまで来ている。桜の葉を揺らし、さわさわと草を撫でる柔らな風が、桜の全身を撫でてゆき心地良かった。
何か話すかと思ったが、桜は静かに目を閉じる。風の優しい音だけが蘇枋の鼻先を掠めていく。桜はどうやら寝入ってしまったのか、小さな寝息が聞こえてきた。そんな寝顔を蘇枋は見つめ、桜の一時の眠りを見守った。
ゆっくりと影の位置が変わっていく。しかし、桜は起きる気配がない……寝始めてから何刻過ぎただろうか。
高い位置にあった太陽は色を変え次第に沈み始める。桜はまだ眠ったままだ。春先とはいえ少し風が冷えてきた。そろそろ起こしてやろうかと蘇枋が思ったのと同刻、桜は目を覚ました。
「あ、あれ? もうこんなに陽が沈んでる! 参ったな。今日なにもしてねぇわ。……ま、こんな日もたまにはいいか」
桜は居眠りを悔やみつつも前向きに捉えた。首を左右に振って体を揺らす。草の上とはいえ地面で寝ていたのだ、体が固まってしまっただろう。
「蘇枋、お前ずっと俺の事見守ってくれてたのか?」
桜が来た時から、蘇枋の位置が変わっていない事に気付いた。そう、蘇枋はずっと桜の傍に居たのだ。こんな野原で無防備に寝ていては、獣や賊に襲われるかもしれないのだ。狐の自分なら少しは威嚇できるだろうと、不用心な桜を蘇枋は心配だった。
それから桜は蘇枋の隣でよく昼寝をするようになった。時々話もするが、もっぱら昼寝が多い。そして最近では蘇枋も桜の傍で眠る事も増えていた。
「術師の仕事が多くてな。疲れてるのに、何故か家で寝れなかったんだけど……蘇枋といるとよく眠れる。ありがとうな」
桜は蘇枋の頭を感謝を込めて撫でてやった。すると、狐なのにどこか、蘇枋が笑った様に見えた。
何度も同じ様に休息の時間を共に過ごしていくうちに、また季節は巡っていく。
「蘇枋、聞いてくれよ。……俺、父親になるんだって」
どこか他人事の様に桜は呟いた。
待ち合わせなんてしている訳ではない。ただ、互い会う場所が何となく、ここになってしまっていただけ。そう、いつもの桜の木の下。桜が芽吹いていなくても、ここが彼らの場所だった。
毎日同じ風が吹き、日によって少し匂いが変わったりする。
そんないつもを繰り返す日の中で、ある日桜は少し様子が違っていた。
いつも余裕で、自信に満ち溢れていた桜だが、この時の桜は珍しく自信もなければ不安しかない、といった雰囲気をしていた。
数ヶ月前に桜は祝言を挙げたのだが、どうやらその相手との間に子供が生まれるようだ。
なんともめでたい話だ。嬉しくないはずない。弱々しく話す声色だが、やはりどこか自信がありそうで、それでいてとても嬉しそうで幸せそうだと。蘇枋はそう感じた。
だが……。
「なぁ……大丈夫だろうか。俺は、ちゃんと導いてやれるだろうか……。こんな奇妙な父親で、嫌われたらどうしよう」
「この髪も、目も……受け継いでしまったら……虐められたり……」
「術師の力も業も……背負わせてしまうかもしれない……」
桜の本音が涙と共に溢れた。
「幸せな事なのに……怖いんだ……」
うう……っと桜は静かに涙を溢した。こんな桜を見たのは初めてだ。
蘇枋は静かに桜に寄り添い、ペロリと桜の頬を舐めた。突然舐められた事と、獣らしいザラッとした舌先に桜は驚く。
「はは、お前の舌、ザラザラだな。励ましてくれるのか……ありがとうな」
桜は自分の甲で涙を拭いて蘇枋を見やる。蘇枋は話す事は出来ないが、桜を見る優しい蘇枋色の瞳から、「大丈夫だよ」っと聞こえる様だった。
「お前が人間だったら、きっと大親友になってるな。お前は迷惑かもしれないが、俺がこんなに話をするのは、蘇枋だけだからな」
有難く思えよっと何故か偉そうにする桜に、蘇枋は目を綻ばせた。
桜の花びらが舞う季節。穏やかな春の麗かさとは打って変わって、桜の屋敷は大騒動だった。新しい命が誕生したのだ。
──。桜の心配や不安は徒労に終わり、生まれてきた赤ん坊は術師の家系に相応しい、白髪に両黒目の容姿をした男児だった。桜はホッと胸を撫で下ろすも、術師の血を受け継がせてしまった事は少し後悔していた。だが、案の定一族の者達は、正当な術師の跡取りの誕生に、一同解りやすい安堵の態度をとった。それは桜にとって大いに救いであった。自分の様な半端な見てくれだと、いくら術師の才があり、技術が高かろうと人の心は分かり易い。生まれた息子が桜の様に半人前と思わせる容姿だったら、おそらく桜と同じ様に冷ややかな境遇になるだろう事は容易に想像がつく。自分がそうだったから……。だが、万が一……桜と同じ様に生まれてきたら……その時は、自分がめいいっぱい愛してやればいいと桜は思っていた。
満開だった桜はあっという間に葉桜になった。碌に花見もできず男児の誕生の喜びも束の間。桜は仕事が忙しくなり家を空けることが多くなってしまった。蘇枋は、ほんの興味本位で桜の子供が見たくなった。
天気の良い日は縁側で寝かされている事が多く、こっそり侵入した桜の広い屋敷でもすぐに見つける事ができた。髪や瞳の色は違えど、とても桜によく似た子。名は確か「春」といったか。桜がよく蘇枋に話しているので覚えていた。
すくすくと成長していく春。いつの間にか、はいはいというのもをする様になったようだ。それも、桜が忙しい合間を縫って蘇枋に話していたから知っている。見る度にどんどん成長している、我が子の自慢が止まらない桜の話は、人間の成長過程など狐の蘇枋にとってよく分からないものではあったが、桜が幸せそうなのでそれで十分だった。
いつしか、桜のいない日は、蘇枋が庭先で春を見守る事が日課になっていった。母親が近くにいるのだろうが、よく一人遊びをする様になった春。そんな時、春の近くをひらひらと舞っていた蝶に気付いて、春は短い手を伸ばした。残念ながら全く届く事はない。その距離感が分からない春は、もっと手を伸ばす。嘲笑う様に春の周りを舞う蝶。春の好奇心ばかり刺激され、さらに蝶を追い始めた。だが、春は縁側にいるので動ける範囲が狭くそれ以上追う事が出来ない。
そして、それが分からない春は、縁側の端で止まる事が出来ずに──。
がふっ
春の体が浮いた。
縁側から落ちそうになった春の着物の首元を、蘇枋が咥えて間一髪の所で助けたのだ。その時。
「きゃー! 坊ちゃんっ!」
「だ、誰かー! 坊ちゃんが狐に襲われているわ!」
間の悪い事に、使用人が目の前の光景を、見たまま瞬間的に捉えて大騒ぎし始めた。誰も見ていなかったが、蘇枋は落ちそうになった春を助けたのであって、喰おうとしているのではない。だが、何も知らない使用人にとって、狐は畑を荒らす害獣であってそれ以上でもそれ以下でもない。そして、この狐が「蘇枋」という名を貰って、桜に懐いている事など誰も知らないのだ。
そんな好意的な狐とは知らない使用人が、騒ぎを聞きつけてわらわらと集まって来た。
その中には……。
「なんの騒ぎだ!」
今日も帰りが遅いと思っていた桜が戻っていたようだ。主人としていち早く騒ぎの場所に駆け付けた桜は、目の前の光景を見て驚く。
「……蘇枋!」
桜は自分の息子を咥える狐を見間違う事なく、一瞬で蘇枋だと判断した。
「旦那様! お下がりください」
「蘇枋、どうしてここに……それは……」
「旦那様、危険です! 我々が──」
使用人が制するのも聞かず、桜は蘇枋に近づこうとした。
蘇枋が咥えているのはまさに桜の愛息子、春だ。桜は一瞬動揺したが、蘇枋が襲ったのではない事くらい、桜は見れば分かった。恐らく縁側から落ちそうになったところを助けてくれたのだろう。蘇枋に息子を見せた事はなかったが、会う度に息子の自慢をし、家を空ける時は心配で堪らないという事を吐露した事がある。だからもしかすると、桜の代わりに見守っていてくれたのかもしれない。蘇枋はそういう奴だと桜は思っていた。
だが、蘇枋の事など知らない者は不届な狐だと、見ようによっては春を連れ去るか、喰おうとしている様に見えるかもしれない。使用人には実際そう見えているようだ。
「蘇枋、大丈──」
桜はおろおろと蘇枋に近づいた。お礼が言いたい。息子を助けてくれてありがとうと。そして息子にはなんと無鉄砲者かと叱らなければ……。
だが、桜が蘇枋の方へ一歩足を踏み出した瞬間、蘇枋はそっと春を縁側に降ろし、桜がいる方とは反対側を向き、身構える使用人たちの合間を縫って屋敷の外へと駆け出した。
「蘇枋っっ!」
全速力で走る狐に追い付ける筈もなく、蘇枋を呼ぶ桜の声だけが、蘇枋の背中を追った。
蘇枋は走って走って走り続けた。獣にも、涙があるのかもしれない。蘇枋の視界がぼんやりとして冷たくなる。まるで雨に打たれているかのように、頬の毛を濡らしていた。
それから数年。蘇枋は人里を離れ、桜の前に現れる事はなかった。山奥、林の奥。人が寄りつかない場所で静かに過ごしていた。
そんな蘇枋を桜はずっと探し続けていた。桜の木の下で待つ事もあったが蘇枋が現れる事はなかった。
それから、桜の周りが物々しくなり始めた。
天災や獣による災いが多くなり、桜の仕事はまた一段と忙しくなっていった。日照り続きで農作物の育ちが悪いと、雨乞いの儀を行ったり、せっかくの畑を荒らされるので結界を張るなど、仕事は多岐に渡る。その中で妖と対峙する事も少なくなかった。
半人前だと言われる桜だが、本当はそんな事はなく、歴代屈指の術師だ。仕事も早くて正確な桜の仕事ぶりには定評があった。
そしてそんな桜の元に、とある村からの依頼が来る。狐を追い払って欲しいというのだ。ただの狐なら猟師に頼めばいいだろう、だが、桜を頼ってきたという事は、術師の力が必要という事。
桜はなにも気負う事なく受諾し村に向かった。
村はひどい有様だった。畑だけでなく、家屋も壊されている。幸いなことに、怪我人などは出ていないと云うのは、驚きだった。
そして、桜はこの村を襲ったモノの気配を覚えた。
「去れ。ニンゲンなど、我の遊び相手にもならん」
「そういう訳にもいかなくてな。悪いがお前こそ、引いてもらえないだろうか? 散々暴れている様だが、このまま引くと言うのならば、俺はお前を倒すつもりも封ずる気もない」
「……ほぉ、面白い事を言う。貴様に我を倒せると」
「俺は術師だ。その気になれば、お前を封じる事など簡単だ」
桜は懐に仕舞ってある札を少し覗かせた。
「なるほど、少しは力があるようだが……」
「何がお前の逆鱗に触れた?」
「知ってどうなる、力弱きニンゲンよ」
「賢い妖は無闇に人里を襲う事はしないはずだ。そうだろう?」
「……」
「互いに領域という物があるだろう。こちらがお前の領域を犯したのではないか?」
桜が対峙するモノ。それは熊ほどの大きさの狐。ただ、蘇枋の様な狐とは違って、はるかに大きい体をし、ふっくらとした尾はおそらく九本ある。
「九尾」と呼ばれる妖。
禍々しさより妖艶さがあり、どこか気品を感じる姿だった。
美しい姿ではあるが、この九尾が村を襲っていたのだろう。村で感じた気配が同じである。
そんな九尾と対時しても、桜は日和る様子も逃げ腰になる様子もない。むしろ堂々と威勢がいい。だが……。
桜はスッと体を折り九尾に向かって頭を下げた。
「こちらに非があるのなら、改めさせる。俺も謝罪しよう」
「面白いなニンゲン。貴様が大人しく喰われてくれると云うならば、引いてやっても良いぞ。我と一つにならぬか?」
「悪いがそれは出来ない。俺には家族……守る者と帰る場所がある」
「ふん、くだらんな。ニンゲンの命など我ら妖からすれば瞬き程しかないではないか、その様な短命に掛けて何になる」
「儚いからこそ大事なんだ」
「……ふはは、世迷言よ」
両者が見合う。交渉決裂かと、桜は懐から札を抜き出し構えた。
パァーンッ
空気を裂く破裂音。鳴らしたのは桜でない。どこか遠くから、桜と九尾の会話を割る銃声の音が響いた。
その音と被る様に九尾が舌打ちをする。
「猟銃の音……」
桜と九尾はほぼ同時に動き出した。
「狐だ! また畑を狙っているぞー!」
「撃て撃てー」
荒れた村の外れの、これまた荒れた畑に数匹の狐がいる。しかし、どこか妙だ。数匹の狐を一匹の狐が、村から出て行くように追い立てている様にも見える。仲間割れだろうか?
そんな様子など気にも留めない村人は、畑の作物を狙う狐を駆除しようと躍起になり、猟銃を撃ち鳴らした。狐を追い立てている狐は止まり村人を振り返って「ヴヴヴーッ」と唸り声を上げた。
「ほう、やはりあの狐は妙だな」
騒ぎの元に着き、朽ちた小屋の屋根の上で九尾は呟く。
「あの狐?」
九尾の物言いが気になった桜は、村人に唸り声を浴びせる狐を見た。遠目で後ろ姿な上、狐など獣は個体の区別などつきにくいが、ある狐にどこか似ている気がする……。
「村に悪さをするのは他の狐たちだ。あまりに品がないので、暇潰しに我が少々お灸でも据えてやろうかと思ったが、その前にあの狐が他のを追い払っていたのさ」
「? 村を襲ったのはお前じゃないのか?」
「我はそのようなくだらん事はすまい。この村は賊に狙われるようだがな」
実はこの村は賊に何度と襲われている。その上、狐など獣に畑も荒らされ、藁にもすがる思いで桜を呼んだのだ。そしてそんな中、あの狐は自分と同じ狐たちが畑を荒らし、賊が村人の住まいを脅かしている悪事を阻止しようと奮闘していたのだ。その姿を九尾は見ていた。
桜に誤解されていた事を特に気にした様子はない九尾。そんな九尾を見上げ、桜は頭を掻いた。
「そうか、疑って悪かった。お前の気配がここでしたから、てっきりそうかと……」
「浅はかなニンゲンよ、気にするな」
「……しっかり気にしてんじゃねぇか」
素直に詫びる桜と表情を変えない九尾。どこか和む雰囲気の桜と九尾だが、その視線の先はそれどころではない。村人が猟銃を構え、唸る狐と少し離れたところにいる狐たちに銃口を向け発砲した。
「おいっ! 待て!」
桜は撃つのを止めるように叫ぶ。だが、パァーンッという破裂音に掻き消されて届かない。耳をつんざく破裂音が、凪いだ空に響き渡る。
ドサッ──。弾が一匹の狐に当たりその場に倒れ込んだ。
グルルルルッッ
村人と睨み合う狐が牙を剥き出しにして唸り声を上げる。村から出るように追い立てていたが、種族としての仲間を撃たれた狐は、村人へ怒りの声を上げた。
村人が怯みながらもう一発撃つが、それは手元が狂い狐から逸れる。
その時、避けた狐の顔を桜は見た。怒りに燃える赤紫の瞳。普通の狐とは違う色彩を持つ狐。自分と同じだなと笑い合った狐。そして、息子を助けてくれた狐……。
「蘇枋っ!」
桜は叫んだ。風に乗った桜の声は、怒りに我を忘れそうな狐、蘇枋に届いたのかこちらを向いた。
「クーン……」
桜と呼んだのか、来るなと言ったのか、その表情は少し苦しそうに見えた。しかし、その隙を村人は見逃さなかった。
パァァーンッ
蘇枋の右顔を弾が掠っていき、蘇枋の体はその場に崩れた。小さな血溜まりがゆっくりと地面に広がっていく。
桜は震えた。
「蘇枋―っ!」
凶弾に倒れた蘇枋の元に駆け寄る為、桜は一目散に走る。蘇枋は桜に心配掛けまいと、ブルブルと体を震わせながら起きあがろうと脚を動かした。力がうまく入らず何度か体を崩す。
負傷した右目から血を流しながら、蘇枋はそれでもよろよろと起き上がろうとする。そんな痛々しい蘇枋を見て桜は叫んだ。
「蘇枋! 動くな!」
蘇枋の動きに気付いた村人は、蘇枋が反撃に向かってくるかもしれないと、急ぎ銃口の照準を再び蘇枋に合わせた。
「待て! 撃つな、こいつは違う!」
桜の制止を聞き入れない銃口はジリリと熱を持ち始める。
「止めろぉぉー!」
ドンンッッ──……。
「──……っく……。だめだ……撃つな」
村人が撃った弾が、蘇枋を庇おうと前に飛び出した桜の右肩に当たった。激痛に顔を歪めるも、桜は負傷した肩を押さえながら、ふらふらと一歩ずつ踏み出す。桜が足を前に出す度に、猟銃を手にした村人が、顔を青ざめながら足を後ろに引いて下がっていく。
緊張感に包まれる空間に、ぽたりぽたりと血が垂れる音がする。桜が傷口を手で押さえるも傷は深く、肩から血が腕を伝って地面に点々と落ちていく。
「止めろ……獣も妖も、俺がなんとかする……あんたらは手を出すな」
銃で撃ち抜かれた肩の痛みに耐えながら、桜は恐怖が顔に張り付いた村人に訴えかけた。
だが、人を撃ってしまった事に動揺する一人が、歩み寄る桜に怯え手を震わせながら、桜と蘇枋に向けて銃を構え直してしまった。
「く……くるな」
震える手で構える猟銃が、ガチャガチャと音を立てる。
「よせ……これ以上刺激するな」
なるべく声を抑えて桜は諭すが、村人の震えが止まらない。
パンッパンッッ!
気が動転した村人は、焦点も定まらぬまま引き金を引いてしまう。その凶弾は、的のない地面と誰もいない空間を抜けていった。幸い今度は何も当たらなかったが、蘇枋の怒りを煽ってしまったようだ。
噛み付くように蘇枋は村人に飛びかかった。怪我をして、起き上がる事さえままならない体だが、そんな事も構わず桜を守る為に体を奮い立たせた。
「うわぁぁっ! このっ……は、離せっ」
蘇枋は一人の村人に襲い掛かると、腕に噛みつき牙を立てる。噛み千切りそうな程、村人の腕に蘇枋の鋭い牙が容赦なく食い込んだ。痛みと恐怖の悲鳴を上げる村人に仲間も焦り動揺する。噛まれた村人はぶんぶんと大きく腕を振って蘇枋を振り落とそうと必死だ。仲間も蘇枋を撃とうと狙うが至近距離なうえ、噛み付く蘇枋ごと腕を振り回しているので、外して仲間に当たるかもしれないと不用意に撃てないでいる。
蘇枋に噛まれている村人は、どうにかして引き剥がそうと、猟銃本体を蘇枋に叩き付けた。
ゴッと鈍い音がする。背中を数回殴打され、流石の蘇枋も耐えきれず牙を剥がし地面に落ちた。
「この、畜生がぁっ!」
とどめを刺そうと銃を撃つが、焦りで当てる事が出来ない。業を煮やした村人は撃つのを止め猟銃を振り上げた。
ガッッ!
勢いよく振り下ろされた猟銃を取り押さえたのは桜。肩を撃たれた右腕はだらんと力なく下ろされている、その反対の片腕で桜は蘇枋を守った。
「止めろ……これ以上蘇枋を傷つけるな!」
再び狐を守り邪魔をする桜に、村人は疑問を抱く。
「……あ、あんた、術師の人……。あんたは、俺たちの味方なんじゃないのか?」
「そうだ、なぜ狐なんかを庇う。こいつらのせいで、村の畑は台無しなんだぞ!」
「っっ! そうかもしれないが、こいつは……蘇枋は違う! 蘇枋は、人に寄り添える奴だ」
桜の言葉に蘇枋は驚き顔を上げた。桜は続ける。
「畑を荒らす狐の事もそうだが、この村は賊に襲われたそうだな、こいつはそれらも追い払っていたはずだ」
「──そ、そんな事知るか! 同じ狐だ、どの狐かなんて分かる訳ないだろう! それにあんたこそ、なんでそんな事を知っているんだ!」
「そうだ、あんたはさっき、この狐の事を名前で呼んでたな。名前を付けてるって事はあんたの狐か? 狐なんか手懐けて……さては、仕向けてるのはあんたなんじゃないだろうな?」
村人が追う狐に向かって、桜は確かに蘇枋と何度も呼んでいた。動乱の中でもそれを耳にしていた村人は訝しる。
「違う! 俺は依頼されてこの村に来たんだ、そしたら……昔馴染みのある蘇枋が居たんだ」
「だからって、どうしてこの狐が悪さをしていないって言えるんだ、あんたがこの村に来たのは今日だろう」
「それは、九尾が──……」
「九尾だと⁉︎ 狐の妖じゃねぇか、妖と話ができるとは、益々あんたの本性が怪しいもんだ」
狐の事を庇う桜がだんだん疎ましく思えてきた村人は、それまで意識していなかったのか、桜の容姿に触れた。
「おい。よく見たらあんた、髪の毛も目の色も左右で違うじゃねぇか……」
「本当だ……術師にしても風変わりすぎだろ」
「術師の家系は白髪のはずだが」
「異端児……」
「おぞましい。お前こそ人間のふりをした化け物だ!」
「そうだそうだ!」
「妖と手を組む裏切り者だ!」
「‼︎」
村人の桜を見る目が変わり、向けられる罵詈雑言。桜の脳裏にいつぞやの記憶が頭の中を駆け巡る。
物心がつくより、もっともっと前。生まれた瞬間から「愛している」の代わりに贈られた言葉。
「「気持ち悪い」」
「術師の跡取りが、なんて髪の毛だ」
「不吉な髪よ」
「髪だけでなく、目の色も違うのか」
「おぞましい」
「化け物のようだ」
「一族の恥ぞ」
違う。
俺は……。
違わない。
俺は、人間だ──。
違う! そんな目で俺を見るな!
「うわぁぁー!」
「こいつ、また噛みつきやがって」
「おらっ、離れろ!」
桜が意識を違う事に捉われているうちに、蘇枋が再び村人に復讐の牙を剥く。村人の悪意を察し、桜に対しての罵倒が許せず、蘇枋は怒りの炎を燃やした。
「! 蘇枋っ! 駄目だ、お前は恨まれてはいけない!」
桜は制止の言葉を掛けるが、蘇枋は桜の言葉を聞き入れず、村人の足に食らいつき憎しみの牙を食い込ませる。噛み付かれた激痛に村人が堪らず悲鳴をあげた。
「ぐゔぁっ……こ、の……狐め」
「畜生がっ! 殺してやる!」
「蘇枋―っ! 離れろ! 逃げるんだ!」
必死に桜は叫んだ。胸がざわつき嫌な予感がしてならない。だが、蘇枋は相も変わらず噛み付いたままだ。
村人もどうにか噛み付かれている足を大きく振って、蘇枋を振り払うがうまくいかない。そんな中、仲間の一人が助けようと蘇枋の腹を横から蹴り入れたので、蘇枋は勢いよく体を飛ばされた。
ズズーッと地面を擦りながら蘇枋の体が転がる。村人から引き離された蘇枋は衝撃で地面にうずくまるも、怒りをバネに直ぐに立ち上がろうとした。が──。
パァーンッ!
パンパンッッ!
銃声が三発。
──ドサッ……。
空気を裂く弾の軌道音が耳を直撃して頭の中まで響いている。そのせいで蘇枋が地面に体を預ける音が聞こえなかった。
蘇枋は倒れていない、倒れるはずがない。
桜は震えた。怖くて直視出来ない。僅かな煙を上げる銃口から繰り出された音の、その先が見れないでいる。
蘇枋は起きあがろうとしていた。ならばもう四本の脚で立っているだろう。まだ立っていないなら、少し疲れたのかもしれない……これから立つはずだ。そうに違いない。
だから……目の前で倒れている蘇枋は、ちょっと休憩しているだけなんだ。
桜はそれ以外考えないようにした。
地面に横たわり、ピクリとも動かない蘇枋の下から血が流れ出て溜まりを作る。桜は力なく足を地面にずりずりと擦り付けながら近づいた。
「蘇枋……何寝てんだよ……立てよ。もう、帰ろうぜ。一緒に帰って、息子の春と散歩したり、野をかけたり、茶を持って花見をしよう……なぁ?」
「…………」
地面を見ている。
右眼と腹から血を流し倒れている蘇枋の姿ではない。桜はぼんやりと、乾燥した冷たい地面を見つめた。視界が水の膜で覆われてよく見えない。瞬きを許したら、全てを認めてしまう気がして、ずっと目を緩く開いている。
「なぁ、蘇枋。帰ろう……」
膝から落ちるように、蘇枋の傍らに崩れる。
「……かぇ……ぅ……っっ」
「っっぅ……ぅおう、蘇枋……」
肩の痛みなど忘れて桜は蘇枋に手を伸ばした。ぐったりと力のない蘇枋の首を抱え上げる。桜の白い着物が、桜の物とは違う血と泥で色を変えていく。そんな瑣末な事はどうでもいい。桜は腕に力を込め、蘇枋を胸に引き寄せた。
少し開いたままの口から、風の音の様なヒューッとした吐息がする。僅かに呼吸しているようだ。まだ命がある。
だが、致命傷を負っている。手の施しようが無い、蘇枋の命は保って……。
桜は蘇枋の頬を撫でた。
「俺が……ここに来たから……俺が……ちゃんと術師の姿じゃねぇから……俺が、狐たちを追わなかったから……俺が、俺が……俺が、蘇枋……」
無意識に桜は懐に手を入れた。そこには念が込められ呪語が書かれた札が数枚ある。だがその中には、一枚も護語の札はなかった。
「そうだ、術……何か、傷を……。あぁ、なんで、なんで俺は癒しの術を持たなかったんだ。力があれば、守れると。力があれば失うものは無いと思っていたのに……ごめん、蘇枋。お前を傷つけたのは俺だ。なのに、俺はお前を守れない。救ってやれない……」
懐にある数枚の術札を握り締めた。こんな物、なんの役にも立たない。
「俺が……未熟だから……」
握りしめた札ごと手を懐から出し、ぐしゃぐしゃの札を地面に投げ付けようと、桜は痛みを忘れた腕を振り上げた。
その時、村人も動き出す。
「やったぞ! 忌々しい狐め」
「畜生が人間に楯突くからだ」
「おいっ! お前も、もう出て行ってくれ。九尾やら妖を呼び込まれたらたまったもんじゃねぇ」
「そうだそうだ! 出ていけぇ!」
止せばいいものを、村人ががなる。桜は瞬間的に振り上げた腕を村人に向けて振り下ろし、手にしていた術札を投げ付けた。
「黙れぇっっ!」
ごぉぉぉぉぉぉーっっ!
村人の足元に激しい炎が生まれ、札が落ちた地面が業火に焼かれる。突然目の前に現れた炎に村人は腰を抜かし逃惑った。わたわたとする姿は滑稽だが、そんな姿を見ても桜は満足しない。桜は人差し指と中指を立て、顔の前で構えると悪意を込めて呟いた。
「殺してやる」
ビリビリと桜の体を力が巡っていく。立てた指先に向かって術が展開され、桜の周りに風が生まれた。巻き上げる力の風に着物も髪も激しくたなびき、数奇とも言われる桜の二色の双眸も怒りの炎を宿した。
指先が熱くなる。十分に力が集まったと、桜は村人に向け手を振り払い、術を掛けようとした瞬間。
フッと一瞬で燃え盛る炎が消えた。
「──っっな!」
桜は息を飲む。
自分の意思ではなく術が消える事など有り得ない。桜の術は完璧だった。誰にも、何より力を持たない村人などに、破られる事なんて絶対になかった。なのに、桜の放った業火が突然消滅したのだ。
「……な、んで……」
信じられない光景を見る様に桜は力なく声を漏らす。そして自然と自分の掌を見た。力が……術が消えた?
「そんな……仇を討つ事も、できねぇのか……」
理解できない現象に桜は悔しくて、詫びる様にそっと蘇枋を抱き上げる。込み上げる涙は、もう我慢できなかった。
蘇枋を抱き締め座り込む桜の背中から、温かく柔らかい風が吹き抜けた。その風は一度大きな旋風となり直ぐに消滅したが、その風の中に大きな影を残す。中に居たのは……。
「術師の子よ。心を捨てるな」
鋭く尖った眼。まっすぐ伸びた鼻先。少し硬いがふわっとした黄金のような毛を纏った獣。その獣には尾が九本ある。
「お主、狐に名をやったのだな……」
九尾は蘇枋を抱き締め涙する桜に、優しい声色で話し掛けた。桜はただただ涙を流し無言を返す。九尾は気にせず言葉を紡いだ。
「蘇枋という此奴の身体、我が貰い受けよう」
「! な──……に……」
桜は涙まみれの顔を力なく持ち上げた。
「何、喰うのではない。此奴の命の灯火はもう幾許も灯っていない、間も無く息絶える。だが、我の力を受け入れられれば、再び燃え上がらせ伸ばせる命となるだろう」
光の失せた桜の瞳が僅かに光を求めて揺れる。
「どう、いう……」
「我が此奴の右眼に巣喰うてやろう。さすれば、此奴は生きながらえ我の力を手にする事が出来る」
「そんな……事が、できるのか……」
「今なら……。だが、我の力の強さに耐えられれば、の話だがな」
蘇枋次第だと、九尾は云う。
「そ、それで……お前を宿した蘇枋の意志は……」
「我よりも自我が強ければ、表に出ていられるだろう」
「……弱かったら……」
「身体ごと我の物だ」
「なっ……」
「悪い話ではないだろう。全ては此奴の力……思いの強さ次第だ」
「…………」
「そして一つ問題がある。我が此奴の中に巣喰うても、此奴が我の力を受け入れる為には時間が掛かる。数年か、あるいは何十年と時を必要とするだろう」
「そんなにっ!」
どうやら九尾の力を借りて、今直ぐ蘇枋の体が元気になるという訳にはいかないようだ。桜の顔が目に見て不安になる。九尾はそんな桜を見つめた。
「そこでだ。術師の子よ、お主の力が必要だ」
もう子供ではないと反論しようかと思ったが、無駄な時間だと桜は無言で九尾を見上げた。
「我が此奴の中に入ったら、お主の力を持って封印するのだ。そうすれば、数年を経て必ず相見える事が出来るだろう」
一縷の望みが舞い降りた。この九尾がいう事を、蘇枋が受け入れられたら……数年我慢すれば、また蘇枋と過ごす事ができる。悲しみの淵に差した希望の光を、桜は逃したくなかった。答えは一つだ。だが……。
「どうして、こんな提案を?」
しがない狐の為に、もう死を目前にした狐に、九尾のような上級の妖が力を貸すとは、桜は信じられなかった。
「何、一時の興味本位よ。人間が狐を、狐が人間を互いに思う心に興味が湧いた。それに……実の所。我は少し疲れた。冬眠のように眠るのも良いが、ただ眠るより何か面白い事がある方が、起きた時に興が乗るだろう?」
「いや、そんな……」
「どうする? もう時間はないぞ。我ごと蘇枋を封印できるか?」
桜はグッと拳を握り、九尾に向けて突き出した。
「出来るに決まってる……。あぁ、任せろ。お前に最高の寝床を用意してやる。その代わり、必ず蘇枋を助けろ」
桜の意志を受け取った九尾はスッと目を閉じた。
「我の命を貸してやろう。名を宿した狐、蘇枋。我が同胞よ」
サーッと蘇枋の体が眩しい光に包まれる。光が強くて目を開けていられない程の光だ。「うぅ」桜は堪らなく腕をかざし光を遮って耐えた。その光は九尾をも包み込むと、程なくして光は次第に弱まり、蘇枋の右目に吸い込まれていく。その光の終わりの行方を桜は見届けた。
光の全てを取り込んだ蘇枋の右の瞼が最後僅かに光り、それも全て消えた時。九尾の姿はそこにはなかった。
キラキラとした星のカケラの様なものが、蘇枋の狐の体を包み輝いている。
そしてその体から幽体離脱の様に、ぼんやりと人の姿が現れた。赤紫の髪に蘇枋色の瞳、見た事も会った事もないが、どこか懐かしい。
「……蘇枋か」
桜は問い掛けた。人の姿をした蘇枋は小さく目を細め慈しむ様に微笑む。
「初めまして、桜遙君」
初めて見る蘇枋の顔と初めて聞く蘇枋の声があまりにも優しくて、桜は胸が熱くなった。鼻の奥がツンとして、涙が溢れてくる。会いたかった。
言いたかったずっと、会って謝りたかった。あの時……。
「蘇枋ごめん! 春を、息子を助けてくれてありがとう。それから……それから、ずっと、ずっと──」
一番言いたい、言わなければいけない言葉が、胸でつかえて出てこない。桜は、はくはくと口を何度も開けるが上手く言葉を紡げなかった。そんな桜に蘇枋は首を横に振りながら優しく微笑む。
「ありがとう、桜君。またね」
「あぁ……必ずまた会おう」
桜は札を手に乗せ蘇枋に差し出した。蘇枋は桜の手を握り返す様に触れる。札を挟み硬く握手をした途端、蘇枋の体は風に巻かれながら、桜の手中にある札の中に吸い込まれていった。
シンと静まり返る。狐の蘇枋も九尾も今までそこにあったはずの姿は形を変え、桜の手の中にある札に封印された。
桜は満足気にその札を見つめる。
話したい事は沢山ある。だが、それにはもう少し時間が必要のようだ。
敵対した村と別れ、桜は家に戻った。
その後も変わらず桜は術師としての仕事をこなし続け、それから数年が経っていた。相変わらず蘇枋の封印は解かれていない。
そして更に、状況は芳しくなかった。
桜は一人、蘇枋とよく過ごしていた大きな桜の木を見に来た。今でもよくここで誰にともなく話しかけている。今日も何か話に来たようだ。
「俺な、もうすぐ死ぬんだ。術師だからな、それが分かる。術師は元々短命だ。力を酷使しすぎたみてぇだな。お前に会った時に、誇れる様にと……頑張ってたんだけど、どうやら俺は急ぎ過ぎちまったようだ」
「多分……お前は間に合わない。だから、いつかこの先の未来で巡り逢えるように……お前の封印をこの桜の木に移す。きっと俺の子孫がお前を見つける。そしたらそいつと共に生きて、見守ってやってくれ」
いつも肌身離さず懐に仕舞ってあった札を取り出し、額に当て念を込める。札がじんわりと熱く感じたところで、桜はその札を桜の木に押し当てた。すると札は桜の木に溶け混むようにスゥーッと消えていく。最後押し込むように桜はポンポンっと桜の木を叩いた。
そして満足気に呟く。
「俺は好きだぜ。……じゃあ、またな。蘇枋」
その年から、蘇枋を封印した桜の木は例年より早く芽を付け、例年より遅くまで花を咲かせ続けた。長く桜を見れると、多くの人々に愛される桜の木になった。
そこで力を蓄えた蘇枋は、桜の一族を見守り続ける。
いつか迎えに来ると信じて。