Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    hune_chan

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 14

    hune_chan

    ☆quiet follow

    飯P 画家師弟パロ
    掘り出し物かつ添削とかしてない中途半端なやつなので、変な部分あり

    ほりだしもののやつ①自負してもいい。

    オレは、その国一の画才だった。
    オレの描く風景画は、実際の景色よりも美しく鮮明で。
    艶やかな色合いに潜む慎ましやかな影は、通りすがる浮浪者すら目を引かれる。

    オレは、己の腕に自信があった。
    皆に言い張るような傲りなどではなく。
    かと言って己を信じ切り、研鑽を怠けることはなく。
    ただ、常に上へ上へと高みを目指す画家であった。



    しかしある時期を境に、絵が売れなくなってしまった。


    人気が低迷し、それを疑問に思いつつ大通りを歩いてた時のこと。
    行きつけの画材屋の前で、数人の男たちが群れて話をしていた。聞くつもりなどなかったが、その話は意図せず小耳に入り込んできた。

    「東の国から来た孫というヤツが、これまた辺鄙な絵を描くそうで」
    「ははは。知っているぞ。筆を持たせれば、下手くそな絵ばかり描くおかしなやつだった」
    「そうそう、どこぞの酔っぱらいの絵かと思ったよ」
    「いやあ、でもその絵がなんというか味があってな。抽象画とでも言うのかい?オレぁ、アイツの絵の虜になっちまってね」
    「オレもだ。ピッコロ……とかいう絵描きよりも、孫とやらの絵の方が迫力があるしよ。なんというか、斬新なんだろ?辺鄙くらいがよっぽど魅力的だと思うね」

    ピッコロ、という己の名が聞こえてオレは息を潜めた。
    孫?聞いたことがない。誰だ、それは。
    チラリ、と画廊のショーウィンドウを見ると確かに抽象的かつ大胆な色遣いの絵。素人が描いたのでは?と思うほどにおかしな絵ではあったが、妙に惹き付けられるような、変な感覚があった。

    下の札には、目が飛び出るほどの桁の値段と、「著:孫 悟空」が記されている。

    「そうそう。それに、今や風景画なんて、写真機があるんだから要らないよなあ」
    「でも、その、写真機…と言ったかな。えらい高いらしいじゃないか」
    「いやいや、あのピッコロに頼んだ方が高いんだぜ。それだったら写真を撮るだろう」
    「……確かにな。まあ、写真もいいけれど、やっぱ絵描きを頼むんだったらピッコロよりも孫に頼むかな」
    「ははは、そうだな。間違いない」
    「今や孫の依頼料や認知度はうなぎ登りだ。この調子だと、いつかピッコロとやらも世の中の波にもまれて死んでゆくかもな」
    「そうだなあ」
    「オレは、百万出すんだとしたら孫かな」
    「オレもかな」
    「オレも」

    そのあたりから、オレの記憶はない。

    あまりにも強い衝撃を受けて、記憶が飛んだのか。それとも激しい怒りで飛んだのか。
    どちらにせよ、オレにはひどい対抗心が湧いた。

    打倒、孫悟空。

    アイツよりも素晴らしい絵描きになって、この世の中を支配してやる。





    それからしばらくの時が過ぎた。

    オレは落ちぶれた絵描きになった。
    別に、やけになった訳ではない。現実から離れた訳でもない。ましてや、目を背けた訳でもない。

    ただ、己が許せなくなって己に嫌気が差したのだ。

    いくら風景画が上手くても、それだけでは生き残れない。
    そう思い、オレは激しい生存競争から座を勝ち取るために抽象画や人物画にも手を染めたこともあった。

    しかし、それらすべて己には合わなかった。

    抽象画ならまだマシだと思えるが、人物画は分からない。人よりも違う見た目のオレが、人間を描くことは難しい。人の表情が、分からない。
    人と関わることが苦手なオレにとって、どうにもその人物画というもとは、ハマらなかった。

    しかし、その年の五月過ぎから彼ーーー「孫悟空」の新作がパタリと止んだ。
    何かと不思議に思えば、なんと、彼に子が生まれたそうなのだ。
    オレは、「これはいいチャンスだ」と思った。
    これで彼の新作は世に飛び交わなくなり、その名も段々と失速していく。そしてその間、己の名を再び業界中に轟かせよう。

    だが、そう上手くいかなかった。
    一度低迷した絵描きの絵は、再度売れることは無い。
    人気が過ぎ去ったものに、高値が着くわけが無い。

    オレは、どうしていいか分からなくなった。
    だから、オレは筆をとることを諦め、アトリエを閉めた。

    今やその建物は、己の居住地としてしか意味を成さない。
    悲しむ者は、もう誰もいなかった。
    そして、オレの名は世の中の隅へと追いやられ、賞賛すらされなくなり、皆が己の作品を忘れていった。


    ◇◇◇


    「すみません、すみません」

    朝、忙しない騒音と共に来客用のベルが鳴り響いた。

    久しぶりに音を出したためか、若干錆び付いて変な音を立てる。

    ジリジリ、とか、とにかく不快な音色を刻むせいで、オレの眠気は一気に覚めていった。
    若干の気だるげさの残る身体を擦る。元アトリエの隅で布団にくるまっていたオレは、訝しげな顔で立ち上がり、その扉を開けた。

    「……何の用だ」

    久しぶりの外の空気は、キンと冷たかった。
    鼻腔がヒリヒリとする。肺が驚く。
    朝日の光も柔らかだが、随分眩しかった。
    クラクラとする目の奥。瞼を閉じる。

    「すみませーん、突然押しかけてしまって」

    来客の第一声は、とぼけた口調だった。
    白い肌。撫で付けられた髪、けれども額にひと房垂れる前髪。黒くて、人に好かれやすい瞳と目つき。にこにこと口角を上げるそいつの顔は、どこかで見たことがあるようで。
    齢十六かそれより少し上の、あどけなさが残る青年だった。

    一体、何者だ。一体、何の用だ。

    オレには知り合いもいなければ、こうやって押しかけてくる不躾な者もいない。
    来客など滅多に来ないし、最後に記憶しているのは新聞勧誘の男だった気がする。

    まったく、はた迷惑なヤツが来たもんだ。

    「何者だ」
    「……あ、ああ。ええっと…」
    「新聞勧誘なら他所でやってくれ。オレは新聞などいらん」
    「えええ!ボクが、新聞勧誘に見えます?」
    「見えなくもないが……そんなことはどうでもいい。どんな勧誘でもお断りだ。用がないのならさっさと帰れ」

    ため息を吐いて、扉を閉めようとしたその時。

    ギギギ

    「なっ……!」
    「待って待って!」

    青年に、ものすごい力で食い止められてしまった。

    思わぬ抵抗に、オレは驚いて力を緩めてしまう。
    するとそれを見兼ねて、彼がぬるりと扉を通って家に割りいってきた。なんなんだ、コイツは!

    「や、やですよっ!用ならあります、大アリですっ!」
    「しつこいぞ、一体なんなんだお前は」
    「ボク、あなたに弟子入りしたくて、ここに来たんです!」
    「は?」
    「だ、か、ら!画家であるあなたの元で修行がしたくて、ここに来たんです!」
    「お前……今、なんて」
    「……え?だから……」
    「なんて、言った。あなたの元で修行がしたくて、……の前」

    信じられなかった。

    「画家……?です」
    「画家……」
    「ボク、生まれてきてからずっと、あなたに憧れて風景画を描いてきました。色彩感覚も、描写の細さも、明暗の全ても、大好きで…。だから来ました、ピッコロ画伯」

    まだこの世に、オレの名を覚えているヤツがいただなんて。
    まだ、オレの作品や全てに憧れを持つヤツがいただなんて。

    「特に、城や建物が入っている風景画においては、あなたの横に出る者はいないくらい美しく、儚い。バランスが崩れがちで複雑な造形の建物でさえ、本物以上に壮大に描き上げてしまうんだからその技術には圧巻です」

    ペラペラと喋るその全ては、かつてオレが貰っていた評価だった。
    城や建物がなんだの、二十年前はよく言われていたものだ。
    青年から出る言葉一つひとつが懐かしく感じる。

    だが、オレは、

    「すまんが、画家は辞めたんだ」

    潔く、断った。

    オレは、その道に終止符を絶った人間だ。
    今更戻ることも、弟子を取ることも、出来やしない。

    「……え?」
    「画家は、辞めた。オレには、あの世界にいる理由がない。誰もオレを求めちゃいないんなら、筆を取る気も、キャンバスを運ぶ気も、ない。だから辞めた」
    「……そんな」

    言い切ると、彼は至極残念そうに俯いた。
    いいんだ、いいんだこれで。

    オレは、いわゆるライバルにすら勝てなかった人間。
    勝とうとすらせず、ただ挫折し、立ち止まった人間なんだ。

    そんな人間が、彼に教えられるはずがない。

    「悪いが、そういうことだ。帰ってくれないか。申し訳ないが、来客を持て成すものも何もないんだ」
    「……ご、ごめんなさい。つい、中に、入っちゃって。あの、その、自分も急に押しかけてすみませんでした」

    しゅんとした顔で、青年が後ろを向いた。

    「習いたかったな……」

    ポツリ、彼が呟く。
    パンパンに背負ったリュックサックの中には、恐らくオレの家に下宿する用の荷物が、パンパンに詰まっているのだろう。

    ギ、と、扉のドアノブに手を掛ける音がする。
    彼が扉を開けば、もう二度とその姿を見ることはないのだろう。朝の凍てつく空気の中にその身を晦ます、そして、二度と会うことはない。

    世界で数少なく、オレの絵を認めてくれる存在が。
    オレの求めていた感想を与えてくれた人間が。
    まともにオレに向き合ってくれるんじゃないか、そう思っていた青年が、いなくなってしまう。

    「……待て!」
    「っ!?」

    オレは、咄嗟にソイツの手首を掴んで、扉に縫い止めた。

    完全に、無意識だった。

    オレは、しばらくこの道を絶っているのに。
    彼を縫い止めても、今更風景画を始める気はないのに。

    なのに、何故オレはこんな子供に縋っているんだ……?

    「ど……どうされました?」
    「いや…」

    いや…なんだ、次に何を言えばいい。繋ぎ止めたはいいものの、上手く言葉が出てこない。自分の気持ちがいまいち整理できていない。
    そして、少しの沈黙の後、彼の弾んだ声が部屋に響いた。

    「もしかして、合格?」
    「へ?」
    「あの、ぼくを呼び止めたのって、その……」

    顔を赤らめて上気しているその姿を見て、オレはなにかただならぬ勘違いをさせたのだと悟った。

    「あの……何が合格ラインか分かりませんが、さっきのはボクを試していたんでしょう?」
    「……え」
    「弟子にするか、しないか。それをテストしていたんでしょう?」

    眩しいのは、外から漏れ出る朝日だけではない。にこにことその笑みを向けられて、オレは息を止めた。
    そうじゃないの?
    だから呼び止めたんじゃないの?
    期待を込めたその目はいたいけで、返す言葉に詰まる。

    「画家を辞めた、ていう嘘で、ボクがどう反応するか見ていたんだ。そういうことですよね?」
    「いやその、だな……オレは、とっくのとうに絵は描かなくなって、だな」
    「そんなあ!ははは、冗談はよしてください」

    その言葉の勢いのままに中途半端に向いた身体を正面に戻そうと、彼が一歩踏み出した。

    「……あっ!」

    すると、手首を掴んでいたせいで、オレは体勢を崩した。思わず手を離し、近くにあった鍵置き用の棚にその手を着いてしまう。すると、カタリという軽い音と共に小さな林檎の彫刻が落ちた。

    あれは、いつの日かに手寂しくてオレ自身がこの手で掘った彫刻。

    トラウマとなりつある風景画は、描くことはおろか見ることさえ嫌気がさしていたと言うのに、それでも創作欲求は止まらなかった。なにかを作りたい。かと言って料理など自分に必要ないし、だからといってその欲を発散せずにはいられない。だからオレはそれを、彫刻という形で、時折発散しては心の揺らぎを抑えていた。

    青年はその彫刻を拾い上げ、オレに差し出した。

    「これ……」
    「すまない」
    「いや…こちらこそ、すみません。ああ、でも……。ボクを試したという他に、こんな意味もあったんでほらすね」
    「?」
    「絵を描かなくなった、ってことは……」

    閃いたような顔でこちらを見るものだから、オレも改まって正面を向く。

    「彫刻作品も作るようになったんだ!だからもう描かなくなった……と、そういうことですね!」
    「…なに!?」
    「いやあ、さっきの話を聞いてどうしたものかと不安になりましたが……、なるほど方向転換のための準備期間だったんだ!へえ、それにしても思い切った決断ですね。風景画から、彫刻家に…。なるほど、そりゃあここ十数年作品が出ないってことも、納得だ!」
    「おい、お前なあ」
    「あなたの作品なら、それが風景画であってもなんであっても大好きですよ。この林檎の彫刻も大変可愛らしくて、なかなか趣がありますし」

    はは、なるほどなるほど!と、想像に華を咲かせる彼は、いよいよオレに見向きもせずあれよあれよと話を進み始めた。

    「……で、どうなんですか」
    「どう、とは」
    「次に世に向けて出す作品は、どういったものなんです?」

    その目に、オレはやはり弱いようで。

    「……まだ構想中だ。オレも、出すなら完璧なものにしたい」

    見栄を張るようについ、嘘を吐いた。

    思ってもないようなことをつい口にしてしまった。
    大馬鹿者め。愚か者め。かつて絵の道を挫折したくせに、なんで舞い戻るような発言をしているんだ。青年の純粋な思慕に感化されて、なんで心が揺れ動いているんだ。

    いや、揺れ動いているのではない。もう、これは完全に、動き始めたのだ。

    「ほ、ほ……本当ですか、またあなたの作品が見れるんですね!!」
    「……あれこれ言っている暇があったら、早くその荷物を下せ」
    「え?」
    「幸いアトリエの中はすっからかんだ。どこか置きたい場所に、そいつをおけ」
    「ピッコロさ…」

    まだ、こんなオレでもなにか出来るかもしれない。

    「そういえばお前、名前は……」
    「ごはん!」
    「言っただろう、来客を持て成すものはなにもないって」

    間抜け顔の新弟子を背に、オレは久々にアトリエを見渡した。

    「……騒々しくなるな」





    弟子の生まれ故郷は、遠い遠い東の国で、おおよそ一月半もかけてこちらまで来たらしい。

    父は奔放な流れ者で、母は大がつくほど心配性な性格……だそうで。
    彼が、家を出てオレの元へ行くのだと母親に切り出した際、まるで一生分の涙を使い切ってしまったんじゃないかと思えるほど泣かれたらしい。彼はそれを押し切ってここまでやって来たという。

    オレは、話の流れと場の勢いで彼を受け入れたものの、どうして良いか分からなかった。
    弟子を取るのは初めてだったからだ。

    だが、悩みこそすれどその姿を彼に見せまい、と、かつての記憶を頼りに平然を装いつつ指導した。

    昔、同胞達が「弟子を取った際はひとつ屋根の下で寝食を共にしながら、描き方や技術を教えていた」という話を思い出して、ひとまずオレは悟飯をアトリエ付きの自宅に泊まらせることにした。このアトリエ兼自宅は平屋建てで、ひとつ屋根の下どころか最低限の居住スペースしかない。

    寝食を共にし、四六時中弟子と共に生活を送る。

    自分の性格上、共同での生活は受け付けないかと思っていたが、意外にもそうではないようで。
    「あの、ベッドは……?」
    「そんなもの、ない。使ったこともない」
    「うへえ、とんだ変わり者だ」
    「文句でもあるなら、自分で毛布でも買ったらどうだ」
    「わ、ごめんなさい!ベッドが欲しい!ベッドで寝たい!一緒に買いに行きましょうよ!」
    「……今度な」

    最初のうちは、寝具もソファもない部屋で、二人床にべたりと寝転んですごしたものだ。

    常に同じ空間で過ごすということに対してなにかしらストレスになる部分はあるだろうと見ていたが、そんな心配はなかった。

    かつては気難しいと言われていたオレだが、芸術の世を辞めて丸くなったのだろうか。
    それとも、ただ純粋に彼と馬が合うというだけなのだろうか。

    描いて、飯を食って、描いて、散歩をして、描いて、本を読んで、描いてはまた飯を食っての繰り返し。そして夜が来れば、寝る。
    そんな日々が繰り返される中、アトリエには彼が買い集めた画材道具や、愛用の道具が増えていった。
    一日の初めにその道具を棚から取り出し、終わりには几帳面にしまう。
    そんな彼の日常生活の一つ一つに、器用さや生活能力の高さが見えた。聞くに、彼は幼い弟がいるという。
    父は国内外色んなところをふらふらと渡り歩いているため、家事は母と彼がやっていたらしい。父が自宅に帰ってくるのは、数年に一度か。良くて年に二度。
    だが悟飯は、そんな父を否定しない。彼ら家族を養うために、各地を出向いているから仕方ないのだ、という。

    「先生、キッチンを使っても?」
    「ああ、構わん好きにしろ。オレは使わんからな。それと……」
    「それと?」
    「その呼び方はやめろ、気に食わん」
    「んん、じゃあピッコロさん?」
    「……ああ」
    「ピッコロさん」
    「用のない呼び掛けはよせ」
    「はあい」

    水しか飲まないオレに対し、彼は人一倍食う。

    アトリエ付きの家を建てた当初はキッチンなど必要ないと思っていたのだが、彼の姿を見ると、あって良かったと思った。
    まったく、食べ盛りの時期だから仕方ないだろうが段々と心配になってくる。彼が買い込む食料費は一体どこから出ているやら。

    「悟飯」
    「はい」
    「……程々にしろよ」
    「あ、ははは。ありがとうございます、なんだか子供扱いされたみたいで恥ずかしいなあ」
    「お前の親になった覚えはない」
    「分かってます。ボクのお師匠様ですもんね」

    師匠、なあ。
    心の中で独りごちって、アトリエに足を向けた。
    悟飯の描いた作品が広がっている。

    油彩に水彩、鉛筆で描かれた数々。
    乾かしている途中の作品もあれば描きかけのものある。投げ出した作品の一つや二つはあるのだろうが、どうやらオレの見えないところに隠してるらしい。
    隅を見遣れば、オレが僅かばかりに着手した小さな彫刻。元々手先は人より器用な自身はあった。
    だから彫刻刀で柔らかい木材を切り出すことは楽しくて、風景画を描いていた頃の楽しさとはまた違った楽しさがあった。

    座れるほどの小さな脚立周りには、切り出した木の粉が落ちている。そろそろ片付けなければ、と、思って床の汚れを掃く。粉がほわりと舞い上がった。

    吸い込んだそれが喉に張り付き、思わずむせてしまう。

    「大丈夫ですか、ピッコロさん」
    「う………。ん、ああ。大丈夫だ、悟飯」
    「ピッコロさん、意外におっちょこちょいなんだね」

    あは、と笑ってオレに近付く。
    身長の差があって、いつもは届かない彼のその手がこの広い背中を摩る。
    じわり、と温かい温度が広がり、思わず目が潤んだ。
    これは、むせたからじゃない。粉が目に入ったからじゃない。
    悟飯が、オレの心に寄り添ったからなんだと思った。



    最初の半年は、師匠らしいことは一度もしなかった。
    ただ隣で作品が完成するのを見て、請われれば講評をする。本当に、それだけ。
    幸い、講評会に出ていた経験や各地の学校に赴き講評をしていた経験があったため、やれと言われれば進んで述べた。が、なにせ口下手なもので、それが師匠らしいこかと問われれば、なにも言えない。

    日中はアトリエで好きなだけ絵を描かせ、外に赴きたいと願い出されば言う通りにしてやった。
    付いてきて欲しい、と上目遣いで言われれば、若干渋ったが師匠として許諾した。
    だがそこでもオレはなにもすることなく、ただただ彼の筆先に色が乗るさまを見ているだけだった。

    彼の描く風景画を見ていた。
    時間に追われることもなく、特に急ぐこともなく、悠々とした時を過ごす。修行に来るというよりは、ホームステイしながらこちらの国の生活を学んでいるといった方が、合っているのかもしれない。

    技術の教示や批評にて師弟の関係性を感じさせることはあれど、これではまるでただの同居人だ。

    彼が料理をする度、何もなかったキッチンに物が増えていった。
    慣れない料理を彼に振舞ってやる頻度が増えた。
    描くこともなくなって放置されていた寂しいアトリエに、画材やキャンバスや汚れが増えていった。
    彼が買ってくる意味のないインテリアが増えた。
    ソファが届いた。
    机が届いた。
    二つの寝具が届いた。
    彼が読む用の本や本棚が増えた。
    服が増えた。それに付随して使わなかった空き部屋が洋服部屋になった。
    アウトドアな彼に連れられて、久しぶりに遠い国へ行ったこともあった。
    見たこともない乗り物に乗らされて、空を飛んだことも、速い船に乗って海を渡ったこともあった。
    たまに故郷が恋しくなって悲しくなる彼に請われ、寝具を共にすることもあった。
    人の温かさを感じたのは、これが生まれて初めてだった。



    そんな彼とよく行くのは、アトリエから歩いて二十分足らずの山の上だった。
    ちょっとした住宅地を抜け、傾斜を歩き続けると見晴らしの良い丘がある。

    オレは、この景色が好きだった。
    好きだから、この町にアトリエを建てた。
    当時の同胞たちには、お前くらい有名人ならば城下町に住めばいいのにと言われた。が、オレの意思は揺れることなくここを選んだ。
    元来、人が多いところは好きではないのだ。
    これくらい田舎で、緑が多い方がいい。

    「ピッコロさん、こんな澄んだ場所があったんですねえ」
    「そうだろう」
    「こちらの国は先進的で、ありのままの自然は見れないかと思っていましたが。案外、そうでもないんですね……」
    「他は段々と人の手が加わってきているからな。こんな景色が見られるのは、この丘だけだろう」
    「……ああ、故郷にそっくりだ」

    悟飯を初めてここへ連れてきた時、そんなことを言われた。
    故郷が恋しい彼にとって、美しい記憶を呼び起こす気色だったのだろう。

    「緑が映えていて、空が高くて、雲が生きてるね、ピッコロさん」

    当たる陽の角度は先程と変わらないのに、悟飯のその目に光が灯った。吐く息がふるふると震える。
    くしゃりと眉を下げて笑うと、彼の瞳に水の膜が張った。
    あ、と思うと、その目頭からひとつ光を含んだ涙の筋が生まれる。それを皮切りに、彼の目からぼろぼろと溢れ出す。

    「……悟飯」

    どうすればよいものかわからず、そっと彼の目に人差し指を当てて涙を掬った。
    長いまつ毛はぴくりと動いた。

    人の顔に初めて触れた。

    彼の赤い目元。己の指先が溶けて、吸い取られてしまいそうなほど温かい。手や足や胸の温度とはまた違った、熱。
    悟飯はオレの手に顔を擦り寄せ、子供のようにこの胸に飛び込んできた。
    胸に移る、熱。
    オレは、そんな熱の逃し方が分からなかった。

    どうすればいいのか分からない。だからオレは、オレがしたいことにただただ身を任せ、めいっぱい抱きしめてやった。

    つうつうと流れる涙。オレの胸を濡らす。




    しばらく、風と陽の眩しさと彼の体温に寄り添った。
    ゆっくりと止む涙に別れを告げ、彼が言葉を紡ぐ。

    「そういえば、あなたが描いた風景画に、この景色と同じ作品があったはずです」
    「よく知っているな。確か四季の移ろいを描いた作品で……。ええと、題名は……。すまん、確かに出した気はするんだが、忘れてしまった」
    「いいえ。いいんです。何百点と描いていれば、ひとつやふたつくらい、忘れてしまうでしょうから……」
    「……こんなオレに、失望するか?」
    「…?」
    「いや、なんでもない」

    悟飯は、まるでオレを慰めるかのように肩に寄り添った。
    無言で、なにも言わず、ただ体温を分かち合う。

    この関係が師弟かと問われたら、素直に首を縦に振ることができるだろうか。
    果たして、自信を持って答えられるだろうか。

    彼に、絵とはなんたるかを教えるはずが、逆に教えられているのだ。慰められているのだ。鼓舞されているのだ。そんな師など、みっともなくて仕方ない。

    だが不思議と、彼の傍に居れば自ずと、そんな自分自身も受け入れることができるように思えた。

    「題名を忘れても、描いたという事実があるなら、それで十分じゃないですか」
    「十分、など……。付けた名前を忘れる、そんな無責任な画家のどこがいいというんだ」
    「見てもらうものを世の中に出すってすごいことだと思うし、責任がなきゃ出来ないです。ピッコロさんは無責任なんかじゃないよ」
    「オレを讃するのはよせ」
    「……本当に、あなたが好きなんだけれど」

    悩ましげな顔で首を傾げて、彼は再び空を見遣った。

    作品の名前すら忘れてしまう人間など画才でもなんでもないただの人間だと言うのに。そんな人間の作品を、彼は何度だって美しいという。

    「幼い頃父に連れられて、個展でその作品を見ました。幼い頃の自分は、ああ、ボクの住む山の景色とそっくりだ、と思ったのを覚えています。ふふ、単純な感想なんですけれどね」
    「そう、か」
    「だからあなたの出した作品も、題名も、そして感性も全てが好きなんです」
    「まだ言い足りないのか」
    「あは。まあね。あのね、ピッコロさんにこの場所を誘って貰えて、本当に良かったよ」
    「……ふん」

    未だ水分の残る目は、陽の光に照らされて煌々としていた。
    オレはその光の美しさにつられて、顔を上げた。

    短い草の生える丘の、清々した青空。
    青というよりは、眩しさのあまり白飛びして見える。草木や飛ぶ鳥。目に映る全てに白があり、黒が潜んでいる。色相と明度と彩度。
    彼は早速、トラベル用の水彩パレットを鞄から出して筆を動かし始めた。

    なにかを描く、ということは、果てしない組み合わせの中にある色を選び抜いて、空白の中に色を落とすということ。
    天文学的数字から選んだ色を使って、天文学的数字のパターンから選んだ座標に筆を置き、ひとつとしてない形の、空間を作り上げる。

    何故オレは、こんなことさえ辞めてしまったのだろうか。
    何故、あの日から色が分からなくなってしまったのだろうか。明暗の中の、暗しか分からなくなってしまった今の心の中は、炭で真っ黒に描き殴ったみたいだ。そんなのだから、赤や青や黄など分かるはずがない。

    それなのに、お前は自由のままに色を乗せる。

    「やっぱり、あなたと出会えて本当に良かった」

    思わず息を飲んで、彼に視線をずらす。
    聞こえるか聞こえないかの声量で呟いた言葉には、熱い気持ちが含まれていたように感じた。

    最後に、と言ったくせにまだオレへの云々を言うのかと文句を言いそうになった。が、恐らくその声のトーンは、俺に聞かせるというよりも独り言という意味合いの方が大きいのだろう。

    トラベル用の水彩パレットには、オレが見たこともないくらい美しい景色の風景がある。彼には、この風景がこう見えているのか。

    文句を言う代わりに、彼から再び視線を前に戻して景色を見た。
    世界がいくら黒ずんで見えてしまっても、その丘からの景色は昔と変わらず美しかった。

    彼と共にいるなら、尚のこと。





    また別の日は、彼の要求で海に出かけていた。

    普段街中では嗅ぐことのない磯の香りと潮風がベタついて、少しだけ眉が寄る。

    「わあ、綺麗。ピッコロさん、見て」
    「ああ」
    「辺り一面海だらけ!ボク、海を見たのはここへ来た時以来ですよ!」

    彼は防波堤に座って、鞄を漁った。
    鉛筆とトラベル用の水彩パレットを取り出し、前のめりになる。

    「描くのか」
    「ええ。描かないと、いつかこの景色を忘れてしまうから」
    「だが、お前はいつの日か言っていたじゃないか。描いたという事実があればいい、って」
    「それは、人様に向ける作品に対してです。ボクのこれは、作品なんかじゃないんですよ」
    「じゃあ、なんだ」
    「……内緒」

    あは、と声を出して笑うと、彼は再び真正面に向き直った。その瞳には青い海が映えている。

    夢中になって筆を動かす彼を見て、それ以上深く尋ねることはなかった。
    オレも、旅行に行けば描くことしか考えず、ただ無心に筆を動かした時代があった気がする。今やはっきりとは覚えていないが、見てくれる者がいるという絶対的自信があったからこそ、描いていたのではないかと思う。あの景色も、あの景色も、全てオレの作品にしてやる。そういった自信が、己を奮い立たせていた。

    何故そこまで、自分の作品に自信を持てたのだろうか。そして何故、あの時挫折の道を選んだのだろうか。

    挫折し、その道から抜け出したとしても、それは決して近道にはならないというのに。
    外れたレーンは人生の頂から遠ざかり、苦難と後悔の道が続くだけだ。それなのに何故オレは、描くことを辞めてしまったのだろう。何故、描けなくなる程に落ちぶれてしまったのだろうか。

    本当に時折、そんな後悔の波が押し寄せてくるのだ。
    だからオレは、そんなオレに目を背けて彼に問う。

    「楽しいか」
    「え」
    「描くことは、楽しいか」

    彼が顔を上げた。
    だが振り返らずに、そのまま言葉を紡ぐ。

    「……ええ、とても。あなたが教えてくれたんですよ。風景画の素晴らしさや、描くことの楽しさ」

    問えば、いつも決まってこんな言葉が返ってくる。

    屈託のない笑みで向けてくるその顔は、どこまでも澄んでいて。それは色にも言葉にも、どれにも表わすことのできない独得なものだった。

    その色。その言葉が、地に落ちぶれてしまいそうになるオレを、叱咤してくれる。

    「あなたの作品を見ると、なんとなくあなたがその作品を描いていた心情や背景が分かる気がするんです。あは、本人の前でこんなこというのは恥ずかしいんですが」
    「そう、なのか?」
    「自分じゃ分からない『ものの見方』もあります。ボクだってあなたに講評をいただく時は、なるほどとか、全然分かってないじゃんかって思うこともあるんですよ」
    「ふん、悪かったな」
    「怒らないでくださいよ。批評というものはそういうものだって、ちゃんと弁えていますから」

    しばらくの沈黙の後、彼が熟思して緑の絵の具を水で溶かした。波間の深い影にその色を落とし込む。

    「ともかくお前が楽しそうなら、なによりだ」
    「ふふ」

    聞こえるのは、波の音とその筆がカサカサと鳴る音。オレは生まれつき耳が良かったが、彼の奏でるそれを聞いて初めて、自分にその能力があって良かったと思った。

    ふと、彼が急に話の切り口を変えて言葉を紡いだ。

    「あなたの作品を見た時、衝撃を受けました」

    筆を動かし、海の様子を見ながら話す。目線はこちらに向けられていないが、意識はしっかりと向けられいる。器用なやつ。

    「懲りないな、またその話か。散々話されたが、お前はどうやら話し足りないみたいだな」

    何度だって話せますよ、と、意気揚々に悟飯は語る。

    「会ったことがないのに、いつの間にかあなたしか見えなくなってた。あなたの作品の虜になってた。あなたがどんな感情で作品を描いたのか、とか、どんな生活をしていればこんな風に世界が見えるのか、とか。それだけじゃなくて、この人はどんな人なのかな、とかそればかりが気になってしまって。考え出したら、止まらなくて」
    「ふうん」
    「でも、実際に会ったら想像とはまた違った衝撃があったんです」
    「衝撃…?なにに対してだ」
    「あなたが生き苦しい、みたいな顔をしていたから」
    「オレが……か?」
    「ええ、あの時のあなたは人生に疲労していらっしゃっるように見えたんです。あの、ボクてっきり、あなたに会うまで、あなたは世俗や型に囚われない自由な方なんだ、と。そう思っていましたから」

    彼は、至極真面目な顔つきで。
    しかしよく見てみると眉は顰められていて、曇った顔をしていて。泣きそうな顔をしていた。
    複雑な感情を抱かせてしまっているのは、このオレ。

    「あなたが作るものなら、なんだって好きです。作品にあなたというラベルが付いているからという訳じゃない。作品の間に、あなたの思いや感性が見えるから。でも…」
    「でも……?」

    パタリ、筆が止む。
    鋭い目で捕えられる。

    「…あの時のあなたは、悠々と自由のある姿が見えなかったんです」

    眉や顔つきだけでなく、その目の奥が、悲しんでいるように見えた。

    「ねえ、ピッコロさん」
    「…」
    「彫刻をやろう……だなんて、どうしてそう思ったんですか」
    「……」

    どうしてもなにも、ない。
    思ったことも、当然あるわけない。
    オレは、嘘を吐いてあの場をやり過ごしたのだから。だから、彫刻を始めたことに理由などはない。強いて言うなら、嘘を隠すために続けているに過ぎないのだ。
    嘘がバレれば、失望される。失望されたくない、だから嘘を吐く。吐き続ける。

    「ただ、気が変わっただけだ」
    「…」
    「あの時、お前にも言ったじゃないか。新しいスタイルを模索して、新しい作品を生み出そうとしているって」

    彼はオレの言葉を上手く呑み込めず、顔をしかめている。

    オレはお前に嘘を吐いているんだよ、悟飯。
    彫刻をやるだなんて、あの場限りの言い訳なんだ。
    オレに唯一の希望を見せてくれたお前に、失望されたくなかったから、あんなことを言ったんだ。
    そして、もう一人に対しても嘘を吐いた。
    このオレ自身。
    出来ることなら、これからの人生の中で芸術の欠片ひとつも触れたくなかったのに、オレはオレに嘘をついた。

    「そういう時も、ある」

    胸が痛い。
    つまらない嘘を吐くくらいならいっそのこと、「画家など辞めた」とはっきり言えばよかったのにあ。

    今やオレ達の関係は、あの時オレが吐いた嘘で出来ている。

    「……そう。あの、ええと。彫刻でもなんでもいいから、ピッコロさんの作品、楽しみにしてますね」
    「何年後になるかも分からんぞ。お前が死んだ後に完成するかもしれん」
    「悪い冗談、やめてくださいよ」

    彼がケラケラと笑う。

    なあ、悟飯。
    オレは、その嘘すら現実にできない可能性が高い。
    元画家の風上にも置けないほど、矜恃が廃れきっている。本当はダメだと思っているのに、本当は逃げてはいけないと思っているのに。

    オレは、お前のなんなんだろうか?
    己の芸術に向き合わない師など、もはや師ではない。
    それなのに共にいてくれる理由は、なんだ?
    本当に、オレに憧れているからというだけか?

    オレは、師匠と弟子だけの関係にしたくない。
    なぜなら、このままの関係だといずれ、お前はオレの元から巣立っていってしまうから。そうすれば、二度と会えなくなってしまうかもしれないから。

    だからオレは、いついかなる時でもお前の傍にこうしていられるような、関係になりたい。
    オレが再び苦悩に苦しんだ時に慰めてくれるような、そんな関係になりたい。
    どうすれば、いいと思う?

    草原の上に水彩パレットを置いた彼が、オレの手を取った。

    「あなたには、ボクのようにあなたの作品を愛している人がいるということを、忘れないでください」

    作品だけ?
    そう言いたくなった衝動をぐっと堪えた。

    すると彼の手が、指が、オレの顔にするすると伸ばされた。唇まで触れて、止まる。

    「そして、あなた自身も愛しています」
    「ご、はん……」

    ああ、そうか。オレは、この言葉を欲していたのか。
    オレはずっと作品を誰かに愛して欲しかった。ずっと、温みを欲していた。そして作品だけではなく、このオレ自身を愛して欲しかった。

    こうやって彼からの愛撫を受けて、オレは初めてその欲求を知ったのだ。

    「あなたには敬愛もしてるし、もちろん家族のような愛も感じています。けれど、それだけじゃなく、恋もしてるんです。こんな強欲なボクを、あなたは嫌う?」
    「……意地の悪い問いかけはよせ。そうだな、オレは恋というものをしたことが分からんから何とも言えんが、お前の期待に応えたい、とは思う」
    「じゃあ、師弟関係に加えて、もっと深い関係になりたい…って言ったらどうする?」

    その深い関係、というものは、一体どんなものなのだろう。己が持つ、どんな関係になればいいと思う?、という疑問を解決するものならば、こちらから願いたい。
    小首を傾げ、彼に問う。

    「それは、どういったものだ」
    「互いにずっと一緒にいられる、互いに壁を乗り越えられる。無償に愛を与えあえることができる、そんな関係。……ねえ、恋人になりましょうピッコロさん。世界で一番大切な関係に、なりましょう」

    ずっと、一緒に。
    それが当たり前にできるのが、恋人。悟飯と、恋人。
    彼は、それを望んでくれている。
    オレは、変われるかもしれない。落ちぶれた画家という、転落人生から、立ち上がれるかもしれない。

    「ボクはあなたと一緒にいたい」
    「……それで人生が変わるというのなら」
    「ええ、変えてあげますよ。変えさせてください、ボクの人生と引き換えに」
    「ふふ、バカ。重すぎるわ」

    笑うオレの頬をするりと撫でる指。
    その体温が心地よくて、オレは泣きそうになった。
    その指先に身を任せるように、目を閉じる。

    それを合図と受け取ったのか、彼は指を当てた唇に、唇を這わせた。

    ち、と水音がする。

    「これからも、よろしくお願いします。ボクのお師匠様、ボクの愛しい恋人」

    今や自分の風景画を見ることも触ることもなくなったが、彼が言うのならオレの作品も悪くはないのかもしれない。
    今や自分の人生を悔やむしかなかったが、彼が言うのならオレの人生も変えられるかもしれない。

    未来を恨んでばかりいたが、ここで初めて、明日のことを思うのも悪くはない、と思えてきた。

    「ふふ、二人でいろんな所に行きましょう。色んな世界を見に行きましょうね」
    「世界の広さを舐めるなよ、本当に人生分の時間がかかるぞ」
    「うへえ、経験してる人の言葉って説得力あるなあ。まあ、それでもボクはあなたと世界を人生かけて巡れるというのなら、本望ですよ」
    「大袈裟すぎるぞ……」
    「あは!」

    ひとしきり笑った後、再び唇を押し付けてきた悟飯の目は潤んでいた。
    その目に映るオレもまた、然り。

    もっと沢山、遠い国へ行ってみたいと思った。
    今までよりももっともっと遠く、もっともっと未開拓の地へ。
    かつて世界を旅した画家であったが、今や昔の記憶など朧気な記憶だ。
    異国の宮殿に呼ばれて、風景画を描けと言われたことがあった気がする。街を放浪していると、教会から声が掛かり絵を描いた気もする。そのどれもが称賛を受け、人々の記憶になった。
    今更そんな作品見る気もないが、いつか思い出した頃に彼と共に自分の作品を巡る旅に出ても良いだろう。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works