ハイノイサンプル——話がしたい、今夜時間はあるだろうか。
重力区画の床にカツカツと靴の音を響かせながら、昼食を終えたノイマンに声をかけたハインラインの言葉だ。仕事の話ならば勤務中にするだろう。では何かプライベートに関することだろうか。まだ昼休みの時間はあるから、今からでも構わないとノイマンが提案するも、ハインラインの返事はノー。では、自分が部屋に伺う。上官に足を運ばせるなんてとノイマンが言っても、それもダメだと言う。結局ハインラインに押し切られ、時間を取り決めてその場は解散した。一体何だろうかとノイマンの頭には疑問符が浮かんだが、まあいいかと思考を切り替える。どうせ時間になれば分かることだ。今は本の続きを読もう。そう考えて、割り当てられた自室へと再び歩き出した。
夜。少しばかりの残業後、レクリエーションルームで三十分程の短編映画の鑑賞会に参加。ピークを過ぎた辺りの食堂で相席したシンと夕食のカレーに舌鼓を打ち、ノイマンは急いで自室へと戻った。約束の時間まで後十分を切っている。何かトラブルでもない限り、ハインラインが時間に遅れることは恐らくないだろう。時間ぴったりか、少し早い来訪が予想される。食堂でつい話し込んでしまった。手早くシーツのシワを伸ばし、床のゴミをチェックする。持ち込んでいる私物は少ないし、日頃から汚すような使い方をしている訳ではないので部屋はいつもそれなりにきれいなはずだが、念のため。そういえば、飲み物なんか準備した方がよかったんだろうか。やっすいティーバッグのお茶か、レクリエーションルームの誰でも飲める飲料くらいしか出せないが、などとノイマンは考える。そうこうしているうちに、扉の向こう、インターホン越しに来訪者の声がした。想像どおり、約束の時間ぴったりにノイマンを訪ねたハインラインは、交戦中やはたまた怒号を飛ばしているときとも異なる硬い雰囲気を纏っている。部屋へ一歩踏み入るなり、「夕食はカレーだったか?」などとハインラインが言うものだから、ノイマンはぽかんとした後、慌てて口を隠した。
「も、申し訳ありません、まだ歯を磨けていなくて。匂いましたか?」
そんな様子のノイマンにハインラインも一度不思議そうな顔をしたが、すぐに否定の言葉を口にした。
「いや、交代の連中が、今夜はカレーだと騒いでいたが、カレーパンの可能性も否定できないだろう。ただの確認だ」
「え?ああ、そうです、ね?」
ノイマンには会話のチョイスがよくわからなかったが、一つ判明したことは、ハインラインがまだ夕食を取っていないということだ。今日はハインラインとノイマンは同じシフトで、ハインラインは定時で交代していた。何度か食事をともにしたこともあるから、ハインラインが殊更少食であるとか、そういう事情がないこともノイマンは知っている。昼食から何時間も経過しており、通常であればとっくに空腹になっているはずだ。軍人は体が資本。ノイマンは一刻も早くハインラインに食事を取ってもらうため、本題へ急いだ。
「あの、どうぞ掛けてください」
一先ず、上官を立たせっ放しにする訳にはいかないとイスを勧めるが、
「いや、このままで構わない。すぐに済む」
とハインラインに断られてしまった。では、とノイマンが
「私にお話があるとのことですが」
と声を掛けても
「ああ」
と言ったきり黙り込んでしまう始末。向かい合った立ち尽くすこと三十秒ばかりだろうか。ノイマンが再び口を開くより先に沈黙を破ったのはハインラインだった。
「ノイマン中尉」
「は、はい」
ハインラインは一度視線を下に向け小さく深呼吸をすると、意を決したようにノイマンと見つめ合った。そして——。
「ノイマン中尉、あなたが好きだ!僕とお付き合いして欲しい!」
「へあ!?」
突然のハインラインの告白に、ノイマンは素っ頓狂な声をあげた。好き。好き?彼のことは嫌いではない。では好きなのか?わからない。とになく何か返事をしなくてはいけない。
「あの、」
「あああああ!待って!まだ振らないでくれ!気持ち悪いと思われることは百も承知だがせめて一月、さん、半年、いや三ヶ月!三ヶ月でいいからお試し期間が欲しい!」
「た、大尉?」
如何なるときでも冷静さを欠かした姿を見せたことのないハインラインの、初めて見る取り乱した姿。ノイマンが止める間もなく、この通りだと土下座まで始めてしまった。生土下座なんて初めて見たなあと呆けていたノイマンだったが、ふぅとを息を吐いて、未だ頭を伏せたままのハインラインの傍にしゃがみ込む。
「大尉」
ビクリと、ハインラインの方が揺れた。判決を待つ被告人とはこんな気持ちなのだろうか。この後ノイマンが何と発するかで、ハインラインが天に登るかどん底に叩きのめされるかが決まるのだ。
「振られる前提だったんですか?」
「……ひ、人の心は、わからない」
上擦った声のハインラインの返答に、ノイマンは、確かになあ、と一人で何か納得した様子をしている。そして一つ頷くと、ハインラインの望む言葉を唇に乗せた。
「わかりました、大尉。俺でよければ、よろしくお願いします」
ノイマンの言葉を聞いた瞬間、ハインラインが勢いよく顔を上げ、驚愕の表情をノイマンへと向けた。嘘ではないか。幻聴ではないか。だってこんなの、都合が良すぎる。
「ほ、本当か?」
「本当ですよ。嘘でも幻聴でもないですから。ほら、起きてください。細かいことはまた明日決めることにして、早く食堂に行ってください。夕飯、まだですよね」
ああ、と感嘆の息を漏らしたハインラインは、差し出されたノイマンの手を取って立ち上がった。ふわふわと夢心地のハインラインだったが、グウと鳴った自身の腹の音で現実へと引き戻される。好いた相手に腹の虫を聞かれて羞恥が襲い、今度はハインラインが口を隠した。
「すまない。安心したら腹が減った。さっきまでは緊張でそれどころではなくてだな」
とにかく、とハインラインが触れたままの手を強く握る。
「至らないところもあると思うが、よろしく、頼む。ええと、……おや、すみ」
ハインラインはそう言うと、名残惜しそうに手を離して部屋から出て行った。このまま食堂へ向かうのだろう。残されたノイマンは、ハインライン大尉も緊張するんだなあと思いながら、まだ温もりの残る手をぼんやりと見つめていた。