酒にまつわるあれやこれ「……あ、酒が切れた」
それは最近少し定着しつつあるネロの部屋での晩酌のとき。そろそろ次の酒を、としゃがみこんで棚を開けたネロの呟いた声がファウストの耳に届いた。
「もうないのか」
「最近任務が多くて酒の補充するの忘れてたからなあ……」
いい具合に盛り上がってきた矢先の悲報に、思いの外沈んだ声が出てしまった。もしかしたら自覚しているよりも酔いが回っているかもしれない。ネロが手ぶらでファウストの元へ戻ってくる。そして、くくっと喉を鳴らして笑った。
「そんな顔すんなよ、先生」
「そんなってどんな顔だ」
「おもちゃ取り上げられたような顔」
「適当言うんじゃない。……どうする。お開きにするか」
側に立ったネロを窺うように椅子に腰掛けたまま見上げる。名残惜しい気もするが飲む酒がないんじゃ仕方ない。
それにしても、とファウストは考える。晩酌は個人で楽しむものと思ってた自分がまさか他人との晩酌の終わりを名残惜しいと感じるとは思わなかった。人生なにがあるか分からないものだ。
ネロがテーブルの端に軽く後ろ手をついて寄りかかる。東のしがない料理人という話だが、それにしてはたまに見せる行儀の悪いポーズがいちいち妙にしっくりくる男だ。
「先生んとこに酒ある?」
「いや。あいにく僕の部屋にもない」
「マジか。うーん、このままお開きってのもなんか締まり悪いよな」
「それは同感だがどうする気だ。シャイロックのところから1本譲ってもらうか?」
あのバーの店主なら含みのある笑みを浮かべながら快諾してくれるだろう。だがネロは思案するように顎に指を当てて、それから首を横に振った。
「いや、他にアテがある。先生ちょっと付き合ってくれる?」
「構わないが……」
全く見当がつかないが誘われるまま部屋を出るネロについていく。
ネロの部屋は魔法舎の3階にある。魔法舎のちょうど真ん中の階にあるためかここに住む魔法使いたちは小腹が空くとネロの部屋のドアを叩きがちだ。時にはお腹がすいて目を覚ましてしまった子どもたちを快く。時には甘いものを欲して突撃してくる魔法使いにため息をつきながら。人付き合いは好きじゃないと言いながら受け入れる姿勢にはほとほと呆れる。ネロは「長生きには諦めが肝心」と笑っていたけれど長く生きるからこそ譲れない部分があるのではないかとファウストは思う。
そういえば。ネロがはっきり面と向かって嫌だと言う男がいたな、と例外に思い当たる。頻繁につまみ食いをしてはネロを怒らせて追いかけ回されている男。よくもまあ毎度毎度飽きずにやるものだと思う。する方も、追いかけ回す方も。
「どこに行く気なんだ?」
階段を上がり、4階へ。さらに上がって5階へ。ここには北出身である面々しか住んでおらずあまり縁はないはずだがネロは迷いなく廊下を進んでいく。ここまで来てようやくファウストは悪い予感がした。酔いだけではない頭の痛さにくらりとする。慌てて先導するネロの肩を掴もうとした。
「おい、ネロ――。」
「着いたぞ先生」
「は?」
ファウストが捕まえるよりも先にネロがぴたりと立ち止まる。その前にあった扉は。
「ブラッドリーの部屋じゃないか」
確かにあの大食らいの男なら酒も部屋に揃えてあるだろう。だが今日、ブラッドリーはあの厄介な厄災の傷で魔法舎から何処かへ飛ばされていたので不在のはずだ。夕食時にも姿が見えなかったのでネロもそれは知っているはず。浮かんだファウストの疑問に勘づいたのかネロが口を開く。
「そ。たまーに飛ばされた先から酒もらって持って帰ってきてるだろ」
「まさか忍び込んで盗む気か」
「ちょ、先生声がでかい。ちょっと拝借するだけだよ」
後でちゃんと言うって、とネロはへらりと笑った。が、普通に考えて北の盗賊団の首領であった男が自分のものを盗まれて事後報告で簡単に許すとは思えない。さては酔っ払って血迷ったのだろうか。
「アドノディス・オムニス」
突然ネロがドアノブに手をかざして呪文を唱えた。ほのかにネロの魔法陣が浮かび上がる。だが、おそらく魔法によって施錠され結界が施されているのであろう。ネロのものに対峙するようにしてブラッドリーの魔法陣が浮かび上がった。当たり前だ。北の連中が自分の縄張りそのものである自室など易々と踏み入れさせるわけがない。
「ほら見ろ。入れるわけが――」
そう言ってファウストが踵を返した瞬間。
――ガチャ。
背後からドアノブが回る音が聞こえた。
「は?」
「よし、開いた。先生も来なよ」
目を見開くファウストをよそにネロがドアノブを掴んで遠慮なく扉を開けた。そして体を滑り込ませこちらを手招く。まるで、自分の部屋に招くような気安さだ。この男、以前にした忠告を綺麗さっぱり忘れたんじゃないだろうな。ファウストは驚きと呆れと綯い交ぜになりながらも入り口に近寄った。さすがに無遠慮に立ち入る気にはなれなくて入り口に寄りかかり、ずかずかと入っていくネロに後ろから制止の声を掛ける。
「まて。ブラッドリーの結界が張ってあっただろう。どうしたんだ」
ド直球に疑問を投げかけるとネロはバツが悪そうに頭を搔いた。色素の薄い水色の髪がわずかに乱れる。
「あー、ほら俺とあいつの呪文って似てるからさ。テキトーにやったらたまたま開いたんだよ」
「似てるからって……」
「それより先生、どれがいい? あ、このヴィンテージワインとか好みに合いそう」
そんなわけあるかと続けようとした言葉を遮るように話題を変えられてしまった。ネロはこちらを振り向かないままワインセラーから取り出した瓶を片手で掲げる。……色々と突っ込みたいところだがここは誤魔化されてやろう。
ファウストはラベルにさっと目を通した。さすがは北の盗賊団の頭領のコレクションと言ったところだろうか。市場に並んでいればかなり値が張りそうな年代物だ。突如現れた荒々しい見た目の魔法使いに貢ぎ物として差し出す羽目になった人間には少し同情する。
「……はあ、僕は責任取らないからな。何か言われたら迷わず君を差し出すぞ」
「はいはい。大丈夫だって、ブラッドだから」
「信じるからな」
そのたまに出る『ブラッドリーだから』というあの男に対する曇りのない信頼はなんなんだ、と思わなくもないが、おそらく自覚のない発言だから不用意につつかないでおくのが懸命な判断だろう。蛇が出たら困る。
ネロの隣にしゃがみこんで棚の中身を物色する。ガラスケースの中に丁寧に飾られている銘柄はどれもこれもセンスがいいものばかりで思わず感嘆の声が漏れた。手には取らず何本か眺めていると隣から「おっ」と声が上がった。
「これ、俺のお気に入りだ」
「どれ」
「これ」
ネロが指差して見せたのは暗がりの中でも黄金色に輝く蜂蜜酒だった。差し出されたものを手に取ってラベルに目を凝らす。どうやら北の国で作られた物らしい。寒さの厳しい北の国では身体を内から温めることができる酒は重宝されると聞く。甘いものなら尚更だろう。
「昔に人から貰ったことがあるんだよ。まだ酒の善し悪しも分かんない頃にさ」
過去に思いを馳せているのかネロは軽く目を細め、それから両の瞼をゆるく伏せた。そしてぽつぽつと語り始める。
「今は舌も肥えたし、色んな思い出もあって特に好きな酒のひとつだけど、当時はなんで価値もわかんない俺にくれたのか理解できなかったな。特別手柄を立てた訳でもねえのに」
その声色はどこか自嘲めいた空気を孕んでいるようにファウストには聞こえた。手元のものをもう一度ネロに押し付けるようにして受け取らせる。ネロはぱちくりと目を瞬かせた。
「そいつがどういう人物なのかは知らないが、君にあげたいと思ったからあげたんだろう。それ以上もそれ以下もないよ」
率直に抱いた感想を述べるとネロは眉を下げて苦笑した。ラベルをじっと蜂蜜色の瞳で見つめゆっくりと指でなぞる。そのどこか愛おしげな動作を眺めながらファウストは唐突にあることに気付いた。だが、あえて口には出さなかった。
「ははっ。先生みたいに考えられるのは羨ましいよ。俺は何に対しても自分がそれに見合う価値があるのか考えちまう」
「難儀な性格だな」
「まったくだよ」
ネロは徐に立ち上がり、床についていた膝を軽く片手で払った。ファウストも静かにそれに倣う。ネロは重くなった空気を振り払うように大きく伸びをした。
「選んでる間に酔いが醒めちまったな。これ、持って帰って部屋で飲み直そうぜ」
「賛成だ。いつ部屋の主が帰ってくるかも分からないしな」
「そういやそうだった」
「念を押すが僕は一切責任を取らないからな」
「分かったって……」
二人は微笑み合い軽口を叩きながらブラッドリーの部屋を後にした。夜はまだ続く。
*****
翌日。ファウストは昨晩の余韻に目を擦りながら食堂に向かった。きっともうネロは起きているのだろう。そういうところの責任感は強い男だ。
手前の廊下でファウストはひとつ違和感を覚えた。最近は朝食を皆が揃う場で取るようにしている。そしていつも、西や中央の面々の賑やかな声が扉を開ける前から聞こえてくるのだが今日は聞こえてこない。どうやらほかの面々より一足遅かったようだ。一人だけなら久しぶりに静かに食事ができて少し好都合だ。そう思いながらゆっくりと重い扉を開けた。
「お、東の呪い屋じゃねえか。お前も今から飯か?」
惜しくも予想は裏切られ、そこには昨日お邪魔した部屋の主がいた。長旅で疲れているのだろう、椅子に身体を投げ出すように座っている。
「ブラッドリー。帰ってきていたのか」
「ああ、ついさっきな。ほんっと勘弁してほしいぜ、この傷。ったくよー」
「お気の毒様だな。……ネロは?」
「キッチンにいる。肉を頼んだからまだ時間がかかってるんだろ」
「そう」
ファウストは迷った。今から顔を出して追加で料理を頼むのは迷惑だろうか。おそらく彼のことだから軽く引き受けてくれるだろうが、自分と同じく深酒した身だと思うと気が引ける。どうしたものかと考えあぐねていると近くから居心地の悪い視線を感じた。視線を移すと口の端を上げたブラッドリーがこちらを見ていた。
「……なんだ」
「昨日の酒は美味かったか?」
「!」
「ははっ、そんな警戒すんなって。別に取って食ったりしねえよ。どうせ酔っ払ったあいつが言い出したんだろ」
反射的に飛び上がった肩からゆっくり力を抜く。静かに息を吐いて早まった鼓動を宥める。
「……ああ。勝手に頂いてすまなかったが美味しかったよ」
「そりゃ何より」
意外と、というかなんというか。本当に気にしたふうもなくブラッドリーはひらひらと手を振った。あの時のネロの言葉をそっくりそのまま信じたわけではない。北の魔法使いは基本的に野蛮でいつ爆発するとも知れない爆弾のような存在だ。しかし、ブラッドリーは他と比べて理性的な相手なのかもしれない。少なくとも今は。
「僕が言うのもなんだが、怒らないのか」
「まあな。だってあれは元々……いやなんでもねえ」
ブラッドリーは一瞬苦虫を噛み潰したような顔をした。だがすぐに元の勝気な表情に戻る。
そういえば。あのとき気付いて、しかしネロには言わなかったことを声に出す。
「あの酒はネロの瞳と同じ色だったな」
ピク、とブラッドリーの片眉がわずかに動いた。
「そうだったか? 料理人の目なんていちいち覗き込んだことねえよ」
「ネロは昔もらったことがある酒だと言っていた。お気に入りだとも」
「へえ。じゃ、あれを賄賂にすればフライドチキンを大量に作らせられたかもな。惜しいことをした」
よく言う。ファウストは思った。恐らく、あれはネロに持ち帰ったものだろう。と言うのもたまに飛ばされた先から戻ってきたブラッドリーが手土産片手にキッチンへ向かうのを目撃したことがあるからだ。かと言って、そこに賄賂といった下心が含まれるのかはあずかり知らないところではあるが。
「次に持ち帰ってきたらぜひ渡しにいくといい」
「ああ、そうさせてもらう」
ファウストの言葉にブラッドリーはニヤリと口端を吊り上げてキッチンの方をちらりと見た。ファウストも視線を動かして同じ方向を見る。もう十分出来上がっている頃合いだが、まだ料理は運ばれてこない。どのタイミングでネロが現れるのか。ひっそりとファウストは楽しみに思った。