旅行記 この前、風変わりな旅人が来たのさ。
俺んちの店に「ここは小料理店ではないのですか?」ってさ。
馬鹿言っちゃいけないよ。ここは十年も前にやっと貯めた金で買った夢の結晶なんだ。いや、パン屋なんだけどさ。
そしたら、そいつは少し寂しそうに笑ってマフィンを二つ買っていったんだ。
道にでも迷ったのかな。
そいつ? ああ、街の名所を訊いて出ていったよ。小さな街だから大したものはないがね。この街には移動劇団がよく来るんだ。広場を使って、屋台も出て、ちょっとした祭りになる。今は時期じゃないけどね。今度来るといいよ。次は夏かな。
昔ね、この街に悪者たちがいた頃、ひとりで悪者をやっつけちゃった人がいたんだって。でも、そんなの昔話でしょって言ったらお婆ちゃん言ったのよ。あたしが生き証人だよって。髪の毛が長くて、とてもきれいな人だったって。お婆ちゃん一目惚れしたそうよ。ふふふっ。
そう。その人のことを訊いてきた人がいたの。ご友人なんですって。
わたしは側で聞いていて、本当にそんな人がいたら会ってみたいなって思ったのよ。
船? ああ、今日の船はさっき行っちまったよ。こんな時間だから乗客は少なかった。ああ、だがちょっと妙な客がいたな。
え、どんな客か?
……爺さんだよ爺さん。だが、ありゃあ昔は武芸をやっていた爺さんだな。ガタイが良くって、歳の割に背筋がピンとしてる。
何でもよ、旅をしているんだってさ。
古めかしい手帳を持って、次の行き先の話をしてた。けどよ。あんまり古いもんで地図は違うし、掠れて読めねぇところも多いんだ。あんなもん頼りにするより案内本でも買えばいいのになぁ。
そうそう。あの爺さん言ってたんだ。
「席に余裕はありますか。あるのなら、二席買いたいのですが」ってよ。
席が必要なほどの大荷物にも見えなかったんだが、あとから誰かが来るはずだったのかね。そういや、弁当も二つ持っていた。結局一人で乗っていったぜ。
「御老公、お一人か」
帆風と操舵手に船体を任せた隻眼の船長は乗客の老人に話し掛けた。航路に入った船はこのまま何事もなければ潮の流れに乗ってアルビオン領に入る。今日の海ならば心配ない。暇潰しに話をする余裕もあるだろう。中型の帆船だというのに最終便のせいか、乗客は疎ら。こんな日もあるものか、と溜息を吐く。
「ええ、そう……ですね」
木箱に入った魚介の珍味を摘みながら窓の外を眺めていた乗客は船長に視線を寄越す。
「良い船だろう? いつもはもっと客がいるのだが」
「そうでしょうね。造りは古いですが、とても大切に手入れされていることは窺えます」
「ああ。もう部品を取っ換え引っ換え三十年は動いてる。昔、この航路には恐ろしい大海獣がいて難儀してたそうだ。それを小舟と網とでとっ捕まえてきた奇矯な男がいた。この船はその男に肖って……」
「『アラミス号』」
「よく御存知で」
「旅券に書いてありました」
答えに、なるほど、と船長は満足そうに頷き老人に港に着いた後の行き先を尋ねる。
老人は鞄から古い手帳を取り出すとパラパラと頁を捲った。古風な筆記文字が整然と並び、細やかな絵も見える。
「旅行記です。ここに記されている場所を、行ける限り訪ねようか、と」
手帳に注がれる老人の眼差しは穏やかで、懐かしむようで、ここではない何処かを見ているかのように遠かった。
「ふむ。それはなかなか楽しみなことだ。……佳い旅を」
船長は老人に一礼して離れていった。
──建造されたばかりの船は帆を広げた。
風向きは上々。なんとこの船の名は……おっと、これはまた帰った時にでも話そうか。
港町で購入した名物料理を、海を眺めながら味わう。なかなかの珍味だ。日持ちするものではないから君に届けることはできない。
だが、いつか君と二人で……