すこしだけわるいこと 銀の河の横たわる晩夏の夜空の下。蒸れた草の青い匂いの中、立ち並ぶ複数の天幕。見張りの兵が欠伸をしながら見守る、寝静まる野営地。
幕越しに聴こえる夏虫の聲が静寂をより掻き立て、余計に些細な気配にすら過敏になってしまう。たとえば傍らの主人がこちらに視線を注いでいる、そんな気配にも。
「眠れませんか?」
閉じていた目蓋を開け、徐々に闇に慣れた目が輪郭を捉える。大きくはっきりとした碧眼が瞬きもせず、こちらを見ている。
「グロスタ。そちらの寝床に移ってもいいだろうか」
「狭いですよ。寝心地が良くないのでしたら交換いたしましょうか?」
「そういうわけではない」
承知しております、とグロスタは内心に呟く。それでも建前が必要だからはぐらかす。
天幕には二人だけ。
解放軍の盟主であるアレイン王子に、主人は秘密のある方だからと申し入れての待遇だった。だが、今はこの空間を作り出していることをグロスタは少し後悔している。
「……妙なことを言った。すまない」
グロスタが黙っていると主人がそう告げる。
暗がりの中、悄気げた顔をしているのがはっきりと──、見えなくとも判った。
「申し訳ありません、アラミス殿」
主人がグロスタに主従以上の仲を求めてきてから随分と日が経った。友人になりたい、と、はにかんだその人は、以前には見られなかった人懐こさで、グロスタの裡にするりするりと入り込んでくる。
友人、というには些か親密さの閾値を超えているのではないか、と度々感じるのだが、この人はそれを解っているのだろうか。
まるで、妹のようだ。
近頃の主人の様子にグロスタは思う。
妹──。貴族の身でありながら砂漠の若者に恋焦がれ、親族の反対を押し切って嫁いでいった気丈な娘。貴族の子女として慎み深く、従順で大人しいと思っていた妹に想いを通す烈しい一面があるなどとは露知らなかった。恋した相手の前で笑顔が蕩けていく甘やかさがあることも知らなかった。
そんな妹と、傍らの主。
国に民に望まれる理想の王子、飄々としながらも冷淡に世界を俯瞰する傭兵。立場が変わっても常に何かを演じているこの人の破顔を思い出す。
グロスタは溜息を一つ吐くと寝床の端に身体を退き、招くように掛布を開く。
「……どうぞ」
主人の長い睫毛の瞬く音が聞こえた気がした。無機質にすら思える白い顔に嵌め込まれた碧眼を、子どものようにまん丸にしてぱちくりとしている。
「いいのか? グロスタ」
「はい」
妹は頑固だった。
幼少より兄妹に良くしてくれた伯父伯母が「悪い娘だ!」と罵っても毅然と意を示し、自ら家に背を向けて一人荷物を纏めて砂漠へと向かった。
「拒んでもいらっしゃるでしょう?」
「長い付き合いだけあってよく解っているな」
「いえ、変わられました」
人の望むように、そうすべきだから。
そう在り続けた傍らの人が、ささやかな我を通そうとすることにグロスタは僅か笑みを零す。
「さぁ。夏場とはいえ明け方は冷えますから」
促されて主はいそいそと寝床を移った。
「……少しだけ、悪いことをしているようで楽しいな」
グロスタの腕を枕に悪戯っぽく笑う。
自身の表情の甘さをこの人は自覚しているのだろうか。
「今夜だけですよ」
釘を刺しながら、グロスタは腕を預けたこの人が、これからどんな悪事を働くのかと密やかに案じた。