偽物夫婦 ラギーと『結婚』してから、およそ二ヶ月の時が過ぎた。
『結婚』と言っても、大っぴらに公表しているわけではないし、傍から見てわかるような証を身に着けているわけでもない。知っているのは書類の保証人に名前を書いてもらった学園長と、ラギーの勤め先の数人だけ。ブッチという苗字も珍しくないようで、ユウが名乗っても特別反応を返されることはなかった。
紙切れ一枚と、奇妙な約束だけの繋がり。それでもそれなりに穏やかにやってこれたのは、ひとえにラギーとユウが一定の距離を保っていたおかげと言える。
つかず、離れず、踏み込まず。手の届かない不可侵の距離は何とも言えないもどかしさを感じることもあったが、非常に居心地が良かった。他人行儀だからこそ意見も冷静に伝えあえ、礼を述べるのに親しさゆえの抵抗もなく、部屋も役割もきっちり分けていたおかげで衝突はほとんどないに等しかった。かと言って不仲というわけでは決してなく、朝晩の食事は必ず一緒に摂り、たまの休日もなるべく同じ時間を共有することは、二人にとって密かな楽しみになっていた。
友達の延長のような『結婚生活』。字面から想像する華やかさとはまったく無縁の淡白な日々は、新生活に慣れてきたユウに安らぎと、おぼろげな空虚さをもたらし始めていた。
* * *
「…………あ」
朝食の片づけが終わり、掃除をしようとリビングまで戻ってきたユウは、テーブルの上に置きっぱなしになっている風呂敷包みを見て思わず声を上げた。先日買ったばかりのブチ柄の風呂敷に入っているのは、今日のラギーのお昼ご飯だ。
「……先輩、忘れてってる」
今朝は寝坊したと朝食もまともに食べず飛び出していったから、こちらも忘れてしまったのだろう。あの先輩はしっかりしているようでどこか抜けている節がある。いや、抜けているのではなく、せっかち故にたまに雑なのだ。
いつもなら、忘れ物があっても特に何もしない。稀に必要そうなものは連絡を入れることもあるが、大概そのまま何もしなくていいと告げられていた。ラギーも大人だ。お昼ご飯がなければ自分で買い食いをして済ませるだろう。
――だが。
ひょいと包みを持ち上げ、唸ること数秒。
ラギーがプレゼントしてくれたエプロンをさっと椅子に掛けたユウは、鏡を覗き込んで身だしなみを確認し、スマホと財布、それから家の鍵を手に取って、玄関へと向かっていた。
最寄り駅から六駅分、そこから乗り換えてさらに三駅。そして徒歩で進むこと十五分。
夕焼けの草原の中央に位置するスタジアムで、ラギーは始業の時間まで朝練に勤しんでいる――と、聞いていた。実際に行くのは今日が初めてだ。今までは忘れものがあってもスマホで連絡を入れるだけで済ませていたのに、何故だか今日は、行ってみようかと足を向けたい気分になっていた。
大きなスタジアムが見えてくるにつれ、そわそわと気持ちが浮わついてきた。もしかしたら朝練の光景をこっそり覗き見できるかもしれない。ラギーのプレーを生で見るのは学生時代以来だ。一度だけ、ラギーの卒業後の初試合がテレビ中継されると言うのでみんなで観戦こともあったが、その時は神速すぎてカメラが捉えきれず結局あまり姿は見れずに終わっていたので余計に楽しみだった。
近くまで来て、ユウは首が痛くなるほど背の高いスタジアムの外観を見上げた。……さて、どこから入ろう。正面入口から入れてくれるだろうか。関係者口は…ラギーの口添えがなければ無理だろう。いっそ受付や警備員の人に預けて帰ろうかという考えがよぎったが、せめてラギーのプレーを一目見たくてぐるりと周囲を一周することにした。
生い茂った芝生が足元でさくさく鳴る。じりじりと照りつけ始めた太陽に手元のお弁当が心配になったけれど、保冷バッグにしっかり入れてきたからきっと大丈夫だ。もう少しだけと誰にともなく言い訳をして、僅かに足を速めた。
正面入口までたどり着き、ユウはそっと遠くから様子を窺ってみた。人気がなく閑散としていて、入口の扉は開放されている。どうやら貸切にされているわけではないらしい。曲がりなりにも企業のプロチームだというのに不用心だなと苦笑しながら、恐る恐るスタジアムの中に足を踏み入れた。
ナイトレイブンカレッジのコロシアムよりも数倍広い建物だった。硬い床に靴底が擦れる度、キュッキュッと甲高い音が響く。遠くから微かに聞こえる喧騒を頼りに薄暗い廊下を進み、やがてグラウンドからの光が差すガラス扉の前に到着した。
この向こうに、ラギーはいるだろうか。扉を押し開ける前に張り付いて耳を澄ましてみる。確かに誰かの声はするけれど、ちゃんと聞こえない。扉は観覧席の合間の奥まった位置にあるらしく、グラウンド全体も見えない。ぺったりと跡が残りそうなほど顔をくっつけてじっと目を凝らし、好奇心に負けて扉を押し開けた―――その時。
ヒュン!と、目の前を横薙ぎの風と共に黒い影が弾丸よろしく駆け抜けていった。
「後ろガラ空きッスよ!!!」
同時に、いつも聞いている優しい声が鋭い響きで耳をつんざいて、心臓がどくんと跳ねる。咄嗟にその場にしゃがみ込んで、そろそろと壁から目だけを覗かせると、そこには、想像をはるかに超える光景が広がっていた。
「わ、あ……!」
思わず、感嘆の声が漏れた。
空中に箒に乗った複数の人影。チームそれぞれが独自の陣形を組み、縦横無尽にディスクを奪い合う戦場。
ある時は魔法で、あるいは腕力で、はたまた手品のようにすれ違い様にディスクをかすめ取り、攻守が激しく入れ替わる。その中心で、他のメンバーに的確な指示を出しながら動き回っているのは――見覚えのあるハイエナ耳の獣人だった。
(……ラギー、せんぱい)
今までに見たことのない真剣な横顔。箒を巧みに操りながら前線でディスクを取り合い、背後の仲間へパスを渡す。ディスクを運ぶ仲間を庇いながら魔法を展開する様は、騎士の如き勇猛さだった。
学生時代に戦った時よりも、プレイヤーとして格段に成長していた。まだまだ新人の域を出ないと本人は謙遜していたがとんでもない。的確な指示も敵を翻弄するプレーも、他の熟練選手をも圧倒する見事な手際だった。
ディスクは敵チームに渡り、全員がそれを追いかけてユウがいる方向と反対側へ向かっていた。飛び交う選手たちを眺めながら、ふとユウはあることに気が付いた。
(……女の人も、いるんだ)
選手たちの中には、女性の姿も複数あった。ナイトレイブンカレッジが男子校だったため男性選手の印象が根強かったが、考えてみたら当たり前のことだ。マジカルシフトに必要なのは魔法の才覚と如何にしてルールという枠の中で勝利を勝ち取るかという頭脳のみ。そこには性別も体格も人種も、何物も障壁にはなりえない。
ディスクを持った選手がぐっと身をかがめ加速した。追いすがる敵チームの選手たちを振り払い、ぐんぐんゴールに近づいていく。箒の残像を残し、居並ぶ選手たちの合間を間一髪ですり抜けて、あと少しでゴールだと手を伸ばしたところで――突然目の前をよぎった影に、慌てて急停止した。つんのめった箒の上でバランスを取り、再びゴールに向き直った時には――既に、その手にからディスクは奪い去られた後だった。
「シシシッ! おまぬけさんっ!」
すれ違いざまに獲物をかすめ取ったラギーは、指先でディスクをくるんと一回転させて、すぐさま後ろ手にそれを放り投げた。魔力をまとったディスクが、フィールドの真ん中を切り裂いて光の直線を描く。片側で攻防を繰り広げていた選手たちが切り返すよりも先に、薄いディスクが小さなゴールの輪に飛び込んでいった。
瞬間、鋭いホイッスルが晴天に響いた。試合終了を告げる音色に、選手たちの喝采が沸き起こる。最後のゴールを決めたラギーにチームメンバーが殺到して、もみくちゃにされているのが遠くからでも見て取れた。
大柄な選手に頭を掻き回され、少年のようにくしゃりと笑った顔。メンバーと肩を叩き合い、男女問わずハグを交わしていく。――同じチームだったらしい赤毛の女性選手と抱擁を交わす姿を見て、心臓が、どくりと嫌な風に波打った。
あんなの、見たことない。人懐っこいのは知っていたが、ユウが知っているナイトレイブンカレッジでのラギーとは、まったく違う人物に思えた。あんなに警戒心なく他人と触れ合うような人物だっただろうか。――自分はまだ、まともに手を繋いだこともないというのに。
耳鳴りがする。すっと指先から冷えていく感覚。弾けそうな心臓に肺が圧迫されて苦しくなり、胸を内側から叩く鼓動を上から押さえつけた。
ユウが踏み込めない、ラギーが積み上げてきた世界が、そこにはあった。まるで別世界で起こっている出来事のようで、グラウンドでチームメイトに囲まれているラギーとの距離の間に、決して破れない壁が聳えているようだった。
なんだろう、いったいこれは、何なんだろう。言いようのない吐き気が込み上げて口元を押さえた瞬間――ほんの一瞬、ハイエナの耳がこちらを向いて、薄い蒼の瞳が振り返った気がした。
心臓がきゅっと竦みあがり、咄嗟にその場から駆け出す。どくどくと胸を叩く鼓動に急かされるままに、ユウは扉を押し開け廊下を走り、スタジアムの出入口を飛び出していった。
* * *
「ラギー」
無人の観覧席に目を凝らしていたラギーは、同僚の声にハッと我に返った。声のした方に振り向けば、はるか二メートルを超える高みから、同僚のスコットの小さな目が二つ、ラギーをじっと見おろしていた。
「あ、ごめん。何スか?」
「そろそろ戻るぞ。何だ? 誰かいたのか?」
大柄なスコットがぐっと上半身を屈め、目線の高さを合わせてラギーが見ていた方角を睨む。二メートルを超える巨木のような彼の体躯と並ぶと、ラギーはまるで細枝のようだった。マジカルシフトの選手は皆大柄な体格が多いが、彼は群を抜いている。だからこそ、小柄なラギーとセットで攻守を任されることも多い、頼れるチームメイトだった。
「何でもない。行きましょーか」
「ああ」
敷き詰められた芝生を踏みしめてグラウンドの出口へ向かう。ベンチから出てきた赤毛の女性が二人に気づき、手に持っていたペットボトルをラギーに向けて放った。
「はい、ラギーの」
「おー。サンキュ、アニー」
ペットボトルを開けてひとくち呷る。少し温くなった水分が、運動後の体に染みわたっていく。こくりと喉を鳴らしてから顔を戻すと、アニーはまだその場に立ったまま、にやにやと猫のように目を細めてラギーを見つめていた。
「……何スか」
「いーや、アンタがぼーっとするなんて珍しいと思って。いつも一目散に着替えてお先にーってさっさと先に行くじゃない」
「……まぁ、そうだけど」
きゅ、とペットボトルの蓋を固く締め、ラギーは目を逸らしながら語尾を濁らせた。いつもと様子の違うチームメイトに首を傾げながら、しかしスコットもアニーも何も訊ねることはなく、ラギーを促して更衣室へと足を向けた。
チームメイトたちに続きながらラギーは先ほど見た光景を脳裏に浮かべる。一瞬、それも暗がりの後ろ姿だったから自信はないが、髪型と言い背格好と言い、あれはどう見ても、ユウにしか見えなかった。ここ数ヶ月ずっと見ているのだ。見間違うはずがない。
だが、彼女がここまで来るだろうか。自宅からかなり離れているし、今まで来たいと口にしたこともない。更衣室のロッカーを開けて着替えながらスマホも確認したが、何の連絡も来ていない。律義な彼女が連絡もせずに来るというのも考えづらいから、やはり、見間違いだったのだろうか。
そう結論付けてスポーツバッグを開いた瞬間、そこにあるはずの物がないことにラギーはようやく気付いた。先日ユウと一緒に選んだブチ柄の弁当包みが、バッグをひっくり返しても出てこない。今朝の記憶を思い返し、その所在がテーブルの上で終わっていることにたどり着いて、はたとひとつの解答が転がり出てきた。
――もしかして、届けに来てくれたんだろうか。連絡するといらないと言うだろうと、何も言わずに、こんな遠いところまで。
杞憂であればそれでいい。でも、でももし、この予想が当たっていたならば。
「――っ」
「…おい、ラギー!?」
突然荷物をひっくり返したかと思えば今度は乱暴に詰め直し、バッグをしょって風のように飛び出していこうとしたチームメイトをスコットは慌てて呼び止めた。
ラギーはドアノブに手をかけたまま振り返り、扉を押し開けながら叫ぶように告げた。
「ちょっと忘れもの思い出したッス! ごめん、遅刻するって言っといて!」
「え、ちょ、ラギー!?」
再び呼びかけるも、既にラギーはつむじ風のように走り去った後だった。バタバタと駆けていく音が一瞬で遠ざかっていく。スコットは行き場のなくなった右手を下ろし、やれやれと肩を竦めて呟いた。
「……珍しいこともあるもんだな」
仕事熱心で要領がよく、何でもそつなくこなす同僚兼チームメイトの焦った顔を思い出し、スコットの口の端が緩く吊り上がった。
* * *
日はだいぶ高い位置に昇っていた。残暑が色濃い陽の光に焼かれながら、駅までの道をとぼとぼと歩いていく。右手にだらりと下げた弁当箱がひどく重たくて、歩みが牛のように遅くなっていった。
脳裏にはずっと、先ほど見たラギーの笑顔と、チームメイトたちと熱い抱擁を交わす姿がこびりついていた。ユウに見せたことのない、外でのラギーの顔。ここ数ヶ月ラギーとずっと一緒にいたというのに、ユウには関わりのない世界がそこにはあって、まるでのけ者にされてしまったような気分だった。
右手の弁当箱に目を落とす。一緒に選んだブチ柄の風呂敷包み。いいじゃんと笑ってくれた思い出が感情の波にさらわれて輪郭を薄くしていく。
自分は、ラギーのことを何も知らない。数ヶ月一緒に暮らして『結婚』までした仲だと言うのに、彼がどんな仕事をしていて、どんな人と関わって、どんな人生を送っているのか、思い返してみれば、そういったユウに関わりのないことについては、何一つ知らなかった。所詮自分たちはまだ学生時代の先輩と後輩のまま、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ住処を共にしているだけの、進展のない他人のままだった。
そんな当たり前の事実を突きつけられて受け入れられずに落ち込んでいる自分にも、呆れるほどに衝撃を受けた。忙しさにかまけて知ろうともしなかったのはユウ自身だというのに。嘆く資格なんてユウには欠片もない。八つ当たりにも、程がある。
足取りがどんどん重たくなる。いっそここでしゃがみ込んでしまいたかった。だからと言ってどうしたいのかまるで見当がつかなかったけれど、このまま家に帰るのがひどく億劫だった。本当に立ち止まってしまいそうなほど歩みが遅くなり、ふっと足から力が抜けた瞬間――突然、バッグにしまっていたスマホがけたたましい音を立てた。
「え、あ、わ!」
慌ててバッグを漁りスマホを取り出す。電話なんて滅多にかかってくることがないからマナーモードにするのを忘れていた。とりもあえずと画面をひっくり返した途端、目に飛び込んできたのは『ラギー先輩』の五文字だった。
「っ」
通話ボタンを押そうとした指が一瞬止まる。今一番話したくない相手だ。数秒逡巡したユウを急かすように着信音がさらに大きくなる。ユウは観念して息を吐き出し、ぐっと拳を握って通話ボタンを押した。
「はい! 先輩、どうかし」
『ユウくん、いまどこ?』
精一杯普段通りを装った声色が、短い問いに遮られた。焦った早口に心臓が冷える。ユウは懸命に頭を回し、震えた唇を開いた。
「え、あ……い、家です」
『嘘。外の音するッスよ』
「あ、え、ええっと、実はちょっとスーパーまで行ってて…でももう、帰るところですから」
『まァた嘘。ね、本当はこっちまで来てくれてるんじゃないッスか?』
「えっ……と……」
誤魔化し、きれない。多分これは、バレている。スタジアムから去る直前目が合った気がしたあれは、気のせいではなかったらしい。言い淀むユウに痺れを切らしたのか、電話の向こうから鋭い声が急かしてきた。
『で、どこ?』
「……スタジアムの側の、公園のところ、です」
『了解。そこで待ってて』
少しだけ和らいだ声音を最後に、電話が切れた。沈黙したスマホを耳から離して、呆然とその場に立ち尽くす。
待ってて、って、どういうことだろう。まさか、ユウの元までお弁当を取りに来ると言うのだろうか。
慌てて時計を確認すると、もうすぐ始業時間になろうかという頃だった。あのラギーが仕事を放ってユウに構うはずがないとは思ったが、ひとまず待つならばわかりやすい公園の入り口に戻ってベンチにでも座っていようと、ユウは踵を返して来た道を戻ることにした。
* * *
「いやぁ、練習の後で腹減ってたんスよねぇ。ちょうどよかったッス。お昼にって持ってきてくれたのに早弁しちゃって悪いッスね」
「い、いえ」
ユウはラギーと共に公園のベンチに腰掛け、弁当を掻きこむラギーの隣でひたすらに縮こまっていた。息を切らしてユウに追いついたラギーが、そのまま弁当を食べたいから付き合ってほしいとせがんだためだった。
穏やかな日差しの中、散歩をする人がちらほらと行き来している。そんな平和な光景とは裏腹に、ユウは崖っぷちに立たされたような絶望感に打ちひしがれていた。
ラギーは始業時間をずらしてまでユウを優先させたらしい。申し訳なさが津波のように押し寄せて、押しつぶされそうな胸から蚊の鳴くような謝罪が漏れた。
「……ご、ごめんなさい先輩。わざわざここまで来させてしまって……」
「ん? いやいや、持ってきてくれたの嬉しかったッスよ。オレの方こそ、ユウくんがせっかく作ってくれたお弁当、忘れちゃって悪かったッス。……あ、仕事? 大丈夫大丈夫。緊急の要件はなんにもないんで、たまにはいいでしょ」
「………………」
ラギーのフォローも今のユウにはなしのつぶてだった。あの時見つからなければ、そもそも観戦なんてしないで誰かに預けていれば、せめて連絡の一本くらいいれていたら……。何よりも仕事を大事にしているラギーの邪魔をしてしまったという自責の念が、ユウを洪水のように苛んでいた。
俯いてどんどん小さくなるユウを横目で気にしながら、ラギーは綺麗に巻かれた卵焼きを口に運んだ。あっという間に弁当の半分を胃に入れて、ひと息ついた口からぽつりとこぼした。
「オレ、いつもここでユウくんのお弁当食べてるんスよ」
「…ここで…?」
ユウは頭上を見上げた。そよそよと風に揺れる木々の音が鼓膜をくすぐる。木の葉の合間からきらきらした陽の光が降り注いで、ユウはほぅとため息を漏らした。
「そ。仕事中ばたばたして落ち着かないから、ここにきて息抜きしてんの。静かで結構いい穴場でしょ」
「…誰かと食べたりしないんですか?」
「んー、まぁたまには誰かと一緒に食べるけど、基本は一人ッスねぇ。オレ食べるの早いし、他の人とペース合わなくって」
「ああ、なるほど…」
ラギーの言葉にユウは苦笑した。家でもいつもラギーは早々と食べ終わって、ユウがせっせと食事を口に運ぶのを眺めている。いつだったか、ちゃんと味わっていると断ったうえで、もはや癖になっているからどうにもならないと言い訳をしていた。
「――オレのお気に入りの場所、ユウくんにもいつか教えてあげたかったんスよね」
弾んだ声音に振り返ると、ラギーはユウに向かってくしゃりと破顔して、シシッと照れたような笑い声を漏らした。またユウが知らなかった顔を垣間見て、心臓がおかしな音を立てた。
「あ……」
「ごちそーさま。美味しかったッスよ。いつもありがと、ユウくん」
空になった弁当箱が再びブチ柄の風呂敷に包まれて、ひょいとユウの膝に乗せられた。ラギーは伸びをしながら立ち上がり、ユウを見下ろして訊ねた。
「駅まで戻れる? 箒ないんで遅くなるけどあれなら送って」
「い、いえ大丈夫です! 一人で帰れます!」
ユウは慌てて立ち上がって叫ぶように言った。ラギーは「そう?」と小首を傾げ、伸ばしかけた手を戻す。さすがにこれ以上時間を取らせるわけにはいかない。軽くなった弁当包みをしまって、ユウはにっこりと微笑んでみせた。
「お気遣いありがとうございます、先輩。お仕事頑張ってください」
「ん、ありがと。じゃあ気を付けて」
公園の入り口でお互いに手を振ってから背を向ける。駅への道を急ぎながら、ユウはじっと頭の中で思案していた。
ラギーのことを知りたい。いや、知らなくちゃいけない。仮にも夫婦という立場で、ラギーはこんなにも気遣ってくれているのに、知ろうともしないのは失礼だ。知らないくせに勝手にもやもやして落ち込むなんて、八つ当たりどころの話じゃない。
いつまで一緒にいるかはわからないけれど――でも、これからも一緒にいたいと思うなら、知りたいという気持ちは願望というより、もはや義務に近い気がした。
けれど同時に、このままずっとラギーの隣にいてもいいのかという不安がまた首をもたげてきた。家事能力を買われて夫婦というポジションに収まってはいるけれど、やはりあんなすごい先輩の隣にいるには自分は役不足ではないだろうか。知りたいと思うのなら、もう少し対等な立場になりたかった。
まずは、自信をつけよう。そう結論付けたユウは、電車から降りた足を自宅ではなく、少し前まで求人をもとめて練り歩いていた繁華街へと向けたのだった。
* * *
「仕事が見つかった?」
夕食を掻きこむラギーの手が止まり、真ん丸になった青灰色がユウを凝視した。
ユウは努めてにこやかな笑顔を浮かべ、首を傾げるラギーに頷いてみせた。
「はい! ここから十五分くらいのちょっと静かな通りにあるパン屋さんなんですけど、今日表に貼ってある求人を見てたらそのまま面接してくれて。明後日から勤務開始になりました」
「ふぅん……それ、前にオレに持ってきてくれた中にあったやつ?」
「ああいえ、今日見つけたところなので……すみません、せっかく、相談に乗ってもらってたのに、結局一人で勝手に決めちゃって」
「…いーや、ユウくんがそう決めたんなら、オレに口出しする権利はないッスよ。決まってよかったッスね」
一瞬表情を曇らせたラギーは、すぐにいつもの笑みを張り付けて言った。スープをひとくち掬い、ゆっくりと口まで運ぶ。ラギーがレシピを教えた祖母直伝の味は日に日に美味しさを増し、ユウの料理の腕が上がっていることを如実に示していた。
ユウは食事を再開したラギーを見つめながら、慌てて身を乗り出して宣言した。
「も、もちろん、家事の手を抜くつもりはありませんから! そこらへんはご安心を!」
「ユウくんは真面目ちゃんだから心配してないッスよ。でも無理はしないように。いいッスね?」
「……はいっ」
ぴっとスプーンを突き付けられて、ユウはしっかりと首を縦に振った。ラギーはそれに破顔して「ほら、早く食べないと冷めちまうッスよ」と最後のひとくちを掬った。