コンビニエンスハネムーン 梅雨もまだ明けないのに、一週間続いた雨が止んでやっと晴れたと思った途端に猛暑になった。
また夏が来るなぁ、と、松井は桑名の古い和室アパートの畳に頬をつけてぺたりと寝転がったまま思う。
網戸にした窓の外、アパートの裏の川から来る夜風と、目の前のレトロな扇風機からの送風で、エアコンのないこの部屋でも、今はそこまで過ごし難い程ではない。地獄の釜の底、と呼ばれるこの街で、日中はさすがに蒸し風呂のようになってしまうのだけれど。
「松井、僕コンビニにコピーしに行くけど、何か欲しいものある?」
卓袱台の上でせっせとノートの清書をしていた桑名が、エコバッグ代わりのショップバッグにキャンパスノートを突っ込みながらこちらに向かって尋ねる。ちなみにその黒いナイロンのショッパーは、コンビニやらスーパーに行くときに、いつ貰ったのかもわからないくしゃくしゃのレジ袋を提げている桑名を見かねて松井が提供したものだ。松井がよく着ている、かつ、桑名本人は絶対に身につけそうもない綺麗めブランドのショッパーが、ちょっとしたマーキングのつもりだということに、桑名は気付いているのかどうか。
「僕も行く、ちょっと待って」
松井はぴょんと起き上がって、勝手に着ていた桑名の部屋着のハーフパンツを脱いで、自分のスキニーパンツに穿き替える。首元のよれたTシャツも脱いで、そして松井は桑名が大学に行くときに着ているビッグシルエットの黒のTシャツを身につけた。
桑名がそれを見てぷっと吹き出す。
「どうせ着替えるんなら自分の服着なよぉ」
「桑名の服のほうが涼しい」
部屋着のままではたとえ近所のコンビニにでも行かない、という松井の育ちの良さと、そのために躊躇なく他人の洗濯済みの服を奪っている傍若無人ぶりが可愛くて、桑名はしゃらっと答える松井の頭をぽん、と一度撫でた。
「いーい夜風だねぇ」
片手で松井の手を取って歩きながら、機嫌よく桑名は言う。確かに風は気持ち良いけれど、地面はまだ充分に昼間の熱を蓄えていて、軽く握られた手のひらが汗ばんでゆくのが少し落ち着かない。
「コピーって、何のノート?」
繋いだ手から気を逸らすように訊くと、桑名は農学科の専門の講義名を答えた。
「試験対策ノート、講義一回分ずつ輪番でやってるんだ。この授業の伝統らしいよぉ」
合理的だよね、と桑名は笑う。さっきちらりと見たノートは、ところどころにある図解の絵が意外に上手で、また桑名の知らない一面を見たような気がした。桑名のノートはきっと人気があるのだろうな、と思う。
「松井おなか空かない? 何か夜食買って帰ろっか」
桑名の提案に、松井はすぐに乗った。
「いいね。たしか今、期間限定の台湾フェアをやっていたよ」
「そうなんだぁ、松井は何を食べたいの?」
「赤くて辛いやつ」
「それって韓国じゃないん?」
思いもよらないことを言われた、というように松井は目を見開いて「え」と固まる。ずいぶん表情が豊かになったなぁ、と思いながら、桑名は「あるといいねぇ、赤いの」とあやすように言った。気を取り直したように松井が続ける。
「台湾と言えば、桑名は、きっとあれ好きだと思う。芋とか豆とかもち麦の乗った、甘いやつ」
「へぇ、じゃあそれ買ってみようかなぁ」
「僕がマンゴープリンを買うから、半分こしよう」
「…赤くないけどいいんだ?」
揶揄うように顔を覗き込むと、松井は何故か少し照れた顔をして目を逸らした。
「松井といると、知らないものがたくさん食べられて楽しいなぁ」
桑名は歌うように明るい声で言う。
「野菜の品種はたくさん知っているくせに」
この間も、バイト先のイタリアンカフェのデリで売れ残ったパプリカのピクルスを貰って帰ったとき、辛くない赤い唐辛子のことを教わったところだ。松井が好きそうだから今度育ててみようかな、とか言っていたっけ。
「そうなんだけど、それがお洒落な料理になったときのことは、あんまり意識してなかったからねぇ」
嬉しそうに話す桑名に手を引かれながら、桑名といることで世界が広がったのは自分のほうだ、と思う。
「いつか本当に行こうか、台湾」
「いいね、楽しそうだねぇ」
桑名はすぐに答える。今じゃないけれど、多分来月でもないけれど、桑名と交わす「いつか」の言葉は、空虚じゃないところが好きだ。
コンビニに着いて、自然に手を離す。コピー機に向かう桑名と別れてフェアのポップで飾られた冷蔵ケースの前に立った。白い蛍光灯に照らされた色とりどりの、日常にはない食べもの。
不意に、何処にでも行ける気がした。それが、夏に向かう夜の暑さに浮かれたコンビニまでのハネムーンが見せた、ひとときの夢だとしても構わないと思った。
僕たちは、狭い六畳の和室でしかキスをして抱き合うことができない訳じゃない、きっと。これからも君といるのなら。