口直しには紅茶をアズールは珈琲が飲めない。いや、飲めないというのは正確ではない。客の前や、訪問先で出されたときは失礼のない範囲で、さも問題ないという顔で飲んでみせる。しかし、後から猛烈な勢いでジェイドやフロイドしかいないところで、不満を垂れ流すのだ。やれ、苦いだの、飲み物にしては主張が強すぎる、だの、色がそもそも食欲をそそらない、だの、食後は珈琲一択の店は気が利かない、だのと無限に文句が出てくる。そして口直しに寮に戻ってから、必ずジェイドの淹れた紅茶を飲みたがる。
「ジェイド、お願いします」
何を、とは言わない。二人のルーティンだからだ。こういうときには、フロイドには頼まない。フロイドの気分が乗らないと、ごめぇん、茶葉切らしてたーなんて言いながら、最悪また珈琲を出してくる可能性がある。
いつも心得たように頷いて、ジェイドはカップまできちんと温めて、アズールの不満を吹き飛ばすような、とびきりの一杯を淹れる。陸では砂糖無しで珈琲が飲めると大人、という根拠は曖昧だけれど、共通認識として存在する文化があるらしい。でもジェイドは、アズールが一生珈琲が苦手なままならいいな、と思っていた。彼に、さも当然のようにねだられて、紅茶を淹れるのは彼を甘やかすことのできる数少ない機会だった。
だから、ある時、有名な老舗の店で出された珈琲を飲んだアズールが、美味しい!と目を輝かせたのをみて、ジェイドは驚いた。本当に美味しい珈琲を飲むと、味が分かるようになる、とは常々実家のリストランテのシェフ達から言われていたが、なるほど、確かに彼らの言う通りだ、とアズールも納得したのだった。その日から、彼は珈琲を克服した。むしろ、今まで楽しめなかった分、興味津々なようで、カフェメニューの参考にもなるから、と色んなアレンジを試したがった。自分で豆を買って挽いたりして、今度は逆にジェイドが珈琲を振る舞われたりしている。今ではすっかり、ジェイドがアズールのために紅茶を淹れることはなくなっていた。アズールの淹れるこだわりの珈琲は美味しい。しかし、同時に悔しくて苦い味がする。彼は僕の不満を置きざりにして、さっさと大人になってしまいたいらしい。
今日もアズールの部屋で珈琲をご馳走になっている。
「ジェイド、浮かない顔ですね。少し苦味が強かったか。ミルクと砂糖はいりますか?」
僕の不満の原因を味だと勘違いしている鈍いひと。
「いいえ、アズール。結構です」
もう、結構。もう沢山。僕は珈琲はいらない。貴方に紅茶を注ぎたい。大切な僕だけの役割だったのに。絶対に兄弟にとられたりしない、僕だけの。
珈琲を飲み干して、ご馳走様でした、と席を立つ。
「ジェイド」
背後から声が聞こえたので、振り返らないまま立ち止まる。
「ブラックの珈琲も、ストレートの紅茶も8キロカロリー以下なんですよ」
いきなり何を言い出すのか、と思わず振り返ると、はっきりしない声でもごもごとアズールが続きを述べる。
「だから、もう一杯くらい飲んでも、今日の摂取カロリーをオーバーしたりしません。だから、もう一杯付き合え」
おやおや、よくそんな上から目線の誘い方ができますね、貴方は僕の上司か何かですか?と反射的に嫌味を言いそうになるのをぐっと、こらえる。だって、今のはアズールが明らかに僕を引きとめている。
「……もう少し、ゆっくりしていってもいいでしょう。一体僕が何のために、手ずからお前の目の前で豆を挽いて、ゆっくりと時間をかけて蒸らしていると思っているんだ」
「……! アズール、まったく、貴方という人は」
笑うな、とアズールが不服そうな顔をしてみせた。ジェイドは別に滑稽だから、笑ったのではない。幸福で笑ったのだ。
「ふ、ふふ、では今度は僕が紅茶をお持ちしても?」
「……沸かしたお湯を持ってきて、目の前で淹れてくれるなら」
「もちろん、仰せのままに」
口直しの役割は失ったけれど、アズールはちゃんとジェイドを必要としているらしい。アズールが珈琲を自ら淹れるのは自分に対してだけだ、と判明してからは、珈琲に対するジェイドの不満も嘘のようになくなって、ジェイドはアズールの淹れた珈琲を愛するようになった。
大人になった二人が、今度は一緒に選んだ部屋のソファに腰かけて、似たようなやりとりをするようになるのは、また別の話。