スペース用メモ(リスナー用)1、路地裏の奥には秘密が仕舞い込まれている。
2、秘密を食らって商売をするやり手の銀髪の男が営む、薄暗い路地の突き当たりにあるその店は、裏の界隈では密かに有名だった。対価を払いさえすれば、どんな望みも叶えてくれるのだという。
3、人に言えない、後ろ暗い事情を抱える人々が最後に縋りつく場所。
そんな噂を聞きつけて、今日もまた客がその店を訪れる。」
4、ガタガタバタン!と乱暴に扉が開かれる。途端に店内に充満していた芳しい香の匂いが立ち込めたが、客の男はそんなもてなしに気づく余裕はないようだった。
「……っ、はぁっはぁっ……! 頼む、助けてくれ! 追われてるんだ!」
ぱくぱくと口を動かして喘ぐようにその客は言った。服装は乱れ、顔は汚れ、まるで血溜まりを駆け抜けてきたかのように裾が血で汚れている。
5、店の中は、静かだった。他に客はいない。店員の姿も見当たらない。こぽこぽ、と水槽の中で泡立つ空気だけがぬるい静寂を埋めている。ゆらゆらと妖しく揺れる提灯の灯だけでは、店内全てを見渡すことは難しかった。
「……ここにくれば、なんでも願いを叶えてくれると聞いたんだっ。誰か……誰か、いないのか!」
男は暗がりに向かって震える声を張りあげた。
6、「いらっしゃいませ。お待たせいたしました」
店の奥から、胸元までぴっちりと釦を閉じた黒い中華服の男が滑るように現れる。見上げるような長身で、どこにいても目立つほど整った顔立ちなのに、気配が硝子のように薄い。たおやかで上品な佇まいなのに、どこかひやりとしていて氷を連想させた。
「どのようなご用件で?」
柔和な笑顔と落ち着いた声で、冷たい氷水がなみなみと注がれたグラスが載った盆を差し出してくる。息を切らせていた男は、ひっつかむようにしてグラスを煽った。ずっと走りっぱなしで喉が渇いていたからありがたい。よく気が利く店員のようだった。
7、「俺を逃してくれっ、このままじゃ、消されちまう……っ」
「おやおや、随分差し迫った状況のようですね」
「差し迫ってるなんてもんじゃない! やつら、もうすぐそこまで来て……!」
男が言い終わらないうちに、扉がバン!!っと吹き飛ぶようにして破壊された。
「見つけたぞ! ここに逃げ込んでやがったのか!」
柄の悪いガラガラ声と共に一人の男が乗り込んできた。破壊の余韻にパラパラとかつて扉だったものの木屑が散る。
8、「お前ら、全員後ろを向け。言う通りにしろ!」
男が銃を構えて、男と店員に照準を合わせた瞬間、バチィッと音を立てて男の手が何かによって弾かれ、銃を取り落とす。
「なっ……?! なんだ、いま何が起きた?!」
「当店では武器の所持は厳禁となっております」
店員は慌てず騒がす、床に落ちて足元に滑ってきた銃を丁寧に拾い上げた。
「よろしければ、力になりますよ」
9、にっこりと微笑む顔に助けを求めた方の男はぞっとした。店員はこちらと相手とそれぞれに視線を向けている。この問いは、自分にだけ問われているのではない。追手側にも投げかけられているのだ。裏社会に慣れている狡猾な者の立ち居振る舞い方だった。
「な、なんでも! いくらでも支払う! だから、頼む!! 俺を助けてくれ!」
男はなりふり構わず、店員に懐から取り出した札束を握らせた。
「おっと……、先払いですか」
攻め込んできた相手は、怯える男と店員を交互に見てせせら笑った。
「お前……、どういうことに首突っ込んでんのか分かってんのか? 金に目が眩むと碌なことはねぇぞ。悪いことは言わねえから、さっさとそいつをこっちに寄越しな」
「お客様はモノではございません。意志がありますから、はいどうぞ、と勝手にお渡しするわけにはまいりません。そちらへの助力が必要なのであれば、それ相応の誠意ある対価のご提示がなくては。たとえば、そちらが壊した扉を弁償いただく、とか」
「馬鹿が。んなもん、意味ねぇよ。どうせこの店は今から全部ぶっ潰れるんだからよぉ……!」
男は、二丁目の銃を取り出すと今度は威嚇するかのように、店員のすぐそばの水槽を破壊した。
10、優雅に水中を舞っていた泡が途絶える。磨かれた硝子が飛び散る。中の水中花は無惨に散って、器を失って決壊した水がびしゃびしゃと周囲を汚した。防ぐ間もない早撃ちだった。
「ああ、店主のお気に入りの水槽でしたのに」
店員は困ったように眉を下げて、ちらりと粉々になった水槽に視線を向けた。
「お前らの頭もすぐに、その水槽みたいにしてやるよ」
男の苛立った声と共に明確な殺意が膨れ上がる。次の瞬間、拳銃を手にしていた男がいきなり店の外まで吹っ飛んだ。しなる影のような足が伸びてきて、一瞬で男の鳩尾を強く蹴り飛ばしたのだ。
「……お客様以外、うちは立ち入り禁止なんですよ」
丁寧な口調だが、有無を言わせぬ低い声で息一つ乱していない店員は扇をぱらりと広げた。緋色の扇の影から、ぬぅっともう一人の気配が立ち上がる。店員は一歩も動いていないので、どうやら、この男が追手を蹴り飛ばしたようだった。
「客じゃねえなら、吹っ飛ばしてもアズールに文句言われねぇよなぁ。ジェイド」
「ええ、その通りです。フロイド」
11、一人だと思った男は実は二人だったらしい。瓜二つの顔が、暗がりから切りとられたかのように仄白く浮かび上がる。目の前の光景はあまりにも現実味が薄くて、この修羅場に場違いなほど美しかった。まだ若いのに、異様な迫力がある。フロイドと呼ばれた男はジェイドと対称的な印象の男だ。狂犬のような手に負えなさと、どこか冷めたような理性的な無関心さ、種類の違う二種類の物騒な雰囲気を纏っている。胸元をはだけさせた彼は、上等そうな黒檀の衝立に気だるげに肘をかけて、手の中で黒と白の碁石をじゃらじゃらと弄んでいる。さきほどから床に碁石が落ちているのを不思議に思っていたが、銃を弾いたのはこの男が放ったモノらしいと合点がいった。
「請求は全部アンタのところのボス宛に出しとくからよろしく」
「くっ、そ……! ナメやがって……!」
フロイドの放った蹴りによって吹っ飛ばされた男が、ゆらりと身を起こした。軽い脳震盪から回復したらしい。
12、「おや。フロイド、ずいぶん手加減したんですね」
「ウン。ジェイドの分残しといた。ジェイドも結構、あの水槽気に入ってたでしょ?」
「それはそれは。お気遣いいたみいります」
「オレも一緒に遊んでいい?」
「ええ、もちろん」
そのあとは、しばらくの間、ぎゃあ!とか、あぎぃ!とか、助けてくれ!とか、ひどく汚い悲鳴が断続的に聞こえた。ねじられたり、殴打されたり、人間が拷問のような扱いを受けているとき特有の苦悶の声が響く。客の男はあまりの恐ろしさになるべく店の奥にひっこみ、そちらをできる限り見ないようにしてやり過ごした。ようやく静かになった時には、追手の男の姿はどこにも見えなくなっていた。
どんな方法を使ったのかは分からないが、二人が追手の男を行方知れずの状態にしたのは間違いない。
13、「さて、取引の話をしましょう。店主のアズールが、奥の部屋でお待ちです」
「もう心配しなくていいよ。アズールは、アンタのどんな願いでも叶えてくれるから」
かつて水槽だった硝子をばきばきと踏壊しながら進む二人の後に続いて、男の安い革靴がぱきり、ぱきり……と小さな音を立てて破片を踏んでいく。おそらく、助けを求める先を自分は間違えてしまった、と男は青褪めきっていた。
「そんなに怖がらないで。温かいお茶をご用意しますから」
「そうそう。うちのボスはね、困ってる人を助けてあげるのが趣味の慈悲深い人なんだぁ」
ふふふ、あはは。笑い声と共に開いた彼らの口の中は、地獄の入り口のように真っ赤だった。