みゃくみゃく様とオクタヴィネル「みゃくみゃくさま?」
少し発音しづらそうに、アズールはその言葉をゆっくりと声に出した。
「そ。今なんか噂になってるらしーよ」
フロイドがキャンディをがりごりと鋭い歯で削りながら、スマホをタップする。ほら、と見せられた画面には赤くて目玉のついたドーナツの失敗作のような代物が映っていた。
「みゃくみゃく様は、願い事をなんでも叶えてくれるらしいですよ」
話に入ってきたジェイドが、アズールよりもずっと滑らかに発音してみせると勝手にフロイドの見せてきた画面を二本指ですいっと拡大する。広がったその画像は余計に歪で薄気味悪いものになった。
「はっ。対価も無しにか?」
鼻で嗤うアズールはこの話題に取り合う気はない、ということを態度で表していた。現実主義を煮詰めて、合理性を突き詰めるタイプの彼は、こういう類の与太話は時間の無駄だとばかりに切って捨てることが多い。
グッズ展開も豊富で、小さいストラップなども出ているこの新手のまじないのような物体は随分と学生たちに人気なようだった。思い返してみれば、フロイドのペンケースにも小さなソレのデフォルメキャラクターがくっついている。
「そうですね。一応NGがあるみたいですよ」
噂によると、みゃくみゃく様には願ってはいけない願い事があるらしい。それで人死にも出た、という話でネットは盛り上がっているが、さすがに眉唾だろう。その願い事がなんなのかは、願った本人が死んだので分からない、というオチだ。
「さぁ、お前たち。くだらない話をして遊んでいないで、開店準備を始めてください。僕はもう先に行きますよ」
かつかつと靴音を鳴らして、アズールはさっさっとバックヤードからフロアの方に行ってしまった。
「アズールってばつれないねぇ」
「ええ。みゃくみゃく様が、せっかくここにいるというのに」
二人の背後には在庫棚がある。その大きな大きな在庫棚の列の奥には赤と青の極彩色が佇んでいて、あちこちにある大きな目玉をぎろぎろとばらばらの方向に動かしていた。匂いはしない。音もしない。気配だけは、けばけばしい。確かにそれはそこに「居た」。
「何をお願いしてはいけないんでしょうねぇ……」
ジェイドは値踏みをするような目で、じっくりと暗がりのみゃくみゃく様を観察した。
「あはぁ。やるなって言われてる地雷をわざと踏みたがるの、ジェイドの悪い癖だよねぇ」
「そういうフロイドも、楽しいことは好きでしょう?」
目の前の怪異に、二人は殊更楽しげな声を出す。こいつ、つえーのかな?とフロイドは物理的戦闘の方向に興味を見出したようだが、ジェイドの興味は別のところにあった。
願い事を決めました、と奥に向かって歩みを進める兄弟を、フロイドは特に止めなかった。
「貴方を、食べさせてください」
ジェイドはにっこりと笑ってそう言った。
※※※
「アズール!!ジェイドが!!」
フロイドが血相を変えて、フロアに飛び込んできたとき、あまりの剣幕にフロアスタッフの内の何人かは手に持っていた皿やらコップやらを落として割ってしまった。
「なんですか、騒々しい」
アズールがたしなめる声を出すのも聞かずに、フロイドは彼の手首を掴むとぐいぐいとバックヤードの方に引っ張っていく。
「ジェイドが、ジェイドがぁ……!」
ジェイドがなんなんですか、と先を促してやっても、ジェイド、ジェイド、どうしよう、と繰り返し、青い顔をさらに青くするばかりでまったく要領を得ない。只事ではないな、とアズールも察したけれど、相当厄介そうなことが起きている気配しかしなかった。
「ジェイド!」
フロイドが暗がりに向かって叫ぶ。突き当たりの壁の前、こちらに背を向けたジェイドがしゃがんで何かを咀嚼していた。赤くて青くてうっすら白くてぐちゃぐちゃのナニカを。
「美味しい……。ふふ、美味しいです……。食べたことのない味ですね」
ぶつぶつと言いながら、ジェイドは一心不乱に手と口を動かしている。
「ジェイドが、みゃくみゃく様を食べちゃった!アズール、ジェイドを止めてよおっ。なんか、変になってて……、こっちの言うこと、全然聞こえないみたいで」
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。ジェイドの咀嚼音は止まない。
「ふむ。なるほど」
フロイドの焦ったような声を聞きながら、アズールは寮長の杖を取り出した。
「ジェイド、聞こえる? アズール連れてきたよ。ねぇってば。おい、聞けよ、ジェイド! ジェイ、」
ジェイドの肩に手を置き、がくがくと揺らすフロイドの頭めがけて、アズールは杖を振り抜いた。
ズパン!ビチャ!!
その途端、水風船が割れるような音がして、杖で打たれたフロイドが弾けて霧散した。何もない空中から、なんで?どうして?という、今にも消えそうなか細い声がしている。
「残念でしたね。フロイドに化けて、僕を止めようとしていたみたいですけれど。もう、ご馳走様をしてしまいました」
いつの間にか立ち上がっていたジェイドが、虚空に声をかける。その口の周りは色とりどりの体液と思しきもので濡れている。ジェイドに食べられて身体を失ってしまったみゃくみゃく様は、ひぃひぃとか細い声をあげた。今まで願い事を言ってくる人間しかいなかったので、自分が食べられるなんて想像していなかった。こうなると怪異も形無しである。べそをかくような声と共に、皆のみゃくみゃく様はとうとう気配だけの存在に成り果ててしまった。
「僕のお願いを聞いてくださってありがとうございます」
空中に向かって優雅に礼をして、軽く手でひらひらと払っただけで、かろうじて残っていたであろう残滓のような気配もふぅっと吹き飛ぶように消えた。
「よく気づきましたね、アズール。アレがフロイドではないと」
「フロイドは、お前がみゃくみゃく様?とやらを食った位じゃ、あんなに慌てて止めたりしないだろう。大方、面白がって見物して、お前の横からつまみ食いもして、飽きてどこかに行ったんでしょう。シフトをサボって」
アズールの想像がぴたりと当たっていたので、ジェイドは肩を揺らしてくつくつと笑った。はあ、とジェイドは満腹で満足気な溜息を吐く。アズールは、ジェイドのカラフルな口元に目を顰め、身だしなみを整えろ、とハンカチを渡した。
「まったくお前ときたら……。怪異を食うんじゃない。悪食も大概にしろ」
「どこかで聞いたことがあるんです。みゃくみゃく様の味は人の肉の味と似ていると」
「それで?どうだったんですか?人の肉の味は?」
「それは勿論。とっても甘美でしたよ」
結局、叶えてはいけない願いとはなんだったんでしょうね?
ハンカチで口元を拭きながら、ジェイドは首を傾げる。今となっては知りようもない。真相は人魚の腹の中だ。
「そのお願いをしたら、一体どうなってしまうのか。とても興味があったので、叶えてくれなそうなお願いにしてみたのですが、あっさり僕に食べられてしまって。とても残念です」
それはきっと、際限のない欲望を戒めるように、禁忌とされて付け足された縛りなのだろうけれど。一応人肉の味だとされるものを甘美で美味しいと評するような、頭のネジがハマっているようでいて、実はゆるゆるのネジ穴にただネジが置かれているだけの彼のような、際限のない好奇心を腹の中に飼っている人魚には、禁忌の概念なぞきっと一生分からないだろう、とアズールは溜息をついた。
「本当に美味しかったんですよ。アズールの分も、残しておけばよかったですね。すみません」
「そもそも謝るべきところは、そこではないはずですが」
「おや、ご機嫌ななめですね」
「今回は、害のない怪異のようでしたし、もう過ぎたことなので、不問にしますが。いいか、ジェイド。超えてはいけないラインを踏み間違えるなよ」
アズールの瞳に真っ暗な亀裂が横に走る。悪魔のまなざし、とフロイドと密かに呼んでいる、この眼の時のアズールに逆らってはいけない。ジェイドは、あ、これはまずいやつですね、と内心思ったけれど後の祭りだった。禁忌を踏み越えて、どうなるかが知りたいだなんて。化け物を喰らおうだなんて。一歩間違えれば、ジェイドはここに正気でいなかったかもしれないと思うと、アズールの瞳の黒がよりいっそう濃くなる。
もし、そのありあまる好奇心がお前を殺すようなことがあったら、どんな手を使ってでも蘇らせて、一生どこにも行けないように、僕のところに縛りつけておくから、そのつもりで。
そう言って、アズールはジェイドの口の端に残ったカラフルな体液をべろりと舐めあげた。たしかにそれは甘美な味がしたので、そのままジェイドの口の中にも舌を突っ込んで、禁忌とされる味を追いかけて、そのまま必要以上にジェイドの口内を蹂躙した。ジェイドはもう二度と得体の知れないもの、とくに怪異などのゲテモノを食べないと約束するまで、アズールから身も心も解放してもらえなかった。