17.anecdote(side:L) 修道院が帝国軍に襲撃された際にローレンツも白きものを目撃した。セイロス教の瑞獣は自らの意志で人間の形を保つが人間は時と場合によって人間の形を保てなくなる。コナン塔でもルミール村でも目撃したし幾度となく撃退した帝国の魔獣のことを考えると流石にローレンツと言えども精神が揺らぐ。ローレンツはマリアンヌから借りた本を手に取った。この本は修道院の書庫にもかつて置いてあったようだが二十年ほど前の大火で失われている。借りたものはかなり古びているのでおそらく元の持ち主はエドマンド辺境伯なのだろう。この詩篇の解説書は実に興味深く感銘を受けた部分はこっそり詩を綴っている帳面に書き留めてしまったほどだ。
貴重な本を貸してくれた礼としてお茶に誘うとマリアンヌはローレンツのために時間を作ってくれた。領地から取り寄せた焼き菓子や茶葉のうちマリアンヌが好きそうなものを考えるだけでもローレンツは楽しくなってしまう。近頃、彼女は何だか塞ぎがちなので気晴らしになってくれたらと思った。
アンヴァルで勝利し闇に蠢く者たちの本拠地を壊滅させガルグ=マクが盛夏を迎えつつあるようにローレンツたちの青春も終わりつつある。ローレンツはもう二十代半ばなので良き嫡子としての務めを果たさねばならない。そしてローレンツには絶対も永遠もないこの世の中でクロードのようにたった一人で全てを取り仕切る自信はなかった。父と家臣たちには戦争が終わっても結婚相手を見つけられなかったら見合いを再開すると伝えてある。叶うことならばという願いはあるがとりあえずローレンツは自分にできることをするしかない。
魔道学院や士官学校は王族や皇族であれば従者と共に学生生活を過ごせるがそれ以外の者は身の回りのことは全て自分でやる。集団生活を送る前に一通りのことができるよう実家の使用人に教えて貰ってからローレンツは実家を出た。だから掃除や人寄せのための支度は別に苦ではない。来客と自分の目を楽しませるため最後に卓の上にベレトから貰った薔薇の花を飾った。これでいつでもマリアンヌを招き入れることが出来る。
控えめに扉を叩く音がして待ち人が現れた。これまでの茶会や食事の際に彼女が好んでいたものから予想して供したものは全て気に入ったらしい。マリアンヌとローレンツは味の好みも合っている。またお茶の相手をしてほしいと頼むとローレンツの部屋に入ってから初めてマリアンヌの表情が曇った。
「私で、良いのでしょうか……」
「何を言う! 僕は君が良いのだよ」
「………………。私、実は……あなたに言わなければいけないことが……」
マリアンヌは美しくエドマンド家は豊かなのでもしかしたら秘密裡に縁談がまとまったのかもしれない。彼女がグロスタール家の嫡子である自分と親しげにしているせいで婚約者が不愉快な思いをしているのなら確かに距離をとってほしい、と告げる必要がある。この世には絶対や永遠がないとローレンツは知っていた。辛くても受け入れてきちんとマリアンヌを祝福してやりたい。
「ずっと、隠してきたことがあるんです。実は……あの……私には……忌まわしい……紋章が……」
先ほどまで顔を綻ばせながら紅茶を楽しんでいたというのにマリアンヌは今にも崩れ落ちてしまいそうだった。自領を守ることに役立つ紋章は貴族たちの間では天佑と言われる。それだけに彼女が怯えながら自分へ告げようとしていることがどれだけ重大であるか瞬時にローレンツは悟った。紋章を持っている学生たちは士官学校に入った後すぐに集められ専門家であるハンネマンの検査を受けている。ローレンツの記憶が確かならば彼女は検査を受けていない。きっとエドマンド辺境伯は修道院に膨大な額の寄進をしている。
「もういい!やめたまえ、マリアンヌさん!」
ローレンツはこれ以上マリアンヌが宿すという謎の紋章に彼女自身を傷付けさせるわけにいかなかった。
「震えているじゃないか。そうまでして僕に何かを打ち明ける必要などない!」
マリアンヌとエドマンド辺境伯は血縁者だが実の親子ではない。母方のものに姓を変えねばならなかった理由はおそらく彼女の実父にある。ローレンツはマリアンヌが何に苛まれて生きてきたのかを察した。そしてローレンツをそこから遠ざけようとしている。
「僕が見たいのは、そんな君じゃない。笑顔の君が見たいんだ。きっと、今、君が言いかけた言葉の先に、君の魅力の秘密が隠されているのだろう。それでも、君が笑顔で話せる日が来るまで、僕は聞きたいとは思わない」
彼女は陰鬱さこそが己自身だと信じ込んでいるがそんなことはない。他人を巻き込むまいとする頑固さは彼女の善良さの表れだ。それは決して色褪せない。今、具体的なことを告げられたらローレンツは今後は彼女の話すら聞いてやれなくなる。話を聞くためにこの話を聞いてはならないのだ。
「僕はね、相手のすべてを知りたいなどという貪欲で下品な男とは違うのだよ。謎めいた君のままで、十分素敵だ。いや、むしろ謎めいているからこそ魅力的……」
あのエドマンド辺境伯が解決出来なかった案件をローレンツ個人に解決出来る可能性は低い。だがここでグロスタール家やローレンツ自身の利にならないからと言ってマリアンヌから距離を置かれてしまうのはどうしても嫌だった。必死になって説得しているとローレンツのその姿が滑稽だったのかマリアンヌが声を上げて笑った。朗らかな笑顔を見ているとやはり陰鬱さが彼女の本質とは思えない。マリアンヌはローレンツに変わりたい、と言ったが彼女に変わる必要などない。内に秘められた良さを表に出すだけで充分だしローレンツはその手伝いをさせてもらえそうだ。
ある日ローレンツはベレトから遠出をしたいので武装して付き合ってほしいと頼まれた。大量の特効薬と松明とテュルソスの杖も持参して欲しいというのだから只事ではない。
「どこまで行くのだろうか?」
「エドマンド領だ」
数日前マリアンヌは自領に用事があるといってガルグ=マクから出て行っている。
「夜に魔獣がうじゃうじゃ出る森ねえ……なんで昼はダメなんだ?」
森に最も近い宿場町でベレトから簡単な説明を受けたクロードが当たり前のことを問うた。昼間の方が視認性が高く人間にとっては戦いやすい。
「討伐したい魔獣が夜にしか出てこないんだ」
「うーん、それなら巣を見つけて昼間にアグネアの矢みたいな黒魔法を放っちゃった方が安全じゃない?」
「つまり僕か?それならそれで別に構わないが……」
ヒルダの言うことには一理ある。わざわざ魔獣が最も活動的な時間帯に戦闘する必要はない。そしてそんな方法で済むなら忙しい二人がこの時期こんなところに来る必要はない。ローレンツは並んで座る恋人同士を見て腕を組んだ。ベレトの庇護の下にあるからこんな我儘が通る。だが戦争が終わり新生軍が解散すればそれも終わりだと思うと叱る気にはなれない。
「察していると思うがマリアンヌの依頼だ。全てに理由があるし追及しないで欲しい」
リンハルト以外の者は素直にベレトの言葉に頷いた。ベレトは今回マリアンヌと縁が深い者に声をかけている。マリアンヌは己の本質が陰鬱さだと思い込んでいるが絶対に違う。もしそうなら皆こんな風に心配しない筈だ。
普通の獣ならば火を避けるが魔獣は火を見ると寄ってくる。霧深い森の中で視野を確保するため松明をかざすとベレトの説明通り魔獣それに加えて幻影兵がいた。この森は普通ではない。森全体が魔獣の巣になっていて複数の群れが住んでいる。
「確かに領内にこんな所があっては……マリアンヌさんが先生に助力を求めるのもわかるよ」
「奥にこの群れの主がいる。それが今回の標的だ」
松明があって視野が確保できても単独行動が危険なことに変わりはないので別行動はせず一頭ずつ倒していくしかない。奥の方からひときわ大きな叫び声が聞こえてきた。
「もはや止まらぬ。おぬしの血肉を喰らうまで……!」
皆一斉に口を閉じた。こんな危険な森の奥に自分たち以外に誰かいる。しかも発言内容が不穏だ。
「そんな……いけません!」
そしてマリアンヌの声が続いた。ベレトが視野を確保するため右手で松明を掲げるとかつてコナン塔で見たマイクランのような姿をした魔獣が見える。どうやらマリアンヌはその魔獣を説得しようとしているようだ。人語を話す魔獣など今まで見たことがない。ヒルダがあれやこれや言いだそうとしたクロードの口を後ろ手で塞いでベレトの顔を見た。ヒルダもマリアンヌの意志を尊重し知らぬまま通すつもりらしい。
「行こうか」
全てを知るベレトは口止めをされているのか余計なことを一言も言わない。きっとあれがあの光景こそがマリアンヌがローレンツに告げようとしてくれた秘密なのだ。ローレンツに門地や領地がなかったら遠ざけるためでなく助けを請うためにマリアンヌは全てを告げてくれたのかもしれない。だが全ては仮の話に過ぎずベレトはローレンツに手伝いを乞うた。それならばテュルソスの杖の力を借り己に宿る紋章の力を使いなすべきことをなすだけだった。
人語を話していた魔獣は最後にマリアンヌとベレトに感謝し人の骨と剣を残して消えていった。人語を話すのだから他にどんな能力があっても不思議ではないがあれほど立ち込めていた霧が晴れ空には月が輝いている。
マリアンヌの足元には古びた人骨が転がっていた。月光が作る影のせいでローレンツのいる位置からは彼女が手にしている剣はよく見えないがテュルソスの杖やフェイルノートと質感が似ている。白い光を浴びた彼女は深々と頭を下げた。
「皆さんありがとうございました。これで私の無実が証明されます」
好奇心が身をもたげてくるがクロード、ヒルダ、リンハルトがガルグ=マクに戻る道すがらローレンツの代わりにマリアンヌから聞きたいことを全て聞き出してくれるだろう。先ほどヒルダから口を塞がれたクロードはきっと聞きたい質問で頭がいっぱいの筈だ。
皆に謝意を示したマリアンヌは剣を傍に置き戦闘中にずっと身につけていた紺色の外套を脱いだ。じきに夜が明けるとは言え返り血が染みて乾かないと冷えてしまうし上着に染み込んだ血が乾いたとしても広範囲にできた硬く薄い血の塊が肌にこすれて痛い時もある。
ローレンツは自分の外套を脱ぎ彼女の肩にそっとかけてやった。五年前の彼女なら自分の不幸が感染るから、と悲鳴を上げて払いのけていただろう。共に過ごした年月は無駄ではなかったようでマリアンヌは厚意を素直に受け取るようになってくれた。ローレンツは今日は魔法しか使わなかったので煤は多少ついているが魔物の返り血は浴びていない。
「すいません、ローレンツさん、お借りしたまま作業してもよろしいでしょうか?」
マリアンヌはぶかぶかの外套を身につけたままローレンツに許可を取るとしゃがみ込み自分の外套を地面に広げてその上に頭蓋骨や小さめの骨を載せ始めた。その姿を見て困惑したヒルダが叫ぶ。もうこの森の中で一番強い生き物は人間だ。聞きつけられたところで何の問題もない。
「マリアンヌちゃん!ちょっと待って!それどうするの?」
「持ち帰って一族の墓地に埋葬します」
「他の骨はどうするの?」
亡骸の扱いは千差万別だ。ローレンツは遺言に可能であれば自分の亡骸は貴族に相応しく扱って欲しいと明記してあるし火葬用に薪を買う金貨も遺言に同封してある。頭蓋骨の持ち主がどんな身分なのかは分からないが兵士であれば敵の怪しげな魔道士に亡骸を悪用されないため墓標も作らず穴を掘って埋めてしまうことも多い。故郷の墓に埋葬するため全身を持ち帰れることもあれば一部しか持ち帰れないこともある。
「でもこれ以上みなさんのお手を煩わせるわけには……」
「私にはまだどういうことか分からないけど本当は全身持って帰ってあげたいんでしょ?」
ローレンツも聞き逃さなかったがヒルダも一族の、という言葉を聞き逃さなかった。マリアンヌにはきっと遠慮せねばならない、と判断する根拠がある。だがそんなことは度外視したくなるのが友情や愛情だ。マリアンヌがヒルダの言葉に頷いたので頭蓋骨はマリアンヌが外套に包んで運び他の骨はそれぞれ手分けして皆で運ぶことになった。人体には約二百本の骨がある。
「重たければそれも僕が持つが」
「大丈夫です。それに皆さんに持っていただいているのに私だけ手ぶらというわけには……」
森の奥からエドマンド家が持っている屋敷へ向かう途中こういう時には食事と風呂どちらが必要か皆で語り合いながら歩いているうちに夜が明けた。日の出に照らされると改めて皆の格好がひどい有様なことがよく分かる。マリアンヌが身につけているローレンツの外套には思ったより煤がついていた。そのせいで彼女の白い頬が黒く汚れてしまっている。
「これは風呂だな」
絶対に食事だ、と主張していたクロードが陽の光の下であっさりと意見を変えた。今更自分の惨状に気付いたらしい。外套なしで一晩過ごしていたローレンツは早く風呂に入ってあったまりたいと思っていたのでヒルダと同じく風呂派だった。
ローレンツの見たところエドマンド家の使用人たちはよく躾けられていた。マリアンヌが男物の外套を身につけ魔獣の血にまみれた襤褸きれのような格好で現れ真っ先に使っていない敷布を玄関に持ってくるように命じても動じなかったしそこで同じく襤褸きれのような格好をした客人たちが古い骨を並べて検分しても狼狽するようなこともない。クロードとリンハルトによる検分は中々終わらず彼らの議論がマリアンヌの望まぬ方向へ行かないようにローレンツはずっと見張る羽目になった。結果として食事が先になったのだが検分しながらであったのでスープなどはなく手でつまめる物だけで済ませている。
入浴を済ませベレトやクロードたちが糸が切れた操り人形のように眠っている最中、マリアンヌがローレンツが休んでいる客室の扉をそっと叩いた。
「お休みのところ申し訳ありませんがお時間いただけないでしょうか?」
扉越しにローレンツに呼びかける声は落ち着いている。熟睡して昼夜を逆転させるわけにもいかないと考え椅子でうたた寝をするに留めていたのですぐにローレンツはマリアンヌの声に気がつくことができた。好きな人の声で起こされると心が躍る。彼女はうたた寝から目覚めたローレンツが使用人たちから誤解を受けぬように応接間に連れ出してくれてグロスタール家の嫡子として今後エドマンド辺境伯家の養女と深く付き合うならば知っておくべきことを手短に話してくれた。先日と違って本当に心から自分の話を聞いて欲しいのだとマリアンヌの表情も物語っている。だからだろうか。ローレンツは彼女のことを少し揶揄いたくなってしまった。クロードに笑われるのは癪だがマリアンヌを笑わせるのは全く嫌ではない。
「マリアンヌさんは本当に僕で良いのだろうか?」
この時のマリアンヌの表情をローレンツは一生、忘れないだろう。ぽかんと口を開け目を丸くしてローレンツのことを凝視していた。つい先日のやりとりだから彼女もきちんと覚えている。
「まあ!ローレンツさんたら何をおっしゃるのですか?私はあなたが良いのです。優しくて面白くて……」
その後はお互いに笑ってしまって全く言葉にならなかった。
六年前クロードがリーガン家の嫡子として発表された時にローレンツは自分の手から将来の栄誉がすり抜けていったことに落胆しひたすら不愉快で納得いかなかった。ところが六年経ってみればローレンツは親に逆らいクロードに命を預けている。彼は度量が違うのだ。そしてローレンツは六年前には想像すらしなかった神話のような戦場に身を置いている。セイロス教の瑞獣と同じ色をした飛竜にまたがり上空から敵の様子を窺うクロードと本日彼の前衛を務めるヒルダの姿はイグナーツが絵にする筈だ。
「砲台だらけで北の方に行くの嫌になっちゃう」
「二人とも気をつけてくれたまえ」
砲台の奪取とヒルダが発見した毒の沼を発生させている魔道士の排除がローレンツが率いる別働隊の役目だ。ヒルダは滅多にやる気を出さないがホルストの件があるので今日は戦う前から偵察などで大活躍している。マリアンヌも心配そうにヒルダとクロードを見つめていた。その視線に気づいたヒルダが飛竜の上から手を振る。
「大丈夫!地上ならともかくクロードくんは空の上なら一番当てになるんだから!」
「確かに地上ならヒルダの方が当てになるな」
ローレンツは学生の頃、修道院の上空警備の際に上空でふざけていた二人を注意したことを思い出した。今にして思えばあの頃からクロードはヒルダに好意を持っていたのだろう。自分がマリアンヌに好意を持っていたのと同じく。