グラスの中で氷がカランと鳴った。
スポットライトが照らすバーカウンターは飴色に磨き上げられ、仄暗い店内では周りの客はシルエットになり、かろうじて自分の周りだけ仄かに見える。
窓の外には淡い月と星が輝く夜空と、眼下に広がるニューミリオンの夜景。その光を彩るように静かなピアノの音色がゆったりと流れていた。
「うわ〜これ美味しい」
そんな大人な雰囲気には似つかわしくない無邪気な声の主を、ガストは困惑の表情で眺めた。
カウンター席の隣に座ったウィルは、カラフルなカクテルの注がれたグラスを手にして嬉しそうにニコニコとしている。
「おいおい、それ何杯目だ?流石に飲み過ぎだろ」
「俺はもう子供じゃないんだから、何杯飲んだっていいだろ。えーと次は何にしようかな?」
「えっ!まだ飲むのか?」
ガストの制止の声もまるで耳に入らないかのように、ウィルはグラスに残ったカクテルをぐいっと飲み干し、カウンターの向こうに声をかけた。
シェイカーを振っていたバーテンダーが、ゆっくりと振り向きにっこり微笑みながら問いかける。
「ご注文ですか?」
「えーと、甘くて飲みやすいのが良いんですけど……」
「それではミモザはいかがですか?シャンパンにオレンジジュースを加えたカクテルで、フルーティで爽やかなテイストをお楽しみいただけますよ」
「花の名前のカクテルなんですね。それ、お願いします」
「かしこまりました」
そう言うと、バーテンダーはシャンパングラスにオレンジジュースを注いだ。そして半分オレンジ色になったグラスを、ゆっくりとシャンパンで満たしていく。しゅわしゅわと登っていく泡を、美しく咲いた花を見つめるように、ウィルはうっとりと見つめていた。
楽しそうなのはいいんだけど……。だいぶ酔ってんな。
右手のウィスキーグラスを傾けて、ガストは小さくため息をついた。
◇
「たまには飲みに行きたい」
週末のデートの行き先を相談しようと、談話室で落ちあったガストの顔を見るなりウィルは意を決したように言った。
お互い成人済みの二人だが、甘い物好きのウィルに合わせて、デートでの食事はいつもスイーツが美味しいカフェやレストランばかりだった。
ガストとしては、甘いものを美味しそうに食べるウィルの顔を見ているだけで幸せなので、その事は全く気にしていなかったし、酒を好んで飲むようには見えないウィルのこの提案には少し驚いた。
しかし、はたからみれば自分たちだって立派な大人の恋人同士だ。たまには、大人の社交場ってヤツで楽しむのもいいかもしれない。
「じゃあ、美味しい酒飲める店、探しとくぜ」
片目を閉じたキザな笑顔を浮かべるガストの顔を見て、ウィルは、はにかんだような笑顔を見せた。
初めて二人で飲みに行くんだから、行きつけの騒がしいバーってわけにはいかなぇよな……。
やっぱ、ホテルのラウンジか?念のため、部屋も予約しといたほうが良いのか?
恋人同士になってから数ヶ月経つが、ウィルのガストに対する不信感は根深く、幼馴染のアキラやレンに見せる甘えるような態度や、拗ねた仕草をガストには滅多に見せようとはしなかった。
それに対して、ガストもかつてウィルから厳しい態度を取られる事には身に覚えがあり、付き合い始めてからは、嫌われないようにと、ウィルに対しては慎重になりがちだった。
そんなわけで、二人は未だに一線を越えられないでいる。
缶コーヒーを片手に、ウィルとの他愛のない会話に興じながら、ガストは初めての大人なデートに思いをめぐらせ、期待に胸を高鳴らせていた。
◇
「ふふ、ホントにミモザの花みたいに綺麗だな〜、ほら、アドラーも同じものばかり飲んでないで、これ飲んでみろよ?」
「俺はこれでいいから」
「美味しくて綺麗なのに。ウィスキーなんてカッコつけて、アドラーのくせに生意気だぞ〜」
「はいはい、わかったから。これで最後の一杯にしとこうな」
ガストが選んだホテルのバーに足を踏み入れた時には、ウィルは少し緊張していた様子だった。しかし、お互いの担当セクターの最近の様子や、新しいトレーニングメニューの話題を肴に、一杯、二杯とグラスを空けていくうち、ウィルの頬はピンク色に染まり、蜂蜜色の瞳はトロンと蕩けていった。
いつもとは違う潤んだ瞳に見つめられて、ウィルの視線に酔ったのか、三杯目のウィスキーの酔いが回ったのか、ガストはクラクラする頭の中で、このままタワーに帰ったら、ブラッドにどやされんな……と、ウィルのメンターの厳格な顔を思い浮かべた。
ジャケットの胸ポケットには、こっそり予約しておいた部屋のカードキーが忍ばせてある。時刻はもうすぐ24時を回ろうとしていた。
「ウィル大丈夫か?ちょっと飲み過ぎたみたいだし休憩してくか?」
おずおずと尋ねるガストの声に、今にも眠ってしまいそうなとろりと重いまぶたを開いて、ゆっくりとウィルは視線を返した。
「それじゃ、最後にもう一杯だけ飲む」
小さな声でオーダーするウィルの声に、バーテンダーは少し驚いたような表情を浮かべ、それから何かを察したかのように微笑んだ。
「お待たせしました。ゆっくりお楽しみください」
ウィルの前に、琥珀色が注がれたグラスがそっと差しだされた。
だいぶ酔いが回っているウィルを心配そうに見つめるガストの顔を、何か訴えるかのようにじっと眺めてから、ウィルは静かにグラスに口をつける。
琥珀色の液体がゆっくりとウィルの唇に流れ込むのを見つめ、ガストは早まる鼓動を感じながら、残ったウィスキーをぐっと煽った。
ふらふらとおぼつかない足取りのウィルを支えながら、ガストはエレベーターのボタンを押した。点滅する表示灯をじっと眺める。小さな箱の中、ぐったりと肩にもたれかかるウィルは、すやすやと静かに寝息を立てていた。間近にある赤く染まった頬に高揚すると同時に、酔った相手を連れ込む後ろめたさが胸の中をグルグルと巡る。
到着音を鳴らして開く扉を出ると、長い廊下には人影もなく静まり返っていた。足音が吸い込まれてしまいそうな厚い絨毯を一歩、一歩、踏みしめながら部屋の前に立ち、ゆっくりとカードキーを差し込んでドアを開く。
仄かな明かりが灯った部屋を進み、きっちりと整えられたベッドの上にそっとウィルの体を横たえた。
「う……ん」
白いシーツの上で手足を伸ばしたウィルは、少し苦しそうな息を吐き、微かに身じろいだ。
「大丈夫か?気持ち悪くないか?水飲むか?」
きっちり絞められたネクタイが苦しそうで、ウィルのネクタイを緩め、襟をくつろげてやる。
「アドラー…」
金色のまつ毛が微かに震えて、ゆっくりとウィルの瞼が開く。吐息まじりに名前を呼ばれて、ガストはウィルの顔を覗き込んだ。
「アニキ面…」
「ん?」
「お前はすぐアニキ面して、俺のこと心配する……。俺はもう子供じゃないんだぞ……。それに、保護者クンとか真面目クンとか言ってからかうし……」
「わかった。わかったから。とりあえず水飲もう。な?」
笑い上戸の絡み酒か。
さっきまで上機嫌だったのに、子供のように口を尖らせ不満を述べるウィルにガストは困ったような笑みをもらした。
それでも、酔っているとはいえ初めて見るウィルの拗ねた顔に嬉しい思いが込み上げる。
冷蔵庫から取り出したペットボトルを手渡すと、ウィルは黙って口をつけた。
額にかかった金色の髪を指ですいて、丸い頭を優しく撫でてやると、ウィルは満足そうに目を閉じる。
枕に頭を埋めて、今にも眠ってしまいそうになりながら、ウィルは言葉を続けた。
「最後に頼んだお酒。わかるか?シェリーだぞ」
「ん?」
「お前と一緒に飲みに行くなら、最後にこれを飲むって決めてたんだ……」
「そっか、ウィル楽しそうだったし、俺もお前と一緒に飲めて嬉しかったよ」
「だから、今夜はお前に……」
そう言いながら、ウィルはスヤスヤと眠ってしまった。広いダブルベッドの上で寝息を立てるウィルの隣に寝転び、ガストはその寝顔を見つめた。
ほんのり熱い頬をそっと撫でる。
「大人な夜を過ごすのは、お預けだな」
小さな呟きは夜の闇に溶けていった。
ウィルの言いかけた言葉の続きが気になったが、明日の朝、とびきり甘いパンケーキを用意して聞いてみたら教えてくれるだろうか。
間近にある愛しい人の寝息を聞きながら、ガストはゆっくりと目を閉じた。
***
後日談
夕闇が深まる屋上庭園に、ビールを片手に佇む長身の後ろ姿を見つけ、ガストはゆっくりと近づいた。
「お疲れさん、キース」
「おう、ガストか。脅かせんなよ。またブラッドよ奴がガミガミ言いに来たのかと思ったじゃねぇか」
背後から声をかけられ、驚いた様子で振り向いたキースにガストはすまなそうにたずねた。
「悪りィ、悪りィ。あのさ、ちょっと聞きたい事あんだけど、いいか?」
「なんだ?」
「あのさ、デートで飲みに行って、相手がシェリーを頼むって、なんか特別な意味があんのか?」
ガストの質問にキースはニヤリと笑う。
「そりゃ、カクテル言葉ってやつだろ。シェリーは『今夜はあなたに全てを捧げます』つまり、今夜はOKのサインだ」
キースの答えにガストは狼狽えたように目を泳がす。
「なんだお前。いつの間にそんな相手ができたんだ?もちろん、ちゃんとやる事やったんだろうな?」
「いやいやいや!お、俺じゃなくて弟分がそんな事言ってたからさ」
しどろもどろに話すガストの様子を疑わしげに眺めて、キースはぐいっと缶ビールを煽った。
「ふーん。で、そいつその後どうしたんだ?」
「あー一緒にホテルに入ったらしいけど、そのまま寝ちまったらしい」
「大人の駆け引きは、お子様にはまだ早かったって事だな」
「はは、そうみたいだな」
動揺を隠すように笑いながら、ガストは次のデートまでに、愛の告白を代弁してくれるカクテルを調べておかなくては、と固く決意した。