【ジャスミン】あの日。
太刀川さんがこう言ったんだ。
「なぁ、迅。もし俺たちに明るい未来ってのがあるとして、その時、俺と一緒にいるつもりは無いか?」
*****
三年と少しの歳月を経て、太刀川さんと和解した。
いや、和解というのもおかしいか。
風刃を手にして距離を置いたのは俺で、太刀川さんは特に変わりはなかった。ように見えた。
会えば普通に話をしたし、冗談のように風刃を手放してA級に戻れなんて言われた事もあった。
それに答えることは無かったけれど、変わらない態度に安心を覚えていたのも確かだ。
A級に戻ってからは、顔を見る度にランク戦に誘われていた。
そして、あの言葉を言われたんだ。
憎からず想っていた俺は、あのワクワクする日々の再来の予感に気分が上がっていたのか、いいよと応えてしまっていた。
できるならこれまでへの後ろめたさや、これからの日々を楽しんでしまう自分への戒めとして断ってしまった方が良かったのだろう。
でも、そんな理性的な考えなど吹き飛ばしてしまう程に、気分は高まってしまっていたから、よくよく考えるよりも先に、是と言葉を発してしまっていた。
だから、太刀川さんとは付き合っていると言っていい関係になってしまっている。
自分の置かれた状況を考えると、感情を先走らせて応えてしまった事に、些かの後ろめたさを感じてしまう。
それは太刀川さんが今まで見たことのない優しい表情を向けてきたり、ゆっくりと手の甲を撫ぜてきた時に、特にひどくなる。後ろめたさなんて言葉では収まらない。後悔とか懺悔とか、そんな言葉があてはまる程に心が痛む。
それと同じくらいに幸せに思う自分もいる。
でも、それは更なる贖罪の念を増幅させてしまうのだ。
だからと言ってしまっていいのか、太刀川さんとの関係は清いまま。
何の決意もできず、戸惑ってばかりの俺に太刀川さんは強引に事を進めることもしない。
「まぁ、男同士だしな。お前にもいろいろ考えることもあるんだろ?今更だろ?ゆっくり行こうぜ。こう見えて、待つのは得意なんだ」そう言いながら笑う太刀川さんはやけに男前に見える。お前に関してはな、と続いた言葉は、これ以上ない程に胸を貫いた。
太刀川さんの事は好きだ。
それは間違いなのだが、この気持ちが成就されことには抵抗がある。
まだ片想いのままでいる方が気が楽だった。
俺は幸せになっちゃいけない。
それはこの能力を使えば使う程に蓄積されていく思い。
日頃は、実力派エリートですから、なんてうそぶていなければいけない程、自分を追い込んでいた闇の部分だ。
そうでもしないと、笑っていることなどできなかった。
他人に拒絶されないための方便だという事は分かっている。
俺はこの闇と一生過ごしていかなくちゃいけない。
そうして自分を押し込めていたのに、ボーダーという組織を立ち上げてしばらくしてから目の前に現れた男は、有言実行を体現したというかのように、そんな俺の想いすら覆してしまう。
抑制された日々の中で、人並み以上に求められる幸せというものを教えてくれたのはあの人だけだ。
だから、という訳ではないが、どうにも太刀川さんを前にすると身構えてしまう。未だに被ってる仮面を外すことができない。以前なら簡単にできていたことなのに。
「太刀川さんがさ、うどん作ってくれるんだけど、いっつも素うどんでさ。でも卵は絶対入ってる。時々力うどんになってさぁ。美味いんだよ。いつも湯で加減が絶妙でさ。あれは真似できなね」
その反動か、同年のメンバーがそろっている時には気が緩んでしまっていて、ついつい抑制が外れてしまう。
「この間、太刀川さんが前髪が邪魔だって言うから、少し切ってあげたんだけど、思った以上にふわふわの猫毛でびっくりした」
太刀川さんの前では言ったことのない言葉が次から次へと出てくるのが止められない。
「昨日、太刀川さんと出かけたんだけど、公園でうとうとし始めたから、つまらないのかと思って個人戦することにしたんだ。そしたらいつも以上にキレッキレで、7対3で負けちゃったわ。太刀川さんのギャップがすごくてさ。あれはヤバいよ」
「迅って、ほんまに太刀川さんのこと好きなんやな」
「え…いやぁ……。どうかな?」
「毎回こんなに惚気られてたら誰でもそう思うぞ」
生駒の指摘に嵐山の援護が入り、どうにもこうにも逃げ場が無くなった。
自分で意識する以上に太刀川さんの事を話題にしてしまっているようだ。
「惚気って———。……そんなに?」
うんうんと頷く一同に思わず頭を抱えたくなった。
いつも抑え込んているタガが外れてしまう事は、何となく理解していたが、こんなにも明け透けだったとは自分でも思わなかった。
「もしかして、太刀川さんには何も言った事ないの?」
控えめにだが、柿崎が一番つつかれたくない部分をついてくる。
思わず頬が熱くなってしまう。
「………」
「え?」
「マジ?」
「ほんまに?」
「………」
「…いや、だって…。しょうがないじゃん…」
どうしても太刀川さんを前にしては言えないのだ。
年上とはいえ一つしか違わないが、十代と二十代の壁は高い。
何かの拍子に子供扱いをされた日には、どうしようもない焦燥感を生み出すこともある。どれも自分の調子次第とは分かってはいるが、少しでもネガティブになっている時は、自分でもおかしいくらい被害者意識が芽生えてしまう。それは太刀川さんには何にも非はないし、迷惑以外の何物でもないけれど。
自分の陰と陽のふり幅を考えると、どうしても手放しで好意を伝えたり、手放しで甘えることなどできやしない。
太刀川さんが、それでも良いと言ってくれるなら、とてつもなく心強く安心できる場所になるだろう。この同年の友人たちと過ごす時間のように、気負いなく笑うこともできるだろう。
素直に伝えれば、太刀川さんの事だから、何でもない事のように受け入れてくれるだろう。
でも、いつまでたっても素直になれない自分がいる。
それができない理由なんて、一つしか無い。
これまで誰かに甘えるとか、任せるとかといった行為をした事が無かった。まるでそれが罪のように感じてしまう。無責任だと言われてしまうのではないか、そんな恐怖心が先立ってしまうのだ。もっと気楽にやれよと言われてしまうのは理解しているが、頭で想像できるのと、行動に移すことができるのは天と地ほどの違いがある。
もしありのままを伝えて拒絶されてしまったら。きっと今以上に上手く呼吸すらできなくなってしまうだろう。
でも、もしもそうなってしまっても、きっと自分は抗わない。
太刀川さんが別れると言えば、きっと何の反抗もせずに受け入れてしまうだろう。抗ってまで、自分の幸せにしがみついている気はない。ただ今は、3年以上の空白を経ても尚、こんな自分を欲しいといってくれた太刀川さんと一緒にいることができるだけで満足している。今のままで十分な幸せをもらっている。
「何がしゃぁないねん。ちょっとこう、そばに寄って好きや~とか言うたらええだけやろ」
「イコさん、それ自分が言ってもらいたいだけじゃん」
「そうや」
「あはは。イコさんらしいな。でもな、迅。俺もイコさんみたいに素直に伝えた方がいいと思うぞ?」
「迅は誤解されやすいから…心配だな」
「……恋人としてのスジは通せ。あまり意地を張ってると愛想をつかされるぞ」
「…う……」
正論は胸をえぐるが、口々に煽るように、励ましともとれるような言葉をくれる友人たちに、思わず笑みがこぼれる。
「ああ、もう!わかったよ!……明日、太刀川さんと出かける予定だから……まぁ、頑張って…みま…す…」
そう言ってはみたものの、実現できる気がしない。
明日は数週間ぶりに二人の休みが重なり、出かける約束をしていた。
嬉しいのはもちろん、楽しみなのもある。
以前太刀川さんが観たいと言っていた映画に行くのが良いか、欲しいと知っていた新しいジャケットを見に行くのも良いな。なんてことを考えながら歩いていると、太刀川さんの部屋の前に着いてしまった。皆には頑張ってみる、と言ったはいいが、頑張れる気はしない。でも、二人で出かけるのは楽しみではあるのだ。その辺の感情は複雑だから、分かってほしい。
なのに。
「悪い。明日出かけられなくなったわ」
「……え?」
帰りを待っていた部屋で、迎い入れた途端に言われた一言が理解できなかった。
「…あ……そ、そっか…」
太刀川の顔越しに浮かび上がるいくつもの情景。
楽しそうに話す太刀川の隣で、華奢な女性が笑っている。
明日の事のはずなのに何故だかはっきりとした表情は見えない。
ただ、太刀川さんが楽しそうだ。いつにないリラックスした表情で話をしている。こんな未来があるのだと、なんだか気が抜けるほどにすんなりと腑に落ちた。
これが太刀川さんに相応しい未来なのだと。
でも…。
「……じゃぁ、しょうがないね…」
「………お前さ。どういうつもり?」
悶々とした思考に引きずり込まれる手前で、太刀川さんの声がそれを遮る。
「それって何か見えてんの?」
自分から約束を反故にしておいて、どういうつもりも何もないだろう。本当に自分勝手だ。
でもそれを止めるのも、他より自分を優先させろと言うのも違う気がする。意地を張るなと言われたが、意地とは違う。
これは。
そう。諦めとも希望ともとれる感情だ。
自分の立場を考えず言うのなら、諦め。
太刀川さんの未来を考えるなら、希望。
どちらを取るかと言われれば、選択は決まっている。
「太刀川さんが、楽しいと思うようにすればいいよ」
それは本心だ。
ただ笑っていて欲しかった。
俺のせいで、この人が、この太刀川慶という男が笑えなくなった時期がある。誰よりもそれを苦々しく思っているのは、当の俺自身だ。
「お前、俺と付き合ってるんだよな?」
「………」
「本当はそんな気無かったのか?なんだそれ?同情?あの時の償い?」
「………っ」
そうじゃない。そうじゃないけど。
太刀川さんに幸せになってもらいたいと思うのは本心だ。
そこに俺がいなくても構わない。
他の誰であろうと、笑顔でいてくれるならそれでいい。
そう思うだけだ。
「それで…太刀川さんが幸せなら…」
「ふざけんな!」
ふわりとした感覚がしたと思ったら、強い力で引き寄せられていた。
外から帰ってきたばかりの太刀川さんからは、他に言いようがないのだけれど、太刀川さんの匂いがした。
手放したくない。
一瞬で生まれ出た言葉をかき消すように頭を振る。
抱きとめられている腕がギュッと締まった。その力強さに身動きが取れなくなってしまう。呼吸すら苦しい。思わずその背に回してしまいそうになる両手を、力いっぱい握りしめることでせき止めた。
この腕を回してしまったら、自分の中で何かが崩れ落ちそうな気がする。それはこれまで枷をはめていた欲求で、自分本位な考えたちだ。
「ぜってー、手放す気は無い。…二度と、だ」
耳元で珍しく深い声がする。この声を聞いたのは何年振りだろう。
背筋がゾクリと震えた。
言葉すら発することのできない一瞬を掠めて、ふわりと唇が重ねられる。
「ん……」
最初から遠慮のない口づけは、性急に深くなる。
戸惑って何も反応できない唇を割って舌が入り込んでくる。成す術もなく絡めとられて吸い上げられる。舌や唾液なんていう物理の問題じゃない。感情の核を守ってきた壁を、手数で崩されていく感覚。
ずっと根底にある全ての人を守りたいなんて希望は叶う訳はないし、何よりも大切に守りたかった命すら、守る事はできなかった。より多くの人が笑顔でいられるように、そう判断して大切な形見も手放した。
望みや希望。それって叶えることができるものなのか?
これまで、そんな疑問しか持てなかった。
俺の望みなんて自分本位なだけじゃないのか。
「………あ…」
「………お前さ、俺がこんなこと他の奴としても平気か?」
「……」
「そんでお前はどうすんの?さっきみたいに〝しょうがない〟って言うのか?」
「……」
投げかけられた言葉に、これまで欠けても凹んでも崩れるのを堪えてきた、壁が崩落する。
こんなこと、他の誰にするって言うの。
先刻見えてきた女性だろうか。
それともまだ見ぬ人だろうか。
嫌だ。
単純にその言葉だけが繰り返す脳内は、既に鈍麻していて、これまで足枷としていた文言は、その効力を失い始める。
でも。
もし、あの時太刀川さんが言ってくれたように、俺たちに明るい未来があるのだとしたら。
もし、これまで救えなかった人たちの家族にも、明るい未来を届けることが出来るのだとしたら。
きっと俺だけでは成し得ないだろうけど、誰かが一緒に目指してくれるなら。
もし、許してもらえるなら…
「っ!…俺だって!俺だって、できるなら……」
枷が外れる。
これまで抑え込まれていた感情が、涙と一緒に溢れ出る。
こんなのは見えてない。
自分の未来は見えにくいから。
今まで、自分の望みが叶う何てことは無かった。
でも、いつも覆されてきた。予測通りにはいかない、ただ一人の人。
予測外の未来もちゃんと用意されているのだと、教えてくれたただ一人の人だ。
これまで、少しでも多くの笑顔を守りたくて、欲望や願望という本能を理性で抑えてきたのだ。それが当たり前だった。当たり前にできていた事だった。
なのに、内面から沸き上がってくる感情を抑えることができない。
これまで表出されることの無かった本心。
枷ばかりで、がんじがらめにされてきた、俺の心。
「太刀川さんの隣で笑ってたいよ」
絞り出した声は、掠れて震えて、全く実力派エリートじゃなかった。
「いいねぇ」
太刀川さんは、俺の告白を、さらりと流すかのように、その舌先で涙をすくう。
「よし。泣けたなら、次は笑えるだろ?」
「ふはっ。何だよその理屈」
あまりにも自分勝手な言い分に、思わず笑ってしまう。
一瞬で軽くなる雰囲気に任せて、そっと背に手を回すと、思いの外優しい抱擁が返された。
「うまく言えないけど、お前が幸せだって思う時間が多い方が、お前の望む通りに沢山の人を救えると思うんだ」
「え?」
「幸せだって思う事って、人それぞれ違うだろ?今のお前が想像できないような幸せがあるかも知れない。だから、お前自身が沢山の幸せを知っていれば、その分だけ選択肢が増えると思うんだ。だから、これから救う奴らのために、お前は幸せになってやるんだ」
「……」
「俺はそう思う。だからお前は、好きなだけ笑って、もう限界だっていうくらい幸せになればいい。その為なら俺は何だってする……だから、まぁ、その、なんだ……」
いつになく視線を泳がせる太刀川さんが珍しくて、ついつい見入っていると、がっちりと視線を掴まれた。
真剣な顔でゆっくり息を吸って、一際低い声が届く。
「覚悟しとけ」
ニヤリと笑う太刀川さんは、いつになく照れているようで、少しだけ頬が赤かった。