かみつきこい ——約束しましょう。大人になったら、君を迎えにいきます。
ゆびきりげんまん。うそついたら、はりせんぼんのます。この語源の由来は、遊女が客に不変の愛を誓う証に、小指を切断していたことかららしい。麻酔なんてものがない時代に小指を切って差し出す上に、誓いを反故にした場合は、百万回殴られ、針を千本飲まされる。諸説はあるがその後に『死んだらごめん』という続きもあるらしい。春を鬻ぐ女たちが、真っ当な恋をするにはそれだけ命懸けだったのだろう。
一時間に一本しかないバスに揺られながら、悠仁はそんなことを思い出した。この地に悠仁が舞い戻ってくるのは、実に五年ぶりである。十五まで慈しみ育ててくれた祖父が亡くなってから、悠仁は遠縁にあたる寺の家に預けられた。祖父が亡くなる前のことは記憶が曖昧だが、祖父は死ぬ間際に悠仁に告げた。
——もうここには、二度と戻ってきちゃ駄目だからな。
ここでのことは全部忘れろ。忘れて、幸せになれよ。祖父はそう言って微笑んだ。悠仁が祖父の笑顔を見たのは、結局それが最期になってしまった。
悠仁を迎えてくれた寺の一家には、三人の兄がいた。亡き両親から寺を継いだ長兄、寺からほど近い距離でカフェを営む次兄、裏方業務に徹し二人の兄を支える末兄。誰もが悠仁を気にかけ、優しくしてくれた。皆が一様に心配性で過保護であったが、特に長兄の脹相はそのきらいが強かった。だから、悠仁はどの兄にも真実を打ち明けなかった。いや、打ち明けられなかったのだ。
——大腸に、影が見られます。詳しい検査をしないことにははっきりとしたことは言えませんが、万が一の場合を覚悟しておいてください。
詳しい検査をしないことには。そう説明は受けたが、悠仁には確信があった。患部は違えど、祖父も長年患い、そして最後には骨と皮だけの姿になったのだ。覚悟もなにも、きっとそうなのだろう。だから、悠仁は精密検査を土壇場でキャンセルし、可愛がってくれた兄たちに真実をひた隠し、この地に舞い戻ってきたのだ。理由などない。ただ、足が向いたから。
——呪ふは一寸、祓ふは一生、解くは一世。
それは悠仁の故郷の地で言わずと知れた伝承だった。呪うことは簡単。しかしその呪いを祓うことは命懸け。解くとなれば気の遠くなる時間を有する、ということらしいが。いまいち悠仁はその言葉に引っかかりを覚えた。それはしこりのように、悠仁の脳内に残り続けた。やがてそれは悠仁が学ぶきっかけとなった。家が寺、という一般的な家系ではない理由も相俟って、悠仁は民俗学の道に進んだ。大学に行く気など悠仁自身は微塵もなかったが、それも長兄の勧めだった。
焦って大人にならなくていい。迷って悩んで考えるのは、生きるということ。そのために、増える知識は無駄ではない。そう、いかにも僧侶らしいことを宣うものだから「お坊さんみたい」と悠仁は呟いた。あの時長兄は、普段の仏頂面をほんの少し和らげたのだ。「お坊さんの前に、お前のお兄ちゃんだ」と誇らしげに宣言しながら。
だから、言えなかった。喪くした祖父と似たような理由で、自分の死期が迫っているかもしれないことなど。もしもあの時きちんと悠仁が真実を告げていたのなら、なにか変わっていたのだろうか。
——自分の身を守るためにも、知識は必要だ。
大学進学を決めたことを告げた際、どうして長兄は嬉しそうな半面、そう苦しげに呟いたのだろう。詳しい理由をきちんと聞いていれば、もっと他の対処法があったのだろうか。
——どの道、今となっては悠仁には分からないことなのだが。
その部屋には、いびつな音ばかりが響いた。泡立ったような粘着質な水音、湿った肉同士がぶつかり弾ける音、それから。悠仁の泣き叫ぶ声。
どれだけ声を張り上げても、泣き叫んでも、誰にも声は届かなかった。いや、正確にはひとりの耳には届いているはずだ。悠仁の背後をとり、悠仁を侵食しようとする者には。
肚の中で蠢き、暴れ回るものから逃げる術すらない。何度吐き出されたのかも、どれだけの時間この行為が続いているのかも、悠仁には分からない。どうせ人間の概念ではかれるものなど、ここにはなにひとつないのだ。
動かない身体を引きずって、悠仁は少しでも逃れようとした。しかしほとんど変わらないその距離を呆気なく引き摺り戻された上、より密着され、奥まで侵入される。暴かれるはずのない粘膜が、男の持つ肉の形に作り替えらるほど、深く深く挿入ってくる。
捕まってしまったら、決して逃れられない。それを知っていたからこそ、きっと祖父は、悠仁に「二度と戻ってくるな」と伝えたのだろう。己が命を懸けてでも。兄もそれを判っていたから「身を守る術を知れ」と提案したのだろう。悠仁が遠縁の寺の家に預けられたのは、決して偶然ではない。きっとそれが、最善で最大限の対策であったからだ。
——憑かれ、囚われていた悠仁を解放するために。
忘れるべきだったのだ。この場所ごと、全て。忘れていたはずだったのに、どうして足が向いたのだろう。
「……大人になったら、迎えにいきます。そう、約束しましたよね?」
悠仁の考えなどお見通し、と言わんばかりに、恐ろしいほどうつくしい顔立ちの男はあの日と寸分も変わらぬ微笑みを見せた。違っているのは、ふたりの間で行われるそれが、子ども騙しの戯れではなくなったこと。
「、、ああっ! も、ぎだぐない!」
「そんな寂しいことを言わないで。君が大人になるまで、ずうっとずうっとここで待っていたのに」
およそ人のものとは造りの違う性器が、悠仁の腹を掻き回し、奥を抉った。恐ろしい凶器に、肚ごそ心の臓まで貫かれた気がして、悠仁はえずくように息を吐いた。
「君が私を忘れても、ちゃんとここに戻ってこれるようにまじないをかけておいたんです」
でもね、と愉しげな声が、遠くに響く。まるで玩具のように好き勝手に揺さぶられているのに、奧を突かれる度に悠仁は絶頂を迎えた。ぷしゃ、とお飾りの性器から溢れる粘液が、もう精液なのか尿なのか、それとも潮なのかすら分からない。
「一回交わったぐらいじゃ、うまく定着しなかったみたいで。だから少し苦しいかもしれませんが、頑張ってください」
「、っ〜〜ッ、ぐ、っまた、ぐぅ——ッ!!」
「……いいですよ、好きなだけイって」
最も奧で放たれる快楽を知ってしまった身体は、勝手に腰をかくかくと揺らした。真っ赤に染まった耳の後ろに、男の笑った吐息がかかる。それさえも官能にすり替わり、悠仁の身体は小刻みに痙攣を起こした。
「ぎも、ぢぃのっ、とまん……っ、あ、あっ、ひ〜〜!!」
「上手ですね。たくさんイって、私に全てを委ねてください。そうして私のことを受け入れてくれたら、君のここは私の子種を受け止めるための器に造り変えられる」
意識が霞む。男が——神と呼ばれる存在の七海がなにを言っているかなんて、悠仁にとっては計り知れないことだった。これは、交わり営む行為らしい。けれど交わり営むなんて言えば聞こえはいいが、そんな生やさしいものではない。文字通り、喰い尽くされている。悠仁の身動きを封じる触手に似たなにかは、確かな意思をもった生き物たちだ。男の命令に、従順な。大小異なるひんやりとしたそれらは、悠仁の手足を拘束し、肉を左右に割り開くものもあれば、真っ赤に腫れあがった胸の尖りに吸いつき、舐り、甘く噛むものもある。しまいには、細く尖ったものが悠仁の性器に甘えるように巻きつき、か細い隘路に入り込んでいる。
それらが放つ粘液も、七海自身に注がれる体液も全て、甘い毒が含まれている。人にとっては、淫らを呼び起こすための毒。悠仁を惑い狂わせ、底なしの快楽に突き落とすためのものだ。
ゆびきりげんまん。うそついたら、はりせんぼんのます。いつかの約束。朧げだった記憶が、はっきりと輪郭を現していく。悠仁自身が、忘れたのではない。この男によって『忘れさせられた』のだ。
寂しい、幼少期だった。友達皆んなが一様に、待ち侘びる家族の元へと夕焼け色の帰り道を辿る中。悠仁ははしゃぎ声の消えた公園で、人の気をなくした神社の一角で、それでもまだひとりきりで遊んでいるような子どもだった。
——誰そ彼、逢ふ魔。昼と夜が曖昧な刻は、夢うつつも朧げになる。
寂しさをひとりで飼い慣らせなかった子どもは、人ならざる者に付け入らせる隙を与えてしまった。