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    sumitikan

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    sumitikan

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    さねひめ、全年齢。モブあり、手も握りません。軽く戦って鬼の首が飛びます。

    #鬼滅の刃
    DemonSlayer
    #さねひめ
    goddessOfSpring

    隠祭実弥は暗い夜の中を歩いていた。鬼殺を一件済ませた後、爽籟から特に指令が出るでもない。近場の藤の家を案内するように頼み、街道からも離れた僻地をいつものように過ごしていた。

    真暗な曇り空から湿ついた風が吹いていたから、いつか降るだろうと思っていたら、やはり雨粒が降って来た。雨脚はすぐに強くなり、突然の驟雨に為す術もなく打たれながら道を歩いた。路面はすぐに泥田のようにぬかるみ、雨宿りも何もなかった。

    真冬の雨なら凍えるが、この頃の雨は温かい。ずぶ濡れになりながら道を歩いて、前方の路上の雨陰に影の塊のようなものが見えたので目を凝らした。

    人が倒れていて、そこに屈みこんでいる、最初は人かと思ったが、助け起こす気配もなく、鬼が爪を伸ばす時の音がした。鬼だと断定し、走り寄る。

    実弥は刃を抜き払った。その足音すら雨音の中に消えた。倒れた人に襲い掛かろうと屈んだその腰を横に払った。
    鬼はぎょっと跳ね逃げて、こちらを見た。実弥は刀を構えて、その鬼を走って追った。思わぬところでまた一匹の首級を上げようとしたところで、鬼は向かって来ずに逃げて行った。

    「……何だァ?」

    鬼殺隊士を相手にしながら鬼が逃げるのは珍しい。実弥は呆気にとられ、刀を納め、倒れている人の側に行ってその姿を見た。たばしる雨の中、泥土の路面に髪を結いあげた美しい女が倒れていた。生きているかどうか口元に手で息を確かめる。生きている。

    隠がいれば彼らに任せたが、今回は通りがかりの案件で傍に隠はいなかった。仕方なく実弥は女を抱き起こした。ぐったりと気絶しているようだった。頬を軽く叩いてみると、うっすらと気がついて目を見張り、すぐに体を固くした。

    「おい、勘違いすんな。俺は助けたんだ。襲ったんじゃねェぞ」
    「……それは、有難うございます」

    実弥はすぐに女の側から立ち上がった。こんな雨夜の折に傷だらけの顔だから、警戒する目で見られるのは仕方なかった。女は立ち上がって少しふらついた。実弥は路上に落ちていた革の鞄を拾ってやった。女は怯えた手で鞄を受け取り、立ち上がった。少し離れて立っている実弥を見てどう思ったのだろうか。

    「あなた、勿論わたくしを送ってくださいますわよね?」

    頬に張り付いた髪を元のように撫でつけながら、決め込んだ台詞を柔らかく言う。口調からしても、そこらにいる普通の女ではないようだった。路上の泥水に倒れても気位は高そうな、実弥は黙って頷いた。女が再び鬼に狙われないとも限らなかった。

    距離を取って歩きながら、女は物柔らかに問いかけてきた。

    「旅の方?」
    「いいえェ」
    「何の用があって磐滝までいらっしゃったの?」

    この言葉遣いで物怖じもせずに実弥に話しかけてくる態度の気位の高さに辟易した、世間知らずと言えばそうだが、こんな生き物の相手をした事が実弥にはない。

    「俺ァただのォ、通りすがりの者ですがァ」
    「ええ、磐滝に来る大抵の人はそうですわね」
    「ああ、そんなあたりまで来ていたとはァ、俺はあんまり……ただ急いでいたもんですからァ」
    「この辺りのことは全て椿屋敷が取り仕切っていますのよ。父が男爵をしていますものですから」

    椿屋敷に男爵。女は物柔らかな口調で、権高な態度だった。あまり関わり合いになりたくない女の足に合わせて道を行く。さっさとこの場を離れたい気持ちと、先ほどの鬼を追うならこの辺りにいたい気持ちとがあった。

    道なりに漆喰の長い塀が続いていた。その塀がぽかりとなくなり、夜目にも黒く背の高い門構えがある。全体的に時代掛かっていた。表札は無い、仰々しい門だった。

    「ここが椿屋敷です。どうぞいらして」

    女は門の脇の通用口から開けて中に入って行った。それに実弥も続いた。中に入ると、石畳が大玄関に続いていた。

    「あなたに言っておきますけれど。この椿屋敷はさる大名の下屋敷だった所なんですのよ」

    お家自慢か、実弥に立場を自覚しろと促しているのか、助けた礼金を出そうと言うのか。女は実弥を気にした風でもなく玄関の引き戸を開いて中に入って行った。広い玄関だった。
    そこで女が誰か人の名を呼ぶと、女中がすぐに出てきた。実弥はただ玄関の中で立って事態の様子を見ていた。少し面倒な女を助けてしまったと思っていた。

    女は履き物を脱いでさっさと廊下を向こうに通って行き、このまま待っていても仕方ない。帰るか待つか迷っていると、女が去った廊下の奥から立派な和装の男が一人出てきた。

    「竹子様を送り届けてきたのは貴様か」

    そう言って、実弥はずぶ濡れの頭の天辺から爪先までじろじろと値踏みされた。彼は和装に髪を撫でつけていて、この屋敷の恐らくは用人だろう。顎でしゃくるようにして、実弥に上がれと指図してきた。

    「竹子様を助けたというが、襲ったのはお前ではないのか。腰にそのような刃物など着けて、竹子様を人質に金でもせびろうとしたならず者か?」
    「言っとくが、俺は産屋敷家の係りの者だァ。遠出した帰り道にここを通り掛かって助けただけで、お宅のこたァ何も知らねぇ。あの女が誰かも俺には関係ねェ」
    「ふん。産屋敷家だと?」
    「ああ、そうだ。名刺もある」
    「見せて貰おう」

    実弥は財布から、幸い雨に濡れずに済んでいる名刺を取り出して渡した。用人は足を止めて書いてあることを確かめ、片眉をひそめて実弥をじろじろと見てきた。

    「……確かに産屋敷家の名がある。だがお前がここに書いてある不死川実弥本人なのかどうかは、この場で分かる事ではないな」
    「俺自身の名前なんだ、本人だという外はねェな。アンタも随分疑り深いようだが、俺は別に今すぐこの家を出て行ってもいいんだぜェ」
    「ばかな、竹子様が助けた恩人を追い出すと思うのか。それなりの歓待をさせる。こちらも疑いが過ぎた、そう短気を起こすな」

    名刺を返してもらい、実弥はそれを財布に仕舞いながら、用人の後を付いて行った。尋常な十畳ほどの座敷に灯が入っている所に案内されて、用人は出て行った。すぐ女中が来て、乱れ箱に着替えの浴衣を入れて差し出してきた。

    「熱いお茶でもいかがです?」
    「いいねェ」

    そのころ、実弥を襲った鬼は塒にしている村の中の堂に逃げ戻っていた。この鬼は、まだ侍が丁髷を結っていた頃から村と取引をして村の堂の中に昼時を過ごすようになっていた。そういう取り決めが出来たのは、鬼が食らった相手の金品を村人に与えるようになってからだった。

    鬼が戻ったので出迎えの人が三人来たのを、斬られた怒り任せに爪で一息に首を抉った。全員殺し、二人の首を掴んで堂の中に入り、腹立ちまぎれに食い始めた。

    村内で鬼のこうした振る舞いは許されていたし、その為に村人は多めに子供を作るようになっていた。鬼は村から大殿様やら隠し神様と呼ばれて恐れられ、昼間に鬼の用を足す数名を除いて、人っ子一人近寄らなかった。

    雨の中、鬼を斬った相手が風柱というのは、無惨から下される情報で何となく知っていた。鬼は柱ならずとも鬼殺隊士を何人かは殺して食っている。その時に奪った日輪刀が村の山肌にある神域に供えられているだろう。今度の鬼殺隊士も同じ目にあわせようと思っていた。

    二体を食べ終え、外に残していた死体を取りに行き、貪る。

    「大殿様。何事かございましたか?」
    「村に客がいる。誰か調べろ」

    命令を下すと、その者は堂を出て行った。村人を食えば減る、鬼は余程のことがない限り村人を食うことはしない。今日は三人、久しぶりに斬られて腹立ちまぎれに食ってしまった。

    四人目が来たのは、三人が戻って来ないからだろう。鬼が村人を食った後で様子伺いに行く役割を鬼送りと村で呼び習わして、恐れられているようだった。

    村人の鬼にまつわる慣習や風習について、知ったことではなかった。この村の支配が大名から男爵に、世の年号が天保から幾つも変わったのもどうでもよかった。村内の人の多さに関わらず、耕地が広いでもないのにこれだけ人を養い得ている理由を、大名も男爵も考えないのが滑稽だった。

    磐滝村の隠し神として、鬼はこれからも人を食いながら、たまに来たなら鬼殺隊士も食らう気でいた。今度来た風柱も、鬼の血鬼術の前には手も足も出ないだろう。

    「隠し神様」
    「何だ」
    「おわかりでしょうが、祭りの間は潔斎して頂きたく……」
    「外に出るなというんだろう。なら、お前らの中から食われに来い。一家の中から一人ずつ来いとふれを出せ」


    「爽籟!」

    部屋の障子戸を開けて呼ぶと、すぐそこにあるらしい庭の枝に鴉声がする。この闇夜に一羽きりでいるなら必ず爽籟だ。夜で姿が見えない相棒に向かって言った。

    「磐滝で鬼と遭遇した後、逃げられたァ。襲われた女を男爵家に送って行って、そこで足止め食らってるゥ。お館様に伝えてくれェ」

    鴉声が返事をして、羽ばたいていく。実弥はそのまま障子の側で真っ暗な雨夜を眺めていた。磐滝は任務で何度か通り過ぎた事があり、微かに聞き覚えがあった。通り過ぎていく夜中の地名は、その時々に頭の中の地図を思い返して、一足飛びに歩み去って行く景色でしかない。

    磐滝に足を休めているのは、ここに出没した鬼の塒がどこにあるかを確かめたいからでもあった。が、この屋敷はどうにも居心地が悪い。隣の座敷に人の気配が実弥を監視しているようだった。

    どうしたものかと、障子戸を開けたまま夜を見ていた。廊下に面した襖がすっと開く気配がした。

    「お前が竹子様を助けた下郎ですか」
    「ああ」
    「ここは男爵にゆかりのある屋敷ですよ。下郎の癖にずうずうしいこと。少しは恐れ入ってはどうなのです」
    「……」
    「ここは元は大名の下屋敷でありました。この家の旦那様、男爵閣下の御母上は大名家のお姫様で、その方の持ち物であったこの屋敷は旦那様のものになりました。それがこの椿屋敷です。見ての通りの古屋敷ですが、ここは男爵家の持ち物ですから、家格はそれなりにあるのです。お前は産屋敷家などと言いましたが、そんな得体の知れない家の使いをこのような座敷に上げて歓待するなどとは……。男爵家に付け入る気ではないでしょうね?お前を入れるのは家の格を下げることになりかねないと、路銀を与えて返すように梅仮用人に申し上げましたのに、まさか五日も泊めることになるとは」

    家の威勢を笠に着た物言いを背中で聞いて、実弥は彼女の姿を見る気がしなかった。そのまま夜を眺めながら聞いた。

    「五日って、なんのことだァ?」
    「梅仮用人が、産屋敷家と連絡がつくまで滞在するようにとのご命令です。その期間が五日ほどかかると……それでお前にこの家の決まり事を言いに来たのが私です。まずはじめに、お前は母屋に行ってはなりません。母屋は旦那様と竹子様、ご家族のための場所で、下郎のお前の立ち入っていい場所ではありません。竹子様はお前が気軽に口をきいていい方ではないのです」
    「はァ」
    「産屋敷家とはまた聞いたこともないような……家は子爵家男爵家などの家柄とはお付き合いはありますが、産屋敷、ねぇ……どんな家か存じませんけれど、お前程度の下郎に名刺を持たせるとは、程が知れます。この家はそういう雑多な所にある家とは違いますから、そこを初めに了解しなさい」
    「……」
    「竹子様は男爵家の血を引いていらっしゃる。お前とは違う世界に生きている尊い方なのです。東京の本家に行きたい、母上に会いたい等とは一言も仰らず、大人しく磐滝の椿屋敷にいらっしゃる、とても出来たお方です。もう輿入れ先もよい家に決まっています。お前はこの部屋の回り位なら歩いてもいいでしょうが、決して母屋に来てはなりません。身の程知らずに図々しくもお嬢様に会おうなどとは、考えられても困るのです」
    「……」
    「それと明日の宵から丸一日は、この家に居て貰わなければなりません。村で行われる隠祭の宵宮だからです」
    「祭りィ?」
    「そうです。江戸の天保の頃に勧請されたという姫神様で、大変に恥じらい深い方ということです。祭礼はそれは厳かなもので、余所者を嫌って一切立ち入らせません」
    「……祭りを見るなってことかァ?」
    「そうです。そもそもこの神事どころか神の話すら村人たちはしたがらないのです。それだけ神様を恐れ敬っているのでしょう。祭礼の間中、村中の家は板戸を締め切り、係りの者だけが祭礼に加わるのです。無論この男爵家も必要なだけの寄進はしておりますが、御本尊は旦那様ですら見た事がありませんし、村人と同じようにその夜は他出など致しません。それだけ大切にされている隠し神様で、この村の守り神です」
    「はァ」
    「お前がこの椿屋敷の世話になる以上は、この屋敷の者と同じ扱いをします。村の祭りを見に行こうなどと考えて貰っては困ります。その夜は絶対に外に出てはなりません」
    「はァ」
    「分かりましたか?」
    「分かったァ」
    「五日間、せいぜい身を慎むのがいいでしょう」

    言い捨て、女が座敷を出て行った。この男爵家は産屋敷家の力が及ばない家柄のようだった。いくら産屋敷家でも帝都全ての華族に影響力を持つ訳ではない。それに実弥の風体が人に受け容れられるものではないのは分かっていた。鬼殺隊の制服に羽織は、この家の人には奇異に映ったことだろう。

    令嬢を送り届けたのはいいが、全く信用されていなかった。腰の刀がいけなかったか、傷だらけのこの顔か。隣室の落ち着かない気配は、家に忠実な若い書生かも知れなかった。

    実弥はじっと夜を見ていた。女の言ったことを胸の内に噛み砕く。明日の宵宮に祭り以外の人手がないのは、いかにも鬼を釣りやすいように思えた。鬼釣りに日輪刀を使うと、血脂で刃先が曇り、担当の里の鉄人の機嫌がごく悪くなる。

    次の鬼殺の機会について考えていると、女中が食事を運んできた。

    「さ、どうぞ。お客さん。おあがりください」
    「おう、すまねェな」
    「いいんですよ。賄い飯で済みませんねえ」

    塩鱈に漬物、湯漬けという簡単な膳だった。鬼殺につく前に家で食べているからそれほど飢えてはいないが、心遣いは有難かった。

    「本当は熱いのを一杯つけてあげたいんだけど、だめだって」
    「酒はいらねェ。気ィ使わせて悪ィな」
    「いいえ。あの人たち、お嬢様には卵酒を差し上げたんですよ。なのにお嬢様を助けたお客様にはお酒をあげないだなんて……。この家の人は何かと言うと男爵だの家の格だのと、そればかり。使用人には随分薄情なんですよ、だから村の人からも嫌われているんです。お嬢様を助けた時のお小遣いが欲しいならそう言って、早く出て行った方がいいですよ」
    「分かってるゥ。隣の兄ちゃんにも飯やってくれェ」

    女中は笑って頷いた。やはり隣は書生だった。実弥が膳についていると、女中が押し入れから布団を出して伸べてくれて、早々に部屋を出て行った。すぐ隣の座敷に女中が入って、中の男と何かと話す声が聞こえた。

    漬物を齧る。明日の宵宮まで体力を温存しておこうと実弥はのんびり膳のものを食べ尽くし、布団の中に刀を抱いて寝転がった。行灯の油が切れるまで起きていても良かったが、日頃の疲れがある。実弥は目を閉じていた。

    行灯の光が消えた頃、そっと隣の襖が開いて、下手な忍び足で窺うような様子がある。隣の座敷に寝ていたらしい書生だった。座敷の中をあちこち探すのは、刀を奪っておきたい下心があるからだろうか。

    座敷の中を方々探しまわり、財布の中身も見て、最後に実弥の布団の側に来た。ごくりと生唾を飲み、一指も触れずに退散していった。力で刀を奪いに来られたら、同じく力で答えただろう。書生の良識のお陰でこの夜は静かだった。

    あくる朝に起き出して、布団を畳んで押し入れに仕舞った。出しっ放しにしておいた財布の中身は一銭も変わらなかった。実弥が起き出して程なくして、女中が来た。

    「あ、起きてましたか」
    「顔ォ洗いてェんだけどォ」
    「はい、こちらです」

    刀を浴衣の帯に挟んでついていく。寸足らずの浴衣が気になっていた。女中は刀を少し気にしているようだったが、口では何も言わなかった。
    ついていくと屋敷の中庭に出て、雨はすっかり上がっていた。中庭に井戸があった。女中はわざわざ自分の手で釣瓶を使い、実弥の為に盥に水を汲んでくれた。

    「どうぞ。朝餉はまた後程座敷に届けますね」

    井戸で顔を洗ってさっぱりしていると、この家の書生らしい男が来て、眼鏡を直しながら実弥に会釈した。会釈を返し、使った水をそこらに捨てた。

    「……この家を出るには、正門の他に裏木戸がある」

    書生は唐突に話し始めた。実弥が聞いているのを見て確かめて、続きを話しはじめた。

    「裏木戸が嫌なら、庭の山続きの方に塀が低くなっている所が乗り越えやすい。そこから山に出入りする者もいて、獣道がついている。この屋敷を出るならそこからがいいだろう」

    言いたいことを言うと、書生は井戸に釣瓶を落とした。


    朝餉は薄い味噌汁と、刻んだ大根の入った雑穀飯だった。実弥は遠慮なく飯を食べ、おかわりもした。隊服が戻って来ないのを気にしながら爽籟の戻るのを待っていた。

    食事を終わらせ、寸足らずの浴衣の帯に刀を落とし差しにして庭先に出る。椿屋敷とはよく言ったもので、そこら中に椿が植えられ、紅や白の花が其処此処に落ちているのを踏みしめた。空は重苦しく曇っていて、また雨が落ちてくるかも知れない陰気な日だった。湿っぽい風が強く吹いていた。

    遠くから鳴き声がして、鴉が一羽空を低く滑り降りてくる。爽籟だった。
    実弥の肩に止まり、爽籟は話し始めた。日中は人の傍で、あまり大きくない声で話すことを躾けられていた。

    「サネミ サネミ」
    「おう」
    「オ館様ノ 言葉 ヨク聞イテ」
    「おう」
    「磐滝ノ 椿屋敷ノ 男爵ハ 話ガ通ジナイ方デ 手ヲ焼イタ。 男爵ハ 鬼殺隊ヲ ヨク思ッテイナイ ヨウダネ。 デキレバ関ワラヌ ヨウニ 気ヲ付ケテ 鬼退治ヲ シテ欲シイ」
    「……」
    「磐滝ノ 隠祭ハ 鬼祭。 祭神ハ 鬼。 今回ノ 鬼退治 実弥ハ 充分ニ 身ノ回リニ 気ヲ付ケテ。 今度ノ 敵ハ 鬼ダケデハ ナイカラネ」

    爽籟が耀夜の口調を真似ている。椿屋敷の男爵と話ができない以上、村の祭神を鬼と言うなら、耀哉に備わる神懸かり的な叡智が教えた。この地の鬼を退治しろ、と。

    爽籟は実弥の差し出した腕に飛び乗り、身震いをした。細かい水滴が散った。この曇り空だ、どこかで雨に当たったのだろう。

    「ご苦労。休めェ」

    一声残して飛び立っていく姿を見送り、実弥は椿の中から空を見つめていた。これだけ曇っていれば鬼は外を出歩ける。気が急いて、元の座敷に取って返した。

    突っかけを脱いで上がると、畳まれた隊服が乱れ箱の中に入れて置いてあった。急いで着替えて、刀を腰に差し直す。あとは履物だ。得意の忍び足で玄関先に向かうと、実弥の雪駄が避けて置いてあった。履いて玄関の外に出る。

    門から回って裏木戸を見つけ、屋敷の外に出た。裏木戸からの道は村への道に繋がり、土手に続いていて、実弥はその道を選んで進んだ。曇り空の下、人々が祭りに向けて立ち働いているのが見えた。村の堂はすぐ分かった。その出入り口に人が控えているのが実弥のいる所から見えていた。

    曇り空の雲は分厚い、鬼も外を出歩ける。じっと堂を見ていると、そこに控えている人の他は周りに誰も近寄らないのが分かった。堂の回りを通り過ぎるのも小走りに避けていく。堂の中に何かいる。

    村に吹き下ろす風上に歩いて、実弥は刀を抜き払った。道から堂が良く見えていた。腕の肉に刃を添わせて引き切った。すぐに腕が血に濡れる、稀血の匂いに惹き付けられて鬼が耐えられるはずがない。

    湿っぽい風が強く吹いた。雨が降る前兆の風だろう、堂の扉を蹴り破るようにして一体の鬼が跳び出したのが見えた。鬼は実弥を見た、遠目に目と目が合った。村中が鬼を見て固まっていた。

    「稀血ぃいい!!」

    どの鬼も言う事は一緒だった。実弥は刀を構えていた。一直線に目指して跳んで来る、年経た鬼の動きをしていた。刀を構えて、鬼の姿がふっと消えた。かわりに黒い蚊柱のようなものが勢いよくこちらに来る。血鬼術で、その蚊柱が鬼だろう。肝心の首が何処か分からない。

    ぶんぶん飛んで、刀で斬ろうにも斬れない。顔中に群れ集まってきて振るい落とそうとすると、べろりと傷口を舐める舌がある。

    「稀血!稀血の味ぃいい!!」
    「チッ」

    くれてやるつもりは毛頭なかった、実弥は型を使った、参の型 晴嵐風樹。虫どもは散り散りになり、どこに行ったか分からない。実弥は四方を探し、はっと頭上を見た。

    頭上に蚊柱が立っていて、そこに実弥を見下ろす首があらわれた。

    「うまいうまい!お前はうまい!!久方ぶりに酒を喰らったかのようじゃ!!」

    唾液が飛んで来そうなのが不快だった。宙の首に向けてまた実弥は技を繰り出した。陸ノ型 黒風烟嵐、首は刃風に散らされるように虫になった。

    鼬ごっこだ。実弥は眉間に皺を寄せた。血鬼術で実体が掴めない鬼と戦ったことは何度かある、これも面倒な奴だと思った。次の蚊柱はどこかと視線で宙を探していると、がぶりと耳を齧られ、血を啜られた。

    ぎょっとして飛び退き様に刃を振るう、生首が飛びながら弄うように笑っていた。耳から血が伝っているのがわかった。

    「うまい。うまい。良い酒。良い酒。儂の宵宮に良い酒じゃ!お前たち、奉納しろ!!」

    奉納とは何のことかと思っていると、一人二人と村人が道に上って来ていた。宙に生首だけで浮いている鬼は、村人達に向かって大声に言った。

    「宵宮でこの男を儂に奉納しろ!!殺しても構わん!!こは神の詔ぞ!!」

    鬼が村人に命じる。村人は怖じけて、中の数人が道具を取りに村に戻って行く。年経た鬼が神に祀られ、人々を言うなりにさせていた。耀哉の伝言に、敵は鬼だけではないと言っていたのはこのことだった。

    実弥は村人に注意を払っていなかった。ただ蚊柱の中央にある首をどう落とせばいいかだけを考えていた。技を繰り出しても羽虫に散って届かない。

    ぶうんと飛んできた虫の一塊がある。向けた刃を透過して来て、鬼の手が顕現した。ぎょっとして刃を引き付ける隙に、首筋を爪で斬られた。

    「チイッ!」

    鬼の手を切り落とす。宙で人を嬲る笑い声が上がった。鬼が笑うのが逆鱗に触れてくるのを抑えた。怒り任せに突っ込んでも首は獲れない。
    じりじりと見合う実弥と鬼の回りに、竹槍を持った村人が増えていた。

    「ほぅれ、ほぅれ」

    鬼は分けた蚊柱の中に手や首を潜ませ、近づけては実弥の血を啜ろうとした。それを払うのも根気が要った。耳を舐められてぞわりとして飛び退る。飛び退る実弥の背を竹槍の槍衾が囲んでいた。道の上で竹槍に囲まれて、鬼の餌に捧げられる。

    耳にこびりついた血を舐めに来た舌をすんでの所で切り落とし、また実弥は跳び退って体制を立て直した。状況は膠着していた。鬼を信じる竹槍に背から突き殺されれば、それで終わりだ。肝が冷えたが、村人は実弥を突き殺すことを躊躇しているようだった。

    そこに、ぽつりと大きな雨粒が落ちてきた。ぽつぽつと昨夜の轍の水たまりに波紋を投げかけた。雨粒が頻りに落ちてきて辺りを濡らし始めていた。昨夜のように雨足は一息に早かった。

    鬼は蚊柱を保っていられずに姿を現していたのは、雨のせいだ。血鬼術が効かなくなったことに気付かずに鬼が笑っているのは、実弥の稀血のせいだった。

    「はやく、はやく、儂に捧げろ!!」

    鬼は両手を伸ばして酔った口調だった。匂いを嗅いだだけで酔う稀血を、この鬼は何口も啜った。後は簡単な話で、型を使う用もなかった。鬼の懐に飛び込み、八相の構えから首を切り落とし、首の行方も見ずに胴を蹴倒した。

    更に走る。竹槍を構えた村人の前に刀を振るい、竹槍の穂先を斬り飛ばし、そのまま分け入り、跳ね飛ばして押し通る。あっという間に人垣を抜けた。

    後は走った。雨の中を、どこに向かっているのかも分からなかった。とにかくこの地を過ぎてしまえば後はどうにでもなる。雨足の強くなる中を走っていると、ばさばさと羽音がして爽籟が鋭く飛んできた。

    「サネミ!! 後ロカラ 人ガ 槍ヲ持ッテ 追ッテクル!!」
    「道案内は任せたぜェ!!」

    追われているのは神を殺した罰なのか、昼だというのに暗い雨中を、実弥は後ろも見なかった。人を守るための鬼殺とは言え、その人の手に殺される気はなかった。

    爽籟が高く飛び、鴉声で誘導してくる。それを聞きながら、実弥は彼を信じて山の中に踏み入った。神をしていた鬼の言うまま殺されて、鬼の社に奉納されるのは勘弁だった。


    雨を抜け、山中の獣道を途切れ途切れに伝いながら、斜面の登り下りを何度繰り返したことだろうか。一昼夜をかけ、朝ぼらけに滝壺の側に来た時、爽籟が実弥の肩に止まって羽根繕いをしていた。随分余裕のある態度だった。

    たなびく雲が朝焼けに朱く染まって、青空になろうとしている空だった。ここがどこか分からなかった。景色に見覚えのあるような、ないような。人里離れた山奥に一軒の屋敷があり、それをじっと見ていてはっとした。岩屋敷だった。

    いつもと違い滝の裏手から来たから、すぐに位置関係がわからなかった。実弥はほっと息を吐いて、岩屋敷の玄関に向かった。ずっと走っていたから、流石に疲れ切っていた。

    「すんませェん」
    「はい」

    中からすぐ返事があり、実弥は中に入って行った。久しぶりの岩屋敷だった。玄関に立つといつもの隠が台所から顔を出した。余裕のある声と態度だった。

    「風柱様、どうぞお上がりください。岩柱様もいらっしゃいます」

    実弥は一歩上がり框に足を乗せ、そこで皮足袋から親指が出ているのを見た。ずっと山中を走って足元も見なかった。幾度も石や枝などを蹴り散らしてそうなったのだろう。もう一歩上がり、そちらもだめだった。こはぜを外し、足袋を脱いで素足になって、溜息をついた。

    鬼に殺されかけるのは毎晩だが、昨日は人に殺されかけた。それも大勢が竹槍を持って実弥を追った。何時のいくさで破れた落ち武者かと、少し笑った。

    廊下を歩いて居間に入る。長火鉢の前に悲鳴嶼が、清い長閑な地蔵の顔で白湯を飲んでいる。

    「おかえり、不死川」

    そう言って、湯呑を出して湯を注いで勧めてくる。実弥もいつもの場所に座った。体が冷え切っているのが分かっていた。腰を落ち着けて悲鳴嶼を見る。前に見ていたのと変わらない顔だ。

    「ただいま戻りましたァ……」
    「何でも面倒事があったと聞いたが」
    「大した鬼じゃなかったですよォ。ただちょっと……」

    人を守るための鬼殺をして、人に殺されかけたのが恐かった。そうは言い出せずに詰まっていると、悲鳴嶼が落ち着いた声音で言った。

    「……人助けをしても、感謝されないことはよくある。助けた相手が逃げてしまう事もある。怒鳴られたこともある。そういうことか?」
    「いやァ、俺もそういう覚えはありますがァ。助けた人に殺されかけたのは、ちょっと堪えましたねェ」
    「ふむ。一本つけよう」
    「どうもォ」
    「風柱に酒を頼む……何があったのか話すといい」

    実弥は口が旨くない。悲鳴嶼の顔を見て、あったことを話そうとしていると、酒が湯呑に入って来たのを、一息に飲み干した。それで口が少し軽くなった。

    逃した鬼。男爵の娘。椿屋敷。権高な使用人。温和な女中と気弱な書生。お館様の伝言と、鬼を堂に祀る村。隊服が乾いた所で村に向かい、稀血で鬼を誘ったこと。鬼が村人を集め、戦う内に槍衾が揃っていたこと。鬼の首を斬った後、その槍衾を斬り払い、人垣を抜け、一目散に逃げて走った。爽籟が、後を人が追って来ると教えてくれて、夜を徹して逃げて来たこと。

    そこまで話して、すきっ腹に酒が効いてきた。

    「飯は食えるか」
    「いや、飯はいいですゥ」
    「不死川……いくら鬼殺隊と言っても、人助けをした者が、人殺しの憂き目にあうことは滅多にない。お前は鬼の贄に殺されかけたのだから」
    「はァ」
    「酒をもう一杯いくか」
    「はァ、その」
    「私を抱くか」

    ぎくりとして、実弥は悲鳴嶼を見た。見えない目をひたりと実弥に向け、真剣な顔と声音だった。体に比べて小さな唇を見ていた。唇が白湯で濡れていた。

    すぐ傍にいる。その大きな手を取って、暖かさを確かめてもいいと言われた。この屋敷の中に何をしても許されるのを感じ、実弥はぎこちなく微笑んでいた。

    「……いや、ありがてェですけれど、そういう用で来たんじゃなくてェ。爽籟の案内で走ってたら、ここに着いてたってだけでェ」
    「私の入った後でいいなら風呂もある」
    「風呂がいいなァ」
    「入るといい」
    「じゃァ、失礼しますよォ」

    立ち上がり様にふらついたのは、気が緩んだところに酒を注いだからだ。実弥は勝手知ったる岩屋敷の風呂場に入った。まず洗い場で腕の傷を縫ってから掛け湯をした。初めてこの屋敷に来た頃のことを、ここで読み差しのままになっている和歌集を思っていた。

    湯気の温かな中、悲鳴嶼の長閑さが湯と共に肌から染み入ってくるような錯覚があった。大勢の人に殺されかけて殺気立っていた気持ちが宥められて行くままに、湯船の縁に頭を乗せた。噛まれた耳や傷つけられた首筋が気になっていた。

    長く入った風呂を上がると、隠の手で膳が整えられていた。いつもの岩魚に山鳥の肉と山菜の入った炊き込みご飯。野菜の浅漬け。葱入りの炒り卵がついて、味噌汁は岩海苔だった。そこに酒がつく。

    「こいつはまた御馳走だなァ」

    実弥は嬉々として箸を取り、しばらく無言で膳のものを食べた。先に飲んだ酒のせいもあり、気持ちがふわふわと温まっていた。手酌で注いで、いい酒だ。

    この家で酒にこだわるのは隠だろう。悲鳴嶼の身の回りをするのに手を抜く気がない。柱に柱らしい品を選ぶ目を持っていて、そこに悲鳴嶼はあまり関わっていなさそうだった。夜を戦う鬼殺隊の柱が俗世間と関わらなくなって行くのは自然なことだった。

    風呂と飯で人心地がついて、実弥は改めて悲鳴嶼の前に頭を下げた。

    「いやァ、助かりました。恩に着ます」
    「大したことはしていない。前にお前がいた時と変わらない扱いだ」
    「それがありがたいって話ですゥ」
    「守ろうとした人から殺されかける。鬼殺隊にいると、割にあわない話は多いが……今回はまた、きついことだな」
    「悲鳴嶼さんは、そういうことありましたかァ」
    「あった」
    「どんなァ?」
    「鬼になった夫を匿っていた婦人を助けた事があった。助けたら、凄い剣幕で包丁で腹を刺された。産んだ子も全部食われて、一番上の娘が嫁いで無事だったようだが」
    「へェ」
    「私を刺した返す刃で喉を突き、助からなかった」

    実弥は酒の膳の上にある、もう一つの猪口を満たして悲鳴嶼の前の長火鉢の縁に置いた。気配を察して猪口を取り、彼も飲んだ。

    「隠の調査から推察したことでしかないが……その時は訳が分からなかった。助けた相手から刺されたのは驚かされた」
    「それをアンタの中の仏はなんてェ言いますかァ?」
    「私の中に仏はいない」

    普段は地蔵、実弥の前でだけ偶に観音になる。実弥は長火鉢の縁に置かれた猪口にまた注いだ。はじめに飲んだ酒が効いてきて、体が温まっていた。

    「では、実弥の中には仏はあるか?」
    「神や仏なんて者ァ最初から無ェですよ」

    悲鳴嶼の見えない目が実弥を見ていた。仏のごとくに優しく清く、数珠と経を能くするから彼の中には仏が居ると思っていたが、案外と同類だった。

    手酌で注いで酒を舐める。血の巡りが良くなったから、生傷がむず痒かった。

    「傷でもあるか」
    「ええ、まァ」
    「傷薬がある」

    長火鉢の引き出しを開けて小壺を取り出し、火鉢の縁に置いた。

    「蝶屋敷からのものだ。お前の所にもあると思うが……どうせ明日の夜までここにいて、その後は任務に出て行き、家に戻るかどうかも分からぬのだろう」
    「ええ、まァ」
    「傷口が膿まぬよう、しっかり薬を塗るといい」
    「はい」

    薬を塗ると匂いがする。悲鳴嶼はそれで実弥の傷の場所を知ったようで、男らしい眉が動いた。

    「あの、首と耳のは掠り傷ですゥ」
    「南無」

    実弥は薬壺を元の長火鉢の裾に戻した。悲鳴嶼は涙を流し、壺を元の引き出しに仕舞った。乾かない薬膏の匂いが部屋の中に漂っていた。悲鳴嶼が猪口を摘まむように持って、くいと飲んだ。

    「実弥」

    急に名を呼ばれた。悲鳴嶼が、猪口に酒を寄越せと差し出してきていた。

    「私では、お前の馳走にはならぬのか?」

    誘い文句も、いや、誘っているつもりかどうか。悲鳴嶼の事だからその気は無いのか。実弥はじっと己を耐えて、差し出された猪口に注いだ。悲鳴嶼は注がれた酒を少し飲んだ。

    見えない目がほろ酔いでじっと実弥を見つめているのにどんな返事をしようかと、腹の底が酔いにほぐれて、思わぬことを口走ってしまいそうだった。
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