「ユウ!!」
「っ!はい!!」
この人に背後から声を掛けられるとびっくりする。さすがに「人間」呼びは止めてくれたものの、彼からのこの呼び方には未だ慣れないでいた。
その人はカツカツと靴を鳴らして此方まであっという間に近づいてきた。接近すると彼の背の高さが際立って見える。彼と話すとき、私はいつだって見上げる体勢になった。
「貴様、次のホリデーはどうするんだ?」
「もうちょっとだけ声、落としてくれるかな……グリムと、あとはゴーストたちと過ごす予定だよ」
彼の大きな声に若干萎縮しつつ、私はホリデーの計画を話した。
皆が心待ちにしているホリデーは、私にとってはちょっとだけ淋しいものだ。だって、みんな故郷に帰ってしまうから。けれどグリムはいるし、ゴーストのおじさんたちもいてくれるという。もはや彼らとご馳走を囲むことになるのが恒例になっていた。
今回のご馳走は、何にしようかな……静かになった私を見て、セベクは決まりが悪そうに唇を引き結んだ。
「予定があったのか、そうか……」
「え?」
「っ、」
セベクが何か呟いた。聞こえなかったので尋ね返すと、セベクはしどろもどろになった。
珍しい。いつも大きな声ではっきり意見を述べる人なのに。私は目を丸くした。
「その、ユウ」
「何かな」
「次のホリデー、お前が良ければだが……うちへ来ないか」
うち。その言葉を暫く反芻していたが、意味が分かるにつれて私の驚きも増していった。
「うちって、セベクの!?」
「誰のだと思ったんだ! そうだ、僕の実家に間違いないぞ」
「わあ……」
付き合い始めて暫く経ったとはいえ、恋人の家に呼ばれるのは私にとって初めてのことで、その……とても緊張してしまう。
私の戸惑いに気が付いたのか、セベクがこれまた珍しくもしおらしくなってしまった。フイっと横を向き、小さな声で呟く。
「お前が嫌ならば……」
平気なふりをしているようだが、その耳は真っ赤に染めあがっていた。その姿に胸の奥がきゅーんと痛む。
「イヤじゃない! 行きます! 行かせてください!」
「! 声が大きいぞ、人間!!!」
そういうセベクのほうが声が大きい。その轟音に私は反射的に耳を手で塞いだ。
斯くして、私はセベクの実家──茨の谷を訪れることになったのだった。
〇〇
待ちに待ったホリデー。私はセベクに連れられて、茨の谷を歩いていた。
初めて見る街並みはとても新鮮だ。黒々とした煉瓦の建物や魔法を使った街灯など、セベクは丁寧に谷のことを説明してくれた。
そうして歩きつつ、ふと気になったことを尋ねてみた。
「ねえ、お土産ってこんなので本当に大丈夫だった?」
「ああ。僕の家族は喜ぶと思うぞ」
手土産に選んだのは手作りのケーキだった。以前、ハーツラビュルのお茶会にお邪魔した際にトレイ先輩のお手伝いをして、そこでレシピを教えてもらったものだ。
本当ならば出来合いの、それもきちんとしたものを買うべきなのだと分かってはいたけれど、なんといっても私にはお金がない。普通の学生よりも経済的に困窮していると言えるだろう。いろいろ遣り繰りしては見たけれど、どうしてもお店のものを買う余裕は無かった。
とはいえ手土産がないのは失礼にあたる。だって、今回は恋人の家に挨拶に行くのだから。セベクは気にするなと言うけれど、私のほうの気が済まないのだ。
「ああ、見えてきたぞ」
「うそ……」
セベクが指し示した家は、屋敷と言って差し支えないような大きさだった。子息がツノ太郎に仕えているわけだし、セベクの仕草を見ていると良い家の子なんだろうとは思っていたけれど……。実際目の当たりにすると急に緊張してきてしまった。
「どうした?」
そう言いながらセベクが怪訝そうにこちらを見た。私は緩く首を横に振る。
「ナンデモナイヨ……」
「顔色が悪いが」
「……ちょっと緊張しているだけだよ」
「そうか」
私の答えを聞くと、セベクは少し考え込むように目を伏せた。そしていつになく静かに言った。
「少し驚くところはあるかもしれないが、僕の家族はお前を害したりはしない」
そう言って私の目をじっと見つめるセベク。この人は良く喋るけれど、決して嘘を言うような人ではない。私はその言葉に安心して頷いた。
「着いたぞ」
セベクが鍵を取り出して開けようとした瞬間に、扉がバーン!と音を立てて内側から開かれた。重厚そうな木製の扉なのに、まるで薄っぺらいベニヤ板のように軽々とした動きだった。
玄関にいたのは、大柄な女性だった。とても背が高くて、でもプロポーションは女の私がうっとりするほど均整がとれている。何より、そのミストグリーンの髪色に、私は非常に見覚えがあった。
その女性はセベクと、そして私の姿を認めると大声で叫んだ。
「セベク! そして人間!」
背筋にビリビリとくるような声だ。思わず半歩後ろに下がってしまった。
この容姿と、セベクの呼び方からするにやはりセベクの親族で間違いは無かったらしい。それにしても、とても綺麗な人だ。セベクは確か、お姉さんがいると言っていたっけ。もしかしてこの人がそうなのだろうか。
それに私の呼び方まで一緒だ。セベクの「人間!」呼びでもう慣れっこなので特に気にすることは無いのだが、ここまで声が大きいとやはり驚いてしまう。
「ただいま帰りました、母上」
「えっ、母上!?」
セベクがその人に向かって恭しく頭を下げた。傍らでそのやり取りを聞いていた私の驚きは頂点に達した。え、この人、お母さんなの!?
暫くセベクと会話していたそのお母さんだったが、私の驚く様子に気が付いたのか、此方に向き直った。
繰り返すようだがお母さんはかなり背が高くて、さらにヒールの付いた靴を履いていらっしゃるので私とは頭二つ分ほどの差がある。ハイヒール、似合うなぁ……。
私が言葉も出せずに固まっていると、両肩をガッと掴まれた。
「人間!貴様はセベクの恋人だそうだな!」
「っ、はい!」
ぐわっと牙を見せるようにして発声するので、私は吃驚して仰け反りかけた。
これ、もしかして「人間に息子はやらん!」ってアレかな? セベクはホリデーの前に、私を連れて帰るとご実家に連絡を入れていたようだ。ご家族には恋人として紹介してくれていることが嬉しくてちょっと恥ずかしい反面、薄々反対されるんじゃないかと不安なところがあった。だって相手は妖精族で、私はただの人間だ。茨の谷のことも私はよく知らないし、何より魔法も使えない。ツノ太郎──あのマレウスに仕えるくらいの家だから、私がお眼鏡にかなわない可能性は十二分にあるのだ。
私の肩に置かれた手にぎゅうっと力が込められた。私は静かに死を覚悟した。
しかし恐る恐る見上げたその顔は、意外な表情を浮かべていた。
「よく来たな! 歓迎するぞ!」
輝かんばかりの笑顔。私はちょっと拍子抜けしてしまった。そしてそのまま強い力で肩を引かれたので、私は転びそうになった。
が、柔らかいものに受け止められた。
「え?」
「貧弱だな、人間は」
私を包み込んだのは、お母さんの胸だった。豊満……そんな単語が頭を過っていく。
言葉遣いは散々ながら、その声はとても優しかった。その温かさに、故郷の母を思い出す……元気にしているだろうか。
「ああ、君がユウちゃんかい」
そうして呆けていたら第三者の声が聞こえて、私は飛び上がった。今日はびっくりし通しだ。しかしお母さんの腕の拘束は強く、ほぼそのままの位置に収まったままだった。
なのでお母さんが声のしたほうを振り向くと、私も自動的にそちらを向くことになった。
玄関ホールには小柄な……いや、平均身長くらいの男性がいた。セベクとセベクのお母さんが大きな人だから目が錯覚を起こしていたようだ。その人は目を細めてニコニコと笑っている。
「いらっしゃい。それにおかえり、セベク」
「……ただいま」
先程とは打って変わって、ひどく小さな声で不愛想に答えるセベク。これはちょっと珍しい。男性のほうを見ると、その人は笑った顔はそのままに目を開いた。
「元気だったかい?」
「ああ」
開かれたその瞳の色はアンティークゴールド。セベクと同じだ。ということは……。
「いつも息子がお世話になっています」
その人は丁寧に頭を下げた。つられてこちらもお辞儀する。お父さんで間違いなかったようだ。セベクとは正反対の、落ち着いた雰囲気に面食らってしまう。
お父さんは眼鏡の奥から私のことをじっと見ていた。観察するような目線に今度はたじろぐ。お父さんは私の反応に気が付くと「すまないねぇ」と言って、恥ずかしそうに頭の後ろを掻いた。
「いやぁ、シルバー君以外の人間の子を見るのは久しぶりだなぁ。嬉しいねぇ、お母さん」
「……ふん」
先程まで上機嫌だったお母さんが、これまたフイっと横を向いてしまった。その反応にお父さんはちょっとだけ目を丸くして、けれどまたすぐ笑顔に戻ってお母さんの方に尋ねた。
「お母さんは夜に行動するヒトだから、今朝は頑張って起きてきたんだよね」
「なっ、貴様!それは言わない約束だと!!」
「セベク君が恋人を連れてくるっていうから、「甘いものは好きだろうか」「私のことを怖いと思ったりしないだろうか」ってホリデー前からそわそわして……」
「ええい、黙れっ!」
「むぐぐ」
私を包んでいた腕がパッと離され、そして慌ててお母さんがお父さんの口をその手で塞いだ。お父さんは締め上げられても穏やかにしていたが、セベクが血相を変えて止めに入っていった。ずいぶんお母さんは動揺しているらしい。
「母上、それ以上は……」
「ああ、そうだった! すまない!」
「だいじょうぶ」
お母さんは急いでお父さんを離した。離されたお父さんは勢い余って眼鏡を飛ばし、尻餅をついた。セベクが慌てて抱き起こす。
「ああ、すまないねぇ、セベク君」
「しっかりしてくれ」
やれやれと呆れるセベクだが、その動作はとても優しいものだった。前に誕生日のインタビューをしたときはお父さんと仲が悪いのかと思っていたけれど、どうやら違っていたらしい。
「さあ、うちへようこそ」
落ちた眼鏡を拾って手渡すと、お父さんは満面の笑みで「ありがとう」と言った。そしてセベクに抱えられたまま、私を家に招き入れてくれた。
「お、お邪魔します」
〇〇
セベクの家は予想以上に広くて、でもとても居心地の良いところだった。掃除が行き届いていて、壁には写真がたくさん飾られている。
その写真にはお父さんお母さんとセベク、そしてもう一人ずつ男性と女性の姿があった。
その二人はセベクとよく似ていて、セベクが幼児の頃に少年少女、小学生くらいの時に青年の姿をしていた。これって……。
「ねえ、この人たちって……」
「ああ、兄と姉だ」
廊下を歩きながら指を指して尋ねると、セベクが答えてくれた。そういえば、お兄さんとお姉さんもいるって前に言っていたっけ。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんは出払っててね」
お父さんが補足する。会ってみたかったが生憎出かけているらしい。それにしても、ジグボルト家の兄弟は皆、お母さんに似ているようだ。正直、お父さんに似ているところは瞳の色しか見当たらない。
リビングに案内されると、そこは壮観だった。
「す、すごい……!」
「……」
傍らを見ると、セベクが額に手を当てて絶句していた。
「母上……張り切り過ぎだ」
「ふん、客人が来るのだからこれくらいは当然だろう」
「この間来たお客様は気に入らないってすぐに追い返しちゃったけどねぇ」
「貴様! 一言多いぞ!!」
テーブルに準備されていたのはお茶とお菓子だった。しかしその量が普通ではない。所狭しと皿が並び、それぞれ山のようにお菓子が盛られている。スイーツバイキングといっても遜色ないくらいのラインナップに、私は目を見張った。
「さあ、座るといい。人間、お前は何が好きだ?チョコレートケーキか? 苺の載ったムースもあるぞ。ああ、アイスクリームを取り出してこようか」
「え、えっと……」
「母上、ユウが慌てています!」
「ふふ、賑やかだねぇ」
そのままなし崩し的にお茶会が始まった。いつもは意図せず人を振り回すことの多いセベクが、お母さんとお父さんに振り回されている様子はとても新鮮なものだった。
お母さんはセベクに見た目も性格もそっくりだ。豪気で自信たっぷりに話すその姿は、学園で何度も見た光景だった。一方のお父さんは穏やかだけれど、時々お母さんやセベクを慌てさせるようなことを言っていた。けれど二人とも本気で嫌がっているわけではなさそうで、家族仲がいいのだと思った。
そこで私は、自分が手にしていたものをようやく思い出した。けれどこの光景を見てしまった後で、これを手渡す気にはなれなかった。
「ユウ、どうした……ああ、」
下を向いて俯いていると、セベクが気づいたように声を掛けてくれた。そして私の肩に手を置いた。
「大丈夫だ。お前が心を込めて作ったんだろう」
「……! うん」
そう後押しをされ、私は一つ頷いた。そしてどうにかお父さんとお母さん、二人の前に手提げを差し出した。ずいぶんギクシャクした動きになってしまったけれど、気が付かれていないだろうか。
「あ、あの、これ!」
「ん?これはなんだ、人間?」
「……お土産、です」
震える声で答えながらお母さんにそれを手渡す。お母さんはその大きな手で、そっと包みを開けた。
「! これは」
「ケーキです。でも、こんなに美味しそうなお菓子があるんだったら……」
語尾が尻すぼみになる私に、お母さんは何故か目を見開いた。その眼力にたじろぐが、お母さんはまた思っていたのとは違う反応を返した。
「とても嬉しいぞ!」
「え?」
「甘い菓子はいくらあっても良いものだ。それに、これは貴様が作ったのだろう?」
「あ、はい……」
「さっそく切り分けようね」
お父さんもにこにことしている。二人の温情に、私はやっと緊張が解けた心地がした。
ご両親とはたくさんお話をした。
「へえ、ユウちゃんはマレウス様と仲が良いのかい」
「それは本当か!人間!」
「あ、はい」
なかでも一番盛り上がったのが、ツノ太郎──マレウスについての話だ。セベクも誇らしそうにしていた。それにお母さんも嬉々として学園でのツノ太郎についての話を聞きたがっていた。
「若様はお元気でいらっしゃるか? 学園では何を召し上がっている? 不用意に出かけたりしていないだろうか」
最後の質問には言葉を詰まらせた。だってツノ太郎が不用意に出かけているおかげで、私は彼と出会ったのだから。
セベクは嬉しそうにツノ太郎の近況報告をしていた。好きな人が好きなものの話をしている時が、私は一番好きだ。本当は嫉妬すべきなのかもしれないが、セベクのこれはもうアイデンティティに近い。気恥ずかしくなる時もあるけれど、そんなセベクが好きだった。
〇〇
楽しく話していると時間が経つのがあっという間だ。窓の外を見ると、もうすでに日は暮れていた。
「人間!貴様が泊まるのはセベクの部屋で良いか!?」
お母さんがカッと目を見開き、私にそう尋ねた。声の圧と質問の内容に、傍のソファに座っていたお父さんが吃驚して「ひゃあ」と声を上げている。私もお父さんと同じ気持ちだ。恋人と紹介され、公認してもらっているとはいえ、それは……。
「そんなわけっ……」
急いで首を横に振ろうとした私より先に、セベクが大きな声で答えた。正確には答えようとして、何か言いかけて固まってしまった。
あまり関係ないけれど、セベクとお母さんの声質はそっくりだ。もちろん男性と女性の声の高さの違いはあるけれど、掛け合いをしているとまるで一人で話しているかのように聞こえる。
「なんだ、意気地が無いな。それでもジグボルト家の男か」
そんなセベクにお母さんが「フフン」と鼻を鳴らし、挑発した。セベクは顔を青くしたり赤くしたり忙しそうだったが、やがて何かを決心したように話し始めた。
「っ! 母上、お言葉ですが!」
「言ってみろ」
「僕は、ユウのことを大事にしたいのです!」
瞬間、その言葉が胸に刺さった。もともとずいぶん硬派な考え方を持っている人だとは思っていたし、彼の恋愛観も(リリア先輩のせいで)古風なものだとは知っていたけれど……。
大事にしてくれているんだなぁ。その純粋でまっすぐな思いやりに、私は胸がきゅうううんと痛んだ。
「な、なにを変な顔をしている、ユウ!?」
「ちょっと嬉しさが胸に来て……」
胸を手で押さえたまま動かない私を、セベクが訝しげに見下ろした。この感情をどう表現したものか……。
うんうん唸っていると、頭上から空気を切り裂くような笑い声が聞こえた。
「そうか、よろしい!!!」
お母さんは満足げに笑っていた。お父さんの方は何だか戸惑ったような顔をしていたけれど……。
〇〇
夕食も済んで、私とセベクは2階のバルコニーで語らっていた。
今日は沢山の会話をしたというのに、こうして二人きりで話すのは何だか久しぶりだ。話すのはご家族のこと、学園の友達に買っていくお土産のこと、明日は何をするかということ……話題はいつまでも尽きなかった。
しかしふと、話が途切れる瞬間があった。暗闇の向こうを見つめていた目を傍らに移すと、セベクもまた此方を見ていた。そのアンティークゴールドの瞳は出会ったばかりの頃とは違って、ひどく優しい。私の言葉を待っているかのように、じっと此方を見つめている。
私はちょっとだけ何を言うか迷った。けれど言うなら今かもしれないと、静かに口を開いた。
「その、嬉しかった」
「……」
「私をご家族に会わせてくれたことも、私のことを大切に思ってくれていることも」
「……ああ」
セベクはちょっとだけ照れくさそうに前を向いた。その耳はうっすら赤い。
自分が恥ずかしい台詞を言っていることは十分承知の上だ。けれどこんな時でもないと、心の奥のことは伝えられない。言葉にするということは、それだけ大切な意味を持っているのだと、私はよく知っていた。
急に異世界にやって来て、友達や家族に一時の別れを言うことすら叶わなかった。そして、ここに来て2年が経つけれど、もしかしたら明日になって急に帰ってしまうかもしれない。以前なら喜ばしいことだった。しかしここにいるべき理由ができたことで、手放しには喜べないもどかしさがあった。あれだけ帰りたいと願っていたのに、自分勝手なことだ。
だからいつ帰ってしまってもいいように、言葉には気を付けていた。攻撃的なことを言わないのは勿論、感情は素直に述べたほうがいいのだということにも。
そんな私の不安を汲み取ったのか、セベクの手が頬に触れた。その温かさと優しさに目を細めると、セベクが言った。
「お前の家族に、いつか会いに行くぞ」
「え……?」
驚いて目を見開く。この茨の谷に人間の私が来ることも大変なことではあったけれど、私の実家に行くことはその比ではない。なんて言ったって、世界を超えるのだから。
けれどセベクは至って真剣な面差しをしていた。もとより嘘を吐くような人ではないと良く知っているけれど……。
「……本気?」
「疑っているのか? ……まあ、時間は掛かるかもしれないが、それでも僕は諦めるつもりはないぞ」
セベクは眉を顰めつつそう言った。
「大切なお前を貰うんだ。挨拶をしなくては失礼に当たるだろう」
「……ふふっ」
「なぜ笑う!?」
真剣な空気にそぐわない、笑い声が口から漏れてしまった。別にセベクがおかしかったわけじゃない。何というか、その……。
「……嬉しいの、とても」
「……」
セベクは凪いだ瞳で私を見ていた。頬に添えられた手に少しだけ力が加わって、セベクの顔が近づく。
そのまま私たちは二人して何も言わず、お互いを見つめあっていた。付き合い始めた頃はこうすることに気恥ずかしさもあったけれど、今はもう信頼がある。私もそっと腕をその広い背中に回した。
「ユウ」
「セベク……」
お互いの距離がぐっと近づく。目を閉じて、唇が触れそうになった瞬間──第三者の声がした。
「セベク君、ユウちゃん。歯磨きは忘れないようにね」
驚いてそちらを見ると、ニコニコ笑顔のお父さんが立っていた。それだけ私たちに告げると、「おやすみ」と廊下の向こうに去っていった。
「……ああ」
「はい……」
私たちはその後ろ姿を見送り、呆けた声で返事をすることしかできなかった。
〇〇
深夜。私は目を覚ました。
「……お手洗い」
ベッドを降り扉から出ると、廊下は真っ暗だった。転ばないよう、ゆっくりと歩く。
そうしてどうにかたどり着き、お手洗いを済ませて廊下に出る。闇に目が慣れ始めていたとはいえ、不慣れな家の中を歩くのは大変だ。
そんな中で、不意に背後から声を掛けられた。
「人間?」
「! うわああああ!!?」
驚いて振り返ると、暗闇の中に大きなシルエットが見えた。声からして、お母さんのようだ。
「眠れないのか?」
「イエ……そう言うわけでも……」
お母さんはそこで人差し指を伸ばした。すると、その先に仄かな火が灯った。
そうして見ることができたお母さんの顔は、悪戯っぽく笑っていた。
「とっておき、だ」
「?」
着いてこい。言われるままに誘導され、私は滞在している部屋とは反対側に歩き始めた。
〇〇
お母さんが先導した先は、一つの扉の前だった。私が使わせてもらっている部屋ではない。もっと奥まったところにある部屋だ。
「入るといい」
「お、お邪魔します」
部屋は薄暗く、奥のほうに大きなベッドがあった。お母さんの私室なのだろうか……そう思っていたら、その上に置かれた枕に埋もれるようにして、お父さんが寝息を立てていたことに気が付いた。思わず口に手を当てて声が出ないようにする。私の様子を見ていたお母さんは、意外にもからからと笑った。
「それは一度寝ると起きないんだ」
「あ、そうなんですか」
「セベクもそうなんだが」
「えっ?」
「……その初心な反応からすると、セベクが貴様に手を出していないのは本当らしい」
その言葉の意味を反芻して、気づいた頃には私の頬は赤く染まっていた。お母さんは笑いつつ、棚から何かを取り出した。そして胸元のポケットに挿していた魔法石付きのブローチに触れると、たちまち私の目の前にマグカップが現れた。
「手に取るといい。ミルクだ」
「!」
指摘の通り、手にしたカップに入っていたのは湯気の立つホットミルクだった。何もないところに調理済みのものを出すなんて……すごい魔法だ。目をキラキラさせる私にお母さんは微笑み、手にしていた瓶の中身を二滴ほどカップの中に垂らした。すると、その場にかぐわしい香りが立ち上る。
「眠れない夜のまじないだ。本物の魔法付きのな」
「……ありがとうございます」
そのまま近くのスツールに座るよう促された。お母さんも安楽椅子に腰かける。
そうしてお母さんは、私がホットミルクを飲む様子をじっと見つめていた。観察しているような、そんな視線ではない。私はやはり故郷の母を思い出さざるを得なかった。
母さんとは、こういうとき何を話していたんだっけ。少し前には当たり前のことだったというのに、何も思い出せない。それに何だか沈黙が気まずくて、私は不意に変なことを口走っていた。
「あのぅ、な、馴れ初め、とかって……聞かせてもらえませんか?」
たった一つ思い出すことができたのは、父との馴れ初めを聞いたあの日のことだった。今の落ち着いた両親からは想像できないような、ロマンチックで不思議なエピソード。
不躾だったと自覚した頃には、私はすっかり背筋が凍るような思いがしていた。知り合って間もない人に振る話題ではなかった。慌てふためく私に暫くきょとんとしていたお母さんだったが、すぐにその口角を上げた。それは何だか、ツノ太郎の話をしようとする時のセベクにそっくりだった。
「妙な娘だ」
「え、あの……」
「いいだろう、話してやる」
意外なことに快諾してくれたお母さんは、遠くを見るような目をしながら語ってくれた。
〇〇
歯が痛い。
旅先で私は激痛に悩まされていた。
ここ暫くはまともに眠れやしない。
私の歯は武器にもなる。これではせっかく修行の旅に出たというのに集中できないままだ。
谷にいたならば魔法医術で治してもらえば済む話だ。しかし今は旅先だ。加えてここは人間が多くを占める国。私はどうすべきか途方にくれた。
町を行く者に尋ねると、人間はこういう時に歯医者というところに行くのだと教えられた。茨の谷では聞いたことのない職業だ。
薦められたままその住所を訪ねた。大きな町の隅に、その歯医者はあった。
そこは小さな家だった。看板には人間の文字で何やら書かれていて、歯を模した絵が添えられている。ここで間違いないらしい。
ドアを開くと、沢山の人間がいた。一斉にこちらを見る。そんなに妖精が珍しいのか?
「ここが歯医者か?」
「え、ええ……ご予約は?」
中年の女が話しかけてきた。その顔には怯えが見える。見慣れた表情なのでそのまま問いを続けた。
「予約? なんだそれは」
「治療を受けていただくには順番を……」
「どうされました?」
奥からまた違う人間が出てきた。白い衣を着た男だ。厚い眼鏡を掛けているが、その目尻はだらしなく下がっているのが確認できた。
「お前が歯医者か?」
「ええ、そうです」
「そうか。お前の手腕、とくと見せよ!」
男は私の言葉にきょとんとした後、にこっと笑って言った。
「お待ちいただけますか?他の患者さんが先です」
「……分かった」
歯は依然として痛み続けていたが、その言葉にはなぜか逆らうことができなかった。穏やかで軟弱そうな奴なのに、もしかして精神魔法が使える魔法使いなのか?
私は言われるままにソファに腰掛けた。周りの人間は怯えて距離を置きながらも、此方に注目し続けていた。その視線が気に障ったが、旅に出る際に「人間を怖がらすな」と女王陛下に言われていたことを思い出し、大人しく目を瞑って無視をした。
暫くして私の名前が呼ばれた。その頃にはこのこの部屋──「待合室」というそうだが──には殆ど誰もいなくなっていた。時間帯はもう夕方だ。待っている間には受付に座る先ほどの中年の女がいくつか質問をしていったくらいで、あとはぼうっとして過ごすことしかできなかった。
「ジグボルトさん、でしたよね?」
「ああ」
歯医者の男はあれからずっと治療をしていたのだろうか。しかし疲れた様子はなく、ここに来た当初のままの笑顔で私に向かって手招きをしていた。。
男に案内されるまま奥の部屋に入る。そこにはベッドのような椅子と、見たこともないカラクリがいくつも並んでいた。
「さあ、こちらへ」
「……」
皮張りの椅子は冷たい。私がそこに座ると、エプロンのような布を胸元に掛けられた。この椅子といい奇妙なカラクリといい、なんだか違和感がある……私は何をされるのか。
思わず唾を飲み込んだ私に、男は微笑んで言った。
「始めますよ~」
「ぐぬっ」
そして口を抑えつけられる。私にとって口、つまり顎と牙は何よりも大切なものだ。そう易々と雑に触れられて良いものではない。恨めしく男を見上げたが、そいつは意外な表情をしていた。
「わぁ……」
「!?」
「逞しい、素敵な歯ですね……!!」
男の目はキラキラと輝いていた。私はその表情に釘付けになった。どうやら私の歯に見惚れているらしい。人間のくせに、なかなか見る目を持っているじゃないか。
「さ、治療しますね!」
私がその不思議な瞳から目を離せないでいるうちに、男は作業を始めた。
「あ、虫歯ですね。なるほど」
「ちょ、~~~~っ、んん」
その後、一時間にも満たないくらいの時間だったか。私は初めての感覚に翻弄され続けた。
〇〇
「何かが、おかしい」
滞在している宿に戻って来た。歯には違和感はあるものの、抱えていた痛みはすっかり霧散している。違和感はしばらくすれば消えるという。そしてフッ素と言う物の不思議な甘さが、口の中に残っていた。
歯医者というものには初めて行ったが、案外悪くないものかもしれない。数日間に渡って悩まされていた痛みも消えたし、腔内はすっきりとしている。何よりあの歯医者の男は、私の牙を頻りに逞しいとか美しいとか褒め称えていた。悪い気分ではない。なにせ、私は茨の谷の女王にこの牙をもって仕える妖精なのだ。あの男、人間にしては審美眼が備わっているようだ。
男は一週間後に再び来るように私に言った。それまでこの人間の国に滞在しなくてはならないのか。もうこの国ですることはないと思っていたので、少々退屈にはなりそうだが……。仕方がない、人間がどうしてもというのであれば暫くは待ってやろう。
あの男は幾つくらいなのだろうか。人間の年齢は分からないことも多い。人間からすると私たち妖精のほうが年齢不詳とのことらしいが、私には若い人間はどれも赤子に見えてしまう。男はまだ若いようだったが、それにしてはどっしりと構えていた。私を見ても驚かない。大抵の人間は妖精であり体格の良い私に怯えるのだが、何故なのだろう。
ああ、なぜ私はこれほど男のことを考えているのだ!? ただの人間だ、気にすることは無いはずなのに……。
私は寝台に寝転び、ブランケットを被って目を閉じた。けれど奴に触れられた歯には、未だ妙な感覚が残り続けていた。
〇〇
「うん、良い感じですね!」
一週間後、私は再びあの歯医者のもとにいた。今回も散々待たされた末、男は私の口の中を観察してあっさりとそう言った。こちらが拍子抜けするほど、その言葉はあっけらかんとしていた。
「本当に良いのか?」
「ええ。綺麗に治ってます」
「そうか」
魔法医術以外で治療されたのは初めてのことで、正直なところ疑っているところもあったが、実際歯の痛みはすっかり無くなっていたし、あの違和感もすっかり消え去っていた。
「人間の割には、大した腕前だな!」
私がそう男の手腕に賛辞を送ると、男はまたきょとんとした顔をした。何か気に障ることでもあったのだろうか。
しかし男は私の思ってもみないところを気にしていたようだった。その怯えた顔は初めて見る。私は不覚にも驚き、心臓の凍るような心地がした。
「ジグボルトさん……」
「なんだ、人間」
「ジグボルトさんって、その言い方だともしかして人間ではないのですか?」
「はあ!?」
私は驚きを通り越して呆れてしまった。これまでどんな国の人間でも、人間と妖精の区別はついていたはずだ。よく似た種族ではあるが見ていれば分かるだろう。それがこの男は、正気なのだろうか。
驚き続ける私に、男は恥ずかしそうに頭の後ろを掻いていた。
「私は妖精族だ。分からなかったのか?」
「いえ、お恥ずかしながら妖精というものを見たことがなくて……」
私は重ねて面食らってしまった。妖精を見たことがないだと?確かに我々は希少でかつ高貴な存在ではあるが、他の里に住む妖精の中には人間を好む者もいる。しかしであったことがないのであればと、私は男の鈍感さに頷くところがあった。そういえばここは人間が大多数を占める国で、獣人や人魚だって殆ど見かけなかった。
ひとり納得して頷く私に、男は照れくさそうに言った。
「でも、素晴らしいものですね、妖精って」
「?」
「見たことないほど逞しくて硬そうな歯でした。皆さん、あんな歯を持っているんですかね……いいな、治療のし甲斐があります」
「!?」
男はうっとりとしていた。私の歯を褒めているようだが、どこか誤解しているところがある。
「私の歯は特別だ!確かに妖精族は人間よりも優れているところは多いが、私の牙は一族に特有のものだぞ!」
「へえ、そうなんですね!」
そう訂正をして、私はハッと口元を押さえた。確かに私の歯は素晴らしいが、父や一族の諸兄にはもっと美しく強い歯を持つ方がいる。それに何より、女王陛下や若様だって……。
私は座っていた丸椅子から立ち上がった。いきなり見下げられる形となって男は驚いていたが、私は迷わず問いかけた。
「人間、来るか?」
「え? どこへ?」
「茨の谷に、だ。もっと素晴らしい牙を持った妖精がいるぞ」
私の誘いに暫く男は呆けたような顔をしていたが、すぐに目を見開いて大きく頷いた。あの時、私の歯を初めて見た瞬間の輝いた瞳だ。
「行きます!」
男はすぐに手帳を取り出した。そして大急ぎで何本か電話をかけ、あの中年の女に一言二言叫んでから、私に向かって言った。
「一か月、休みます! 連れて行ってください!!」
「……あいわかった」
誘ったのは此方だが、その時の男は少々恐ろしくなるほど懸命だった。穏やかな姿しか見たことが無かったため、私は自分の口元が引き攣っているのを感じた。
〇〇
そして一週間後。私は男を連れて故郷の地を踏んだ。帰ってくるのは久しぶりだ。他の土地よりも少しだけ湿り気のある空気に、私は帰ってくることのできた喜びを噛みしめた。
男はと言うと、大きな鞄を抱えて谷の景色を見つめていた。いつもであれば移動魔法でここまでやって来るのだが、今回は奴のために鏡と船と馬車を乗り継ぎ、最終的には徒歩で何とかたどり着いたのだった。日頃から鍛えている私からすると何でもない距離だったが、男にとっては消耗の激しい旅になっていたらしい。その服は汚れているし、顔には疲労が見て取れた。けれど私が何度休もうと提案しても、男は前に進むことを止めなかった。谷を早く見に行きたいらしい。人間は概して貧弱な生き物だが、男のその根性は認めてやってもいいかもしれない。
そうして街に入る。人間が珍しいので、道を行く住民たちは振り返って男を見ていた。舐めるような視線に居心地が悪くないのかと思ったが、男はそれよりも他のことに夢中だった。
「わあ、すごいね!魔法の仕掛けばかりだ!」
「この谷は全てが魔法で動いている。人間の国とは趣が違うだろう」
男は街にいくつも点在する魔法の仕掛けに目を奪われていた。男の住むあの小さな建物にはからくりが溢れていた。それにあの国は人間が多数を占めているし、魔法が使えないものが多いと聞いていた。恐らくこれほど大量の魔法道具を見るのは初めてなのだろう。
男は子どものような目をして、魔法を使った大道芸を見つめていた。私には見慣れた光景も、こいつがいると何故だか新鮮に見えてくるから不思議なことだ。
「本当にすごいね、ジグボルトさん!」
「ふふん。人間とは違うのだ」
「ねえ、ここの歯医者ってどうなっているの?」
「ああ、医術のことか?全て専門の魔法医術士が担当しているぞ」
「魔法医術!? そんなの、治療費が高額じゃない?」
「いいや。この地ではそれが普通だ。そう高く感じたことはないな。そういえば、人間の国で魔法医術士のところへ行くとやたらと料金を取られたな……」
「人間が大半を占める地域だと、魔法医術士は早くて応用が利く代わりに治療費が高額なんだ。普通の怪我や病気の時は、普通の医者に掛かるんだよ」
男は興味深そうにメモを取っていた。歩きながらでは危ないと注意してやれば、すぐに恥ずかしそうな顔になった。
「いけないね、ここはとても素晴らしいところだから、つい……」
「! 仕方がないな、人間は」
故郷を褒められて悪い気はしない。私は柄にもなく色々と説明をしてやった。そのたびに男は必死に頷き、楽しそうに笑うので、まあ、楽しくないわけでもなかった。それに、見慣れていたはずの谷の景色が何故だか見たことのないものに感じられた。
しばらく歩いていて、男はあることに気が付いたようだった。
「ねえ、ここに歯医者さんはいないの?」
「ああ。お前のような職業は聞いたことがないな」
そう私が教えると、男は類を見ないほど顔色を明るくさせた。今の会話のどこに、そんな要素があったというのか。私が訝しむと、男は照れくさそうにした。
「ということは、僕がジグボルトさんの最初の歯医者だったのかな?」
「ああ、そうだが」
「なんだか嬉しいな。偶然でも、僕のところに来てくれるなんて」
「!!?」
男は私に対して、喜んでいるようだった。何なのだ、こいつは!! こんなことで悦に浸る人間がいるだなんて、未だかつて聞いたことがないぞ!
「~~~、行くぞ!」
「ああ、待って! ジグボルトさん!」
何だかこの上なく恥ずかしい気持ちがして、私は男のことを振り替えずに歩き始めた。せいぜい必死に着いてくるといい。私のこのやるせない気持ちが収まるまで!!
〇〇
はた、と足を止めてから気が付いた。そして振り向く。私は歩くのが早いらしい。何度か連れ立って歩いた小柄な妖精を置き去りにしてしまったことがある。それが人間相手なら尚更……。
案の定、男の姿は見えなかった。辺りを見回すが、やはり置いてきてしまったらしい。
暫く待っていれば、道の向こうから微かな声が聞こえた。それはどんどん大きくなってきて、ついには私の目の前で立ち止まる。
「はあ、はあ……ジグボルトさん、遅れてすみません」
「……別に」
息を切らしてこちらを見上げる男。瞬間、私は胸がどくりと波打ったのを感じた。てっきり置いて行かれたことを悲観して、そのまま立ち止まるか帰ってしまうかするものだと思っていた。それなのに男は、私を追ってきた。
私が何とも分からない感慨に頭を悩まされているうちに男は額の汗をぬぐい、そして笑った。屈託のない、明るい笑顔だった。
「置いていかれたら、どうしようかと思っていました」