秘密の宝箱 胸の奥に、宝箱がある。
蓋がきゅぅと弧を描いている、絵にかいたような「宝箱」。
誰にも見せられない、大事な宝箱。
「好きだよ、鈴さん」
夏の日差しは和らぐことを知らなくて、髪の下がじんわりと汗ばむ。頬をつたう程ではないことに感謝しながら、エコバッグ片手に歩いている時だった。
それまで隣を歩いていたのに、急に立ち止まるものだから、数歩離れた所で鈴も立ち止まる。顔と、右肩だけで少し振り返って、立ち止まった彼を見れば、彼は鈴をまっすぐに見ていた。
そして紡がれた言葉に、鈴の胸がコトリと音を鳴らす。ひとつ深呼吸をすれば、すぐに胸の奥の音はおさまった。
「ありがとう」
まっすぐ、真剣に言ってくれる恵に、鈴はいつものように返す。けれど、その返答を彼は望んでいなかったのだろう。ぎゅぅ、と眉間に深い山脈を築いて、咎めるように鈴を見つめてくる。見ていられなくて、視線を少し下げた。
少しばかり鋭くなった顎から、存外太い首が続く。ぽこりと膨らんだ喉が、三年前とは違うということを示していた。
三年。そう、三年も、鈴と恵はこんなやり取りをしている。
三年の間に、鈴は成人したし、恵はあの時の鈴と同じ年になった。鈴より低かった背丈は、鈴が見上げるほどに大きくなったし、顔立ちだってどんどん大人の男の人に近づいている。
それなのに、ヘーゼルナッツのような黄色を帯びた薄い茶色の瞳と、その瞳にのせられた熱は変わらない。いや、瞳の熱は前よりもどんどん熱くなったような気もするから、本当に変わっていないのは、彼の瞳の色だけかもしれない。
「鈴さん。僕、本気で……」
「うん。……ありがとう」
体をしっかり恵に向ける。そして彼の唇を見ながら、にこりと笑った。先ほどとは違い、今度はきちんと笑えたと思う。
だというのに、恵は変わらず苦い顔をしていた。ぎり、と歯をかみしめるような音が聞こえてきそうだった。
鈴の返事が気に入らないという顔。……本当に、自分の言いたいことが伝わっているのかという顔。この三年で何度も見た顔だった。
ちゃんと伝わってるよ。油断すれば、ころりと口から零れ落ちそうな言葉を、息を吸い込むと同時に飲み込んだ。
「ねぇ、恵くん」
「……なに? 鈴さん」
初めて会った時、既に恵は変声期を終えていたという。けれども、三年前より少し低くて優しい声が、鈴の名前を宝物のように紡いだ。
あぁ、好きだな。
胸の奥でまたコトリと音が鳴り、頭の片隅で鈴はぼんやりと思う。
夏の日差しの中で、白いワイシャツを纏う彼は、絵にかいたような「高校生」だった。
「学校、楽しい?」
恵が、少しだけ息を止める。それまでゆるやかに上下していた肩が、止まるのだ。鈴にはすぐわかったけれど、もしかしたら、彼は気づかれていないと思っているかもしれない。
「うん。……うん」
詰めた息を押し出しながら、最初は反射のように。そして、二回目はかみしめるように、彼は肯定した。
そのことが、鈴には嬉しい。
「毎日の課題が嫌なくらい、かな」
「ふふ。課題は嫌だよね。友達は? できた?」
まるで母親のようだ。
けれども、恵は鈴の問いかけに嫌な顔することなく、変わらずやわらかい声で答えてくれる。
「去年の持ち上がりだから、顔ぶれは変わらないけどね。でも、体育で合同になるクラスが変わったから、少しだけ違うメンバーともいるようになったよ」
「クラスが同じだと、そうそう話すメンバーなんて変わらないよね。私もヒロちゃんばっかりだったな」
「そうなんだ。……ねぇ、鈴さん」
「なぁに?」
改めて名前を呼ばれて、鈴は彼の向こうにある青空へ向いていた視線を、彼に戻す。そしてヘーゼルナッツの瞳と目があって、後悔した。
あぁ、やってしまった。何のために、正面から向き合わないようにしていたのか。
自分で自分の努力を泡にかえしてしまったことに、いやになる。ともすれば溜息さえあふれてしまいそうだった。
「好きだよ」
まっすぐに、貫いてこようとする瞳だった。事実、鈴の胸の奥ではコトコトと音が鳴り続けて仕方ない。
けれども、そんな様子をおくびにも出さず、鈴はいつものように返す。
「ありがとう」
くしゃりと、彼が泣くのを我慢するように笑った。
離れていた数歩の距離を、詰められる。
「好きだよ。本当に、何よりも。鈴さんが、好きだよ」
「うん」
「僕と、」
「ダメだよ」
その先を言われたくなくて、恵の唇に人差し指をあてる。
素直に黙ってくれた彼を、じぃっと見つめる。いつもならば、そう、いつもならば、彼は途中で視線を外して、折れるようにして頷いてくれるのに。今日ばかりは、それで黙ってくれなかった。
唇にあてていた手を、恵の手が握る。そろりと、やわく、竜の時に天使Asーー知くんを包むように優しい手つきだった。鈴の手を握り、彼は祈るようにして自分の額に押し当て、瞳を閉じた。
「ねぇ、僕は。いつまで、待てばいい?」
「恵くん」
そんなことを言ってほしいわけじゃない。
「待てと言われれば、待つよ。君が望むまで、いつまでも。待つのは得意なんだ」
「恵くん」
そんな、身を削るように、我慢してほしいわけじゃない。
「ただ、待ったその先に、何もないのが一番怖いんだ」
閉じられていた瞳が、開かれる。
ヘーゼルナッツの瞳が、かすかに揺れていた。三年前の恵の姿が、今の恵に重なる。
ぎゅ、と胸が締め付けられる。はくり。どうにか、息をしようとして、握られていない手でブラウスの胸元を握りしめた。
ひどい。
それだけが頭に浮かんだ。
そんな風に、そんなことを言うなんて酷い。抱きしめたくてたまらなくなる。私も好きだよ、と今すぐに返したくてたまらない。
胸の中で箱がガタガタと音を鳴らして揺れている。ブラウスを握る手に力を込めて、鈴はその衝動を耐えた。何かを握って手が痛くなる、なんて経験は初めてだった。
「恵くん」
「……なに」
恵を呼ぶ声は震えていた。鈴自身、それはわかっていた。
けれども、彼の言葉に何か一矢報いたくて、小さく息を吐いた後、自分から彼を見上げた。
「恵くんだけが、待っているわけじゃないよ」
大人気ないひと言だ。可愛げのない、言葉だった。
それでも、目を丸くして自分を見下ろす恵の姿に、鈴は胸がすく思いがした。
「鈴さん」
「ふふ。さ、ヒロちゃんも知くんも待ってる。行こう」
くるりと踵を返す。
鈴が上京してから住みだしたアパートは、坂を上った先にあるのだ。恵に背中を向けて、お気に入りの青空色のスカートを揺らして、鈴は坂道をのぼる。
坂道をのぼる度に、空が近づくような気がして、気づけば鈴は小さく歌を口ずさんでいた。
「鈴さん!」
「恵くん、早く」
「そうじゃなくて! さっきの!」
「今日は竜の優勝記念なんだから、おいしいのいっぱい作るよ!」
「それは楽しみだけど、ねぇ!」
「恵くん」
くるり。また半回転。
鈴のすぐ後ろで、彼女の手を取ろうとしていた恵は、その半端な恰好でぴたりと口を閉ざして固まる。
だるまさんがころんだ、みたい。
自分の考えに、また楽しくなりながら、鈴は唇の前で人差し指をたてた。
そしてとどめに二コリと笑えば、恵が諦めるのを鈴は知っている。
はぁ、と大きく溜息をついて、横に並んだ恵にエコバッグを奪われ、手持ち無沙汰になりながら鈴は口ずさむ。
きらきら、きらきら。
あざやかな青空に、白い雲。セミは夏を象徴するかのように、大合唱している。
そして隣にいるのは、制服姿の恵。
「鈴さんのごはん、楽しみ」
「ヒロちゃんも奮発するって言ってたよ」
「呑みたいだけじゃないの?」
「恵くんならまだしも、中学生の知くんがいるのに呑めないよ」
軽やかなやりとりに、少し心踊る。
鈴の心に合わせるように、歌が思いつく。それらすべてを、口ずさんで音に変えながら、鈴は恵と並んで自宅への道を歩いた。
胸の中に、宝箱がある。
きゅぅ、と弧をかいた蓋をした、宝箱。
誰にも見せられない、大事な宝箱。
少しだけ蓋が開きかけた宝箱に、また蓋をする。
いつか、彼にあげることになる宝箱。
その時が来るまで、彼にも秘密の宝箱だ。