歌うために必要なあなた 生きながらに死んでいるような、11年を思い出した。
西向きの窓から、赤い光が差し込む。床に敷かれたカーペットにおちる光を、鈴は光が差し込まない所から見ていた。ぺたりと床に座り込み、目の前のローテーブルには歌詞を殴り書いた紙束がある。紙の上には愛用のボールペンがコロコロと転がっているが、紙の数枚はボールペンの重さなんて物ともせず床に滑り落ちていった。
いつもなら、そう、いつもなら。こんな風に、散らかった状態を見ると、存外キレイ好きな年下の恋人が窘めるように鈴を呼ぶ。
「鈴さん」。仕方ないなぁという、ほんの少しの呆れと多量の優しさで満たされたその声が、鈴は好きだ。
けれど、今、この部屋には彼はいない。進学のために上京してから、もうすぐ二桁になろうかという年数を過ごしているこの部屋にいるのは、鈴だけだ。
もぞもぞと膝を抱えるようにして座り込み、鈴はぼんやりとベランダの方へ視線を投げる。
もう数週間、恋人の恵に会えていなかった。
原因は些細なことだ。加えて、恐ろしくくだらなかったのだろう。鈴の頭では、さっぱり思い出せないが、鈴は恵と喧嘩をした。あの時鈴は珍しく怒っていて、それ以上に珍しいことに、恵も怒っていた。
「少し、時間をおきたい」
そう言って、彼はくるりと踵を返して、この部屋から出て行った。
その背中に、待ってとも、行かないでとも言えず。鈴は、胸にむかむかした気持ちを抱えながら、彼の背中を見送った。いつもなら。玄関まで見送りに行くけれど、その時はそれすらもしなかった。
それから数週間。
鈴は、恵と会えていない。LINKで連絡を取ることもなければ、『U』で会うこともなかった。『U』で会う時は彼が再建した『竜』の城が多かったけれど、鈴は喧嘩をしてからは一切近寄っていない。
ひたすらメインストリームの「公園(Park)」で歌っていたのだ。ストリートライブじみたそれに、ヒロちゃんはいい顔をしなかったけど、鈴はかまわず歌っていた。
自分自身でも驚くくらいに、彼への怒りが冷めなかったのだ。胸の中でいつまでも燻るソレを、言葉にして、メロディにのせ続けた。
何日間かそんなことを続けていると、次第に怒りが治まってくる。
シュルシュルとこんがらがっていた紐が解けるようにして怒りが落ち着いた後、感じたのは不安だった。情けないことに、その時になってようやく、鈴は恵から連絡がないことに気づいたのだ。
「嫌に、なったのかな」
自分から連絡をすればいいのはわかっている。寧ろ、連絡をとるべきだろう。連絡を取らず不安になるなんて、勝手すぎる。
とっ、とっ。慣れた仕草でスマートフォンのホーム画面から、LINKのアプリをタップする。そして、恵とのトーク画面を開いて、メッセージ欄にカーソルを置いた途端、指がとまった。うろうろと、キーボードの上で指が迷うように動く。けれども、指はキーボードをタップすることはなく、ホームボタンをタップして、アプリを閉じた。
ここ何日か、ずっと同じことをしていた。
画面を伏せるようにしてスマートフォンを床において、膝上で組んだ腕に頭を伏せる。
自分の弱さが嫌になる。ただ連絡をとることが、どうしてできないのだろう。……わかっている。怖いからだ。連絡をとって、その後。
「別れよう、とか。言われたら」
そんなことを言われたら、どうしたらいいのだろう。
自分の思考回路がバカみたいで、鈴は腕から顔をあげた。窓から差し込む光はまだ赤いけれど、窓の端の方では濃紺色が見えていた。それを見て、ローテーブルに手をつき、重い腰をあげる。テーブルの片付けもだけれど、夕飯の準備もしたかったし、洗濯物も取り込みたかった。
鈴が手をついた際に、少しだけテーブルが動いたらしい。止まっていたボールペンが、再びコロコロと転がり、床へと落ちていく。慌ててボールペンを追いかけると、同じく床から落ちた紙の上に、ボールペンはあった。
なくさずに済んだことに小さく息をついて、鈴は身を乗り出す。そしてボールペンと、その下の紙を指の端で掴みとると、乗り出していた体を戻した。
ボールペンは芯をしまって、テーブルに広げていたペンケースへ。紙はどうしよう、と思いながら、視線を紙に向ける。
謝りたい、会いたい。そういう意味の言葉が並んでいる。それらをメロディにのせようと、口を開いて声をだそうとした所で。
歌が、歌えないことに気がついた。
片時も、忘れたことのない感覚だった。
べったりと、喉の奥に、声が。張り付いて。自分の意志とは裏腹に、出ない、あの感覚。11年。母さんがいなくなって、再び歌えるようになるまでの。あの、11年を共に過ごした、あの感覚だった。
理解した途端、鈴は目を見開いて、床に座り込んだ。震える指先で、喉にふれる。ツ、と少しだけ喉を撫でる。外傷は、ない。喉を震わせる。出てくるのは、歌ではなく、ただの唸り声だ。
「ぁ、」
途端、鈴が感じたのは息苦しさだ。
鈴にとって、歌を歌うということは、息をするに等しい。思い出を共にある分、呼吸よりも大事だと言っても過言ではなかった。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。頭の中を、馬鹿みたいにその単語ばかり巡る。は、ハ、は。肩で息をしながら、鈴は伏せていたスマートフォンに手を伸ばした。ホーム画面の『U』のアイコンの上で、指が迷う。
『U』に行けば、歌えるだろうか。あの時のように。
そんな考えが浮かぶが、ふるりと頭を振った。『U』に初めてログインした時、歌えたのは『ベル』を鈴とは別の人間と思っていたからだ。『ベル』も自分の一部であると認識している今、『U』に行った所で歌うことができるようになるとは、思わなかった。
嫌だ、いやだ、イヤだ。
歌えなくなるのは嫌だ。歌えなかった11年は、苦しかった。自分の弱さを突きつけられている気がして、辛かった。歌えなくても生きている事実を目の当りにして、むなしかった。あの日々に戻るのは、嫌だった。
「たす、け、て……」
ぼろりと鈴の瞳から涙が零れ落ちる。大粒のそれが、ぼたぼたと頬を濡らして、落ちていく。
思い浮かぶのは『竜』だ。大きくて、強い『竜』。鈴の臆病だった心を、『ベル』じゃなくて『鈴』が歌えるように助けてくれた彼。
『U』のアイコンではなく、LINKのアイコンをタップする。『恵くん』と表示されたトーク場面を開いて、電話マークを押すだけの所で、鈴の指は止まった。
もし。もし、本当に、彼に拒絶されたら?
想像だけで歌えなくなるのに、本当に拒絶されてしまえば、鈴の息は止まってしまう。
大げさではないことは、自分が一番わかっていた。
すっかり日が落ちて、暗くなった部屋で、スマートフォンの画面だけが光っている。数週間前の、喧嘩の前のやり取りで止まっている画面。そこに新しい書き込みをすることも、電話マークを押すこともできないまま、鈴は画面をただ見つめていた。
「けいくん、」
ころり。唇から、彼の名前が転がりおちる。
同時に、玄関の扉がガチャ、と音を鳴らした。ビクッと肩を跳ねさせる。勢いよくそちらに視線を向ければ、キッチンと共にある狭い廊下の先、玄関の扉を開けた、彼がいた。
「鈴さん、玄関のカギはかけてって……鈴さん?」
恵だ。ここ数週間、連絡を取っていなかったのが嘘のように、彼はエコバッグを片手にやってきた。玄関の三和土で、壁に手をつき、靴を脱いでいた彼が顔をあげる。そして、ヘーゼルナッツの瞳が見開かれた。
肩から落ちかけていたカバンも、片手に握ったエコバッグも床に落として、彼は大股で駆け寄ってくる。
「鈴さん!」
「け、いく……」
「どこか痛いの? ケガした? つらいことあった?」
矢継ぎ早に、問いかけられる。自分のことのように、あるいはそれ以上に辛そうな顔をして心配してくれる様子は、間違いなく鈴が望んだ恵の姿だった。
「恵く、ん」
「変な意地張らないで、もっと早く来ればよかった。ごめんね」
「恵、くん」
「うん。どうしたの、鈴さん」
おそるおそる、手を伸ばす。彼は鈴の手を拒絶することなく、鈴の行動を待っていた。
彼の頬に触れた指先は、彼の体温を感じさせる。夢ではない感触に、鈴は両手を恵に伸ばして、抱きついた。
「ぅ、あ」
「鈴さん?」
「けいく、あいたかったぁぁあ」
ぎゅぅぅ、と彼のぬくもりに縋りつく。
来てくれた、来てくれたのだ。
その事実に安心して、その事実が嬉しくて、鈴は力いっぱい恵に抱きついた。
「うん。僕も、会いたかったよ」
彼の腕が鈴の背中にまわる。そのあたたかさに、次から次へと涙があふれて止まらなかった。
「すき、すきだよ。けいくん」
「うん。僕も好きだよ」
「ん、ぅ。けいくん、けいくん」
「大丈夫。傍にいるから、大丈夫だよ。大好きだよ、鈴さん」
背中を撫でる感触と、言い聞かせるようなやわらかい声に、胸が熱くなる。その熱を吐き出すようにして声をあげた。声をあげれば、比例するように涙がでる。
どれくらいそうしていただろう。すっかり暗くなった部屋で、鈴はようやく顔をあげて、恵から少し離れた。
ベランダに続く窓から差し込んでいた赤い光はすっかり消えていて、代わりにTVの向こうにある窓からは三日月がのぞいている。
「大丈夫?」
「うん。ごめんね、急に泣いて」
改めて言葉にすると、恥ずかしくなってきた。頬が熱をもつ感覚がして、どうにか冷まそうと両手の甲を頬に押し付けた。
「それだけ僕に会いたかったんでしょう? 嬉しい」
軽い口ぶりに、鈴は小さく唇を尖らせた。
人がこんなに泣いているのに、嬉しいとはあんまりだ。
鈴の様子に、恵は小さく笑う。そうして、鈴の少し熱をもった目じりを撫でた。
「寂しくさせて、ごめんね」
「……いいの。ねぇ、恵くん」
「なに?」
「今度から、喧嘩しても距離を置くのは止めようね」
鈴の言葉に、恵が眉を下げる。
「うん。……うん。そうだね。距離を置くのは、止めよう」
スリスリと、恵の少しかさついた指が、鈴の目じりを撫でる。それを受け入れながら、鈴は恵の言葉にようやく体から力を抜いた。
へにょ、と。力のない笑みを浮かべれば、再び恵に抱きしめられる。
彼の背中に腕を回して、肩に頬を寄せた。ゆるやかに上下する彼の肩に頭を預け、ゆっくりと瞼を下ろす。小さく声を出せば、喉の奥でへばりつくような感覚はなかった。
おそらく、いつものように歌えるだろう。
ほぅ。熱のこもった吐息がこぼれる。
「鈴さん、どうかした?」
抱きあった状態のまま、恵が聞いてくれる。
顔も見えていないのに、気づいてくれたことが少しくすぐったい。
「ううん。なんにも。……恵くん」
「なに?」
「好きよ」
彼の肩が、頭の下でピクっと跳ねた。
かわいい反応に、少しだけ楽しくなる。
「大好きよ」
追い打ちをかけるように繰り返せば、鈴の背中に回された彼の腕が、さっきより強くなった。
言葉よりもずっと強く訴えかけてくる恵の力に対抗するように、鈴も恵の背中に回していた腕の力をより強くした。
あなたがいないと、歌えなくなるくらいに。好きよ。
この気持ちが、彼に少しでも伝わればいい。