ヤング・クロウリー ~始まりの物語~ 第二部㉒話「姫と老婆」 女王とディアヴァルは、森の奥へ奥へと進んでいった。
深い森には太くねじくれた木々が鬱蒼と茂り、空はほとんど見えない。地面には分厚く苔がむし、足音も吸い込まれて響くことはない。聞こえてくるのは、どこか遠くで鳴く鳥の声と、吹きすぎる風が梢を揺らす音くらいだ。そんな風景の中に、細い踏み分けが通っている。その細い獣道か人の道かも定かではない踏み分けを、一人の老女が歩いていた。曲がった腰に長い木の杖をつき、片手に籠を抱えている。誰が見てもみすぼらしい老婆にしか見えないそれは、女王の変装した姿だった。
どれほど歩いただろうか。太陽が天高く上がりそろそろ昼も近いと見えた頃、やっと森の木々がまばらとなり、一人と一羽は開けた空き地へと歩み出た。
空き地には、小さな二階家が立っていた。人間の家にしては小さな作りで、ドアは大人なら背を屈めなければ通れないほど低く、窓も膝くらいの高さについている。
女王扮する老婆は、その家の前にゆくと扉をコツコツと木こぶのある杖の頭で叩いた。
家の中で何かが動く気配。だが、耳を澄ませても答えはない。
老婆は大きくため息をつくと、窓の下のベンチに座り、大きな声で独り言を言い始めた。
「ああ、ああ、疲れた。森の中をたくさんあるいて、足が棒のようだよ。喉は乾いてカラカラだ。水の一杯もあれば元気が出るだろうに、ここには誰もいないようだね。でももう歩いていく元気なんて出ない。どうしようかねぇ……」
心底困ったような老女の繰り言だけが、無人の空き地に響く。
と、嵌め殺しの窓の奥で何かが動いた。
「誰か助けてくれる人がいたら良かったのに。誰もいないなんて、わたしゃツイていないねぇ」
ここぞと老婆が嘆く。
と、ギィ……と軋む音がして、扉が細く明けられた。
「おや! 人がいたのかい? ありがたい、この哀れな老婆に水を一杯めぐんではくださらんか」
「少し待って下さい。いまお水を持ってきますから」
と、よく通る若い娘の声が答え、ドアが締まった。間違いなく、スノーホワイトの声だった。
「ああ、ありがたい。親切な娘さんに出会えてわたしゃ幸運だ」
一度閉じたドアはすぐまた開き、細い隙間から小さな白い手が素焼きのジョッキを差し出した。
「ありがとうよ、親切な娘さん」
そう言うと老婆はジョッキを受け取ったが、手が滑って落としてしまった。玄関前の敷石に落ちたジョッキは派手な音を立てて砕け散ってしまった。
「ああ! 私はなんてことを! せっかく親切にして頂いたのに……」
そう叫ぶと、老婆は大事に抱えていたかごを脇へ置き、這いつくばって破片を拾い始めた。
「おばあさん、だめよ、危ないわ!」
娘はそう叫ぶと、ドアを開けて家から出てきて自分で破片を拾い始めた。
「ああ! なんて親切な娘さんなんだろう! それなのに私ときたら……!!」
「いいのよ、おばあさん、気にしないで下さい。ジョッキは他にもあるわ。お怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫だよ。親切な娘さん、本当にありがとう。貴女は良い子だねぇ」
老婆は両手を揉みしだいてお礼を言った。
「おばあさん、お水をもういっぱい汲みますね」
娘はそう言うと、また家の中へと入っていき、すぐに戻ってきた。
「はい、お水をどうぞ」
娘はドアから出てくると、しっかりと老婆に向き合ってジョッキを支えながら差し出した。
「ありがとうよ。こんなみすぼらしい老婆に親切にしてくれる人なんてめったにいないよ」
そう言いながらジョッキを受け取った老婆は、美味しそうに水を飲み干した。
「ああ、美味しかった。お前さんにはお礼をしないといけないね。そうだ、ここに良いものがある。ごらん……」
老婆は傍らに置いたかごを取り上げると、中からあの赤いリンゴを取り出した。
「ほうら、美味しそうだろう。これをお前にあげよう。良いんだよ、他にもリンゴはあるからね。ほんのお礼だよ」
「まあ! 美味しそう……。でも、私だけ美味しいものを食べるなんて、みんなに悪いわ」
「おや、家には他にも誰かいるのかい?」
「ええ、七人の小人さんと暮らしているの」
「まあまあ、そうだったのかい。優しい子だねぇ。大丈夫だよ。リンゴはほら、他にもある。お礼にこれも上げるから、みんなにも食べさせてお上げ」
「まあ、そんなに沢山! いいんですか? たった一杯のお水のお礼には多すぎるわ」
「いいんだよ。こんな親切を受けたのは久しぶりだよ。わたしゃ嬉しくて涙が出た。これはそのお礼だよ。だから、これはお前さんがお食べ」
「でも……」
「このリンゴはね、特別な物なんだ。他のリンゴも美味しいけれど、これは一個だけしかない願いのリンゴなのさ。これを食べれば願いがかなう。わたしゃ、お前さんに親切にされたのだから、お前さんに恩を返したいのさ。だから、さ、これをお取り。おまえさんの物だ。願いを唱えて、一口食べれば、それで願いが必ずかなうんだよ」
「まあ……。そんな大事なものをもらってしまって良いのかしら」
「いいのさ、お前さんにだから上げるんだよ。このリンゴは、きれいな心の娘にしか効き目がないのさ」
「まあ! そうなの?」
「そうさ。だから、さあ、お食べ。今すぐ願いを唱えて、ひとくちかじってご覧。願いは必ずかなうだろう」
スノーホワイトはリンゴを捧げ持って見つめた。リンゴはつやつやと赤く輝き、爽やかな甘い香りを放っている。彼女は息を吸い込むと、願いを唱えた。
「あの方が迎えに来てくれますように」
そして、リンゴに赤い唇をよせて口づけると、一口、かじり取り……。
そのままその場に崩折れた。
スノーホワイトの手から力が抜け、リンゴがコロコロと土の上を転がった。
老婆はそれを見ると破顔した。そして両手を上げると叫んだ。
「天も地もご覧あれ! 敵は斃れた!! これで我が国は安泰じゃ!!」
空き地に彼女のヒステリックな笑い声が響き、森の中へと吸い込まれていった。
その時、ディアヴァルの目の片隅に動くものが見えた。
木陰で棒立ちになった鹿。藪の下からこっそり覗き見しているウサギ。木の上から覗き込む小鳥たち。みな、目をまんまるにして怯えた顔をしている。次の瞬間。動物たちが一斉に消えた。ディアヴァルの耳には、彼らが一斉に走り去る物音が聞こえてきた。みな、同じ方向を目指している。
気になったディアヴァルは空へ舞い上がり様子を見てみた。動物たちの走り去った方向には、ドワーフの鉱山があるはずだ……。まずい。彼らがこの様子を見たら、女王を許しはしないだろう。
ディアヴァルは舞い降りると、女王扮する老女の服の裾をくわえて引っ張った。(頼む、気づいて下さい!)と願いながら。
女王はひとしきり笑い終わると、脱力したようにその場に座り込んだ。
そして、ディアヴァルがしきりに服を引っ張っていることに気がついた。
「どうしたの、お前?」
「ニゲテ! ニゲテ! テキクル!!」
ディアヴァルは、人間の言葉で叫んだ。
「まあ、それは本当なの?」
女王の問に、ディアヴァルは必死にうなずき、また服を引っ張った。
女王は半信半疑の様子で立ち上がると、森の中へと入っていった。
その頃、ドワーフ鉱山では、突然現れた大量の動物や小鳥たちに促された七人のドワーフたちが異変に気づき、小屋へと戻ろうとしていたのだった。