ヤング・クロウリー ~始まりの物語~ 第二部㉕話「翼を継ぐ者」 この森に降り立つのは十何年ぶりだろう。
ディアヴァルは、思い出の詰まったあの森に帰ってきた。
楽しいことも、大変だったこともたくさんあった。そして胸の潰れそうな悲しい思い出も……。
真実の泉の小島に、聖なる樫の巨木は今も変わらずそびえていた。
ディアヴァルは樫の木の枝に舞い降りると、木の洞に飛び込んだ。
そこにあの石があった。すべての光を吸い込むような深い闇を宿した黒い石が、昔ディアヴァルが置いたそのままに木の洞の中に安置された一対の翼の間に置かれていた。
ディアヴァルは石をそっとくわえあげた。
あの鏡は、石を飲むように言っていた。そうすれば闇の力が我がものとなる、と。
彼はためらうことなく嘴を天に向けて振り仰ぎ、一気に黒い石を飲み込んだ。石はするりと喉を通り抜け、体内へと落ちていった。
最初は、なにも起きていないように思った。
だが、少しずつ身体の奥からなにかが湧き上がってくるのを感じはじめた。力が彼の身体を満たしていくのと同時に、強烈な快感が湧き上がってきた。体内に満ちる力と快感があまりに強すぎて、彼はその場に倒れて身悶えし転げ回り始めた。
頭がくらくらする……。頭も身体も破裂しそうだ……!
彼の身体が実際に膨らみ始めているようだった。全身が引き伸ばされる感覚は強烈な痛みと熱と快感を伴っていた。その感覚が強すぎて、彼は手で自分の喉をかきむしっていた。
……手?
自分の手なのに、人間の手だ。どういうことだ?
その手で顔をさぐると、人間の顔の造形が触れた。そのまま顔を撫で回すと、目からも口からもぬるりとした液体が溢れ出している。顔から離して見つめたその手には、ドロリと黒い液体がまとわりついていた。
俺の身体に何が起きているんだ?!
気持ちいい、つらい、苦しい、気持ちいい、熱い!! 身体が弾けそうだ。頭が破裂する!!
誰か助けて……!
彼は頭を抱えてその場に倒れ込んだ。
そのとき、バサリと羽ばたく音がした。
誰かが彼の頭をそっと撫でたような気がして、割れそうな頭がすっと楽になった。
誰? 思い出せない……。この手を知っている。懐かしい、大切な誰かの手だ……。
風が張り裂けそうな身体を優しく撫で、包み込んだ。誰かにそっと背後から抱きしめられたような感触とともに、涼しい感覚が身体に流れ込んできた。
すると、全身を満たして荒れ狂っていた感覚……、快感も、焼けるような熱さも、痛みも、はちきれそうな感じも、すべてがすうっと鎮まってゆき、彼はそのまま意識を失った。
どれくらい眠っていたのだろう。
深い眠りの中で、長い長い夢を見ていた。過去の色々な出来事が脈絡もなく浮かんでは消える。楽しいこと。悲しいこと。嬉しいこと。辛いこと。色々な思い出が出てきた気がする。
彼は静かに目を開けた。長い夢の印象は見る見るうちに色あせ消えていった。気分は落ち着いていて、不思議と心身ともに満ち足りた感覚があった。
床に手をついて身体を起こした。
……手?
あれは夢ではなかったのか?
自分の身体を見回すと、それは間違いなく人間の姿かたちをしていた。
自分は人間になってしまったのだろうか?
いや、違う。人間ではない。彼の背中には一対の翼が生えていた。
カラスの翼のように真っ黒で、彼の……人間の姿を包み込めそうなほど大きい。
洞の中を見回すと、マレフィセントの翼が消えていた。
ふっと、あの混乱の中で彼の頭を撫でてくれた手の感触を思い出した。そうだった。どうしてすぐに気が付かなかったのだろう。あれは……。
「貴女だったんですね、我が主……。助けて下さってありがとう」
そうつぶやくと、彼は目を閉じてマレフィセントを思い浮かべ、彼女の魂のために祈った。
彼は樫の木の洞から這い出して、泉のほとりへと降り立った。真実の泉の水面は今日も静かに鏡のように澄んでいた。
そこに映った彼の姿は、背中に一対の翼を背負った人間の形をしていた。そしてその顔には、黒いレースのような隈取模様が浮かび上がっていた。
彼は膝をつくと、水面を覗き込んで顔をよく見てみた。
瞳はカラスのときと同じ丸い形だが、耳は妖精族のように尖っている。そして、目の周りに染み付いた異様な隈取模様。
水をすくい上げて顔を洗ってみたが、模様が取れることはなかった。
これは困った。この模様はかなり目立つ。このままでは、これから先の行動には何かと都合が悪い。顔の隈取もだけれど、背中の翼はもっと目立つじゃないか! カラスか、せめて普通の人間の姿なら目立つこともないけれど……。
そう思って、カラスの姿を思い浮かべた時、一陣の風が巻き起こり身体の周りに渦巻いた。
風が静まると、水面には見慣れたカラスの姿が映っていた。
ははっ!! これなら大丈夫だ! やっぱりカラスの姿が最高だな。
彼は自慢の漆黒の翼を広げると、晴れた大空に舞い上がった。
これからやらねばならないことがある。
彼には、最愛の人を奪った奴らを許す気は、断じてなかった……。